契約を交わしてから10分。
衛宮士郎が檻を繋いだ鎖を切り落として蘭や宿泊客の人達を助け出したあと、情報の交換が行われた。
この儀式は衛宮士郎の所属するとある組織によって研究されていたものだということ。
組織は研究を持ち出した亀山の処分を決めたこと。
衛宮士郎は言ってしまえば組織から差し向けられた刺客であるということ。
等々。
衛宮士郎の話す内容は随分と伏せられていたが、全体像を掴むのには十分だった。
この儀式において、招来と退散はセットとして扱われるものらしい。
儀式のもともとの作成者は随分な変人だったらしく、儀式には様々なギミックとこだわりが仕込まれている。
儀式場は攪乱のため誤情報やトラップを大量に配置し、かつ見た目の美しさにも手を抜かない。
かと思えば真面目に術者を儀式中にタップダンスさせる工程も作成。
そんな混沌とした儀式を亀山はそっくりそのままここで実践したようだった。
真面目に考えるとシュール極まりないが、その中に大変重要な情報も含まれていた。
手順にも細かなこだわりがある製作者は、招来の手順の最後をそのまま繰り返し、最後に呼ぶ真名だけを逆読みさせれば退散になるようにしたと周囲に自慢していたらしい。
降霊儀式全般の常識として、神霊の招来最終工程には必ず神霊の真名が必要だ。
真名は絶対に儀式場内に刻まれるが、神霊にそれを削り取られないように隠されている。
術によって隠すのはほとんど不可能であるため、それは古めかしい単純で人間的な方法で隠される。
つまり、暗号である。
「『船は我が真下を進む。農耕神は第三宮で輝く。そのとき炎の正5/2角形を描いて第九詩篇の神の真名を3度唱えよ』、ね」
今は亡き儀式製作者の研究資料から読み取れた、招来儀式における最後の手順を示した文である。
術師は自分の研究成果を文章として残す場合、必ず外部に漏れないように暗号化したり別途術をかけたりする。
今時わざわざ暗号化をするのは手間がかかるため、たいていは術式によって防ぐようだ。
今回の場合、術はすでに解除されている。
この暗号めいた文は儀式製作者の個人的な趣味とのこと。
「この緊急時に面倒なことを」
「悪い、事前に俺が解ければよかったんだけどな」
「仕方ないよ、もともと使う予定もなかったんでしょ」
衛宮士郎が本棚の上に登ったまま安室のつぶやきに答えた。
士郎は魔術的に隠されたものがないかを探っている。先ほどの捻じれた短剣でほとんどが解除されたとはいえ、うまくにすり抜けて残っている可能性が無いとも言えないからだ。
その間に安室とコナンは渡された資料に向き合っている。
二重円形の舞台の中央にB4ほどの大きさの紙を広げて話し合う。
「正5/2角形っていうのは普通に考えれば五芒星のことだよね」
「五芒星なら魔法的な意味合いもあるしね。炎の、というのが分からないけれど。あと、『農耕神は第三宮で輝く』という一節だけど、星座のことじゃないかな」
「第三宮……なるほど、黄道12宮か!第三だと双子座だ」
「双子座の星に農耕神関連のものは無いから、この場合の農耕神というのは惑星だと思うよ」
「農耕神ならローマ神話のサトゥルヌスが土星の由来になってる。なら、『農耕神は第三宮で輝く』というのは土星が双子座と重なってるということだけど……『船は我が真下を進む』も星の関係ということはないかな」
「ちょうど天井は太陽系の模型だ、十分にありえる」
この広間の天井は黒く塗りつぶされ、可動式の太陽系の巨大な模型がいっぱいに広がっている。
太陽に当たる位置は安室の身長と比べても五倍ほどの大きさの扉が埋め込まれている。
扉はこれまでのものと同じように粘液質な虹色で塗装されているが、この扉に限っては繊細な彫刻が扉一面に刻まれていた。
二人は天井を見上げた。
「でもなんで羊の彫刻なんだろう……」
「生贄の象徴かなぁ」
「スケープゴート?いや、扉は神様でしょ、なら生贄を彫るのはおかしいよ」
「そうだね。うーん、他には羊でギリシャ神話ならアルゴナウタイだけど、あれは長すぎるしかなりの数の英雄と神が登場するから、太陽と扉なんてありきたりなキーワードじゃ特定しきれない」
「星に関係する暗号に、太陽の位置にある扉。暗号に関係ないはずないと思うんだけど……情報が足りなさすぎる」
「本棚の方を見てみようか、なにか手がかりがあるかもしれない」
安室の発案に反応したのは士郎だ。
彼は埃だらけになりながら本棚の後ろからひょいと顔を出した。
「それだけど、本棚にある本はできる限り目を通さない方がいいぞ。見るんなら俺が代わりに見るよ」
「なにか危険でも?」
「ここにある本は全部魔導書だからな。しかもかなり悪辣なやつだ。見たら一生奇声を上げながら四つん這いする生き物として生きることになるぞ」
「……さすがにそれはごめん被ります。いっそ死ねた方が慈悲ですね、それは」
「こういうトラップは工房によくあるから、あんたらがここまで無事にたどり着けて本当に良かったよ」
「ははは」
かなり洒落にならないことだったようだ。
コナンは改めてタイミングの良さと自分たちの幸運に感謝しつつ、思考を暗号へと戻した。
この部屋に船に当たるものは見当たらない。
扉中央には大きく一匹だけ羊の彫刻がなされ、あとは解釈のできない飾り模様が彫られているだけだ。
天体模型は作りこまれてはいるものの別段隠された暗号があったりはしない。
円形舞台は石造りで変わった様子はないし、本棚に至っては近づくだけで全身の毛が逆立つために調べることすらできていない。
「衛宮さん、あの扉に彫ってある飾り模様はなにか意味はあったりする?」
「あー、うーん、ちょっと待ってくれ、見たことあるような無いような……?」
「どこで見たか思い出せる?」
「うーん、
「シジル?」
「ラテン語で印って意味で、西洋儀式系でたまに使うんだ。召喚術の基礎知識として習った中に……そうだ、アモン!ソロモンの72柱の魔神で、序列は7位、大いなる公爵アモンを示すシジルだ!」
悪魔アモン。RPGによく登場する悪魔として一般に知られており、イギリスに今も残存するグリモワール『ゴエティア』にその存在が書かれている。
かつて大英博物館に訪れたときにそれが所蔵されていたのを、コナンは思い出した。
展示解説によれば、召喚した人間に過去と未来の知識を与える悪魔で、その名前の由来はエジプト神話から来ていたはずだ。
「アモン、船、羊…………そっか、ラーだ!」
「っ、そういうことか!衛宮さん、さっきの脚立をお借りします!」
「えっ、なにが分かったんだ?」
安室が先ほどの部屋の調査のために士郎に投影で出してもらった脚立をつかみ、地球の模型の下に置いて固定した。
安室が脚立を揺れないように両手で押さえるうちに、コナンが軽快に登っていく。
「地点はエジプト、扉が真下に来るようにして……そのうえでギリシャの位置からは獅子座に土星が重なるように配置すれば……」
脚立に乗って降りてを繰り返し、太陽系の模型を少しづつ動かしていく。
模型は大きさに反して軽い。地球の模型ですら一抱えほどもあるのに、滑らかに軌道を動かすことができた。
扉が真下、獅子座と土星が重なる位置に模型が配置された。
かちり、というスイッチを入れたような硬質で小さな音。
「っ、これは……!」
模型が一斉に輝きだし、薄暗い広間が光に満たされた。
黒く塗られた天井が光に照らされて深みを増す。
模型は輝くままにどんどんと上に上がっていく。
がちりがちりと歯車の回る音がした。
上に上に、天井のあった場所よりさらに上に――――しかし、それでも模型はコナンたちの目に見えている。
鼓膜を揺らす超音波のごとき高音は、しかし耳に心地いい神秘性を帯びている。
いつの間にか天井は星空に変わっていた。
黒く塗られた夜空に、真に星となった模型たちが遠く輝く。
満点の星空だ。天の川すら見えそうな、都会の光からほど遠い奥地で見える、最高の夜景。
空はくり抜かれたようにぽっかりと浮かんでいる。
ただその中で扉だけが元の位置に鎮座し、醜悪な虹色を振り撒いていた。
「模型が本当の夜空になる、か……ほとほとデタラメだな」
「ちょっと不思議なプラネタリウムくらいに思った方が楽だよ、安室さん」
「コナン君って意外に順応が早いよね」
二人に駆け寄って夜空を見上げた士郎は、二人に疑問を投げかけた。
「なあ、船が扉なのはどこでつながったんだ?」
「えっと、わかっちゃうと凄く単純なんだけどね」
コナンが扉を指さした。
「扉の彫刻のアモンなんだけど、これはエジプトの太陽神アメンが元になって生まれた悪魔。アメンは太陽神ラーと同一視されてる。そして太陽神ラーは変身する神様なんだ」
「変身……借体成型か?」
「専門用語は分かんないよ。でも、ラーが朝昼夜で姿を変えることは知ってる。朝はコガネムシの姿で地中から現れて、昼はハヤブサになって空を飛ぶ。夜は雄羊の姿で船に乗って冥界を旅すんだ」
「まさにかつての人間が太陽の動きを神格化したものですね。昼は空へ昇り夜は冥界――すなわち地の下を動いていく」
「……羊の彫刻がされた扉は、つまり太陽の船ってことか!」
「ええ。前半はエジプト神話。だから『我』はエジプトの人であり、エジプトから見て扉が下に来ればいい。それを満たした状態で後半の条件をクリアするんです。素人が作ったにしてはよくできていましたよ。扉は太陽神……つまり当時の最高神を表しています。それでいて悪魔としては未来と過去、すなわち時間をつかさどるものとして描かれている。農耕神サトゥルヌスもギリシャ神話では農耕神クロノスであり、同一名の神として時の神クロノスが上げられます。双子座の元となった双子ディオスクーロイは農耕神クロノスの孫」
「時の神とその孫が重なる……ああ、なるほど、タウィル・アト=ウルムっぽいものはそうやって召喚されたのか」
「しかしながらあくまでクロノスは農耕神ですから、そのタウィルと呼ばれた人型も偽物の神の同一存在となります。貴方が弱さを不審に思うのも同然でしょう。そも、これでは人違いですから」
「そういうことだったのか。あんたら、凄いな」
ほう、と息をついて士郎は賞賛を口にした。
なかなか表情が動かない青年だが、その様子を見るに素直に感心しているのだろう。
声色に驚きの色が乗っていた。
「ならこの状態で炎の五芒星を……宝石を構えろ!!」
至近距離で雷が落ちたような、空襲でも受けたような音と衝撃。
部屋中が衝撃で地震さながらに揺れる。
耳どころか頭蓋を揺らすような轟音に、コナンは手に持った宝石を取り落としそうになった。
「っ、くそ、これは……」
士郎が扉を見上げた。
扉は外側から大きな力を加えられたようだ。向こう側から破城槌でも喰らったかのようなありさまになっていた。
そしてもう一度、二度、三度と衝撃が加えられていく。
「扉を破られるぞ!」
「分かってる、こうなったら……投影、開始。……
現れたのは、穂からけら首まで美しい金細工の施された槍だ。
口金は複数の金環で構成され、コバルト・バイオレットの柄を持つ。銅金はなく、その代わりにツタが巻きついたような彫刻が彫られていた。
華美ではないが上品な優美さをもったそれを、士郎は扉に向かって構える。
「――
声とともに、槍から光が飛び出した。
いや、光ではない。光と見まごうスピードで打ち出されたのは大量の水だ。
周囲に多量の水しぶきをまき散らしながら、どこから現れたのか定かでない激流が扉に向かって伸びる。
激流は扉に到達する直前、9つに枝分かれした。
空間を裂くような高音。
激流が縄のように編み込まれ、扉を包む水の結界を作り出す。
次の瞬間、爆撃のような音が三人に降り注いだ。
「な……これ、が」
虹色だ。
粘着質で、醜悪で、おぞましくて、冒涜的で、悪魔的で、奇形で、汚らわしくて、凄惨で、ねっとりとして、不潔で、病的で、不安定で、身の毛もよだつような……虹色。
それが目に入った瞬間、二人は震えが走るような強烈なおぞましさを感じた。
まるで語りかけてくるかのようだ。こちらに。こちらに。
安室が血が出るほどに唇をかみしめた。
しかしそれでも、決定的な狂気は訪れない。
水流の檻が膜となり、どこか対岸の火事のようなユルユルとした非現実感をコナン達に齎している。
透明な激流は神聖さと守護の意思を流れに乗せ、狂気の呼び声を堰き止めているようだった。
溶解して泡だらけな触手が8つ、先を急ぐように扉をこじ開けていた。
のたうつ触手が水流に触れ、弾かれて一瞬引っ込み、しかしまた勢いよく結界に一撃を加えようとする。
「############―――!」
コナンは耳鳴りのような音を聞いた。キーンと高く、それでいて鼓膜自体に不快感を残すような音だ。
安室は耳をふさいで眉をしかめた。片手でコナンの宝石に触れているため、左肩を上げて耳をふさいでいる。
士郎は立っているのがやっとの様子だった。
足は小刻みに震え、歯を食いしばって両目を強くつぶり、握りつぶすかの如くマク・ア・ルインなる槍を握りしめている。
ほとんど槍で体を支えているようなものだ。
槍から水流が噴き出し続けており、触手の衝撃に散った水はすぐさま補給されていく。
「ハゃく、はヤク最後の工程ヲ終ぇるんだっ!長くは持タなイ!」
「分かった!安室さん!」
「……っ」
二人は全力で頭を回転させた。
残るは『炎の正2/5角形を描いて第九詩篇の神の真名を3度唱えよ』。
「くそ、『炎』も『第九詩篇』も『神の真名』も分かってないぞ!」
「……コナン君!下を見て!」
「っこれは!」
扉と宇宙に気を取られて気が付かなかった。
変化していたのは二重円形の舞台だ。
装飾のない石造りのそれに、浅葱色の光で文字と思しきものが浮かび上がっていたのだ。
外側の一段低い円にはルーレットのような区切りと文字。
内側の今コナンたちがいる円にも、外縁は同じようにルーレットの区切りと文字が書かれている。そのほかにも円形舞台中央には謎の文章が一つ。
コナンは中央の文章に駆け寄って座り込む。
それはルーンのようにはっきりとした角を持った文字だ。
L字型が回転してWと合体したような、EとZをくっつけたような、あるいは郵便局の地図記号を逆転させたような。
それは見たことのない文字であり、言語だった。
「……単字式換字暗号にしては記号の種類が多すぎる。これじゃ解けっこない」
暗号には種類がある。
換字式暗号とは、あ、い、う、という文字にそれぞれA、B、C、という文字を対応させたものだ。例えば有名な「踊る人形」が挙げられる。
文字を並べ替えて意味をわからなくするのなら転置式暗号だ。アナグラムもそれにあたる。
コナンの目に映る暗号は見たこともない形をしている。アラビア語のようなうねりに、楔形文字のような荒さ。
その種類の豊富さは換字式にしては多すぎる。
どちらかと言えば漢字に代表される表意文字が適切だろう。
長さにして2行ほど。
たったの二行は、この局面において永遠ともいえる長さを持っていた。
「あ、安室さん!なにを!」
ふいに安室が宝石から手を話した。
どこか焦点の合っていない目で文字に近づき、片膝をついて覗き込む。
「これの読み方は……いげ、いげ、いげ、てぃす、どぅる、いは=な、ごん、きりい、こん=こ おしゃ、きりい、こん=こ」
どこの言語かも分からない奇妙なつぶやきの直後、外側の円形が石臼をひくような重い音を立てて回転した。
ごご、ごご、ぎりとゆっくりと動き、ある一つの点でぴたりと止まる。
それと同時に両脇の本棚が突然せりだした。
ルービックキューブのような有機的かつ幾何学的な動きで本棚は回り組代わり、床に沈んでいく。
そして一冊の本を残してすべて床の下に消えてしまった。
「安室さん、早く宝石を!」
「大丈夫、コナン君。ぎりぎりで正気だよ。この文字を見た瞬間、これで答えがわかると直感したんだ」
「聞かなきゃいけないことは多いけど、ともかく宝石を握りなおして!」
「いや、まだだ。たぶん本の内容もこれで読む必要があると思う」
「っ、……とってくる!」
ぼんやりと中空をみつめる安室だが、声は比較的はっきりとしていた。
安室の直感はコナンには分からない。
これまで幾度も安室は正気と狂気の境を行き来している。それによる浸食と汚染は、彼に神話的な直感と知識を植え付けたのかもしれない。
この場においてその直感と知識は大いに役立つ。
しかし、この均衡も長くは続かないはずだ。
頭上にはアレがいるのだ。
コナンの頭が知性を超えたところで理解している。アレを見ておいてまだ何か物を考えられるということ自体が、キリスト復活にも値する大奇跡なのだと。
「これ、残ってた本だよ」
「ありがとう。コナン君は中身を見ないようにね」
全力疾走で本をとってきたコナンに対し、あくまでゆったりと対応する安室。
本を受け取ると、表紙を吟味してからぱらりとページをめくった。
本は動物の皮を、毛を束ねた紐で綴じたものだった。
皮は不揃いで生臭い。ぺっとりと油が残るそれに、表紙も裏表紙もないようだ。
なんの動物の皮なのかは分からない。緑がかった白の皮は分厚く、所々ショッキングピンクの毛が残っている。
舞台中央にあったものと同じ文字が焼き付けられ、辛うじてそれが文章をまとめたものだと示していた。
「エイボンの書、第四巻、第九詩篇……大神ヨグ=ソトースのへの祈り」
安室はふわふわとした口調でつぶやきながらページをめくる。
「空の彼方の……ああ、ここは飛ばそう。ヨグ=ソトース様の真名は……これだ」
「っ、炎の五芒星は?」
「大丈夫、今なら分かるよ」
安室は宙に指で五芒星を書いていく。
中央に炎の瞳を持つ歪んだ五芒星の跡が、虹色に発光して示されていく。
「コナン君、僕の合図に合わせて、さ=ろえ、いる、さ=ろえ、いる、さ=ろえ、いる、とできるかぎり高い声で言うんだ。まだ声変わり前だから届くと思う」
「声の高さで意味が違うの?」
「これは地球人の言葉じゃないからね。大人の男じゃ出せないんだ。あと、これをきちんと発音するなら二人必要なんだ。僕がもう一つのパートを読み上げるよ」
「……わかった」
「よし、いくよ……せーの、」
「「###、###、#####」」
ドォン、と轟音とともに大量の水しぶきが降り注ぐ。
のたうつ虹色の触手は結界の中で暴れまわり、その包囲を崩そうとしている。
槍を支える士郎の顔色は蒼白で、露出した手や首元は斑に内出血をしているのが見える。
限界はそう遠くない。
「あれ、おかしいな。これであってるはずだけど」
「そんな……安室さん、もう一度やってみようっ!」
「いや、さっきの発音は完璧だったからもう一度やっても同じだよ。なにか欠けてるのかなぁ」
安室の様子はふわふわと朗らかだ。
ぼんやりとほほ笑んで、うーんと首をひねっている。
「真名だから普通のとは違うんだと思ってたけど、考えてみれば語の並びが変だなぁ。音が間抜けというか。うーん」
「くそ、どうしたら……安室さん!」
「なんだい、コナン君」
「さっきの……舞台中央のイゲイゲとかって、日本語だとなんて意味になる?!」
「うん?えっと、そうだね。『鍵は終わりなき永劫』ぐらいの意味合いになるかな」
「…………」
コナンは高速で思考する。
考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。
『炎の五芒星を描いて第九詩篇の神の真名を三度唱えよ』。
これの神の真名をひっくり返して唱えれば良い。
炎の五芒星は今の安室なら描ける。第九詩篇は手元にある。あとは神の真名だけだ。
……『鍵は終わりなき永劫』。
そういえば円形舞台の文字が手つかずだ。
「安室さん、この円盤の外周の文字はどういう意味なの?」
「それかー。それは意味なんてないよ」
「意味がない?」
「あいうえお表みたいなものかな。外側も内側もおんなじ。ああ、こういうのを小学校のころつくったことがあったけなあ」
安室はほやほやと笑っている。
かなり進行しているようだ。こちらもこれ以上続けるのは危険だろう。
士郎がついに膝をつき、槍に縋り付いて上半身を支えていた。
水量はさきほどまでよりか細い。
コナンは歯噛みした。時間がない。もう、一刻の猶予もない。
……小学校の頃に作った。
……『鍵』。
……円形。
……暗号。
「…………そうか、そうだったのか!!」
「コナン君?」
コナンは安室の腕を引っ付かみ、全力で円形舞台に引きずっていった。
安室は訳が分からず困惑しているが、抵抗する様子もない。
そのまま円形舞台中央まで来て、コナンはやっと手を放した。
「安室さん、ヴィジュネル暗号だ!」
「うん?」
「この二重円の舞台、これは暗号円盤そのものだったんだ。中央に刻まれているのは暗号の鍵。暗号円盤は算数の授業なんかで子供に作らせることもあるみたいだから、安室さんがやってても不思議じゃない」
ヴィジュネル暗号。フランスの外交官ヴレーズ・ド・ヴィジュネルの開発した多表式の換字式暗号の一つ。15世紀から16世紀後半にかけて編み出されたそれは、同系列の暗号の中では最も有名かつ難解だ。
この暗号の解読法が発見されたのはそれから200年ものちで、かの天才数学者にしてコンピューターの父、チャールズ・バベッジが解読法を発見したのであった。
「んー?ヴィジュネル……ああ、そんなのあったね。鍵と暗号円盤はあるからどこに当てはめればいいかなぁ」
「神様の名前だよ。そこが暗号化されてたんだ。暗号化されていたから音の並びに安室さんが違和感を覚えたんだと思う」
「分かったよ、ヨグ・ソトース様の真名のところで、逆から三回だから……」
水流はもう細長い糸のようだった。
所々触手が結界を突破し、現実をうねらせている。虹色が滲みだし、広間には沸騰するような悪臭が満ち始めている。
士郎はうつむいており表情はうかがえない。
「うん、さっきと同じようにコナン君はできるだけ高い声で、あ=ぐれ、かあるん、ぷは、あ=ぐれ、かるあん、ぷは、あ=ぐれ、かるあん、ぷは、ってお願い」
コナンは頷いた。
安室の向こう側には、虹色の触手が迫っている。
「いくよ、せーの、」
息を吸う。
音が遠い。
太い触手が結界を突き破り、激しくうねり石壁を削り取りながらこちらへ迫る。
口を開く。
声を出す。
3メートルはある触手が安室の数メートル手前にいる。
あと2メートル。
細かな石片と砂埃が轟音を立てて迫り来る。
1メートル。
声を出す。
遠く衛宮士郎が目を見開く。
30センチ。
声を出す。
10メートルはある巨大な剣が触手の前に出現する。
15センチ。
声を出す。
飴細工のごとく剣が触手にへし折られる。
2センチ。
声を出す。
「「#####、#####、#####」」
そのあとの記憶が、コナンには無い。