無常の理、神焼きの焔 作:風剣
早朝の空模様は、日が顔を見せ切っていない故の薄暗さがあった。
もう暫くもすれば温かな陽射しが降り注ぐことになるだろうが、春と夏の境目となり日々暑さの増してきたなかでもこの早旦ともなれば未だ肌寒さが強く感じられる。家族もまだ寝静まった屋敷の一角で、黒髪の少女はごとりと足元に置いた桶を持ち上げた。
「ふーっ……」
腕にかかる確かな重みを感じながら、呼吸を整え腕に力を籠め持ち上げた桶を傾ける。足、手、胴、肩――。桶のなかを満たしていた冷や水が身を濡らすのを少女は息を吐いて受け入れながら空になった桶を井戸の傍に置いた。
朝5時に起床した少女の一日は、裏庭の井戸から汲みあげた水を浴び身体を清めることから始まる。ぶるりと身震いするような寒さで心身を引き締めたあとは徒歩で数十分の神社に赴いたのちに祈りを捧げ、帰宅したあとは鷲尾家の朝食の準備をする――それがここ数ヶ月の彼女の日課だった。
「朝のご飯はお米と味噌汁であるべきよね」
和食が一番。洋食に食卓を占領され続けてしまうなどなどあってはならない。将を射止めるなら胃袋から──。洋食派であった両親への和食推進計画は順調に進みつつある。
とはいえ。そうして過ごしていた彼女に近頃舞い込んだ巡り合わせは、そうした習慣にも大きく影響を与えかねないものだったのだが……。
「今すぐ鷲尾を離れる、という訳ではないと聞いたけれど……お父さんとお母さん、私が嫁いだあともきちんと和食を食べてくれるかしら」
そう呟く須美の前で鍋の中身がことことと煮立つ。味噌を乗せたお玉を鍋のなかに居れかき混ぜる彼女が思い起こしたのは、二週間ほど前に須美の父から切り出されたとある縁談のことだった。
「えっと……お見合い、ですか……?」
自身の通う学舎である神樹館での授業を終え帰宅し、家族との夕食を済ませた後に呼びだされた須美。そこで伝えられた言葉を反芻するように呟いた彼女に、机を挟んで向かい合うようにして座る父は重々しく頷いていた。
「――相手は、大赦と密接な関わりをもつ秋葉神社において非常に重要なお役目を担う方だ。そのお役目を継ぐ次代の血を遺すための相手は勇者としての適性を持つ者から選出されるというのは以前から決められていたことではあった」
この話に納得しきった様子でもないのか、眉根を寄せた険しい表情をしながらも落ち着いた口ぶりで娘に説明をする彼は、どのようにして娘の不安を和らげたものか気を揉んでいるようだった。
「詳しい説明は先方からもあるだろうが、この縁談に関する是非は須美に委任されている。相手とも年が近いとはいえ、まだ年若い須美には心の準備ができていないとは思うが……それでもこの件については決して無下にできるものではない。まずは一度だけ見合いに参加し、その結果をもって判断を――」
「……お父さん」
お見合い。縁談。頭のなかでぐるぐると渦巻く単語を咀嚼し、父の説明のなかみを吟味して──かちりと、少女のなかで何かが切り替わった。
「そのお話、喜んでお受けさせていただきます……!」
「えっ」
虚を突かれたような、真っ直ぐ前を向いて言い放った私を見て何故かすごく不安そうな顔をした彼の顔がやけに印象に残った。
(あれから何度か心配されたけれど、私ってそんなに頼り無さげなのかしら……? 本当に大丈夫なのに……)
鷲尾家といえば、大赦の──四国において最も重要といえる神樹を奉る組織の中枢に食い込む名家である。そこの1人娘である以上、いつかは家の意向によって組まれた縁談に従いどこかに嫁入りすることになることは少女にも想像できたことだった。
そしてその相手が大赦と携わって重要なお役目を担っているとあらば須美としては否定する要素など欠片もない。寧ろ自分が嫁いだ先で失態を晒すようなことにならないかが目下の懸念材料となっていた。
「秋葉神社といえば、四国において最も大きい神社のひとつだもの。鷲尾家の女として恥ずかしくない振る舞いをより一層心がけていかないと……」
──この四国において、神の存在というのはひどく身近だ。
西暦の時代、世界が死のウイルスに満たされるなかで現れ四国に暮らす人々を護ったという神樹。数多の土地神の集合体とも、中津国の神々の化身であるともいわれる神樹は、結界によって護られた四国の人々に今もなお多大な恵みをもたらしている。
そんな神樹とは独立した神格ながらも、密接に連携しあって四国を支えている神として知られ神樹に次ぐ信仰を集めているのが炎の神カグツチだ。
神樹に仕え日々お役目を果たしていく大赦とは別に。神カグツチを祀り炎神の恵みによって成り立つインフラを支えるのが、秋葉神社に務める神職たちなのである。
そうした家に嫁ぐこととなれば、神事やお役目の補佐など当然やらなくてはならないことも増えてくるだろうと想像できたが……それについては差程心配してはいなかった。
極論わからないことは教わればいいのだ。立派な大和撫子でありたいと自負する須美にとってはこれから学ぶことよりも未だ未熟であると自覚する花嫁修業の方が懸念の材料となっていた。
「……大赦からきたお話なのよね。鷲尾家から要望を出せばその手の超一流の方々からご指導いただくことができたりしないかしら……」
そうした打算もほどほどに迎えたお見合いの当日。
にこにこと微笑む母と鷲尾の使用人に着せられた着物を身に纏い、家族とともに車に乗り込んだ黒髪の少女は秋葉神社に向かっていた。
『──じゃあ、秋葉さまのご母堂は参加できないの?』
『ああ、そうらしい。……12年前、今代の火継ぎを大怪我を負いながら出産されて以降は体調を崩されていることが続いているそうだ。恐らく縁談の場には当主の──』
使用人の運転する車両のなかで交わされる両親の会話を聞きながら窓から過ぎ去っていく光景を見つめていた須美は、高くまで昇った太陽に照らされ煌めく海、神樹によって閉ざされた結界の縁にまで伸びる瀬戸大橋を目にする。
一般人の立ち入りを禁じられた区域から1キロも離れてない距離に、炎の神を奉る秋葉の社はあった。
「鷲尾様、お待ちしておりました」
「こちらになります。足元にはお気をつけください」
「ここが……」
駐車場に停められた車から降りた須美は、参道へ続く道で待機していた神職の出迎えを受け彼らの案内のもと神社の本殿とは異なった方向へ進んでいく。
秋葉神社に参拝客として訪れたことは数あれど、関係者として内部に足を踏み入れることとなるのは初めてのことだ。内心浮き立つ気持ちを感じながら関係者通路を通っていった須美は、石畳の道を歩いて行った先にあった武家屋敷を見上げる。
「ここが、私の嫁ぐ家……。――。うん……?」
「須美?」
見られている気がした。
秋葉の一族が住まうという屋敷を見上げていた少女は、不意に感じた視線にきょろきょろと辺りを見回す。境内に足を踏み入れたときから第六感に近い感覚で感じ取っていた存在感とはまた異なった気配の方向に視線を向けた彼女は、物陰から来客の様子を伺っていたいたらしい黒髪の女性が足早に立ち去っていくのを目にする。
一瞬だけ見えた彼女の顔を隠すようにつけられた仮面には、炎を彷彿とさせるような紋様が刻まれていた。
(……家に来る大赦のひとが持ってるのとは、違う模様だったように見えたけれど。秋葉の家の関係者だったりするのかしら……?)
姿を消した女性のいた物陰を立ち止まって見つめていた須美は、玄関で待っていた父親からの呼びかけに目を瞬くといそいそと歩いて家族と合流する。
須美を見るなり立ち去って行った白装束を纏った見知らぬ女性の後ろ姿は、やけに彼女の頭に焼き付いていたが――意識を切り替え呼吸を整えた少女は、神職に先導されお見合い相手とその家族が待っている一室へと向かっていく。
目的の場所が近付く程に高まる緊張。頼りなさげに手元を彷徨わせては身に纏う着物を握ろうとして、皺になるのに思い当たると目を伏せ声も出せぬままにか細く息を吐いて――。その様子を見かねた母に、そっと手を握られる。
「お、お母さん私大丈夫かしら……変じゃない?」
「やっぱり緊張するわよね……大丈夫よ須美、貴方本当に綺麗よ。ほら、お相手もそう年が離れてるわけじゃないのだから、神樹館のお友達と話すくらいの気持ちでいったって全然大丈夫。さ、深呼吸――」
「……友だち、あんまりいないです……」
「新たな問題が浮上したわね……」
頑張れーと背中をさすられるのを心底ありがたく思いながら呼吸を整えた須美は、先導する神職の男性がこちらになりますと障子の閉じられた一室の前で立ち止まるのにごくりと唾を飲む。もう一度深呼吸をした彼女が頷くと、鷲尾家の来訪を告げた神職が襖を開けた。
応接間らしき和室に通された彼女たち。両親の後ろをついてその場に足を踏み入れた須美は、そこで和装を纏った壮年の男性の隣に座る黒髪の少年を目にする。
「――」
(この人、が)
――炎のような眼をした、少年だった。
会釈と定型的な文言を大人たちが交わした後に、少年たちと向かい合うようにして用意された座布団の上に正座になって腰を下ろすと、須美の隣で両親が名を名乗り挨拶をする。薄く息を吸い、意識を切り替えた少女は正座の姿勢で三つ指をつくとぺこりと頭を下げた。
「初めまして、鷲尾須美と申します。――不束者ではございますが、末永くどうぞ宜しくお願いいたします」
「……
それが、少年と交わした第一声――。彼の父親らしき寡黙そうな男性と自分の父親が落ち着いた様子で言葉をかわすのを尻目に、須美はじっと向かい合って座る少年を見つめる。
玄関前で少女の姿を伺っていた女性の仮面に彫られていた紋様、それとよく似た炎の印を刻んだ和装を纏う少年の短い黒髪にはところどころ瞳の色に似た赤みがさしている。親同士のやりとりを見守っている少年の表情は緊張の素振りも感じられない落ち着いたものだった。少女の視線に気付いた彼は彼女を見返すと口を開こうとして――ぴくりと身を揺らす。
彼の頭頂部で、空間が蜃気楼じみて歪んで見えたような気がした。
「……?」
物凄く煩わしそうな顔に一瞬だけなった彼が頭を揺らす。目を瞬いた須美が大人たちが団欒をしている横でどんな会話をしたものか悩んでいると、丁度隣では話もまとまったようだった。
「――鷲尾須美さんの意向がそのようであれば、こちらとしても願ってもないことです。では、ひとまずは見守る方向で」
「えぇ。……ちなみに、須美に対してあの話は――」
「火継ぎのお役目にも深く関わる案件ですので、今話すわけには。ですが、ええ――。一定まで段階が進むまでには必ず開示し本人の意思を尊重することを約束いたします。……それでは、私たちはひとまず席を外します。2人で話す時間も必要でしょう」
「えぇ、そうしましょう。……須美ちゃん、ファイトよ」
大人たちが立ち上がる中で小声で激励をする母親に、須美が耳を赤くしながら小さく頷く。黒髪の少年も父親に目配せされ固い表情で息を吐くなか、大人たちは2人を部屋に残し立ち去っていった。
室内に少年少女が2人きり取り残され、居心地の悪い沈黙が室内を支配した。
「……」
「……」
「「……あの」」
『――』
お先にどうぞ、いえいえそちらがお先に……。
不毛な譲り合いと遠慮の精神を発揮した2人。やがて自分があとで良いからと言い切った少年に折れた須美は、どんな話題をだしたものか悩んだ後に縁談の話が来たときから気になっていたことを問いかけた。
「……秋葉様は大赦と関わって重要なお役目を担っていると伺いました。もしかして私にその、お見合いの話が来たのも。私の、勇者としてのお役目が関係していたり──?」
「……焔で構わないよ。年だってひとつしか離れてない筈だし、そう畏まって話すこともないだろう。気楽にしてくれ」
「……?」
様づけもできればやめてほしい。
そう、どこかぎこちなさの残る微笑を浮かべ口にした少年に切実な想いを感じ取った須美はきょとんと目を丸くしながらも首肯した。
「それじゃあ、焔くんと。……これで良い?」
「ん、ありがとう。それで、俺のお役目の話だったな……」
沈黙して考え込んだ少年は、眼前の黒髪の少女――神樹に選ばれた勇者候補が知っているだろう情報を大赦の秘匿事項も含めた自身の認識とすり合わせる。どうしたものかと大人たちが退出したあともふよふよと宙を浮いていた炎神に視線を向ければ平然と親指を立てGOサインを出された。
「……」
神樹によって護られた壁の外部から訪れる脅威に関する混乱を防ぐ意図で情報の漏洩を最大限抑えるための措置が長い時間をかけ歪んでいった大赦の秘密主義は徹底しているが――神樹とは独立した神性によって支配された秋葉にその倫理は通用しない。うちの神様がOKだしたならまあいいかと、あっさりと機密事項を開示することに決めた少年は居住区の一室にも設置された神樹を祀る神棚を一瞥した。
「勇者の役目。神樹様から力を借りた勇者たちが四国の外から人類を滅ぼすために襲来するバーテックスを迎撃し、これを撃退する――。そこまでは鷲尾さんも知ってることかな」
「はい」
こくりと頷いた須美との認識の相違を確認し。掌を上に手をかざした少年を中心に、空気が揺らめいた。
「俺の役目は――秋葉の一族から輩出される火継ぎの役目は先代の火継ぎから己に託された神の炎を、己の身命を薪に育み、昇華させ、次代へと受け継いでいくことだ」
「世界が四国を残して滅ぼされ、神世紀へと時代が移り変わっていったそのときから。秋葉はある目的を果たすために、神カグツチの祝福を受けずっと炎の継承を重ねてきた」
火が灯る。
彼の掌のうえに灯された小さな火――障子ごしの日の明かりより、天井の照明よりも明るく、温かに部屋全体を照らしたのは紅い、紅い炎。息を呑んだ少女の前でぱちぱちと火花を散らして燃えるそれは、彼の目と同じ色をしていた。
「俺は、カグツチさまの炎と共に秋葉の家が受け継いできた宿願を果たすために生まれた」
淡々と。
「天の神」
「四国を襲うバーテックスの大本であり、世界を滅ぼした元凶。火継ぎは、ソレを滅ぼすために神を殺す炎を受け継いできた」
・鷲尾須美
11才。そろそろ育ち始めてくるころ。何がとは言わないが。
護国愛国の魂は発揮されつつある。既に一般的な11才の精神性ではない。
・秋葉焔
12才。無事成長すればゆゆゆにおけるラスボスである天の神を必ず焼き滅ぼすことができるだけの資質をもつ。
神殺しの炎を育み続けた一族に生まれた最優にして最強のカウンター。一般的な12才の精神性ではない。