ウマ娘恋愛短編集   作:あーふぁ

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1.サイレンススズカ『サイレンススズカ:私の走る理由』

 春は遠く、まだ冬の寒さがある2月1日。

 今日はウマ娘、サイレンススズカのデビュー戦の日だ。

 俺は初めてレース場にまで来てはレースを見ていた。

 今までウマ娘のレースには興味がなく、ここに来ることなんて思いもしなかった。

 でも来ることになった理由は、デビュー前から仲の良い友達として付き合ってきたサイレンススズカを見るためだ。

 普段会っている彼女はミステリアスでどこか影のある雰囲気を持ち、ちょっとずれた常識を持つ子だった。

 だからか、レースでは上手に走れるか心配していた。

 

 けれど、いい意味で大きく予想を裏切ってくれた。

 半袖短パンの体操服を着て1番のゼッケンをつけたスズカが、ゲートから出た瞬間に内側から先頭に立つ。あとはそのままマイペースといった感じで前を走り続け、ゴールするときには他を大きく離していた。

 その姿を見て、俺は最初から最後までスズカの走る姿から目が離せず、惚れたと言ってもいい。

 力強さを感じる走り。風になびく髪。揺れる尻尾。

 走る前まで、俺がスズカに持っていた寂しげなイメージはレースが終わる頃にはもうなかった。

 寂しげな子。

 そんなイメージを持った、初めて会った頃とは違っていた。

 あの時の出会いは雨が降っていた日だ。1人公園の中で、雨に打たれながら寂しげにベンチに座っていたスズカと出会ったのは。

 

 ◇

 

 季節は9月も後半になった夏の終わり。

 息苦しいほどの暑さはずいぶんと前に感じ、今日は雨がザーザーと強めな勢いで降る肌寒い日だ。

 高校が午後3時頃に終わり、部活に所属していない俺は寄り道もせずに、ひとりで家へと帰っている。

 遊び盛りな男子高校生としては帰りに寄り道をするものだが、俺は家に帰って家事と勉強をしなければいけない。

 別に誰かに怒られるというわけでもないが、俺にはやる必要があった。

 仕事で長く家にいない親同士が浮気の疑いとか愛がないとか言って離婚し、家とお金を与えられてアパートでの1人暮らし。

 尊敬もできない親を見て育った過程で学んだことは、人は1人で生きていかないといけない、ということだ。そのためにも良い大学に行き、収入がそこそこ良くて優良な会社に行く必要がある。

 友達なんていないも同然だが、立派な人間になるには必要な犠牲だ。

 それに高校2年生ともなると大学受験はもう間近。

 

 だから今日も今日とて、寄り道もせずまっすぐ帰っている。

 ショルダーバッグを肩に掛け、手には傘を持って制服の半袖ワイシャツをちょっとだけ雨に濡らしながら静かな住宅街を歩いていると、帰り道ににある公園が気になった。

 雨の日にわざわざ来る人がいないのに、傘も差していない女の子がベンチに座っていたからだ。

 足を止め、公園の入り口からベンチに座るその子の横顔を見ると外見的な特徴から人ではなく、その子は俺と同じ歳ぐらいに見えるウマ娘の女の子だった。

 

 人の耳の位置にあるものはなく、代わりに頭の上にはウマ耳がある。その耳には緑色の耳を覆っている、リボンのような耳カバーな馬具のメンコカチューシャをつけていた。

 ワンピースタイプの青を基調としたセーラー服の制服を着ていて、とても控えめな大きさの胸元には大きな青いリボンと蹄鉄(ていてつ)の形をしたブローチがついている。

 下は白色に青いラインが入っているスカート。太ももまである白いニーソックスな制服に皮靴のローファーは、このあたりじゃウマ娘たちが通う学校として有名なトレセン学園のものだ。

 顔が美人で、明るい茶色の髪の彼女はうつむいて寂しそうに地面を見続けている。 お尻から出ている、髪と同じ色をしている尻尾は力なく垂れていた。

 放っておくと風邪を引き、道に出たときには車にぶつかって死んでしまいそうな気がした。

 そんな彼女のことが気になり、俺は公園に入るとまっすぐ彼女のところへと歩いていく。

 正面に立って彼女を見下ろす形となるが、目の前のウマ娘の子は俺に反応する様子さえも見せていなかった。

 

「大丈夫か?」

 

 無反応すぎることに対して心配の声をかけると、ゆっくりとした動作で俺を見上げてきた。

 でも何も言ってこず、その目には何の意思も感じない。

 あまりにも無防備で無気力で寂しげで。生きる気力すらなさそうに見えた。

 そんな人に関わるのは面倒なだけだ。

 無視するか、よくて警察に電話するのが普通だろう。

 でも俺はそんな目の前の子に何かしてあげたかった。この子を見ていると、親が離婚して自分が捨てられたように感じたときのことを思い出して。

 

「ウマ娘の学園ってのは全寮制だったはずだが、帰らないのか?」

 

 彼女がこれからどうしたいのか気になって聞くが、俺の言葉に返事もせずにまた地面をじっと見つめ始めた。

 言葉だけじゃどうしようもないと思い、冷えている彼女の手をゆっくりとした動作で掴む。

 

「俺の家に連れていく。嫌だったら言ってくれ。すぐに手を離して俺はいなくなるから」

 

 しばらくのあいだ返事を待つが、何も言わないために強引に手を引っ張っては立ち上がらせる。

 けれど、その体は力なく俺の胸へと寄りかかってくる。

 170㎝の身長な俺より少しだけ低い背は片手で抱きかかえるには辛い。だから慌てて傘を放り投げ、地面へと倒れてしまわないように両手で抱き留めた。

 そうしてから冷たい体の女の子を1度ベンチに戻し、落とした傘を閉じるとそこらに放り投げる。

 

「連れて行かれるのが嫌じゃないなら、自分で立ち上がるか抱っこされろ。どっちがいいんだ?」

 

 女の子の顎を掴み、俺の目線へと合わせる。その目はさっきと違い、ほんのちょっとだけ感情が揺れ動いた気がした。

 

「……抱っこ」

 

 ちょっと悩んだあとに小さな口から、ささやくような声が聞こえた。

 自分で選択肢を出しておいて、選ばないと思っていたのに抱っことは。今まで恋人すらいなかった俺に高度な要求をしてくるが相手は弱っている女性だ。こんなところで変にときめいたり、挙動不審になるわけにはいかない。

 俺は女の子を肩へと担いで1人暮らしをしている自分のアパートへと向かって歩き出す。

 もし俺が鍛えた体なら、ロマンあるお姫様抱っこをしたいがそんな体力はない。だからコメ袋を担ぐような雑な抱き方なのは許してもらおう。

 

 女の子を肩に担ぐ姿は他の人から見ると、誘拐している姿に見えるだろうが幸いにも人と会うことはなく、アパートへとたどり着く。

 2階建てで、和室で1Kな広さの部屋である201号室の前に来ると、肩に担いでいた女の子を降ろす。

 ショルダーバッグから部屋の鍵を取り出してドアを開け、彼女を玄関の中へと入れる。

 いったん彼女を座らせたままにし、靴を乱暴に脱いでショルダーバッグを床へと置いた俺は台所がある玄関から部屋と移動する。

 本棚とタンス、ちゃぶ台にテレビがある部屋のタンスからバスタオルを4枚取り出すとそれを持って玄関へと行く。

 

「ほら、これで体を拭け」

 

 玄関に座ったままの女の子に2枚のバスタオルを差し出すが、受け取る気配もなく俺をぼぅっと見上げてくるだけ。

 ため息をつくと、俺は自分の顔だけを拭いてから女の子の体を拭いていく。

 制服が雨で張り付いて、下着が透けて見えて、普段なら気になってしまうが、今はそんな場合じゃない。

 顔をごしごしと拭いてから、胸をさわらないように気を付けつつ上半身を拭いていく。それが終わると俺はワイシャツを脱いでTシャツ姿になり、別なバスタオルを使って俺自身の体を拭いていく。

 

「あとは自分で拭けよ」

 

 そう言うと女の子はゆっくりとした動きで立ち上がり、手に持ったバスタオルをなぜか俺に向けてくる。俺はその手を掴んで女の子自身の体を拭かせる。

 

「誰が俺のを拭けと言った」

「連れてきてもらったから、お礼として拭かなきゃと思って」

「お前はまず自分の心配をしてろ。いいか、しっかり拭いとけよ?」

 

 小さく頷いたのを確認すると、台所のすぐ隣にある風呂場に行き、ガス給湯器のスイッチを入れてシャワーの準備をする。

 それから部屋のオイルヒーターの電源を付け、洗ったばっかりでまだ着ていなかった学校指定の赤色ジャージと下着を乾かす用のドライヤーを準備して玄関へと持っていって、床に置く。

 

「シャワーを浴びろ。ジャージは洗ったばかりだから綺麗だし、女物の下着はないから自分で乾かせ。そのあいだ、俺は外にいるから。何か質問は?」

 

 早く体を温めて欲しい俺は早口でそう伝えると、女の子はジャージのズボンを手に取った。

 

「これ、私は履けないと思う」

「未使用のはないから我慢してくれ」

「そうじゃなくて。尻尾を出す穴がないの」

 

 ……ウマ娘だってことを忘れていた。

 慌てて部屋からハサミを持ってきてジャージに穴を開けようとしたが、どれぐらい切ればいいかがわからない。実際に尻尾をさわって大きさを確かめればいいが、それはただのセクハラになる。

 

「わからないから自分で切ってくれ」

「いいの?」

「ああ。切るのはすぐにできるだろうし、先にシャワーを浴びてくれ。じゃないとせっかく連れてきた意味がない」

「それは私の裸が見たいってこと?」

「見ねぇよ! 早くシャワー行ってこいウマ娘! 髪も下着もきちんと乾かして用意できたら出てこいよ!」

 

 連れてきた理由が納得したという顔に俺は大声をあげ、俺は自分用のバスタオルを2枚ひっつかむと早足で外へと出ていく。

 そうしてアパートの廊下に来ると閉めたドアに背を預けて座り、自分の体を拭いていく。

 ため息をつくと一気に疲労感がやってくる。

 俺は善意で人助けをして立派な人間だと自己満足をしたかっただけだが、言われてみるとエロ目的で連れてきたようにしか思えなくなってくる。

 そんなことは考えていなかったのに。

 

 ただ、体を拭くときに服の上から見えてしまう下着に目が向いてしまったのは不可抗力だ。エロ目的とはまったくの別問題だ。

 そんなことを考え、自分は間違っていないと正当化しつつ体を拭き終わると待つ以外にやることはなく、濡れたバスタオルを自分の上半身に巻くと降り続ける雨を見ながら時間が過ぎて行くのを待っていた。

 寒さに体を震わせながら、ぼぅっとしていると背にしているドアから控えめなノック音が聞こえてくる。

 

「終わったのか?」

「うん」

 

 思っていたより早かったと思いながら、ドア越しに聞こえる声を聞いて立ち上がり、そっと静かにドアを開ける。

 そこには俺のちょっと大きいジャージを着て、しっとりとした髪にメンコが外されて横へと倒れたウマ耳が見えている、かわいい女の子がいた。

 どこか一般常識からずれている子が普通に服を着ていて安心する。遠慮して下着姿だけだったら怒っていたところだ。

 

 あとは俺がシャワーに入って体を温めれば落ち着くが、その前に名前を聞いていなかったことを思い出す。

 別に今日だけの出会いだから名前なんて知らなくてもいいが、せっかく知り合ったのだから聞いてみたいとも思う。

 

「知らなくていいかもしれないが、俺の名前はアキだ。お前の名前は?」

 

 親と同じ苗字とつけられた名前が嫌で、友達から呼んでもらっているあだ名を言う。

 女の子は俺がフルネームを言わないことに不思議そうに見つめてきたが、すぐに返事をしてくれる。

 

「私はサイレンススズカ。まだデビューしてもいないウマ娘」

 

 名前と同時に聞いてもいないことを教えてくれる。レースに出たことがあるとかないとか、そんなことは気にもしないがウマ娘にとって大事なことなのだろう。

 なんで公園にいたとか、気になることはいくつかあるが自分から言いたくなるのを待つことにする。無理に聞いて、嫌がられるのは嫌だから。

 

「それじゃあ……スズカでいいか。サイレンススズカって全部呼ぶのは長い」

「そこは敬称をつけるんじゃないの?」

「なんでそこだけ常識人なんだ」

 

 マイペースなのに戸惑いながら、俺はスズカが使っていたバスタオルを手に取ると、俺が体に巻いているのと一緒に洗濯機に入れる。シャワーを浴びた後に俺自身の脱いだ服を入れてから洗濯機を動かせばいいと思ったが、それだとスズカの制服がわずかな時間とはいえ遅くなってしまう。時間優先ということで俺が着ていたワイシャツとスズカの制服も入れて脱水のボタンを押す。

 

 タンスから自分の下着と着替え、バスタオルを取って風呂場前に置く。

 そして服を脱いでシャワーを浴びるために風呂場へ入ろうとするが、手に服をかけたところで視線を感じて振り向くとスズカが静かに俺を見つめてきていた。

 

「私はどうすればいいの?」

「俺がシャワーから出てくるまで好きにしていい」

 

 そう言って背を向けるが、すぐに名前を呼ばれる。

「アキくん」

「なんだよ」

 

 綺麗な女の子に自分の名前を呼ばれたことに新鮮さと嬉しさを感じながら振り向くと、スズカの手には着ているはずのブラとショーツ、それとドライヤーを持っていた。

 一瞬だけ思考が止まるが、すぐに理解する。

 そう、俺が貸したジャージの下はノーブラノーパンの状態だと言うことに。

 

 スズカは尻尾をふんわりと揺らし、恥ずかしそうにするわけでもない。

 男である俺に下着を見せることに何の羞恥心も感じていないらしい。

 わかった。この子はアホの子だ。

 これから接する時はそのことを頭に入れることにし、ついマジマジと見てしまう下着から目をそらす。

 

「これ、乾かしててもいい?」

「乾かしておけって言っただろ! ええい、俺に見せるな! 奥に行って乾かしておけ!」

 

 部屋の奥へと指を指し示すと、頷いたスズカは素直に行ってコンセントにドライヤーを差してから座り、下着を乾かし始めた。

 公園から家まで連れてくるよりも、家についてからのやりとりのほうがとても疲れる。

 大きくため息をつき、服を脱いでいくと俺に背を向けているスズカの尻尾が見えた。ジャージにハサミで穴を開けただけだから、その穴から白い尻の一部分が見えてしまっている。

 

 その姿に理性と本能が争い、理性が勝って視線をずらすと、スズカの頭の上にあるウマ耳がこっちへと向いていた。

 スズカの耳を気にしながら服を全部脱ぎ、下半身にバスタオルを巻く。

 すぐに入るならバスタオルはいらないが、少し試したいことがあるからだ。

 

「……スズカのむっつりスケベ」

 

 小声で言うと、スズカが体をびくりと震わせると同時にこっちに向いていたウマ耳が素早く前へと向く。

 俺がスズカに興味があるように、向こうも興味があるようだ。羞恥心もあることがわかり、裸でうろつくとかそんなことをしなさそうなことに少しだけ安心する。

 スズカがこっちに注意が向いていない隙に風呂場へと入り、脱いだバスタオルを外へと出した。

 風呂場の中は暖かく、嗅いだことのない匂いがする。

 それがスズカの匂いだとすぐに気づき、なんだか恥ずかしくなってしまう。同じ年頃の女の子が使った風呂場を使うなんてのは。

 

 ドキドキしながらも、シャワーを浴びて体が温まるととてもいい気分になる。

 シャワーを浴びながら、このあとはどうしようかと考える。髪を乾かして、あとはコーヒーを飲みながら話をすればいいか。夕食の時間にはまだ早いし。

 色々と考えながら風呂場のドアをそっと開け、隙間から手を伸ばしてバスタオルを手に取る。

 体を拭いてから、バスタオルを腰に巻いて外へと出た。風呂場の中で着替えると、どうしても服が濡れるから外で着ることになるが、見られるかもという緊張感がやってくる。

 

 アニメやラノベだと、今のとは逆な展開が普通なのに。少女漫画だとこういうのはあったりするか?

 と、恥ずかしがりながら背中を向けているスズカを見ながら服を着終える。スズカの耳はさっきとは違って、こっちに耳を向けないように耳を落ち着きなく動かして努力しているのが見えた。

 その行動に感心しつつ着替えたあとは台所に向かい、ヤカンに2人分の水を入れて火にかける。

 棚からマグカップ2つを取り出して台所に置き、何にしようかと考える。家にあるのはインタスントコーヒーに紅茶、友達からもらったまま缶から未開封のこんぶ茶がある。

 

「スズカ、何か飲むか?」

 

 ドライヤーの音に負けないよう、大きな声でそう聞くと下着を乾かす手を止めてスズカが隣へとやってくる。

 俺はお茶類が置いてある棚へと指を差すとスズカ自身に選ばせる。そうして選ばれたものは、こんぶ茶だった。

 外見的に紅茶を選ぶかと思っていただけに、渋い選択に驚きながら缶を手に取って開ける。

 初めて入れるものだから、缶表面にある説明をじっくりと読む。そうしているとすぐ隣から、風呂場に入ったときと同じ匂いがした。

 すぐ横に来たスズカは俺の持っている缶を手に取った。

 

「私がやる」

「お前は乾かしていればいい」

「アキくんはこんぶ茶飲んだことないでしょ? それなら私のほうが上手にできると思うの」

 

 さっきまでの恥ずかしいところを隠したいかのような、スズカのやる気アピール。

 何かミスをしそうな気がしないでもないが、本人にやる気があるし普段から飲んでいるみたいだから任せるのが1番か。

 

「わかった。じゃあ任せる」

「うん。代わりにアキくんは私の下着を乾かしておいてね」

 

 衝撃的発言を言っておいて、自分の言ったことに気にするでもなくマグカップへとこんぶ茶の素を入れていく。

 女の子の下着を乾かすのは犯罪じゃないだろうかとか、男に対する警戒心の無さはいったいなんだと疑問に思いながら、触るとまだ少し濡れている下着の前へと座る。

 おしゃれな刺繍が入っている下着を前に、何も考えないようにしてドライヤーのスイッチを入れて下着を乾かし始める。

 そうしながら、スズカの様子をそっと見るとヤカンを静かに見つめていた。

 ちょっとの時間が経ち、マグカップ2つを持ってきたスズカはちゃぶ台に置く。

 俺はドライヤーのスイッチを切り、マグカップ1つを手に取って座るとスズカも俺の対面へと座る。

 お互いに何も言わず、マグカップに入っているこんぶ茶を飲んでいく。

 

 初めて飲んだ味は、しょっぱさとこんぶのうまみ成分が入ったスープだと思った。お米にかけたくなる。もしくは何か具を入れたい。

 お茶と言うには首を傾げる味だが、心も体も温まっていく。

 2口目を飲み、落ち着いてところでスズカに気になっていたことを聞く。

 

「なぁ、スズカは公園で何をしてたんだ?」

「えっと、散歩?」

「傘も差さずにか? 俺はウマ娘の関係者じゃないし、ただの学生だ。変なことを言っても怒らないぞ」

「じゃあ言うけど。……落ち込んでいたの。今度出ることになる、初めてのレースについて」

「ウマ娘らしい悩みだな」

「うん。それでね、私を鍛えてくれるトレーナーさんが『お前はまだレースに出せない』って言われて。周りの子たちがどんどんレースに出るなか、私だけが置いていかれてるの」

 

 さっきまでの言葉少ない様子とは違い、不満や誰かに言いたらしく俺へと言葉を出してくる。

 自分に自信がないような不安な声で。

 

「レースに出れない理由は、私の成長が遅いからだって。だからレースは遅い時期になるの。でもそれはなんだか私に能力がないって言われている気がして……」

「やっぱりウマ娘ってレースに出たいものか?」

「走ることをなくしたら、私たちウマ娘の存在価値なんてないも同然だと思う。踊ったり歌ったりすればいいって思うかもしれないけど、それはウマ娘じゃなくてもできるから」

 

 話を聞いても、ウマ娘の苦しみなんてのは俺にはわからない。

 俺はウマ娘でもないし、ウマ娘たちと関係する仕事をやったことがあるわけもなく詳しくもない。

 ただ、自分の価値なんてひとつの物事だけではわからないと思う。

 

「でも問題に向き合って悩み続けるってすごいことだと思う。楽なほうに逃げようとしないんだから」

 

 現実逃避として何かに逃げることもなく、自分の将来のことについて考えているのだから。

 

「……そんな立派なものじゃない」

 

 俺としてはとても立派だ。公園で傘も差さずに雨の中にいたくらいに悩み、自分の価値に疑問を持っていたのは。

 でも言葉だけじゃ、スズカの助けには何もならない。

 今日会ったばかりのスズカの力になりたい。自分に自信を持って、この子の笑顔を見てみたいと思ったから。

 じゃあ俺にできることは?

 少しぬるくなったこんぶ茶を飲み干し、考えた結果はとりあえず飯を作ることだった。

 

「スズカ、今から飯を作るがなにか食べれないものとか好きなのはあるか?」

「えっと……野菜中心だと嬉しいかな」

「わかった。作るから待ってろ。夕食ぐらい食っていく時間はあるだろ?」

「なんでアキくんは私に優しくしてくれるの?」

「昔の自分を見ているような気がしてな」

 

 親が離婚して、アパートの部屋と金を渡され、捨てられたと思って世の中と親に失望していた俺の過去に、スズカが公園にいたときの雰囲気に似ている気がして。

 誰かを見捨てるような人間にはなりたくないという思いが俺にあるからだ。

 

「あとは美人な人に優しくしたいってところだ」

 

 そう言って、ほんの少し恥ずかしくなっては立ち上がり、台所へと行く。

 今からご飯を炊くのは時間がかかる。冷蔵庫を見ると、いい具合にうどんがあった。2人分のうどんと適当な野菜を炒めて夕食にしよう。

 冷蔵庫から野菜を取り出し、まな板の上で野菜を切っていると隣にスズカがやってきた。

 

「どうした?」

「作るの、見ていてもいい?」

「いいけど、下着はつけたか?」

 

 さっき話をしていた時より、なんとなく明るくなったスズカに聞くとジャージの前を開けてブラをつけているのを見せてくる。

 それを見て、即座に俺は包丁を置くとジャージを掴んではファスナーを上いっぱいにまであげる。

 

「……おとなしく見ているならいいぞ」

「アキくんは乱暴ものね」

「お前の常識がずれているからだ!」

 

 呆れた言い方に大声をあげてしまうが、それの何がおかしいのかスズカは小さく笑みを浮かべてくれた。

 初めて見た笑顔に見とれていたが、気を取り直して料理へと戻る。

 

「誰かに心配してもらえることって、こんなに嬉しいだなんて思わなかった」

 

 恥ずかしい。なんだかそう言われるのは恥ずかしい。

 スズカはつい放っておけなくて、色々と気になってしまう。例えるなら、手のかかる妹を持ったと言えばいいかもしれない。

 料理を作り続けながら、じっと俺の手元を見てくるスズカの横顔を見て、そんなことを思う。

 野菜炒めと、うどんを煮るのが終わって料理ができあがると、皿に盛りつけるのと運ぶのはスズカが自主的に運んで行ってくれた。

 ちゃぶ台で向かい合って、ウマ娘に関する雑談や学園のことを聞く。

 食事が終わっても話は続き、スズカの話を多く聞いていた。でもスズカは時間が気になり、部屋にある壁掛け時計を見あげた。

 

「私、もう帰らないと」

「そうか。今日は話ができてよかったよ」

「私も。誘拐されたときはどうなるかと思ったけど」

「誘拐じゃねえよ。連れてく前にちゃんと聞いただろ?」

「……ええと、そんなことを聞かれた気がしたような、しなかったような」

 

 俺から目をそらしながら立ち上がると、洗濯機の前へと行って制服を手に取った。

 それを見ると、俺はすぐに家の外へと行き、着替え終わるのを待つ。

 スズカが出てきたときは出会ったときと同じ格好になっていた。

 

「今日はありがとう。ちょっとだけ元気になった」

「それはよかった。もしスズカをテレビで見る機会があったら、今日のことを思い出しながら見てやる」

「私を好きになった?」

「なってねぇから早く帰れ」

 

 スズカは少し不満げな様子になるが、すぐに感情のないクールな表情を俺へと向けてくる。

 俺は家へと1度戻り、使い捨てなビニール傘を取ると遠慮するスズカの手に強引に持たせた。

 それに戸惑っていたが、俺の強い意志を感じて受け取ってくれた。 

 

「もう雨に濡れるんじゃねぇぞ。それじゃあな」

「……うん、ばいばい」

 

 そう言って、スズカは俺へと小さく手を振りながら返っていった。

 今日は疲れたが、いいことをしたと精神的に充実した日だった。

 ウマ娘、サイレンススズカとの偶然の出会い。スズカと名前を呼んで色々と世話をした、常識からちょっとずれた女の子。彼女の悩みが軽くなったのなら、嬉しく思う。きっと出会うことはもうないような気がした。

 そう思ってしまうと、寂しく思えたがそもそもあんな美人な子と話をできただけも喜ぶとしよう。

 もし、彼女が有名になったら自分の中で満足感がきっと出るに違いない。

 あの子は俺が助けたんだぞ、と。

 

 そう思いながらスズカがいなくなった方向をしばらく見ていたが、体が寒くなって家へと戻る。

 1人になり静かになった家の中。洗濯機の前にはスズカが残していった、お尻あたりに穴が開いたジャージが置いてある。このジャージは後で直して家で使う用にしよう。

 それと公園で投げ捨ててしまった傘は明日の朝に拾ってこないと。

 そうして慌ただしくも、ちょっと楽しかった日は終わっていく。

 

 

 

 また、いつもの変わらない日常が戻ってきた。

 でもそれは2日後の天気がいい晴れの日に終わる。

 学校が終わり、家へと戻ってくるとドアに背を預けて座っていたスズカがいたからだ。

 出会ったときと同じように制服を着ていたが、前と違うのは手に持ったトートバッグいっぱいに入っているニンジンだ。

 スズカは俺に気づくと立ち上がり、何の感情もないようなクールな顔つきで俺を見てくる。

 

「アキくん、帰って来るのが遅い」

「文句言う前に何か言うことがあるだろ、お前」

 

 流れ的に会うことはないような雰囲気だったのに、こうも再会するのはなんかがっかり感がある。

 後々、レースに出ているスズカの姿を見て俺が感動するっていうはずだったのに。

 あまりにも再会が早すぎる。

 呆れた俺に対し、スズカは首を傾げたがすぐに元へと戻った。

 

「これが照れ隠しというものね?」

「さっさと入れ」

 

 スズカの声を無視し、ドアの鍵を開けて入っていく。後ろからスズカがやってきて家へとあがる。

 俺は肩にかけているショルダーバッグをそこらに放り投げると、 冷蔵庫を開けて何の飲み物を飲ませようか考えていると隣にスズカがやってきてトートバッグを差し出してくる。

 

「これ、お土産」

「お、ありがとな」

 

 冷蔵庫のドアを閉めて、トートバッグを受け取るとずっしりと重いのが手に伝わってくる。

 いったん床に置いて中身を確かめるが、ニンジンばかりだ。ニンジンの奥のほうにはお土産ではないスズカの私物っぽいものが入っていた。

 

「全部ニンジンなのはなぜ?」

「普通のだとつまらないかなと思って、トレセン学園名物の高品質ニンジンを買ってきたの」

 

 高品質と言うだけあって、形も色もいい。だけれど、16本もあると消費するのに困る。

 男子高校生の1人暮らしなんて、そんなに野菜は食べないし、ニンジンなんて特にだ。ウマ娘ならとても喜ぶだろうけれど、俺は喜びと同時に困惑がある。

 でもお土産は気持ちなので、ありがたく冷蔵庫へとしまう。

 

「何か飲みたいのはあるか?」

 

 軽くなったトートバッグを返すと、スズカは冷蔵庫のドアを開けてペットボトルのオレンジジュースを指差す。

 そのペットボトルを持ち、ガラスのコップふたつを持つとちゃぶ台へと行き、つい2日前と同じように俺の対面へと座るスズカ。

 ジュースを2人分注ぎ、ある程度飲んだところで気になっていたことを聞く。

 

「今日はどうした。走る練習中にころんで泣いたか? ストレス発散で大食いしてショックを受けたのか?」

「アキくんの中で私のイメージはいったいどうなっているの?」

「手のかかる妹」

 

 ため息をついて言うとスズカは不満らしく、足を延ばして俺の足を軽く蹴ってくる。

 抵抗も文句もしないでいると、次第に威力が上がっていき、強くなっていく。

 

「スズカ、痛い」

「謝って。私が手のかかるってとこは謝って」

「妹なのは否定しないのかよ。で、今日は何の用だ?」

「遊びにきた」

 

 足を蹴るのをやめると、さも当然のように言ってくる。

 友達ならそれでもいいが、俺との関係はそう呼べるものじゃないと思う。その日だけの出会いだと思っていたから、今日みたいなのは予想さえしていなかった。

 

「俺とお前は友達だったか」

「じゃあ知り合いから始める」

「出会ったのも縁があるってことだし、それでいいか」

 

 俺の言葉に何か気になることがあったのか、首を傾げて少し考えたあとに口を開けた。

 

「……ツンデレ?」

「今すぐ出ていけ」

 

 そんな楽しい言葉のやりとりをしつつ、俺は家に帰ったらいつもしている勉強のためにスズカを放置することにした。

 スズカもやることがあるため、ちゃぶ台に勉強道具を気にせず自分の作業を進めていた。

 その作業とは、俺があげたスズカ用に改造されたジャージだ。持ってきたソーイングセットと当て布で、尻尾部分の穴を補強している。

 時々その作業を気にしながら勉強をしていると、作業が終わったスズカが隣に座ってくる。

 

「アキくんはいつも勉強しているの?」

「ああ。今は目標がないが、行きたい大学に入れるように」

「大変だね」

「お前だってウマ娘なんだから、なにかしら努力をしているだろ。それと同じことだよ」

「そっか。アキくんと同じかぁ……」

 

 言葉に寂しさと嬉しさの感情を顔に浮かべ、スズカが悩んでいる問題は今も続いていることがわかる。

 でもそれは俺にはどうしようもない。だから、気晴らしをさせてあげようと前のようにふざけることにした。

 やることはスズカの頬に人差し指を突き刺すということを。

 それをされたスズカは表情を変えなかったが、俺が「ぺったんこな胸と違って、ほっぺたは柔らかいな」なんて言うとイラッとした感じに顔をしかめると俺の人差し指を口に入れ、結構な力で噛んできた。

 俺が悲鳴をあげたのは言うまでもない。

 そういうふうに今日は時々じゃれあいながら、スズカが俺の勉強を見るということをして過ごしていった。

 

 空が暗くなりかけた時にスズカは帰ると言い、俺は少し待ってもらってサンドイッチを作る。

 たくさんのニンジンをもらったから、それのお礼としてだ。

 作ったのはきゅうりのサンドイッチだ。パン4枚を使い、作っていく。

 パンにはマーガリンの甘味ときゅうりの爽やかさ、塩コショウを入れる。これが俺お気に入りの作り方。

 その俺自慢の手作りサンドイッチをスズカに持たせる。

 

「もらっていいの?」

「おう。帰るときにでも食ってくれ」

「ありがとう。わざわざ作ってくれたのは、私の魅力のせい?」

「何を言っているんだ。このダメ妹は」

 

 スズカのおでこをデコピンではじき、涙目でおでこを押さえながらスズカは帰っていった。

 なんだかんだで今日も楽しかった。もう俺の中ではスズカは妹ポジションだ。

 お礼を言ったから、今度こそもう会わないかと思う。

 でもそのうちまた来そうな気がするから、それまでに料理の腕前を上げて置かないと。

 そう決心してちゃぶ台のところに戻ると、スズカが縫っていたジャージが置いてあった。ズボンを手に持って広げると、きちんとお尻の穴部分は補修されていた。

 

 スズカの奴はまた来るらしい。そのことはなんだか嬉しくなり、にやける顔を軽く叩く。

 補修されたスズカ専用のジャージをタンスにしまうと、冷蔵庫からニンジンを取り出して今日の夕食は何を作ろうかと考えた。

 こうしてスズカと過ごした2回目。この日から、俺とスズカの友達以上で兄と妹みたいな関係が始まっていく。

 週に1回か、2回ほどスズカは学園の授業が終わったあとにアパートへと遊びにやってくるようになった。

 遊びと言っても、ほとんどは雑談をしたりスズカが本棚から何かの本を取って読んでいるぐらいだ。スズカが本を読んでいるあいだ、俺は勉強をして静かな時間を過ごしたいた。

 そういう穏やかな関係の日が続き、俺とスズカは遠慮をあまりしない仲になっていった。

 でも親しくなったからといって、スカートの中が見える無防備姿勢が増えてきたのは俺の理性によろしくないのでやめて欲しいとは思うが。

 

 9月の出会いから始まり、12月と続いていく。

 そのあいだ、スズカが気に入ったきゅうりサンドイッチを毎回持ち帰らせ、クリスマスを一緒に過ごし、神社に初詣にも行った。

 こうして一緒の時間を過ごし、俺の狭い1Kの部屋にはスズカの私物が少しずつ増えていく。食器にマグカップ、スズカ専用ニンジンと言ったものが。

 世話の焼ける妹という家族がもう1人できた気分になる。

 スズカと会うのが楽しみになってきたが、1月も半分を過ぎるとひどく落ち込みながらスズカがやってきた。

 その日はスズカは家に入るなり、テーブルに突っ伏して力なく倒れた。

 それを見ながら、俺はいつものように座って勉強をし始める。

 が、いつもの何かと俺にちょっかいをかけてくるのと違い、どんよりと暗いオーラを出しているのが落ち着かない。いったい何があったのか心配してしまう。

 

「何かあったか?」

「聞いてくれるの?」

 

 突っ伏したまま、顔だけを動かして見上げてくるスズカ。

 ふざける様子もないことから、真面目に話を聞くことにする。

 

「お前の悩み事ならいつだって聞いてやるさ」

「ありがとう。そのね、2月1日に初めてのレースがあるの。時間は午後1時を少し過ぎたあたり。コースは芝の1600m」

 

 スズカが言ってくれたのは前にも言っていた、レースのことだった。

 悩みを教えてくれたのは嬉しいが、もし技術的なこととか、どう走ればいいとか聞かれたらと思うと冷や汗が出そうになる。でも聞いたのは俺自身で、スズカの悩みが軽くなるのなら分からなくてもしっかりと聞いてやりたい。

 

「……不安なの。最初のレースから私のウマ娘生活が始まっていくのが。負けたらどうしようって。1度負けたら、その次も負けるかもって。そうして勝てなかったら私はどうすればいいのかということを考えるの。ウマ娘だから走るけれど、私には目標がなくて。G1優勝? 海外遠征? 3冠? そのどれにも興味が持てなくて」

 

 いつもより勢いよく、感情が強くある言葉がスズカの口から出てくる。自分への自信のなさと不安が。特に走る理由がないというのが大きな問題になっていると思う。

 俺だって何の目的もなく勉強を日頃からしているわけではない。大学に行き、きちんとして就職をしたいと考えている。

 

 そうすることで、自分を捨てた親と違って、まともな人間として存在することができると思うから。

 だからスズカにも理由が必要だ。これから自分を支えるべき、そんな理由が。

 

「だったら俺のために走ってくれよ。俺はスズカが、サイレンススズカが走っている姿が見たい。

 普段はクールな雰囲気だけど、どこかぽやぽやしているお前じゃなくて。かっこいいお前が、俺は見たい。レース場に行って、お前を見てやる」

「アキくんのため?」

「おう。普段がダメダメだから、俺にかっこいいところを見せてくれ」

「私はダメダメじゃ―――」

 

 スズカはその言葉に不満だったのか俺を睨んでくるが、ほんの数秒経ったあとには気まずそうに目をそらしていた。

 おそらく、かっこいいところがあると思っていたけれど、考えてみればなかったということに思い至ったのだと思う。

 

「……もし私がダメなウマ娘で、引退させられたらアキくんが養ってくれる?」

「任せておけ。ウマ娘を使う仕事に就職して、思い切り働かせてやる」

 

 そう言って笑みを浮かべると、スズカは安心した笑みを浮かべてくれた。

 少しのあいだ、ふたりで笑みを浮かべあっていたが、スズカはふと真顔になる。

 

「ねぇ、アキくん。もし私が次のレースで勝ったらご褒美が欲しいの」

「いいぞ。で、いったい何が欲しいんだ?」

「んー、内緒」

 

 それを最後にレースに関する話は終わり、いつも通り俺たちは部屋の中で自由にのんびりと過ごした。

 レース4日前に遊びに来たスズカは、レースの見方やレース場の場所、レースの時間を改めて教えてくれた。

 俺が初めて行くからなのか、お姉さんみたいな感覚で俺に接してくるのは新鮮だ。妹が成長したような気分になる。

 気分よく俺に色々と教えたあとは、絶対に来てねと何度も念押ししてくる。手書きのメモでレース場についてから行く順番を詳細に書いたのを俺に渡すくらいに。

 前と違って、やる気に溢れるスズカに結果がどうあってもレース後に会ったら優しくしてやろうと決めた。

 

 

 

 そうして時間が経ち、2月1日のよく晴れた日。

 今日はサイレンススズカの初レースだ。

 コートを着こんで、ショルダーバッグを肩に下げた俺は電車で初めてのレース場へとやってきた。

 レース場は人が多く、皆がきらきらと輝いた目でレースが始まるのを楽しそうに待っている。

 そんな中をうろつきながら、食事をする店が多いなとか、レースを見るスタンドが多くあって、指定席や自由席があり、場所の違いによってどう見えるかに困惑していた。

 でも前もってスズカが書いてくれたメモに従い、まずはパドックと呼ばれるところに行く。

 ここはレースに出走する前のウマ娘たちが、それぞれ自分の健康状態を見せる場所らしい。

 そのパドックは、ファッションショーでモデルさんたちが歩いて姿を見せるのと同じようなステージになっている。

 

 多くの人がウマ娘を待つように俺も同じくやってくるのを待つが、ちょうど時間だったらしく、パドックの入り口にある赤い垂れ幕が上がってウマ娘が出てくる。

 そこにいたのは1番のゼッケンをつけたサイレンススズカだった。

 いつもの感情が分かりづらいクールな顔には、少し緊張の様子が見られる。

 半袖短パンの体操着を着ていて、その上には長袖の上着を肩にかけるようにしていた。その状態でステージの一番前まで歩いてくると、上着をかっこよく投げ放つ。

 投げる動作だけでかっこいいと思ってしまう。その時に一瞬だけスズカと目が会った気がしたが、すぐに背を向けて戻っていった。

 普段の頼りなさと、ここでのかっこよさのギャップに惚れてしまいそうになる。あの常識からずれているスズカなのに。

 ドキドキと鼓動が強くなる心臓を抑え、他のウマ娘が出てくるのを続けて見る。

 そうして全員分見たが、スズカを見たときと違って心がときめく子はいなかった。

 それで理解した。俺はただギャップの差によるものにやられただけなんだって。

 

 そう納得して、時間には余裕があるからレース場内を少し散策してからレースを走るウマ娘たちにファン投票ができるというので深く考えずに"サイレンススズカ"を選んだ。

 投票を出してからは場内をうろうろと歩き回ったあと、ウマ娘たちが走るコースが見える1階のスタンドへと行く。

 今日はウマ娘たちのデビュー戦だからか、テレビで見たことのあるG1レースと違って人が少なく、観戦しやすい。

 スズカのレースが始まるのにワクワクしながら待っていると時間はあっという間に過ぎ、ウマ娘たちが走るコースにトラックがゲートをつけて運んでくる。

 もう目に見える何もかもが新鮮で、俺の好奇心を全力で刺激してくれる。

 

 ゲート後方のコース上には11人ものウマ娘たちがいて、それぞれ準備運動をして体をほぐしていた。

 ウマ娘は美人な子が多いなと感心するが、俺にとって目を引くのは1番のゼッケンをつけているサイレンススズカだ。

 各ウマ娘たちの準備運動が終わり、それぞれゲートの中へと入って皆が並ぶとすぐにゲートが開いた。

 スズカは最初から先頭に立ち、1番前を走っていく。他の子を寄せ付けぬ、圧倒的な速さ。後ろの子とどんどん差を広げていく。

 それは最後のコーナーを回り、直線へと入っても先頭にいた。スタンドからの歓声が大きくなるなかで他のウマ娘たちが追い上げるも、追いつかれることはない。

 スズカは最初から先頭でそれを譲らず、最後の直線も先頭。そのまま後続と大きく差をつけて勝った。

 他のウマ娘をものともしない、マイペースで圧勝する姿を見て俺は言いようがない歓喜の感情がやってくる。

 

 スズカの走る姿は綺麗で、力強い。

 初めてレース場で見ることもあってか、スズカは日本で1番のウマ娘なんじゃないかと思ってしまう。

 スタンドからのスズカの名前を呼ぶ歓声があってスズカの強さがわかるというものだ。

 レースを走り終えたスズカはコースの上で立ち止まり、荒くなった息を整えながらスタンドをきょろきょろと何かを探すように見ている。

 俺を探しているのか? と考え、目立つように片手を思い切り上へと上げる。それでも回りの人たちがやっているから、そんなに変りない気がする。

 だから俺は声を上げる。

 

「スズカ―! サイレンススズカー!!」

 

 名前を呼んだからか、スズカは俺に気づいて俺と目が合った。その途端にスズカは安心したような柔らかな笑みを浮かべると、コースから離れてレース場の中へと戻っていく。

 観戦していた人も一部はいなくなるが、この後も別ウマ娘のレースは続いていく。

 この後の俺の予定はレースで勝ったウマ娘のウイニングライブ、つまりは1着で勝ったスズカが歌って踊るのを見ることにしているが、それまではまだ時間がある。

 ウイニングライブについての説明はスズカが軽くしてくれたが、1着から3着までのウマだけがアイドルのように歌って踊れることができるとのことだ。

 

 でもなんでライブなのかがわからない。

 走るだけじゃ観客はそんなに来ないし、ファン投票は賭け事ではないから、お金が賭けれない代わりにライブの当選権ということだろうか。

 夕方の時間が近づくとライブをする場所まで行くが、どうもレースの時と客の雰囲気が違う。

 ウマ娘を応援していた人たちが、なにやらアイドルのライブで応援するような道具の何かを準備している。

 スズカはライブのことなんて軽くしか言ってくれなかったために、何を歌うかとか踊りはどういうものかも分からない。

 周囲の客の観察をしているあいだにライブの時間が来て、スズカが走った前のレースのウマ娘たちがウイニングライブを始める。

 運動着の姿と違うんだなぁとぼんやりと見ながら、歌い終わっていくのを眺めていく。

 

 そしてスズカの番が来た。

 ステージに出てきたスズカの姿は運動着とは違い、綺麗な衣装をしていた。

 緑色のケープを身に着け、その下にはトレセン学園のとは違う制服のようなデザインで白と緑を使った色だった。手には黒手袋、足は黒タイツで全部を覆って靴はヒールを。

 見慣れない、でもおしゃれな恰好はただかわいくて、さらには歌って踊るのは見ていてたまらない。

 初めてのライブだからか、それほど歌も踊りも上手というわけではない。でもこのライブは印象深く記憶に残ると思う。

 ライブをしているのが不思議な関係で仲良くしているスズカなんだから。

 スズカの出番が終わり、他のウマ娘たちのライブが終わると心に穴が開いたような空虚感が生まれる。

 競馬場から自宅へと帰る途中、テンションが下がったためか暗いこと考えてしまう。

 どこかスズカが遠くに感じたのは気のせいだろうか。多くのファンが集まり、スズカに声援を飛ばして嬉しそうに笑みを浮かべている人たちを見ると。

 俺なんてファンの中の1人と同じ存在だろう。

 もしかしたら、次会ったときはいつもの違うスズカになっているかもしれないと考え、怖くなってしまう。

 

 そんな気持ちを持ちながら、スズカがやってきたのは次の日の夕方だった。

 スズカにもう会わないほうがいいとか言われたら嫌だと思いながら、休日の日を暖かい部屋の中で、ジーンズと長袖の服を着てごろごろしていた時のことだ。

 チャイムの音が聞こえ、慌てて玄関へと行きドアを開けるとそこにはスズカがいた。

 いつものクールな顔つきに普段どおりの制服にメンコの耳カバー、茶色のダッフルコート姿。背中には大きく膨らんだリュックサックを背負った。

 

「約束を果たしに来たの」

 

 ……約束? あぁ、そんなのもあったなと思いだす。約束の内容は俺がご褒美をあげるというものだったはず。

 スズカを中に入れると、スズカはちゃぶ台の前に行ってリュックサックを置く。

 俺にスズカとは反対側のちゃぶ台前に座るよう指で指し示してきたので素直に座る。

 

「ちゃんとレースを見たよ。かっこよかったな」

「あ、うん、ありがとう。これ、お土産」

 

 俺が褒めると困惑しながらリュックサックの中から物を取ろうとする。

 ちゃぶ台の上に並べられたのは物はお土産だった。

 有名ウマ娘の写真が入ったシールやキーホルダーにボールペン。

 

「結構あるな。むしろ俺のほうが感謝するよ。あんなかっこいいスズカを見れてよかった」

「ううん、私のほうが感謝している。アキくんを見て、落ち着けたの。走り終わったあと、みんなが私に向かって歓声や笑顔を向けてくれて嬉しかった。あぁ、私がみんなを喜ばせてあげているんだなって。私が走ることで喜ぶ人がいるなら、走り続けたいって思ったの」

「走る理由ができてよかったな」

「うん。それとアキくんが見続けてくれるなら、その、頑張れる、と思うの。だからずっと私を見ていて欲しい」

 

 頬を赤らめ、たどたどしく恥ずかしがりながら言うのに俺までもが恥ずかしくなってスズカの顔を見れなくなる。

 どちらも言葉が言えず、静かな時間が続く。でも嫌な時間じゃなく、自分の中の恥ずかしさがいっぱいで喋ることすらも難しい。

 今、何か口を開けたら感情任せに恥ずかしいセリフを言うに違いないから。

 だから頭を落ち着かせ、言葉を選んで言う。

 

「走る理由は見つかったらしいな?」

「うん。見ている人に喜んでもらえるような、夢を与えられるように私はなりたい」

 

 走る前と今ではすっかりと変わっている。ウマ娘だから、と惰性で走ろうとしていたスズカが目標を持って明るい顔になっている。

 正直、俺がいなくてもいい気がしてくる。

 自分の目標を持ち、レースで圧倒的な強さがあるのだから、すぐに有名なウマ娘になるだろう。その時になればスズカの成長の邪魔になるかもと思ってしまう。

 

「スズカ」

「なに?」

「……俺はまだスズカと一緒にいていいかな」

 

 スズカは首を傾げ、不思議そうな表情になって言う。

 

「アキくんはアホの子だったりするの?」

「お前に言われたくないわ! この常識知らずが!」

「うん。私は常識がちょっとだけ足りないの。だから今までもこれからも必要。アキくんが、私には必要なの。いつでもどんな時でも」

 

 小さく、幸せそうな笑みを浮かべるともう何も言えない。

 こんな顔をされたら俺は一方的に負けてしまう。いや、その前にそう思ってくれるのはとても嬉しい。

 スズカといると楽しいし、生きていくことを 元気づけられるから。

 

「それとこれもあげる」

 

 そう言ってリュックサックから出したは1個の蹄鉄(ていてつ)だ。

 

「これは2日前の、私が初めて走ったレースのものなの。記念としてアキくんに持ってもらいたくて。私の大事なものを」

 

 蹄鉄(ていてつ)はちゃぶ台に置かず、頬をちょっとだけ赤らめて俺から目をそらしながら手渡してくる。

 それを受け取り、これがスズカが使っていたものだと実感すると鉄の重み以上な何かを感じる。

 初めてのレース、初めての勝利を運んだ、スズカの走る靴につけられていた蹄鉄(ていてつ)

 

「何もしていないと錆びちゃうから、時々は手入れしてね」

「錆止めを塗って、時々取り出しては眺めるよ」

「うん。残りのもう1個は私の寮の部屋にあるから、お揃いだね」

 

 はにかんで嬉しそうに言うスズカ。まるで親友のような関係で気分がいい。

 物を通して目に見える友情があり、今こうやって笑いあう見えない友情。

 ひとおり蹄鉄(ていてつ)を眺めたあと、それをちゃぶ台に置くとスズカとの会話に戻る。

 

「もらってばかりだと悪い気がするな。レース前にご褒美をあげるって言ったろ。何がいい?」

「お泊りがいい」

「どこに?」

「アキくんの部屋」

 

 俺とスズカは仲がいいと思っている。これはお互いに遠慮なんてなく気楽だし、男女的問題が起きないという信頼が置かれているってことか?

 でも何も考えていないこともあるが、あえて聞くと俺が気にしすぎだと思われる。

 ここは普通どおりのそっけない態度で行こう。

 

「いいけど、泊まっても大丈夫か?」

「大丈夫。ちゃんと外泊許可をもらったから。男友達の家に泊まるって」

 

 ……正直者は好きだけど、よくトレセン学園もこれで許可を出したなって思う。でもきちんと許可はあるわけだし、後々の問題にはならないはずだ。

 スズカはリュックサックの中から白いキャミソールみたいなものに緑色のカーディガン、下着は前に見たのと違うデザインのを出してくる。

 着る服の準備も万端だ。

 それにこれはスズカがレースを頑張ったご褒美として望んでいるんだから、できるだけ叶えないと。

 その前に服と下着は目の毒なのでリュックサックに戻してもらうが。

 

「準備もしっかりしているみたいだな。さて、俺はお土産を片付けて、今から飯を作るがスズカはどうする?」

「アキくんが持っている本を読みたい」

「ああ。本棚にあるのなら自由に読んでいいぞ」

「……自由に読んではいけないのがあるの?」

 

 その言葉に何も答えず、お土産物を集めて部屋の隅っこに置くと急いで台所へと行き料理を作ることにする。

 正直にその答えはいいたくなかった。俺だって健全な男の子。女の子が読んじゃいけない本だって多少は持っている。

 もしスズカが読みたいと言ったら非常に困るため、その話は回避しないといけない。

 背中に感じる視線を無視しつつ、2合分のお米を研ぎ始める。考えることは夕食のメニューをどうしようかということだ。今日はカップ麺で済まそうと思ったが、せっかくレースで勝ったあとにカップ麺というのはよろしくない。

 もっと豪華にしてもいいんじゃかいかって気もする。スーパーで買える範囲内で。

 

 そうなると今から買い物に行くべきだ。

 俺1人じゃなく、スズカも連れて。

 お米が研ぎ終わり、炊飯器にセットが終わると何かの本を読んでいるスズカのそばへと行く。

 

「夕食の材料を買いにスーパーに行かないか?」

「行く。今すぐ行く」

 

 返事は素早く、力強かった。読んでいた本をすぐにちゃぶ台の上へ置くと、リュックサックを持とうとするがそれを止める。

 

「お金はいらないって。今日は俺に任せてくれ」

「でも……うん、わかった。アキくんに任せる」

 

 俺はそこらに放り投げてあったジャンバーを着ると、財布とエコバッグをジャンパーのポケットに入れてダッフルコートを着たスズカと一緒に家を出る。

 暖かい家から寒い外に出ると時刻5時の今は太陽がもう沈む寸前で、人気のない道に街灯の灯りがあちこちでついている。

 向かう先はすぐ近くのスーパーだ。そこへ行くため、スズカと並んで歩くが、こうして歩くのは初めてだ。最初に会ったときは雨の中でスズカを俺が肩にかついで家に連れていったし、それ以外でスズカと会うのは俺の家の中だけだった。

 女の子と一緒に歩くというのは、そんなに多くないため新鮮だ。

 そもそもこんな美人なスズカと一緒に外にいることにわずかに緊張してしまう。

 

「スズカは何か食べたいのがあるか?」

「アキくんが作ってくれるなら、なんでもいい」

「なんでもって言われると困る。嫌いなものだけでも教えてくれ」

「野菜中心なら後は好きにしていいよ。……それにしても」

「なんだ?」

「えっとね、私たちってまるで恋人みたいな会話しているね」

 

 なんて照れながら言うスズカの髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でまわしてはボサボサの頭にしてやる。

 スズカはじとっとした目つきでに俺をにらんでくるが、俺としては恋人という気分じゃない。

 

「お前がウマ娘じゃなかったら、兄と妹な関係にしか見えないな」

「つまり、今は恋人と見てくれ―――あ、待って、尻尾はやめて」

 

 変なことを言うスズカの尻尾の付け根に手をやり、さわさわと撫でるとスズカの言葉は止まり、色っぽい喘ぎ声が聞こえてくる。

 その声が聞こえてすぐに手を引っ込めるが、今まで尻尾は触ってこなかったから、こんな反応をするとは思わなかった。せいぜい、くすぐったい程度だと思っていたのに。

 次からはしないように気をつけよう。危ない気持ちになってしまうし、セクハラしたということで警察沙汰になってしまうかもしれないから。

 

 ……ああ、いつもならスズカをさわるなんてことはしないのに。

 外という開放的な空気に、レース勝利というお祝い事のために俺のテンションが上がってしまっている。

 もう早く買い物を済ませ、家に帰って飯食って寝よう。明日になればスズカは帰り、穏やかな日常が戻ってくる。

 それから恥ずかしがったスズカとは会話もなく、なんとも言えない空気の中でスーパーへとやってくる。

 今日作る料理はキャベツのステーキに湯豆腐、あとは家にある白米とインスタント味噌汁だ。

 作るものを決めると、先にその場所へ行ってから材料を買い、あとは日用品やお菓子などを買っていく。

 スズカは、買い物かごを持つ俺の後ろをついてきては、俺が手に持った商品を見たあとに値段を確かめるということをしている。

 どうも普段はスーパーに行かないらしく、なんにでも興味津々だ。

 そんなスズカがかわいく見え、頬が緩んでしまうが慌てて手で口元を押さえる。これがスズカに見られたら、また変なことを言ってくるから。

 

 スーパーで問題を起こすことなく、無事に家に帰ってきた俺とスズカ。

 それぞれジャンパーとコートを脱ぐと、エコバッグの中身を片付けたあとはそろって台所の前へと立つ。

 これから料理を始めるのだが、なぜかスズカもやる気が満ち溢れている顔をしている。

 

「スズカ。俺は今から料理をするんだ」

「わかってる」

「あまり話ができないから、向こうに行ってていいぞ?」

「私も手伝いたいの」

 

 けなげな言葉に感動し、手伝わせようとするが今日の夕食は簡単なため手伝ってもらえる要素があまりない。

 最も手間がかかるのはキャベツのステーキだが、それもすぐ作り終えてしまう。

 

「今回は簡単なのだから、すぐに終わるが」

「それでいい」

 

 決意の固さに俺は折れ、スズカにキャベツのステーキを任せることにする。

 まな板の上にキャベツを置き、包丁を手渡すがどうにも持ち方が悪い。

 

「料理経験はあるか?」

「ええと、ウマ娘は料理をおいしく食べるのが仕事の一部となっていて……」

 

 つまりは料理経験がない、と。

 それはそれで楽しい。何も知らない子に、自分好みのことを教え、育っていくというのは。

 スズカに料理技術を教えたら、将来的に俺好みの味を作ってくれるかもしれない。そうすれば料理を作らなくてもいい機会が増える。

 

 いい機会なので、丁寧に持ち方から教えていく。他は料理を作りながら教えていくことにする。

 まずは買ってきたキャベツ1玉を半分に切らせ、切った半分を4等分に。

 用意した小麦粉をキャベツの切り口にまぶす。

 スズカがその作業を楽しくしているあいだ、俺はニンニク1欠片をスライスする。次にフライパンへオリーブオイルとスライスしたニンニクを入れ、弱火で火にかける。

 そうやって油にニンニクの香りを移すのを待つあいだ、作業が終わったスズカと一緒に待つ。

 そのあいだに会話はなく、フライパンをじっと見つめるスズカのふんわりと揺れる尻尾を見ていた。

 

 2、3分ほど時間が経ったあとは火を中火に変える。そこに4等分したうちのふたつ、小麦粉をつけたキャベツを入れる。

 全部で4つの両面をいい具合に焼いたあとは湯豆腐と味噌汁も作る。

 部屋のちゃぶ台へと食器を準備し、料理を運ぶのはスズカに任せ、俺はちゃぶ台の前に座って待つ。

 用意が終わると対面にスズカが座り、お互いに手を合わせて「いただきます」と言って食べ始める。

 キャベツのステーキにしょうゆをかけ、スズカも同じように。そして同じタイミングでそれを口に入れる。

 

「うん、うまいな」

「おいしい。アキくんに教えてもらいながらだけど、私の初めての料理になるのね」

「あー、初めてならもう少し手の込んだものがよかったよな」

「ううん、最初はこれくらいでいいと思う。これより難しかったら、アキくんに全部任せちゃうだろうから」

 

 自分の力量をきちんとわかっていることに好印象を受ける。俺がいるなら、とりあえず作りたいものから始めると言っても良さそうなのに。

 料理の味付けやお米の固さ、この季節は何の食べ物がおいしいかなどの雑談をしている時に気になったことがある。

 

 今日、スズカは俺の家に泊まると言った。でも布団は俺の分しかない。夏なら布団はなくてもなんとかなるが今は2月。布団もなしにそこらで転がっていたら風邪を引いてしまう。

 スズカは寝袋か何かを持ってきたのかとも考えたが、さっきのリュックサックにはそれが入っているようには見えなかった。

 食事を終え、箸を置いた俺はまだ食べ続けているスズカに聞くことにする。

 

「なぁ、スズカ。俺の部屋は布団がひとつしかないが、お前はどうするんだ?」

「どうするって、そんなのアキくんと一緒の布団でいいじゃない」

 

 なんでもないように言うスズカの言葉に俺は硬直し、固まってしまう。

 その言葉の意味は、俺を追い出してスズカがひとりでそこで寝る。または一緒に寝るということが考えられる。

 

「なるほど。スズカは俺が服を着こんで床の上に寝ればいいと言うのか」

「だから、一緒に寝ればいいって言ってるの」

 

 表情を変えずにクールなスズカ。動揺しているのは俺だけか。ウマ娘にとって感情を大きく表現する耳の動きがわかればいいが、スズカは耳カバーをしているためにどういう感情なのかわかりづらい。

 普段からの落ち着いた雰囲気もあって、いったいどういう意味か。男女としてなら、俺はまだ早いと思うし、そもそも現役ウマ娘のスズカとしても男女的問題が起きてしまうのも。

 

「私はアキくんの温度を感じて寝たいの。今まで母親の他に誰かと一緒に寝たことなんてないから。……信頼できるアキくんのそばにいると、私の心は満たされるの」

 

 それを聞いて、俺は自分がバカだったことに気づく。もっと頭を使えと自分を叱る。スズカは常識が足りない子だが、繊細な子でいつも考えて生きている。

 時々言う、恋人的な言葉は寂しさを伝える遠まわしだったと気づいた。

 スズカと出会って5か月ちょっと。スズカのことの多くはわかったつもりでいたが、そうではなかった。

 出会いの時から、スズカは自分への自信がなく寂しがっていた。

 

 捨てられたらどうしようと悩み、自暴自棄になって雨が降る公園のベンチに傘も差さず座っていた。死んでしまいそうな雰囲気に見えたほどに。

 それが今のような仲がいい関係になったが、単なる男女との関係ではないが、俺もスズカと一緒にいると安心する。

 今の俺たちを表すなら、家族みたいな信頼と安心を求めている関係なのだと思う。兄と妹のような。

 やっと俺たちの関係が把握できたときには、スズカは静かに俺を見つめていた。

 

「わかった。寝るだけな」

「ありがとう。アキくん大好き」

 

 大好きと言われた瞬間に、驚き心臓がバクバクと動いて鼓動が早くなって顔が赤くなる。

 家族と思った途端に、そんなことを言われて動揺する俺の意思の弱さが悲しい。

 スズカのほうはそういう意識がないというのに。その期待を裏切らないように、スズカのことを考えて大事に付き合っていこう。

 言ったほうのスズカは食事を終え、興奮も恥ずかしがる様子もなく自分の分の食器を台所へと持っていく。

 

 その時に見えた後ろ姿。スズカの尻尾は普段の下がっている状態ではなく、高く持ちあがっていた。

 尻尾でも感情が分かるらしいが、その知識がない俺にはそれがどういう意味かは分からない。だから、これからはウマ娘のことについて多くを調べていこうと思った。

 食後の後片付けはスズカがやってくれるというのでお願いし、俺はテレビをつけてちゃぶ台へと突っ伏して適当な番組を見ている。

 今から勉強はスズカを気にして集中できないし、読書な気分でもない。なのでテレビを見ることぐらいしかやることが思いつかず、ぼぅっとしているとスズカが後ろへとやってくる足音が聞こえる。

 

「あの、シャワーを借りても?」

「わかった、今から出て―――」

「そのままでいていい。今日は寒いし、アキくんを追い出すというのも悪い気がして」

「そう? じゃあこのままテレビ見ているよ」

「うん。私はシャワーを浴びてくるね」

 

 といって、隅っこに置いてあったリュックサックから下着とバスタオル、俺に見せてきたパジャマ代わりの服を持って風呂場へと向かう。

 ぼぅっとしていて、事の重大さに気づけなかったけど……俺の真後ろでスズカが着替え?

 そのことに気づいたときにはスズカの服を脱ぐ音が聞こえる。

 後ろを振り向けば、すぐそこにスズカの裸が見える。

 ちょっと見たい気持ちと、見たら嫌われるという思いがせめぎあう。

 

 そのあいだに風呂場へとスズカが入っていく音がし、風呂場のドアを閉めたことで安心する。

 思春期である男子高校生にとってなんという拷問か。この精神的な辛さを、シャワーから出てきたときにもう1度耐えなきゃいけないのか。ああ、俺が信頼できるかスズカに試されている気がする今だ。

 落ち着け。こういう時は素数を数えればいいって誰かが言っていた。次にスズカが出てきたら、そうしよう。

 対策を素早く脳内で考え付いたが、予想外の音が聞こえる。

 シャワーの音だ。その水の流れる音は不規則で、音だけでも刺激的な。脳内にガツンと来る。

 ……ああ!! 女性と同棲している世の中の男性たちを俺はものすごく尊敬する。こんな生活を当たり前に続けているだなんて。その人たちはどんな精神力をしているんだ。大人か、大人なら耐えれるのか、くそったれめ。17歳の俺にはきっついぞ、こんちくしょう!!

 

 テレビの電源を落とし、ちゃぶ台に顔をうずめてはひたすら耐える。素数を数える余裕なんてない。

 断続的に聞こえてくるシャワーの音に耐え、ふと音が止まったあと、次に聞こえたのはドアの音。バスタオルで体を拭く音。下着や服を着ていく音。

 あぁ、今この瞬間に俺の精神力は鍛えられていく気がする。顔をあげまいと耐えていると、足音が俺の横を通り過ぎて正面に座る音が。

 

「次、いいよ」

 

 声が聞こえ、顔をゆっくりと上げるとパジャマ代わりの服を着たスズカが座っていた。

 耳につけていたメンコのカバーは外されてウマ耳が見え、髪はまだバスタオルで拭いただけでしっとりと濡れている。

 持ってきた白いキャミソール、その上に緑色のカーディガンを着ていて、初めて見る姿に見とれていた。

 

「アキくん?」

「ん、あぁ、入ってくるよ」

 

 スズカの声で我に返り、慌てて立ち上がるとタンスから下着と灰色のパジャマを手に取った。

 風呂場の前に行ってスズカの方を見ると、スズカは座りなおしたらしく俺に背を向けて手に持ったドライヤーで髪を乾かそうとしていた。

 俺の着替えるのに興味がないのか、または理性が強いのか。スズカは大人だなと感心しながら服を脱いでいたが、視界の端に何かがちらちらと動いた。

 

 それはウマ耳だった。

 俺の動きが止まったときは落ち着きなく耳が動いていたが、また脱ぎ始めると顔はこっちを向いていないが耳の向きは俺へと固定される。

 スズカも俺と同様に好奇心があるのかと俺だけがえろいわけじゃないことに安心し、全部脱いだあとに風呂場へと入る。

 初めて会ったときと同じように風呂場はスズカの匂いで満ちていたが、あの時よりも落ち着かなくなってしまう。

 今ではもうずいぶんと親しい仲の女の子の匂い。それが好きな子なのだから余計に。好きといっても家族、妹という意味でだが。

 変に興奮してしまっていたが、シャワーの暖かさで次第に落ち着き、終わる頃にはいつも通りに戻っていた。

 ドアを開けて風呂場を出ると、スズカは俺に背を向けた状態のままでテレビの電源をつけて見ていた。

 耳の向きは一瞬こっちへと向いたが、すぐにテレビへと戻した。

 それでも耳や尻尾は落ち着きがなく、こっちに興味があることに苦笑してしまう。

 スズカの後ろ姿を眺めながら手早く着替えると、スズカの隣に置いてあるドライヤーを取りにそばまで行く。

 

「ドライヤーを使っていいか?」

「うん、私はもう使わないから」

 

 さっきまで俺へと興味を持っていたのに、今はそっけない態度にイタズラをしてしまいたくなる。

 さりげなく、座っているスズカの耳へと手を伸ばして優しく撫でると、体をビクリと震わせたスズカはすぐにくすぐったそうに手で耳を押さえた。

 俺をちょっと不満そうに見上げてくる顔はかわいらしい。

 

「アキくんのえっち」

「今のがそうなるのか」

「逆の立場で考えるとそうなると思わない?」

「……なるな。でもスズカのかわいい姿が見れたから気にするな」

「私は気にするの!」

 

 と、俺の足をバシバシと手で軽く叩いてくる。それを無視し、スズカの隣に座るとドライヤーで髪を乾かし始める。

 俺が相手をしてくれないのが嫌だったのか、スズカは俺の髪をがしがしと乱暴に撫でまわしてくる。

 それさえも無視していると、乾きつつある髪を手で整えてくれる。

 その優しい手つきが無視しきれず、そっとスズカの顔を見ると優しい顔で俺を見つめてきた。

 

「アキくんはかわいいね」

 

 男としてそう言われるのは嬉しいような、嬉しくないような複雑な気分だ。

 スズカの顔を見続けることができないほどに恥ずかしくなった俺は、髪が乾ききってもスズカを気にしないようにして寝る時間まで本を読むことにする。

 俺がそうするとスズカもテレビの電源を切り、前に家に来たときに見ていた本を読み始める。

 その間、お互いに会話もなく本を読み進めていくも時間が進むにつれて寝る時間が近づいてきて落ち着かなくなる。

 

 これから俺はスズカとひとつの布団で寝る予定だが、寝れる気がしない。そのうち眠気で自然と落ちてしまうだろうが、それがいつになるかはわからない。

 このまま悩み続けるよりも行動に移して寝る努力をしたほうがいい。明日は学校があるし。まぁ、あまりに眠れなかったら休むことにしているが。

 

「寝るか」

 

 本を閉じて立ち上がってはスズカに声をかけると、立ち上がって本を本棚にしまう。

 俺も本棚へとしまうと、ちゃぶ台を部屋の隅に寄せて押し入れから俺が使っている1人用の布団を敷く。

 それからオイルヒーターの電源を切り、部屋の灯りをオレンジ色の小さなものへと切り替える。

 暗くなった部屋に敷いた布団。目の前にはスズカという美少女がいる。

 どうにも落ち着かない心を抑え、先に布団に入るとスズカにも入るように言う。

 スズカは戸惑うことなく布団へ入り、横になる。

 

 お互いに天井を見て、会話もなく息遣いが聞こえるだけ。

 おやすみぐらい声をかければよかったと思うが、今から言うにはタイミングが難しい。でも言わないと落ち着かない。

 どうしたものかと悩んでいると、スズカが声をかけてきた。

 

「アキくん」

「どうした?」

「ありがとう。今まで私を支えてきてくれて。あなたがいたから、私は頑張れた。レースにも勝てた。不安になった時にはアキくんのことを頭に思い浮かべて、やってこれたの」

「なに。兄として当然だ」

「私のことは妹なの?」

 

 寝返りの音が聞こえ、すぐ耳元に息がかかる。振り向くとすぐ目の前にスズカの顔があり、薄暗い今の状態でも少し寂しそうな表情が見えた。

 

「今はそれでいい。私を大事にしてくれるアキくんは私のお兄ちゃんで」

 

 スズカは柔らかく微笑むと、素早く俺に顔を近づけたかと思うと頬に温かく、柔らかな唇の一瞬だけの感触。

 

「おやすみなさい」

 

 キスの意味について考える時間もなく、スズカはそう言って俺に背を向けた。

 その背中を見ながら、仲良くなれたんだと嬉しく思う。それは友達以上で兄と妹のような関係で、家族が新しくできたような。

 信頼ができ、いとおしい俺のスズカ。

 今ある愛情はこれから恋愛としての意味に変わるかもしれないが、今は親愛という愛情でいっぱいだ。

 

「おやすみ」

 

 自然と俺の手はスズカの頭へと伸び、スズカはビクリと体を震わせたあとに俺の手へと押し付けてくる頭を何度か優しく撫でたあと俺も寝ることにする。

 布団に入った時とは違い、今は穏やかな気分だ。

 スズカとの親しく、心休まる関係がこれからも続いていって欲しい。お互いに甘え、甘えられることのできる存在として。




2018年4月30日投稿

連載版 サイレンススズカ:私の走る理由
3話まではこれと同じ話です。
https://syosetu.org/novel/155411/

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