白鳥歌野は勇者ではない 作:新キャラふたりは「騙して悪いが」枠
これは実にどうでもいい話なのだが、歌野は満開という言葉よりも切り札という言葉が相応しい、と考えている。
この『相応しい』とはどういった考え方のもとにあるのかは正直なところ歌野自身、明確なものはない。
ただ答えられる範囲で答えるならば、その言葉の通り、切り札というのは奥の手を最もわかりやすく表現しているから……あるいはカッコいいからだと思っている。
ではなぜ歌野がここで初めから切り札を使うのか。
ふたつの意味がある。
ひとつは試験的なもの。棗や雪花と同じく、歌野の切り札、タケミナカタは異世界だったからこその特例。
それが現実世界でも行使できるのかという初回実験だ。これができるかできないかで今後の作戦に非常に大きく影響する。
そしてもうひとつは。
反撃の狼煙を、この諏訪に上げるためである。
◆
歌野の装束が変化する。
全身がエメラルドの光によって繭のように包まれたと思えば、極光が爆ぜる。
まず姿を見せたのは、ギラギラと鈍色の輝きを放つ掌サイズの刃。それらがいくつも束ねられ、それらは鞭のようにしなる。
是、蛇腹剣。
――シ。
と細く、そして白く鋭い音が、歌野を喰らおうと接近してきていた星屑の一体を刹那の間に細切れにした。
ぼとぼと、と切り崩された死体が地面に落ちる。きれいに舗装された斎庭が白に染まる。
次いで極光の中から現れたのは、一対の翼。
深い緑色で、禍々しさを放ちながら大きく広げられる。
極光が失せた頃には、星屑たちは一体としてその場にいなかった。
すでにただの肉塊となり、その生誕を見届ける生命はいない。
角を生やし、四足獣に似た荒々しい脚。
最も的確に歌野の外見を評するならば――。
竜人。
歌野は大きく翼を羽ばたかせ、ゆっくりと地面に着地した。
「とりあえず、切り札の行使はオーケーね」
腕や脚を動かして違和感がないことを確認した歌野は、ひとつ大きく頷いた。
諏訪の最期は、星屑の猛攻に耐えきれず、歌野と水都を含めて人々が全員食い殺される。
約束の日まではそう遠くない。
計画を実行するには、タケミナカタの力は必須と言える。これがあるのとないのとでは成功率は大きく変わる。
星屑の遺骸が塵となって四散するのを見届けた歌野は、来たる第二陣に備えて身を引き締めた。
建物を盛大に破壊しながら襲来してきた星屑たちの数は十六。一点集中ではなく、数の優勢を武器にして四方から押し寄せてくる。
一人だと最も対応が難しくなるフォーメーションだ。
水都による情報によれば、これで全てとみていいだろう。だがそれでも油断だけはしないように。
「デストロイよ!」
ばさり! と翼を力強く羽ばたかせると、それによって生じた暴風が数体の星屑の動きを止める。
即座に身を翻し、歌野は反対側から迫る星屑たちへと飛翔し、蛇腹剣を振るう。
剣は意志を持ったかのように伸び、咄嗟に射程から逃れようと身を捩らせた星屑をも、伸びた射程の内に捉える。
斬、と砂利の激しく擦れる音が続けざまに響き、その身をきれいな断面を残して切断。
……遅い。
そう歌野は察した。
敵の動きがではない。歌野自身の動きが遅いのだ。
異世界で切り札を降ろした時とは反応速度がまるで違う。
古い勇者システムであるせいか、上手く対応できていないようだ。そのせいで一秒ほどのタイムラグが常に生じている。
「せいっ!」
大きく両の裾を靡かせ、全身を使って剣を振りかぶる。
星屑――バーテックスには人間ほどではないが、戦略的に攻撃することのできる知性がある。
星屑たちの最優先目標は、歌野を殺すことではない。諏訪大社にそそり立つ御柱を破壊することにある。
だから、今歌野が穿ったのは、ただの囮。
本命はすでに御柱までほんの数メートルの距離まで詰め、噛み砕かんと凶悪な大口を開けて迫る。
両脚に力を込める。
瞬間、石畳が歌野を中心として蜘蛛の巣状に割れ、爆発めいた初速度で弾丸よりも速く、脚力のみで飛ぶ。
ニ、三回転しながら本命の真上に肉迫した歌野は短い雄叫びを上げ、右足を蹴り下ろした。
生々しい炸裂音が響き、星屑の身体が地面に深く沈む。
「その程度で私を騙せないわよ!」
バーテックスの習性、知力。
そこから編み出される拙い戦略など歌野には微塵も通じない。
意識をさらに加速させ、燃えるように熱い身体にさらに燃料をぶち込む。
歌野が戦うのは、諏訪の中で現在残っているこの本宮と前宮でのみだ。
すでに神を祀るための神聖な領域はほとんど機能しておらず、長年続いた戦闘によってほぼ破壊しつくされている。
とても修繕なんて、する余裕も資材も技術もない。
足元に転がっていた瓦礫の山を蹴り飛ばす。
柱や瓦やらが激しく飛び散り、残り二体となった星屑の身体に礫となって命中する。
別にこれで目潰しができるとは思っていない。
……星屑には果たして、視覚というものが存在するのかどうかという議論が持ち上がったことがあった。
目という器官がなく、また耳もないため、おそらくサーモグラフィーのように温度を感じ取っているのではと専門知識のない歌野たちはそれっぽい予測を立てて終わったと記憶している。
礫を一身に受けて一瞬だけ怯みはしたものの、しっかり歌野を狙って突撃してくる。
歪曲した蛇腹剣の切っ先を地面に擦らせながらゆったりとした歩きで敵を迎え撃つ。
まず、翼を折り畳んで被弾面積を最小に減らす。
その次に二体の星屑の軌道を予測して、両者の間、まさに華奢な人間一人分の隙間に身を投げ出す。
「ス――――」
と、静かな吐息をガチりと上下で噛み合せた前歯の隙間から漏らし、極限まで目を見開く。
鋭く尖った歯が、歌野の腹部と背中にギリギリ触れない程度にまで急接近する。
星屑は歌野の超反応についていけず、そのまま通り過ぎてしまう。
「――チェックメイト」
臀を晒した星屑たちに、歌野は勝利を伝えた。
瞬間、蛇腹剣が唸り、地面に対して水平に白い軌跡が走った。
完全に反応の遅れた二体は剣の餌食となり、こちらを振り向く猶予を与えることなくその身を文字通り真っ二つにされた。
胸に溜まった緊張を吐き出した歌野は、増援の気配がないことを確認してからタケミナカタの憑依を解く。
すると同時に、ずっと物陰に隠れていたらしい水都が飛び出してきた。
「うたのーん!」
と叫びながら駆け寄ってきている。
歌野は柔和な笑みを浮かべて、
「ヴィクトリー!」
とピースサインを向けたのだった。
◆
警戒態勢の解除された諏訪は日常へと戻っていく。もう数年にも渡って繰り返し続けたこれに、人々も良い意味で慣れている。
比較的パニックを起こすことなく、迅速に避難することができるようになったのがなによりも大きい。
神楽殿にひとり佇む歌野は、装備のメンテナンスを行う。
赤い光の差し込む夕暮れ。
歌野は丁寧についさっきまで着ていた装束を広げ、傷がないかを念入りに確かめる。
この装束には土地神の加護を宿しているとはいえ、あらゆる攻撃に対して無敵というわけではない。
攻撃を受け続ければいずれは破損するし、そうすれば生身の肉体も無事では済まなくなる。
とはいえ今回は無傷で勝利を収めることができた。
「大丈夫ね」
大きく頷いた歌野は、すでに洗濯された装束をハンガーにかけて干す。
さすがに洗濯をしないまま次も使うのは汚い。
鞭は敵に打ち付けたりしていたため、少しだけ表面に傷が走っている。
備品整理棚からメンテナンス用のクリーム容器を手により、円形の薄っぺらい蓋を開けて人指し指でクリームをすくい取り、傷のある部分へとなぞるように塗りこむ。
そしてフックを使い、鞭が真っすぐになるよう気をつけながら保管する。
異世界ではスマホの画面をタップすれば装備一式のオンオフができたし、それをするごとにきちんとメンテナンスされた、綺麗なものになっていた。
あれはきっと、未来の技術なのだろう。
あの頃は本当に便利だったわね、などと考えながら歌野は神楽殿を後にした。
農作業を途中で抜け出してしまったことに少しばかり罪悪感を覚えつつ、小走りで畑に向かう。
ほんの数分で到着した歌野を暖かく出迎えたのは、警報が解除されたことで農作業が再開され、すでにそれを終えた大人たちだった。
清々しい汗を流しながら、一同は歌野に視線を集めた。
「お疲れ様です、皆さん!」
と元気よく言った歌野の前に天霧が立つ。
薄いシャツが汗で張り付いているせいで、中年ながらも鍛えられた筋肉質な身体が少しばかり透けて見える。
「そっちこそお疲れ様、歌野ちゃん。こうして農作業ができているのは、君が諏訪を守ってくれているおかげだよ」
「いえいえ、そんなの当然ですよ! 勇者ですので!」
「そうだね。君は皆の勇者だよ」
背中がむず痒くなる。
うなじにかけて駆け上がってきたこれに、歌野はぶるりと身体を小さく震わせたあと、大きく頷いた。
「ええ……本当に、はい。そうですね」
「今日の作業は終わってるから、もう帰っても大丈夫だよ。明日からまた頼むよ」
「そうですか。なら今日は失礼します!」
また明日! と陽気に手を振った歌野は颯爽とその場から去った。
召喚前ならこのままの足で実家に帰るところだが、そういうわけにはいかない。
諏訪滅亡はそう遠くない。それまでに打てる手がどれだけあるかを探らなければならないのだ。
とはいえ諏訪は比較的田舎で、外界とは隔絶された地域である。資源は当然限られており、打てる手は多いとは言えないだろう。
だから――。
「頑張らないと」
少し疲労の溜まった身体に檄を飛ばし、地面を蹴り上げる。
水都も複数ある作戦のうち、どれが可能でどれが不可能なのかを見極めるために諏訪を奔走している。
四国組が現時点で記憶を継続していないと判明した今、四国からの直接的な支援は望めない。
言わば諏訪は四国防衛の地盤を築くための布石……生贄だ。
そもそも四国以外を見捨てるつもりでいるから、大社は決して若葉たちを派遣しようとしないはず。
もし派遣するとしても、まだ勇者として実戦経験がゼロであるため、非常にリスキー。
この時点で歌野たちが自力で危機に立ち向かわなくてはならなくなる。
これだけでも大きすぎるハンデだ。
ベストで理想的な作戦は、歌野と雪花を担当する高嶋と千景には重労働になるものの、四国と諏訪、北海道を何度も往復して支援物資を届けてもらう。
その後、高嶋が北海道組を護衛しながら諏訪まで南下して合流。歌野と千景が加わり、計四人の勇者の護衛で四国に向かう、というものだ。
だがこれは不可能と断じて良い。
そして一番の問題は、移動手段である。
現在、諏訪に生き残っている人は約二百前半。これだけの人数を、バーテックスのいる外界に徒歩で連れ出すなんてとても不可能だ。
無茶を承知で敢行することは一応可能ではあるが、決して賢い判断とは言えない。
そうなれば車両が必須となってくる。
諏訪中を走り回りながら調査をしているうちに、すでに時は夕暮れ後半にさしかかっていた。
さすがにこれ以上調べまわるのは良くない。明日に響くし、それに水都と合流して情報交換をしなければならない。
手を腰に当て、ふうとため息を吐いた歌野の背後からブロロロ、と低い唸り音が道の方から聞こえてきた。
「おぉーい! 歌野ちゃーん!」
軽トラに乗った五十鈴だ。
のろのろと走り、歌野の隣で軽トラを停止させた五十鈴は爽やかに微笑み、下げたガラス窓に腕を乗せて言った。
「五十鈴さん!」
「うむうむ。バーテックスの迎撃お疲れ様。今から私と初は帰るんだけど、後ろに乗ってく?」
くいっ、と顎で後ろを指した五十鈴につられて荷台に視線をやった歌野の目に映ったのは、疲労のせいか揺れたせいかわからない、やや力の抜けた目をして呆然と体育座りをしている水都だった。
「みーちゃん⁉」
歌野の声に反応した水都は重たげに顔を上げた。
「あ、うたのん……」
「どうしたのみーちゃん! 大丈夫?」
「少しだけ、酔っちゃった」
今更ながら酔ってしまったことに、五十鈴はバツの悪そうな顔をした。
「ああ、マジか。ごめんね水都ちゃん。車酔いとかする派だとは知らなかったよ。こら初! なんで代わってあげなかったの⁉」
「はあ⁉ なんで俺が怒られるんだよ⁉」
まさか自分に水が向けられるとは思わなかったのだろう、助手席で大きなあくびをしていた初月がびくりと身体を跳ね上げらせて抗議した。
「藤森を荷台に乗るように言ったのは姉ちゃんだろ!」
「その時に『荷台だと座りにくいだろ。俺と代われよ』くらい頼りになること言いなさいよ」
「今更とってつけたような聞き苦しいこと言い出すなよ⁉」
「はーこれだから思春期のオトコノコは」
「はーこれだからがさつな運転しかできない奴は」
「あ?」
「あ?」
きゃーきゃー言い合う仲がいいのか悪いのかわからない姉弟を尻目に、歌野は軽々と荷台に乗り込んだ。
そして完全に黙りこくった水都に寄り添い、そっと問いかける。
「大丈夫? 本当にだめなら私がおんぶしてあげるけど」
すると水都は薄っすらと顔を赤らめながら歌野に身体を預けた。
「……お願い」
「みーちゃんのためなら喜んで」
できるだけ負担にならないように細心の注意を払いながら水都を荷台から下ろし、歌野は低く腰を落とした。
「いいよ」
「うん」
ぽす、と水都の身体を背中で受け止める。
両腕を後ろに回して膝の裏を抱え、前のめりになりながら立ち上がった。
重さは歩行するのに問題ないほどで、気になると言えば、耳元でする水都の断続的な熱い息遣いだ。
とはいえこれが原因で緊張したりなんてしない。いつものテンションを保ったまま、歌野は数歩だけ進んだ。
「すみません五十鈴さん。私たち、歩いて帰りますね」
突然かけられた声によって、言い合いを一時中断、あるいは休戦したふたりはこちらを見た。
「あらそうなの。ごめんね、力になれなくて」
「いえいえ、こちらこそみーちゃんを送っていただいてありがとうございます」
そして奥を覗き込み、五十鈴の隣の初月にも声をかける。
「初くんも、避難の時は協力してくれてありがとうね」
「あれは当たり前のことをしただけだから」
少しの罪悪感はあった。指示とはいえ車から下ろし、いるかすらわからない逃げ遅れた避難者を探させるのは。
だからこそ、素直に感謝を口にした。
「それでも、ありがとう」
「ん」
短く首肯した初月は僅かに身じろぎをしたあと、五十鈴の脇を小突いた。
「ほら、帰ろう姉ちゃん」
「りょーかい」
荷台から水都がいなくなったから遠慮は無用とばかりにアクセルを深く踏み込み、さっきの倍以上の速度であっという間に走り去っていった。
初月の心配は決して杞憂ではなさそうだ。
誰ひとりいなくなった道を、歌野は静かに歩き始める。
「うたのん」
不意に、首に回された腕に力が入るのを感じた。
「んー?」
「すごく久しぶりだね……ここ」
そう、水都が優しげに囁いた。
「……そうね」
何年も異世界で暮らしていたが、一日たりとも諏訪のことを考えない日はなかった。
土の匂い。
瑞々しい野菜。
生きる人々。
そしてそこに生きる歌野と水都。
「今頃、古波蔵さんや秋原さんも同じことを思ってるのかな?」
「もちろん。こうして私たちも懐かしんでいるのだから。それと同時に、皆を救いたいとも思っているはずよ」
沖縄と北海道がどういう状況だったのかはふたりから詳しく聞いている。
棗の方はバーテックスの襲来を除くと比較的平和に過ごせているそうだが、雪花の方は、水面下で雪花の力を独占しようと動いている人々がいるらしい。
余裕のなくなった人間は、己のためにのみ動くという醜い生態を孕んでいる。
歌野が力を貸すことはできない。雪花ひとりの力でなんとかしてもらわなければならないのだ。
どう解決し、人々を北海道から連れ出すかは何パターンかすでに提案していたが、どれも厳しいと言わざるを得ない。
合流予定地点で無事に顔を合わせられることを切に願うばかりである。
「うたのん」
「んー?」
「……本当はわかってるでしょ? ここにいる人たち全員を救えないこと」
唐突に告げられた残酷な現実に、歌野の足は止まり、小さく息を呑んだ。
「いっぱい走り回ったけど、やっぱり絶対的に数が足りなかった」
「…………」
「もちろん私だってできることなら全員救いたいよ。でも、いつまでも希望的観測を元に無駄な時間を割くべきじゃないと思う。限られた物、時間で最大のパフォーマンスを生むのが今の私たちが最優先ですること。そうでしょ?」
反論しようのない、極めて正しくて現実的な指摘。
もう水都も大人だ。ずっと夢物語を見続けられる年ではない。それは歌野も同じ。
もし歌野が子供のままだったら、「必ず全員を救う」と口走ってギリギリのギリギリまで足掻いていただろう。
だがもう違うのだ。
世界は都合のいいように回らない。
大戦では若葉以外の勇者は全員死ぬし、その後ひなたが大赦のトップに君臨し、手を汚してもいる。
さらにその後、大赦の暗部である鏑矢まで編成されることになる。
綺麗事だけでは生きていけないのだ。
それを、散々異世界で西暦組で話し合った。そして覚悟を固めた。
なのに。
どう頑張っても全員を救えないのは歌野自身も薄々気づいている。
でも気づかないふりをして、子供っぽい意地を張って、嫌なことから目を逸らそうとしていた。希望しか見ないようにしている。
水都はそんな歌野を少し言葉を交わすだけで見抜いたのだ。
だから、そんな甘い幻想を還付なきまでに叩き潰した。
歌野は乾いた笑いを漏らした。
「……厳しくなったわね、みーちゃん」
「怒ってもいいんだよ? それほどのことを言ってる自覚はあるから」
歌野は頭を振った。
「怒らないわよ。むしろありがとう。目が覚めたわ」
顔を引き締めた歌野は再び歩を進める。
「……いつ公表するの?」
「明日、念の為もう一度確認して、明後日にでも」
なるべくはやく伝えるほうが良い。
遅ければ遅いほど万全な用意から遠ざかる。
沈みかけていた太陽の放つ赤い陽光は存外に眩しかった。
果たしてこれがふたりに題する祝福なのか、拒絶なのか。あるいは本当にただの自然現象なのか。
もし人間がバーテックスによって滅ぼされたとしても、地球に朝は訪れ、太陽は地表を照らすだろう。
人間の絶滅は、地球からすればちょっとしたイベントに過ぎない。
だが。
まだ滅びてやらない。
絶対に生き抜く。皆で交わした約束。
歴史を変える権利。
異世界で人の可能性を神樹に見せつけたことによって得られた、これ以上ないチャンス。
絶対に無駄にしてはならない。
たとえ、綺麗事を捨ててでも。
「私に付き合ってくれる?」
歌野は歩きながら真剣に、静かに問うた。
ほんの一言で完結する質問に、簡単に言葉では言い尽くせない重みがのしかかっているのを水都は感じた。
同時に、歌野が不安に押し潰されそうでいることも。
なぜなら、これからしようとしているのは、勇者として決してしてはならないことだから。
これまでの歌野の勇者としての信条を真っ向から否定するもの。
子供という殻を破り、現実という非情さを身に纏うもの。
水都は震える歌野の背中を優しく、強く抱き締めた。
「もちろんだよ。うたのんと一緒なら、地獄の底へでも」
「……ありがとう」
歌野は安堵の息を吐いた。
震えはもう、止まっていた。
◆
西暦二〇一八年九月三日。
諏訪の夜は静まり返り、まだ夏の風情を感じさせる夏虫の鳴き声がしっかりと耳に届く。
暑さのピークである八月が過ぎたものの、まだ蒸し暑さは色濃く残っている。あと数週間もすれば、諏訪は完全に秋を迎えるだろう。
大自然に囲まれた諏訪盆地には、諏訪湖へ向かう幾本かの河川の付近や、山地のふもとのいくつか形成された扇状地に田畑や住宅地が広がっている。
諏訪をバーテックスから守護する結界は縮小され、今や諏訪湖南東一帯しか結界が存在しない。
苦しいことに、諏訪湖は結界に僅かしか含まれない。船を出して漁業に向かうことはできるが、収穫はあまり期待できない。
水は諏訪湖や河川から引いた水路があるから潤沢だが、問題は食料だ。
度重なる結界の縮小によって、人々の生活範囲は狭まり、資源も当然の如く制限される。田畑はあるものの、生存している数百人の腹を毎日満たしてやれるかと聞かれると、残念ながら首を縦には振れない。
希望はある。
四国では神樹という土地神の集合体が強固な結界を築いているらしい。さらにその中には勇者が五人もいる。
諏訪より圧倒的に整った戦力で、いつかは救助に来てくれる。そう信じて人々は毎日を懸命に生きている。
諏訪に君臨するただひとりの勇者、白鳥歌野は諏訪大社上社本宮、その拝殿に巫女である藤森水都と静かに佇んでいる。
ふたりの眼前には、諏訪に生存している人間が老若男女の全員集められている。
明かりの代わりに数か所に設置された篝火台。パチパチと爆ぜて空に舞い上がる火の粉が、歌野の整った顔立ちをくっきりと照らす。
ふたりはそれぞれの正装を身に纏っている。
全員がずっと前から揃っているのに、先程からふたりはなぜか一言も言葉を発しない。どことなく神妙な雰囲気に、集められた人々は何事かと密かにざわつき始める。
歌野の指示によってここに来ただけで、それ以上のことは何も知らない。
歌野の人々からの信頼は厚い。なにせたったひとりでバーテックスの進撃を何度も食い止め、三年もこれを続けているのだ。
もはや歌野は生き残った人々にとって、戦神。
突如発せられた歌野の透き通った声に、一瞬にしてざわめきは止まった。
「皆さん、夜遅くにご足労頂きありがとうございます」
水を打ったように再び静寂が戻る。
夏虫の囀りがやけに大きく聞こえる。
歌野はたっぷり空気を吸い込んでから言葉を続けた。
「ここに来ていただいたのは他でもありません。私たちからとても大切な話があるので呼ばせていただきました」
大切な話、という言葉は人々には途方もないも重みのある響きだ。歌野は普段、畑仕事に従事し、明るい笑顔を振りまいている。
積極的に桑を振るう姿は人々に勇気を与えてくれた。
だからきっと、明るい話だろうと信じきっていた。四国から支援がやってくるとかそんな感じの『救い』を信じた。
だが歌野はそれを言うような朗らかな表情ではなく、真剣さの滲み出る、改まった顔で続けた。
「……まず、事実を述べます」
歌野は隣の水都と顔を合わせて神妙な顔で頷きあったあと、衝撃的な言葉を発した。
「――六日後の九月九日、諏訪は滅びます」
「「!!」」
鋭い戦慄が走る。
それは当然のもので、まさか歌野の口からそんな言葉が出るとは夢にも思わなかっただろう。
なぜなら歌野は絶対に屈しない勇者だからだ。これまで何度も底なしの精神力で諏訪の土地を何年も守り抜いた、勇者だからだ。
それなのに、こうもあっさりと滅亡を受け入れた……?
人々の動揺は広がるばかりである。
「これは確定です。もし私がその日の戦いに臨んでも、間違いなく死にます。これまでにない圧倒的な物量で、私は喰い殺されます」
およそ女子中学生とは思えない、淡々としながらも凛とした声色は、いっそう悲壮さを引き立てた。
「あまりに唐突で受け入れ難いかもしれませんが、これは嘘でもなんでもなく、事実です。私達の滅びは避けられません」
ここでとうとう、最前列にいた聴衆の一人が語気を荒げて講義した。
薄着の土に汚れたシャツをだらしなく着る中年の男性。横に大きい顔をふるふると震わせながら言った。
「じゃあ……じゃあ、俺たちのこれまでの努力は無駄だったってことか⁉ 四国からの支援はなく、この閉じた土地で惨めに死ねってか⁉」
「…………」
「歌野ちゃんに励まされて、俺達は頑張ろうって思ったんだ! それなのに、歌野ちゃんが……勇者が諦めてしまったら……どうすりゃいいんだよ⁉」
男性の訴えに、そうだそうだと野次を巻く仕上げる人がちらほら見える。
そう。今の歌野の発言は、言い逃れのできない裏切りと受け取られても仕方のないものである。誰よりも前を向いて明日を生きようと必死に人々に語りかけ、自ら桑を振るっていたのに、この掌返しだ。
怒りは最もだ。
それは歌野は重々理解している。
だからこそ、次々に浴びせられる野次を歌野は一切の言い訳もせず、すべてを受け入れた。
「水都ちゃんは何も思わないのか⁉」
男性の追求に、水都は薄っすらと目を細めた。
ただそれだけで、言葉にはできない畏怖のようなものを感じ取り、背筋をビシッ! と鞭で打たれた錯覚さえした。
決して咎めるなどといった目ではない。寧ろ慈愛や悲哀、憐憫といった雰囲気を醸し出していた。
男性の……いや、諏訪に住むすべての人間の水都の評価は『引っ込み思案で消極的、歌野に張り付く小者』だ。
なのに、今はそんな面影はまるで感じられなかった。別人だと言われてもすんなり納得できそうなほどだった。
子供のするような顔ではない。それこそ、覚悟を決めた大人に似た、厳格な面持ち。
男性は両の拳を血が滲むほど強く握り締め、奥歯を噛み締めた。
「うたのんの言っていることは事実です。六日後、これまでにない圧倒的な数のバーテックスがここに押し寄せると信託が下りました。うたのんひとりでは、迎撃は不可能です」
巫女のお墨付き。
野次を飛ばしていた数人も改めて滅亡――死を目前に突き付けられ、ついに押し黙る。
ひゅうう、と虚しげに吹いた風が、絶望という空気を本宮に満たす。
希望はバーテックスにではなく、勇者によって粉々に砕かれた。
ここで、死ぬしかない。
無惨に喰い殺される。
自然淘汰だ。
弱い者は強い者によって一方的に蹂躙される。
それを、人間は真に理解できていなかった。なぜなら、人間こそが
常に、蹂躙する側だった。
バーテックスは、その在り方を壊した。
今もなお、結界の外では無尽蔵のバーテックスが中に引きこもる餌を貪りたいと、不気味な口を開閉させて牙を覗かせていると思うと、まるで生きた心地がしない。
「――だからこそ、私は皆さんにある提案をします」
静まり返った本宮に、歌野の声が響き渡る。
その言葉には、煌々と燃えるマグマのような苛烈さを孕んでいた。
「――五日後の九月八日、諏訪を脱し、四国へ向かいます」
それは、あまりに唐突な提案だった。
言葉の意味を咀嚼するのに幾ばくかの時間を要した。
すると今度は畑仕事の帰りだったのだろう、きゅうりを握り締めた初老の女性が微かに声を震わせながら歌野に尋ねた。
「ここから出るって……それは、あのバケモノたちがたくさんいる外へですか?」
「そうです」
「そんなことしたら、歌野ちゃんは無事かもしれませんが、私達は……」
「わかっています」
「歌野ちゃん……?」
「すべて、承知の上です」
「――――」
残酷に残酷を重ね、容赦なく突きつける。
歌野は表情筋が死んでいるのかというほど無表情のまま提案を続ける。
「移動手段は車です。農耕機などを含め、ここ数年なるべく節約していたため四国までのガソリンが十分あることは私とみーちゃんで把握済みです。食糧は、今備蓄しているものを保存の効く食品へと加工して持っていけば、少なくとも一週間は持つでしょう」
淡々と告げる諏訪脱出への計画。
付け焼き刃の適当なものではなく、その口ぶりから本当に以前から思案していたのだとよくわかる。
しかしこの計画には致命的な欠陥がある。
それは――。
「ま、待て! 待ってください!
聴衆に紛れて顔がよく見えない。まだ少し張りのある若々しい男性の声が飛んできた。
「ええ。わかっています。二十三台です」
諏訪は田舎だ。
車と言っても農作業において、荷物などが運びやすい軽トラがすべてだ。運転手に、その隣の助手席。これは少々危険だが、さらに荷台に四人は乗り込めるだろう。これで車一台につき、六人は運べるということだ。
しかし。
「そんなの、
諏訪の人口は二百人前半ほど。
単純計算で百三十八人を車に乗せられるが残りはキャパシティーオーバー。
乗せられない。
それは即ち見捨てることを意味し、見殺しにするのと同義だ。
「私は元より、
それは冷たく、ぴしゃりと拒絶するような白い声だった。
「――――」
声はより一層怒気を強めた。そして、勢いのままに、侮辱ともとれ言葉を言い放った。
「――あなたは、それでも勇者様ですか!」
「…………」
場の空気が凍りつく。
言った本人も直後になって自身の失言に気づいたのだろう、鋭く息を呑む音がはっきりと歌野の耳に届いた。
パチッ! とひとつの篝火台の炎が激しく爆ぜ、火の粉が天空へゆらりと吸い込まれる。
歌野は、絶望のそのさらにまた絶望に叩き落された聴衆を見下ろす。初めからそうであったように、すべて……すべてに耳を傾け、真摯に受け止める姿勢で、堂々と佇んでいる。
年上の大人たちにこれでもかと責められても、ここに立ち続ける。
歌野が水都に目配せをすると、水都は小さく頷く。近寄ってきて、歌野の隣に立つ。
「……以前のうたのんと私なら、きっと諏訪の滅びを受け入れていました。だって、本当ならすぐに蹂躙されてなくなっていたはずの空疎な土地が、こんなに長く持ったのですから。宣告されていた余命を先延ばしにできた感覚でしょうか。それで満足していたことでしょう。でも、今の私たちは違います」
普段とはまるで違う落ち着きで話す水都は歌野を見やると、僅かに頬を緩めた。
「――生きたい。誰かに未来を託すのではなく、自身の手で未来を耕し、手にしたい。そのために私たちは
ふたりは前を……ずっと前を……それこそ、未来を見据えている。
宝石のように曇りのない真っ直ぐな輝きを宿す茶色の瞳は、どこか静謐さも孕んでいる。
「想定応募人数は、百四十人。少しばかり前後するでしょうが、それ以上は……見捨てます。また、年の若い人を優先します」
「四国への脱出に参加する方々は、私がなるべく護衛することを約束します」
命の選択を迫る。
これまで万人を平等に守ってくれていた勇者と巫女が、もうそんなことはしないと宣言する。
命の選択。
……命の、選択。
「そんなこと、許していいはずねぇだろうがッ!!」
当然の反応が、ふたりに投げかけられた。
それに続いた人々のどよめきは止まらず、膨らむばかりだ。
もはや収集がつかないほどにまでなり、幾人かは今にもふたりに詰め寄りそうだ。
「あんたは……あんたはっ! 命に順位をつけるのか⁉ 命は平等だ! たとえ勇者、巫女であろうと、その倫理を壊すことは、絶対に許されない!!」
「「…………」」
「俺たちを守るという御役目を頂戴しているのなら、最後までそれを全うするべきじゃないのか⁉」
「私には!!」
「…………!」
突然発せられた歌野の声は雷鳴のように轟き、ビリビリと空気が震えた。
それだけで、篝火がふっ、とふたつ消えた。
喧騒は一瞬にして止み、最初と同じ、静かな夏虫の鳴く声が本宮にじんわりと染み渡る。
力強く、気高く。
歌野は魂の雄叫びを上げた。
「私には、欲しいものがあります! この諏訪の大地よりも! あなたたちの笑顔よりも! 野菜よりも! 農業王の称号よりも! 勇者なんてくだらない名誉よりも、欲しいものがあります!!」
そう言うと、歌野は左手を伸ばして水都の細い腰をギュッと掴み、ぐっと自分の身体に密着させる。
そして高らかに吼えた。
「私は、みーちゃんが欲しい!!」
それは、愛の告白だった。
揺るぎない想いを極限まで凝縮した、最も端的な告白だった。
水都も、私も同じと言わんばかりに両腕を歌野の身体に伸ばし、激しく抱擁した。
「そのために、生きる!! たとえあなたたちに一生恨まれても! 一生後ろ指をさされても! 白鳥歌野は勇者ではないと揶揄されても!! 私は、みーちゃんを手に入れるため、泥水を啜ってでも生き抜く! そう、誓った!!」
あらゆる犠牲、怨念、憎悪。
そのすべてを受け入れ、背負い、生きてゆく。
それが、帰ってきた歌野と水都の決断だ。
とうに中学生という精神年齢は過ぎている。身体は不変だが、心は、確かな成長を遂げていた。
だからこそ、正史によって定められた揺るがない死を回避し、生きる。
右腕を高く掲げ、拳を握りしめる。
空には満天の星空。そのひとつひとつの光が歌野の目にはあまりに美しく映った。しかし、そんなものよりも遥かに美しく、儚く、愛おしい光は、我が腕の中に。
「私も、うたのんが欲しい。だから、生きる。うたのんと一緒に罪を背負いながら、生きる」
公然で愛の告白をし合うふたりに、これ以上とやかく言うことは……少し憚られる。
それに、どれだけの覚悟で今の提案をしたことか、心臓がきつく締め上げられるほどよく理解してしまった。
この平穏な毎日はすべて、すべて勇者と巫女のおかげだ。
勇者がいなければバーテックスを追い払えないし、巫女がいなければ攻撃場所が把握できず、その間に御柱を破壊されて結界は消滅。
どれだけ貢献できていたのか言葉にする執拗すらないのだ。
人々はただその恩恵を受け止め、のうのうと日々を過ごしていた。
歌野が声を上げ、失意の底にいた人々を活気づけた。それがなければとうに生きる気力は尽き、生きる意志すら失っていた。
勇者ほどではないが、巫女もそうだ。積極的なことはあまりしなかったが、細かい気配りにはとても助けられた。それに、勇者のケアだって、巫女が行っていた。
対して、こちらからふたりに何かしてやれただろうか……?
何も、していない。
ただ守られるだけの小人でしかなかった。
初めて見せた、ふたりの人間臭い我儘。
本来なら、到底受け入れられるはずがない。
ここは、バカにするな、ふざけるのも大概にしろと一蹴するべき場面だ。
だが、これほど熱烈に語られて、そんな否定の言葉を脊髄反射で発することなんてとてもできるはずがなかった。
――この場にいる、約半分の命は見捨てる。
およそ人間の考えることではない。
鬼の所業だ。
しかしふたりは元々はこの滅びを受け入れるつもりだったと言っていた。
……変わろうとしているのだ。
ここ数日の言動はただの女子中学生のものとは思えない。雰囲気も随分と落ち着き、成人を迎えたと言われてもあっさり納得してしまいそうなほどだ。
静まった本宮に、そっとのせるような優しい口調で水都が口を開いた。
「生きたいという強い意志のある方は、私達とともに四国へ行きましょう。……明日の晩、もう一度ここで改めて答えを伺います。あらゆる罵倒を私とうたのんは受け入れます。ですが、決断は決して変えません」
ごくり、と誰かが生唾を飲んだ音が聞こえる。
歌野が水都を放し、ふたりは横に並ぶ。
そして。
「「どうか、命の選択をお願いします」」
そう言って、深々と頭を下げ、残酷なお願いを口にした。
地面に水平になったふたりの顔は、苦痛に歪んでいる。しかしそれは、薄暗いせいもあって、誰にも見えない。
篝火の放つ燐光が、諏訪に生き残った人々の姿を照らすだけでなく、凍えきった心にも仄かに熱を灯す。
これは、西暦二〇一八年九月三日、諏訪の夜の出来事。
諏訪から遥か南西、約六〇〇キロ離れた四国へと、二筋の煌めく決意の光が、真っ直ぐに向けられていた。
夜空は瞬き、死を告げる
勇者であることを捨ててでも、必ず生き抜いてみせる
それではまた次回!