深夜2時。まだ吹雪がやむ気配はなく、ごうごうと雪がコンクリートを打つ音が響いている。
現在、コナンは3階廊下にいた。
1回目の夜番の交代に乗じてロビーを抜け出してきたのだ。
宿泊客はこの異常事態に気を張り詰めているし、毛利蘭も常になく不安な様子だ。コナンの不在がバレずにいるのはわずかな間だけだろう。
コナンは素早く目当ての部屋の前にたどり着くと、ドアに鍵がかかっていることを確認してから金属製のクリップを取り出した。
「このホテルは建築から一回も鍵の取り換えをしてないことは確認済み。このぐらいの単純な鍵なら俺でも……よしっ!」
ハンカチを当ててできるだけゆっくりと差し込んだピンをまわすと、カチリ、と開錠の音がわずかに漏れた。
古びた建付けが錆びた音を出さないように慎重にドアを開ける。
301号室。
赤毛の青年と金髪の少女が泊まる一室である。
中は使用中とは思えないほど綺麗に片付いていた。
大きなキャリーバッグが二つ窓際に寄せられているのと、机の上にメモらしきものが残されている以外目立った使用感はない。
ベッドもテレビも手を付けた形跡がないのを見るに、ろくにこの部屋を使っていないのだろう。荷物を置いてある、というだけの印象を受けた。
自室の中ということもあってか、キャリーバッグの鍵はかけられていない。
中を確認すると、これまた丁寧にたたまれ仕分けさせた着替えと旅行用品が入っていた。
仕分け方法が二人ともまったく一緒なのは、どちらかが二人分を用意して持ってきたからだろうか?
「これは……」
キャリーバッグの片方、黒地に赤のラインが入ったメンズブランドのそれの内ポケットの中に、小ぶりの女性もののポーチが入っていた。
もう片方は見るからにレディースものなのでこちらが衛宮士郎のバッグだと思っていたが、これはどういうことだろうか。
ファスナーを開けて、コナンは驚愕に目を見開いた。
慌ててポーチを持ち直し、ポケットからハンカチを出して慎重にソレを包んで持ち上げる。
「宝石……しかもこれ、天然もののルビーか?なんでこんなものを」
美しいラウンド・ブリリアント・カット。
多数のインクルージョンを見る限り、人工ではなく天然ものだ。
目算20カラットはあるだろう。しかも、ポーチの中の6つのルビーすべてが20カラット以上だ。
天然もののルビーというのは驚くほどの貴重品だ。
世界中でもダイヤモンドに比べはるかに少なく、限られた鉱山でしか採掘されない。2カラット以上の上質なルビーともなると、専用のルートに流されることだろう。
かつてニューヨークで売りに出された16カラットのルビーは363万ドルの値がついた。
この6つのルビーは天然ものにしてはインクルージョンが少なめで透明度は高い。
大きさも20カラット前後。巨大という言葉がふさわしい。
色は濃く豊かな真紅色で、カットは正統かつ美しい職人の技が見える。
文句なしの一級品。
彼の鈴木財閥相談役、鈴木次郎吉が怪盗キッドとの対決に持ち出してもおかしくないほどの超級のビッグジュエルだ。
一つでもそれだけの価値があるのだ。6つなど、巨大ルビーに絞って世界中に財貨を振りまいてかき集めでもしない限り手に入れられないだろう。
いうまでもなく、このような場所でぞんざいにポーチから出てきていいようなものではない。
コナンは宝石を戻してしばし思考する。
まず第一に、なぜこんな場所に持って来たのか。
この宝石は間違いなく人の一生を左右できる価値がある。無意味に持ち歩くはずがない。
考えられるとするなら、取引材料だろう。この付近で怪しげな取引があることは確認済みだ。巨額報酬としては十分すぎるものだ。
しかし、取引に使うにしては管理が雑だ。ポーチに無造作に入れるなど、宝石にどんな傷がつくか分かったものではない。目くらましにしても最低限小分けにしてケースに入れるはずだ。
第二に、なぜ彼が持っているのか。
彼がこの一件に関わっているのはほぼ間違いない。
赤髪の高身長、という見た目ならば取引の目印としても機能するだろう。彼自身にも最低限の自衛の力がある。
思えば、同伴者のミス・セヴァリーは衛宮さんを守るように行動していた。
彼が宝石の所持者だと考えれば、護衛として気を配るのは当然とも言える。
第三に、彼の背景は何か。
こんなものを個人で用意できるはずがない。必ず組織的な背景があるはずだ。
ただ、これに関しては情報が少なすぎる。
バッグの中に身元を証明するようなものはないし、黒の組織の取引相手ともなると隠ぺいもしっかりと整えてあるはずだ。
一般に宝石は足がつきやすいと言われている。ここまでのものを組織的に用意したとなれば、発掘からして手が入っていることだろう。表にはこのような宝石が存在したという情報すら残っていないかもしれない。
例えば、本来の宝石の持ち主は殺された宮口正平で、衛宮士郎はたまたまそれを知って強奪しただけだとしたら?
それなら死体の状態はともかく、殺人の動機の無さ、衛宮士郎の落ち着き様、雑な宝石の管理に納得がいく。
吹雪はたまたまで、基地局の異常は組織が取引のために起こした殺人とは別件のもの。
……いいや、それでは筋が通らない。突発的な犯行にしては計画的過ぎる。
死体を炭化するまで焼いた後、わざわざ4階に運び込む意味もない。焼いた死体を砕いて山に捨てた方が楽だし、事件の発覚もはるかに遅くなったはずだ。
では、山口正平が見せしめに殺された可能性はどうだろうか。
衛宮士郎の取引相手が山口正平であり、彼が何らかのミス、あるいは契約の違反を犯して殺されてしまったというのは。
死体があれほど悲惨な状態になっているのは、他の取引相手への示威目的と考えれば。
……それも筋が通らない。宝石の管理の杜撰さに説明がつかない。
どうにも証拠が足りない。というより、なにか大きな見逃しがあるように思う。
衛宮士郎が今回の一件に関わっているのはほぼ明らかだ。
しかし、彼がどういう立ち位置なのかが判然としない。
黒の組織の一員なのか、組織の取引相手なのか、ただの殺人事件の犯人なのか、それとも組織を追う何者かなのか。
――正義の味方になりたい、と漏らした衛宮士郎の柔らかな瞳を思い出した。
「……今は考えても仕方ねぇか」
宝石を失敬し、コナンはバッグを閉じて机に向かった。
机の上は年代物の卓上ランプ、ホテルの規約と近隣の催し物の広告をはさんだバインダー、そして備え付けのメモ帳とボールペンがあった。
ランプとバインダーは他の部屋と変わりない。開かれてもいないバインダーの中にはホテルのアンケートが白紙のまま残っている。
対して、メモ帳はかなり使われたようだった。
上から10枚近く破りとられている。うち数枚はゴミ箱の中、2枚は机の上に放置されている。残りは部屋の中には見当たらない。
机の上のメモを手に取り、コナンはじっくりと検分した。
ひとつはアンティーク調の鍵のスケッチである。
備え付けのボールペンで描かれたそれはところどころ掠れたり滲んだりしている。
特徴的なのは鍵の持ち手の形だ。それは鍵であるのに、持ち手は不安定に歪んだ門の形をしていた。取っ手や調つがいの彫刻があるのでその意匠が門だとわかるが、なんとも不安を煽るようなデザインである。
もうひとつは部屋の見取り図だった。
入口、ベッドの位置、窓のサイズ、テーブルの形……そして、遺体の位置。
「403号室……あの人は中に入ったことはないはず。それなのにこの正確さ……」
その見取り図はとてつもなく正確だった。
設計図をそのまま写したかのように距離が縮尺に沿って正確に描かれており、まるで室内を計測した結果を描いているかのようだ。
403号室には毛利小五郎と安室透、そしてコナン自身しか事件後は入っていないはずだが、入り口からは見えない部屋の右手奥の様子まで描かれている。
ふと、コナンは初めに死体を発見した時に感じた謎の気配を思い出した。
あのときの感覚は形容しがたい。
部屋中に糸状の神経が張り巡らされたかのような、あるいは臓腑をまじまじと覗き込まれたかのような、部屋を構成する素材の一片すら解析しようとする意図を感じたのだ。
ただの視線とは一線を画す、構造を見透かのごとき眼差し。
あの感覚とこの見取り図には、なにか関係があるのではないだろうか、という直感。
コナンがふたたび思案にふけろうとしたその瞬間、ぽん、と肩を叩かれた。
「やっぱり、君のことだからここにいると思っていたよ、コナン君」
「っ、あ、安室さん!」
体をすくめて振り返った先にあったのは、信頼と安堵を等量にじませた安室の笑顔だった。
「君が大人しくしているはずがないことぐらい分かっていたけど、少々不用心に過ぎるよ。僕が部屋に入ったことすら気づかなかったなんて、君らしくもない」
「……心配かけてごめんなさい、安室さん」
「いや、そういうときの君は大抵の場合信じられないほどの成果を引っ提げてくるからね。後詰くらい僕たちに任せても罰は当たらないさ。で、成果の程は?」
コナンは無言で2枚のメモ帳を安室に手渡す。
それを受け取り、安室は表情を険しくした。彼のことだ。コナンの思い当たる疑念に当然行きついたことだろう。
「あらかじめ犯行に使用する部屋を下調べ……いや、それでも遺留品の位置まで正確なのはおかしい。僕たちの目を盗んで部屋に侵入した?いったいなんのために……」
「こっちの鍵については見覚えある?」
「ああ、それならコレのスケッチで間違いないはずだ」
安室がジャケットの内ポケットから取り出したのは大きめの鍵だった。
「……それは」
鍵は粘ついた虹色で塗装されている。
至極単純な鍵の形。防犯よりも見目にこだわったアンティーク調の作り。
持ち手に彫刻された門は今にも泡立ちそうな薄気味悪さを漂わせ、嫌悪感すらもよおす芸術的な立体美を持っていた。
間違いようもなく、スケッチに描かれた鍵の実物であった。
「公安の押収品だよ。今回、僕はコレについての調査で動いていてね。組織から取引の情報を得たから先回りしてこのあたりで調査していたんだ」
「やっぱり組織の取引が計画されてたんだね。ガソリンスタンドでそれらしい人を見たよ。黒ずくめの二人組。5ナンバーのセダン、古めの黒い高級車」
「間違いなく組織からの人間だろうね。写真はあるかい?」
「うん、あとで送るよ。取引相手のほうは?」
「尻尾すら掴めずじまいさ。明日の正午、取引場所がこのホテルだという情報は入手できたけど、鍵の出所はおろかそれらしい目撃情報すらない」
探り屋バーボンの情報収集能力は並ではない。
その彼が「何も出ない」というのだから、異常なまでの隠蔽能力と言えるだろう。
「その『鍵』の相場は分かる?」
「うん?ああ、別の組織の取引情報ぐらいならあるから分かるけど……正直な話こんな気持ち悪い上に実用性もない置物にここまでの大金が動くなんて信じられないよ。あの組織は芸術品の裏取引には興味ないと思っていたんだけれど」
「その大金って、これで代替はできそう?」
コナンが取り出した宝石に、さすがの安室も目を見開いた。
「……それはこの部屋から?」
「衛宮さんのバックの中にあったよ。取引商品かなって思ったんだけど」
「いや、さすがに多すぎるよ。ピカソの未公開作じゃないんだから。そもそも、組織は『鍵』を受け取る側だ。本当に衛宮士郎が取引相手なら、隠し持っているのは『鍵』じゃなきゃならない」
コナンと安室は黙り込んだ。
二人の情報交換はさらに謎を深化させたようだった。
謎の宮口正平の殺害事件。
動機は不明、トリックも不明。
衛宮士郎がこの事件の重要参考人であることだけが、現場の見取り図を描いたメモによって明らかになっている。
また、組織の取引も捨て置けない。
取引内容は『鍵』と金銭、取引場所はこのホテル、時刻は明日の正午、取引相手は不明。
『鍵』のスケッチは、衛宮士郎がこの取引と何らかの関わりがあることを示している。
最後に、ビッグジュエル。
何に使われるのか、なぜここにあるのか全くの謎。
衛宮士郎の持ち物である。
「どちらにしろ、衛宮士郎が全ての答えを握っているということかな」
安室はバーボンとしての鋭さと降谷としての厳格さを瞳に宿して息をついた。
それをコナンは見上げ、自然と安室が手に持つメモも見上げる形となった。
「! メモ、見取り図の方のメモの裏に何か書いてある!」
「これは……大量の矢印?」
メモの裏には細い矢印が幾重にも書き込まれていた。
気象予報における風向・風速の予想図にも似ている。矢印は入り組んではいるが大きな流れのようなものを作り、一か所に集まるように描かれている。
「このあたりの風向を示しているのか?」
「いや……そうじゃない」
目を細める安室に、コナンは半ば独り言のように答えた。
廊下の明かりが部屋に差し込み、メモを照らしている。
ちょうどコナンの位置からは、メモの裏表が透けるように見えていた。
「矢印が集中しているところ。メモを透かすとちょうど『死体が這い始めた』位置に重なる!」
「本当だ。それだけじゃない、あの死体を引きずった跡も矢印の流れに沿ってついている」
二人は目を合わせた。
思考の回転はほぼ同等。アイコンタクトにも似た意思の一致を感じて、安室とコナンは同時に部屋を後にする。
詰まりかけた推理にもたらされた一条の手がかりに、二人の足は早まる。
向かうは403号室。
焼死体が見つかった、事件の始まりの現場である。
二人は部屋に着くなり、慎重かつ素早く窓側のベッドを調べ始めた。
403号室にはまだ肉の焼ける臭いが残っている。
窓側のベッドからドアのそばまで伸びた黒々とした跡は、焼死体の表面が布とこすれあってできた粉状の炭である。
死体が動かされた時点ではまだ熱を持っていたようで、絨毯は小さく焦げ付いている。
コナンがベッドの下を覗くが、三時間前に調べた時と変わった様子はない。
安室がくしゃくしゃになった布団の表面を精査するが、手がかりになるようなものはない。
現場を壊さずに調べられる部分を調べ終えてから、安室はゆっくりと灰の粉を動かさないように掛け布団を隣に移動させた。
「……前に調べたときはこんなものなかったと思ったんだけどね」
「僕もこんなものは見てないよ、安室さん」
「僕らがここを離れたわずかな間にこれだけのものを用意した、ということかな。少し現実味が薄いね。……でも、それ以外に考えられないのも確かだ」
掛け布団を剥ぎ、シーツに包まれたマットレスがあるはずのそこには、すっぽりと別のものが埋まっていた。
醜悪な虹色をした両開きの扉。
枠は金属のような材質で、つるりとして滑らかだ。
彫刻や装飾はなく、のっぺりとして凹凸に欠けているように見える。
正しい長方形の形をしたベッドに埋め込まれているはずなのに、扉は見れば見るほど平衡感覚が歪みそうになるくらい不安定な形だった。
そして、扉の中央には落ちくぼむようにシンプルな鍵穴が一つ。
「なるほど。『鍵』があるなら、錠前もあるのは道理かもしれないね」
「安室さん」
「分かってるよ、コナン君」
安室は懐から『鍵』を取り出した。
持ち手の彫刻は、吐き気を催すほど目の前の扉とそっくりだ。
ゆっくりと『鍵』が差し込まれる。
穴に落ちるように、吸い込まれるように『鍵』は鍵穴にぴったりとおさまった。
『鍵』が廻される。廻される。
コナンの視界にナイトテーブルに置かれたデジタル時計が映る。
9999/99/99(豫) 99:99
「………………は」
瞬間、景色が虹色に塗りつぶされた。
***********
コナンは始め、己が目を開けているのか閉じているのか分からなかった。
気づいたとき、視界はすでに虹色だった。
目を閉じても開いても、焼けつくような極彩色が映っている。
距離感が掴めない。上も下も均等に虹色で塗りたくられていて、絵の具の中に浮かんでいるかのように見える。
体を起こすことで、やっと自分が気絶していたことを把握した。
虹色の地面はツルツルとしていて冷たい。だが滑りやすいというわけではなく、吸い付くようにシューズを支えている。
影も光源も見当たらない。子供の描くラクガキのようにチカチカする背景に己がはめ込まれている。
そして、斜め後ろには未だ倒れ伏した安室がいた。
「安室さん!しっかりして!」
コナンは体中の血がざっと滑り落ちる心地だった。
あまりにも異常だ。
いったいあの『鍵』を廻した瞬間何があったというのか。
脳に異常をきたす薬品を投与された、錯視効果がある檻に放り込まれた。
様々な「現実的」な可能性をはじき出すが、どれも等しく無理があり、どれも等しく意味がない。
安室は悪趣味な『鍵』を握りしめたまま意識を失っている。
コナンはこの異常事態に必死で安室に呼びかけたが、意識が戻る様子はない。
「くそっ!!」
地平線まで虹色だ。
脱出しようにも出口がなく、解き明かそうにも情報がない。
なにより、こんなところに安室を置いていくわけにはいかない。
なにか、なにか手がかりはないのか!
打てる手の少なさに歯噛みしかけたそのとき、コナンの聴覚がわずかな声を拾った。
「っ!」
全神経を音に集中させると、それは空間全体から聞こえてくるようだった。
「…………##……#…………##」
「……####よ……#い###……」
「そ#……在ます……宇宙の###御……」
暗い輪唱だった。
年代も性別も異なる複数の声が陰鬱な祝詞を挙げている。
歌のようにも聞こえるが、耳に不快な不協和音だ。聞いていると背骨を這いあがるような不安が湧き上がってくる。
心を歪ませるような不吉な調べと平坦で鬱屈とした声色に、コナンは知らず息をとめていた。
「空の彼方の領域に在ます宇宙の養い親よ」
コナンは、すぐ後ろから聞こえる声に素早く振り返った。
「……竹城さん?」
コナンから半歩の距離にいたのは恰幅のいい男性だった。
品のないヒョウ柄のジャケットと黒のスラックスはどちらもブランド物だ。
どうにも安っぽいように見える純金のアクセサリーを幾重にも首からかけ、覚束ない足取りでどこへとも知らず歩いている。
401号室に宿泊する風水師の男性、名前は竹城。
衛宮士郎に食ってかかったあと、持ち回りの夜番を拒否してロビー脇のソファを占拠した男性客だ。
いったいどうしてこんなところに。
いつの間に。
竹城はコナンの声が聞こえていないかのように、ふらつきながら前へ進んでいる。
「御身が治世は疾く来たれり……夜毎の祝宴にて我らの糧を授けたまえ……」
いつの間にか、竹城の前に古びた焼却炉が黒いシミのように滲みだしていた。
煤で変色し、黒と黄土のまだらとなった鉄製の外郭。
今にも崩れそうな細く不安定な土台。
ところどころ欠けた煙突からは汚泥のような粘着質の煙を噴き出している。
突然現れた竹城と焼却炉。気味の悪い虹色の空間。
何もかもがコナンの理解を超えている。
いったい何処から疑問に思い、どうやって推測すればいいのかも分からないまま、何らかの一連の儀式はつつがなく進行していく。
虚ろな足取りで焼却炉の前に竹城が立った。
「御身の祭壇へ迎えたまえ……御身の永劫を詠いたまえ……」
竹城の手が焼却炉の無機質な取っ手を掴んだ。
凄絶な音を立てながら高温の取っ手に手が焼き付いても、竹城はなんの反応もしない。熱も痛みも感じていないかのように、表情ひとつ動かさず焼却炉の扉を開く。
ごう、とおぞましい熱風が虹色の空間を揺らした。
「………………っ、」
コナンはこれから起こる未来について、絶望的な予感を憶えていた。
これはほとんど確信である。
竹内の左手に握りしめられているのは、生理的な嫌悪を搔き立てるあの『鍵』だ。
コナンは凍り付いたように動けなかった。声だけが制止の思いを漏らす。
「御身のささげられしものはぁぁああ……」
吹雪のホテルで見つかった謎の焼死体。
遺体をほぼ炭化させてしまうような火力は、「現実の」ホテル内には存在しない。
遺体の熱が冷めやらない短時間で、脆いそれを人に見咎められず外から運び込む方策も「現実には」無い。
眼下に広がる光景は、まさに『地獄のかまど』という表現が適切だろう。
皮膚に張り付くような熱気と腕が総毛立つような狂気だ。
焼却炉の業火は地獄の火そのもの。夢遊病の動きで吸い寄せられる竹城は、何か大きな力に連れ去られていく憐れな生贄だ。
民話も都市伝説も、所詮うわさのはずなのに。
竹城が焼却炉に足をかける。海外ブランドの紳士靴が高熱に炙られて斑に白くなった。
コナンからでは竹城の表情は確認出来ない。ただ、狂ったような笑い声が邪悪な祝詞に混じって耳に反響している。
竹城が身を乗り出す。顔を突き出し、身を屈め、左足が地面から離れる。
コナンには、その全てがスローモーションに感じられた。
腕時計型麻酔銃の秒針が、カチリと逆しまに廻った。
「やめろぉぉおおおおおおおおおおおおお!!!」
「全て清メらレテアリィィィイイイイイイイイイ!!!」
竹城の狂気の絶叫とコナンの制止の叫びが重なる。
竹城はためらいなく炎の中へ身を投げた。
瞬く間に火は竹城の肌を舐め、肉を溶かしていく。
全身が炎に包まれるのに、5秒もかかっていないはずだ。
焼却炉の中、肉の体は踊り狂っている。熱に溶け、焦がされ、ただれた皮膚と溶けだした眼孔が煙となって空間に満ちる。
驚愕と絶望に彩られる心とは裏腹に、コナンの頭脳はある種の納得を得ていた。
焼死体の事件も、多発する行方不明事件も、鍵の取引すらも、きっとここに帰結していたのだ。
この事件に「犯人」など存在しない。
なぜなら、彼らは皆みずから炎に身を投げたのだから。
焼却炉の中でだんだんと小さくなっていく男性の姿を見ながら、コナンは放心していた。
こんなもの、どうしようもないじゃないか。
誘拐も殺人も、全ては人の理の中で行われるものである。殺す理由は人の心の中にあり、その罪は人が定め、人が作った法で裁かれる。
罪も罰も、人のためのものなのだ。
炎の中、黒い影はもうピクリとも動かない。
はたして、これは人が裁けるものなのだろうか?
「そ、らの彼方に……在ま……す…………」
コナンのすぐ脇で聞き知った声がする。
「安室さん……?」
安室がふらつきながら立ち上がった。目は虚ろで、焦点の定まらない瞳が虚空をとらえている。
手はだらりとたらされ、いつも四肢に力が満ちた彼の様子をひどく弱弱しく見せているようだ。
そして、右手には全てにつながる『鍵』がひとつ。
「宇宙の……やしないおやよ……」
「安室さん、しっかりして!」
「御身が治世は……疾く来たれり」
「安室さん!!」
コナンはほとんど悲鳴を上げるように安室の名を叫んだ。
飛びついて体を引っ張るが、コナンは小学一年生で、安室は鍛え上げられた大人だ。
どうしようもない体格差にコナンの努力はほとんど実らない。ずるずるとコナンごと引きずって、安室は焼却炉へ向かっていく。
「こう、なったら!」
コナンはとっさに安室へ麻酔銃を放った。
安室が眠ったところで現状の改善にはならないが、あの火の中へ身を投げるのを黙して見送るよりよっぽどましだ。
細く透明な麻酔針が、あやまたず安室の首へ命中する。
「夜毎の……………………う、ん……?」
「安室さんっ!」
麻酔針が刺さったはずの安室は、眠りに落ちるのとなく茫洋と宙を見つめている。
しかし、滅びへ向かう祝詞を歌い上げるのをやめてコナンを緩く視界に捉えたようだった。
「安室さん、僕のことが分かる!?」
「…………コナン君……?ここは……」
「良かった、気がついたんだね」
「………………」
安室は夢見るような曖昧な表情で沈黙した。
安室の後ろではまだ轟々と焼却炉が稼働し、肉の焦げる臭いを吐き出し続けている。
手には『鍵』がひとつ。極彩色の悪夢の中、依然として醜悪に輝いている。
「…………ああ、そうだった。こんな所で立ち止まっている暇はないんだった」
「……安室さん、何を言っているの?」
「早くかみさまの下へ行かなくちゃならなかったね」
「っ、安室さん!!」
コナンはたまらず安室に掴みかかった。
意識は戻ったが、間違いなく正気ではない。どこかふわふわとした力無い口調に、常の鋭さの見当たらない眼。
安室はぼんやりとした面持ちの中に困惑を浮かべた。
「いったいどうしたんだい、コナン君。何かあったのかな」
「何かあったのはアンタだ!正気に戻れ!このままじゃアンタも炉に身を投げちまう!」
「炉?何のことか分からないよ。……それよりも、僕は早くかみさまのところへ行かないと」
「……っ、その、神様ってやつの所に向かうのは止めてくれ!」
いくらコナンでも、狂気にどっぷりと沈みこんだ人間と正常な意思疎通をした経験などない。
せめてもの方策として安室の言葉に合わせると、やっと安室はコナンの意図を理解したようだった。
「どうしてコナン君は僕の邪魔をするんだい?」
「……安室さん、よく聞いて。神様の下に向かうってことは、死んでしまうということでしょ。組織に一矢報いることもできずに、こんなところで死んでもいいの?」
「死ぬ?あはは、大げさだなぁ。かみさまのところへ還るだけなのに。組織だってかみさまがこっちに来れば全部解決だ」
「神様が、こっちへ来る……?」
「そうだよ。みんなそのためにかみさまに還っていったんだ。僕らが還るたび、かみさまはこっちに近づく。僕の日本に来てくれるんだ。光栄だなぁ」
安室は陶然と微笑んだ。
その顔は一点の曇りのない幸福で満ちている。
「ああ、そうか、僕だけ先にかみさまのところへ還るからコナン君は嫉妬しちゃったのかな?」
「…………安室さん……」
「ごめんごめん、僕が悪かったよ。随分と大人びているから忘れがちだけど、君だってまだ小学生だ。僕だけ抜け駆けなんてずるいと思って当たり前だ」
安室はしゃがんでコナンに目線を合わせると、ゆったりとコナンの頭を撫でる。
「そうだ、僕と一緒にかみさまのところへ行くのはどうだろう?呼ばれてるのは僕だけだけど、君は僕が認めたとびっきり優秀な名探偵だ。きっとかみさまも気に入ってくれるよ」
悪意はない。ただ純粋に、安室はコナンを思って言っているようだった。
安室とコナンはまだ出会って一年と経たない短い関係だ。しかし、数々の事件を通して一定程度の理解はある。
それを思い起こすと、今の安室の様子は言動を差し引いても異常の一言だ。
潜入捜査官として行動する彼は、笑顔の裏で常にかなりの緊張と警戒を張っている。
人懐っこい性格も接しやすい人となりも、計算と思惑の上で成り立っているのだ。
心を許さず、堅く張りつめていると言ってもいい。
それが今、確かな幸せに蕩け、全ての憂いから解放されているようだった。
「そうと決まれば話は早い。さあ、行こうか」
「っ、待って、待って安室さん!」
安室は軽々とコナンを抱え上げると、再び焼却炉へと歩き出した。
グロテスクな色彩と毒々しい鉄錆に囲まれた悪夢の具現。そこにあって、安室は鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌さで軽やかに歩を進める。
「かみさまはね、コナン君。過去も未来もない。失ったものは隣にあって、これから失うものは何一つない」
「放して、放して安室さんっ!だめだ、こんなこと……!」
「だから、悲しいことなんて一つもなかったんだ。松田も、伊達も、……アイツも、失ってなんかいなかったし、これから失うこともない」
コナンは一瞬息を飲んだ。
「失ったものは帰ってこない!それでも前に進み続けることができるのが、アンタのはずだっ!!」
炎はもう目の前にある。
熱風が肌を舐め、ヒリヒリと痛い。
コナンは必死で抵抗するが、麻酔針はもうないし、キック力増強シューズにも手が届きそうにない。持ち上げられた不安定な体勢でうまく力も入らない。
「祈願文は僕が代わりに詠うから心配しなくていいよ。えっと、御身の祭壇へ捧げたまえ、御身の永劫を詠いたまえ」
「くそ、くそ、くそ……っ!」
こんなもの、どうしようもないじゃないか。
例えば己が自由に動けたとして、このキック力増強シューズでサッカーボールを飛ばし、安室に攻撃を加えるとする。それで止まらなかったら、次は足を折って動けないようにする。それでも駄目なら物理的に焼却炉に近寄れないように体を吹っ飛ばし続ける。
じゃあ、そこまでしても安室が止まらなかったら?
死体が動く異界の理。常識なんて通用しない。
確実に眠りに落ちる量の麻酔が投与されたはずの安室が、眠気を訴えることすらしないのだ。優秀なコナンの頭脳はロジックエラーを起こしている。
熱に溶けた死体の油が、肌をわずかにべたつかせる。
踊るような心中の旅路は、コナンを絶望させるのに十分すぎるほどだった。
「こんなの、どうしろって言うんだよ」
「こうすればいいんです、少年」
涼やかな声だった。
清涼な青金が頭上から降り立つと同時に、不可視の刃が宙に翻る。
それは瞬きのうちに安室の手首を『鍵』ごと切り落とした。
支えを失うも、コナンは持ち前の運動神経でなんとか着地することができた。
切断面から虹色の血液が噴き出す。コナンは、やはりここは異界常識に満ちているとぼんやり思う。
安室は糸が切れたように崩れ落ちた。
それを自然な動作で受け止める、金髪の少女。
紺碧をたなびかせるXラインのロングドレス。しっかりした厚めの生地は絹のように滑らかだ。
金のラインに同じく金にきらめく髪が交差する。複雑に結い上げられたそれは、欠片の綻びすらない美しさを保っている。
白銀の鎧は中世騎士甲冑の意匠を残しつつも軽やか。青の文様が清廉さを引き立てる。
「失ったものが帰ることはない。ええ、その気高い考えは実に好ましい」
科学の世界で救世が法と真実の形をとるように、この世界では救世は騎士の姿をとるのだろう。
ついそんなことを考えてしまうほど、目の前の少女は正義と救済にあふれていた。
◆時計塔のレポートより、抜粋
ヨグ・ソトース
ヨグ・ソトースは門なれば。ヨグ・ソトース門の鍵にして守護神なり。過去、現在、未来はなべてヨグ・ソトースの内の一なり。
虹色、無定形とされる神。星の外に住まう知的生命体に崇拝される神格であり、星にとっての外敵。
第五魔法に関わる魔術師には崇拝者も存在する。
広く知れ渡る召喚方法として知的な生物をいけにえに捧げるものがあるが、成功例は未だ確認されていない。