「この飛行機は、ただいまからおよそ20分でチューク国際空港に着陸する予定でございます。ただいまの時刻は現地時刻で午前7時30分、天気は晴れ、気温は35度でございます。
着陸に備えまして、皆さまのお手荷物は、離陸の時と同じようにーー」
「ねぇ!シンジ君見て見て!!」
窓際席に居たマリに襟を思いっきり引っ張られ、しぶしぶ窓から外の光景を見たシンジは、その威容に思わず感嘆の声を漏らした。
シンジだけではない。
機内は二つの集団に分かれていた。子供のように窓にへばりついて外を見ようとする者、何が面白いのだと言わんばかりに書類から目を離さない者。後者の共通点は、ここに何度も来たことがあることだった。
だからといって、前者に属するひとびと全てが、この光景を初めて見るわけではなかった。
眼下に展開されるのは巨大な
環礁の中には島が点在していた。ガイドブックには248の島が存在しているとあった。目が良ければ、その中で最も大きな島に滑走路があるのが見えたかもしれない。
しかし、衆目を集めているのは、環礁でもなければ島々でもなかった。環礁の中に存在する巨大な十字型の構造物ーーそれこそが、観客の歓声を浴びている存在だった。
「あれがーーJSP-03なんだ……」
「そうだよ。巨大なメガフロートをいくつもつなぎ合わせて作った、超巨大人工島だにゃ。縦横それぞれ30キロだから、ジオフロントよりもずっと大きいんだよ。」
「へぇーー」
まるで巨大な絆創膏のようだ、シンジは何故だかそう思った。
羽田空港から直行便で5時間、二人はまもなく目的地のミクロネシア連邦チューク国際空港に到着しようとしている。
マリから転勤を告げられてからの三ヶ月は、嵐のようなものだった。
事前の予想と異なり、シンジの退社は滞りなく終わった。上司は一通り慰留したが、シンジが事情を話して拒絶の意思を示すとあっさりと引っ込めた。昔は女房が旦那の転勤についていったものだが時代が変わったのかねぇ、という感想とも嫌味とも取れぬ課長の一言が、唯一の抵抗と言えた。
シンジとしては、むしろ祝福とか羨望の感想が強いのに戸惑った。いろいろ聞いた話を取りまとめると、テレビドラマに良くあるような裕福な海外駐在員の姿をシンジに重ねているらしく、シンジとしてはそちらの方がありがた迷惑であった。
むしろ障害となったのは、海外転勤に伴う書類の準備とか引っ越しの準備だった。マリの仕事量が増えたため、それらの準備はほとんどシンジがやることになった。マリの代わりに、北崎の研究所に書類を取りに行った時、対応した社員から、ああーー貴方が碇さんのーーと訳知り顔で言われた時は、あいつ自分のことを何ていってるんだ、まさか他人にまでわんこ君呼ばわりしているんじゃあるまいな、と思ったものだった。
三ヶ月間を手続きと荷造りと付け焼き刃の英会話教育で過ごし、碇シンジはミクロネシア連邦チューク国際空港に降り立った。
「海って……青いんだね」
連絡船の中でシンジがつぶやいた。空港は、環礁の中にあるウェノ島という島にある。「巨大な絆創膏」JSP-03には連絡船を使って行かなければならない。直接行ければいいのにとシンジは思ったが、宇宙開発実験施設、JSP-03が機能を発揮するには、離れたところに航空路がなければいけない、ということらしかった。
それまでのシンジが知る海とは、赤くて塩辛いだけの存在だった。ネオンジェネシスのあの瞬間、青く、どこまでも広い空間が海なのだと、初めて知ったのだった。
セカンドインパクトによる海の浄化(by碇ゲンドウ)は、新しい世界では存在しなかった。セカンドインパクト自体はあったものの、それはアメリカ合衆国で発生した大規模テロに端を発する世界規模の核戦争、ということになっていた。
日本もその災禍を免れることはできなかった。核の炎で関東は吹き飛ばされ、首都機能は第二新東京市に移転、将来の遷都先として第三新東京市が建設されていた。但し、後者に使徒とどうこうするという機能はなく、純粋に「高度な防災・防衛機能を有する」だけの都市だった。エヴァも使徒もこの世界には存在しないのだった。シンジの知ってる第二、第三と比べて都市規模もずっと小さいらしい。
実際のーーそう言っていいならーーセカンドインパクトと比べれば随分とましじゃないか。シンジにはそう思えた。もちろん、それに賛同してくれる人はほとんどいないのだけど。
「そうだよ。知らなかった?」
いつの間にかシンジの横に居たマリにそう言われて、シンジはびくりとした。右手には紙パックのジュースを二つ持っている。
「マリさんそんなこと言うんだ。……そうか、マリさんは『赤くなる前』を知っているんだね」
「ーーーーそうーーだね。また青い海を見ることができたのは、君のおかげだよ。君はよくやったよ。ユイさんも。私にはとても叶わないなぁ」
シンジに一つジュースを渡すと、マリは連絡船のデッキですうっと息を吸い、目を閉じた。今まで起きたいろいろなことを思い出す。
ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスは、自分の人生を喜劇に例えたと言うが、最後には自分もそういう終わり方でありたいなぁ。
「昔のことを思い出してるの?」
「どして?」
「マリさん、涙流してるよ。」
「え、あ、ほんとだ!」
マリは慌てて目を拭った。柄にもない思い出などするものではない。第一、この世界では、そんな思い出を共有してくれる人は、ただ一つの例外を除いて存在しないのだ。
「思い出に浸るのもいいけど、しばらくは覚悟しておいてくださいよ。このスーツケースプラスアルファで一か月ぐらい過ごさなきゃいけないんだから」
「なーに。わんこ君が居れば心配なっしんぐさー。どんとこーいよ」
「まったく気楽なんだから……」
シンジは嘆息しつつ船の進行方向を眺めた。白亜の十字要塞ーーJSP-03の初期デザインが公開された時にマスコミがつけた綽名ーーの威容が迫ってくる。絆創膏の中央部分にあるビル群は、シンジの知る新第三東京市もかくやという規模である。
「うーん。なんもないねー」
マリが嬉しいような、困ったような声を出した。
JSP-03の新居に入ってからの荷ほどき作業は、ぴったり15分で終わった。北崎重工が用意した社宅は、どうということはないマンションの3LDKの1室だったが、二人が広げる荷物は持参したスーツケースと、段ボールが数個、それだけである。とりあえずの着るものと貴重品、マリ(とシンジ)の仕事道具、デジタルデバイスと医薬品と食料品、それしかない。荷物がそれだけなら、荷ほどきもその程度というものである。
どうしても、という荷物以外は船便にした結果がこれである。例えば、マリが一生懸命荷造りした大量の本は、今頃貨物船の中にあって太平洋のどこかに居るはずである。
もっとも、これは初めから想定されていたことである。航空便を使っていてはお金が嵩むばかりでどうしようもない。ならば、荷物は最小限に止めて、後は現地調達してしまおう、これが二人の下した判断だった。幸いなことに、家具類は最初から用意されている。それに不満がなければ、生活するのには困らなかった。質さえ文句を言わなければ、テーブルもソファーもテレビも寝具もある(ついでに言うと新品を用意してくれた!)。エヴァパイロットとしての生活に慣れすぎた二人としては文句のつけようがない。
シンジはテレビのリモコンを点けた。日本から遥か離れた場所に居るはずなのに、NHKのニュースをやっている(といっても、日本から電波が届くはずはないので、全チャネルケーブルテレビではある)。JSP-03の時差は日本標準時と比べて+1時間、ということはこちらの時間で午後八時の時に、NHKでは7時のニュースをやってることになる。
こうやってNHKのニュースを見ていると、自分が日本から遥か離れた場所に来ている実感が湧かなくなる。まるで沖縄のリゾートに旅行に来たような感じだ。シンジは沖縄に行ったことがないからそう感じただけだけど。
「ま、しょうがないか。そろそろご飯にしよ」
そう言ってマリはテーブルにあれこれ並べだした。といっても、オーブンレンジで温めたピザと付け合わせで買ってきたサラダとビール、そんなものぐらいである。設備さえ整っていればピザを焼くことなどわけもないシンジとしては、目の前の状況はある意味屈辱と言えるが、今日ばかりは仕方ない。妙にリゾート気分なのは、食卓のメニューがそうさせているのかもしれなかった。
「それでは、これからの新生活の成功を祈願しまして……」
マリの音頭に二人は一斉に缶のタブを引っ張った。
「乾杯!」
そして祝宴は夜通し続きーーとはならなかった。食事しつつ缶ビールを2缶空けたところでマリは轟沈してしまった。外から見る限り、常にパワフル全開燃料無尽蔵の彼女だったが、それでも燃料切れの瞬間というのは存在するらしかった。
そんなマリをソファに放置し、シンジはテレビを見ている。日本と変わらない、どうということのない番組だったが、何故だか親近感を感じるものがあった。これがホームシックというやつか。今日来たばかりなんだけど。
マリは相変わらず起きる気配を見せない。さすがに夜間に放置するのも問題だと思って、シンジはベッドから毛布を取ってきた。せめて眼鏡は取ってやらないと。
「シンジくぅーん……」
毛布をかけようとして突然名前を呼ばれたのでシンジはびくっとした。だが、特に何かを聞くでもなく、また寝息をたてはじめたので、シンジは安心した。
「……わたしのこと、愛してる?」
唐突に出てきた言葉ーー多分寝言だとは思うがーーにシンジは背筋を震わせた。マリはと言えば相変わらず寝息を立ててすうすう寝たままだ。
一体どんな夢を見ているのだろう。シンジは思った。そういえば、冗談でもマリからあんなことを聞かれたことはなかったな。ネオンジェネシスで新たな世に「転生」し、マリとの絆を疑ったことはなかった。あの浜辺で消えるはずだった自分に、新たな生を紡ぐべきだと道を示してくれた人、どんなことがあっても迎えに行く、という誓いを果たしてくれた人。そんな人の想いを裏切れるわけはないんだけどなぁ。よっぽど心配性なのか、それとも信頼性がないのか。どっちだろうね。
シンジはくすっと笑って、マリに毛布をかけた。
「もちろんだよ。マリ」
ネオンジェネシスで世界を書き換えた時、どこまで歴史を切り戻して書き換えるのか、なかなか議論が必要なところではありますね。