テレビやラジオ、新聞までもがチョコと強くメッセージを伝えてくる日。
それは2月14日のバレンタインデーに他ならない。
トレセン学園も世間一般の波に乗り、チョコを送りあっている今日。
それは友達同士で。またはお世話になっている人や好きな人に想いを伝えるためのプレゼントとして。恥ずかしがりながら、時には愛情を込めて。
それらは自分に関わらなければ、とても素敵なことだと思う。いや、むしろ僕もそういう素敵なシチュエーションでもらいたかった。
僕はトレーナーであり独身の20代な若い男ということもあって、今日1日はトレセン学園に来る前からずいぶんとウマ娘たちに追いかけまわされた。
グラスワンダー専属となって2年目のトレーナーではあるけど、教官や教師たちの手伝いなどといったことでウマ娘たちとふれあう機会がある。
だからグラス以外にも親しい子はいるが、今年はもうすごかった。去年はグラスや専属となったばかりの僕に遠慮をしていたから少なかったんだけど。
それで今年はどれくらいすごかったかと言うと、デパートの限定商品を追い求めるお姉さま方のような勢いと気迫があった。
チョコと同時に渡してくる言葉は『あたしのトレーナーになって欲しいの』『恋人になってください』というのが10人以上はいたと思う。
思うというのも、朝から全力で逃げ回っていたから人数はよく覚えていない。
多人数に追われて逃げるのは障害競走をしている気分だった。そんなことをしたから、朝にはぱりっとしていたスーツは午後の放課後になる頃にはしっかりとよれよれになってしまっている。
そんなふうに疲れても結局はウマ娘たちに追いつかれる。
トレーナー室へ着く頃にはスーツのあらゆるポケットにチョコとメッセージカードが詰められていた。
「おかえりなさい、トレーナーさん」
「ただいま、グラス」
扉を開けて暖かいエアオンの空気を感じる12畳ほどの狭いトレーナー室のソファには、茶色の髪が美しいグラスがジャージ姿で座って小説の本を読んでいた。
僕が来ると本を閉じては穏やかな笑みで迎えてくれる。
グラスは見た目からして、おしとやかな清楚という感じで普段の言葉遣いも見た目そのとおりだ。だから、グラスと一緒にいる時間は心が落ち着いて好きだ。
「トレーニングは終わったのかい?」
「今日はバレンタインデーの話ばかりを他の子たちにされて落ち着かないのでストレッチだけで終わりました」
「それでいいさ。無理にやってもいいトレーニングはならないからね」
そう言って申し訳なさそうにするグラスの手がふれあうほどの近さで右隣に座り、なんでもないことのように言う。
ソファに深く腰掛けて、大きく深呼吸をする。その時にふわりと感じたシャンプーの香りが僕の心を落ち着かせてくれる。それにちょっとだけふれている僕とグラスの小指の温度も。
「ずいぶんとお疲れですね?」
「本当に疲れたよ。バレンタインデーとは恐ろしい日だ」
ソファのすぐ前にあるローテーブルへと強引に渡されたメッセージカード付チョコを置いていく。
スーツのあちこちに入れられたものは全部で18個と大小さまざまなものがある。
「去年は私からだけでしたけど、今年はずいぶんともらいましたね」
「グラスのおかげでトレーナーとしての結果が出ているし、今は色々なウマ娘たちとふれあう機会が増えたからね」
今はグラスの専属トレーナー教官たちの手伝いの他に、グラスが休みの時には教官の代わりとしてトレーニングを見たり、ウマ娘たちの課外活動に付き合っている。
そのせいか、今年は朝から走りっぱなしで疲れた。チョコをもらうと断るのが面倒なことになるため、壁や屋根に登ったりと障害競走なことをしていた。
結局は強引に渡されてしまっているけど。
「これ、食べるんですか?」
「あぁ……どうしようかな。苦いのが嫌だからそういうのが入っていたら嫌だし、変なのが混じっているかもしれなくて怖いかな。うん、包装を開けて中を見たら捨てるよ」
「それは少しひどいような気もしますが」
グラスは眉をひそめて僕に文句を言うが、僕だってそれはひどいと思う。だけどそうしたくなるのも、メッセージカードを見ればわかるはずだ。
僕はチョコからメッセージカードを18枚全部抜き取り、グラスへと押し付けるようにして渡す。
グラスは渋々それを受け取り、1枚ずつゆっくりと見ていく。
その間、僕はシックなまたは派手なチョコの包装を開封しては中身を出し、確認だけしてからテーブルの端っこへと押しのけていく。
「これはなんというか……情熱的ですね?」
「僕とグラスしかいないから素直に言ってもいいよ」
「手書きだから感情がよく伝わってきて、本人の熱心さは感じますけれど、その、なんというか……」
「押しつけがましいってとこかな。まぁ、バレンタインデーの日に後押しされたこと自体は悪くないんだけど」
問題はメッセージの内容だ。
以前逆スカウトをされて断った子がチョコと一緒に伝えてきたのだ。複数の子たちから渡されたものをまとめると『グラスワンダーさんより私のほうが良い結果を出せるし、エッチなこともしてあげます』と。
他にもレースのことは関係なくて『片想いしてもいいですか』とか『あなたを忘れるために着たシャツをください』とそういう告白めいた恋愛感情をぶつけられている。
もちろん全部のものに対する返事はNOだ。でもそれは相手へ伝えるなんてことはしない。1度反応をしてしまうと、余計に構ってくるから。
「これはどうします?」
「断るから全部捨てるつもりだけど」
「はい、ではそのようにしますね」
僕の言葉を聞いたグラスは笑みを浮かべているもどこか怒っているようで、ゴミ箱にメッセージカードを捨てるときは勢いをつけて投げつけるように捨てていた。
怖い雰囲気が出ていたグラスだけど、戻ってきたときにはおしとやかな様子で座ると僕の左手へ自身の手を載せてきた。
グラスのほっそりとしてすべすべしている手がしっかりふれあっていると、心がときめいて甘い快感がやってくる。
想いはまだ伝えていないものの、グラスへ恋心を持っている僕としては興奮を抑えるのが辛い。
グラスがトレセン学園を卒業するときには告白しようと思っているが、こうやって来るのは理性にとても悪いものだ。
かといって嫌というわけでもなく、嬉しいから受け入れている。
去年のクリスマスに僕のことをどう思っているか聞いたとき、グラス自身は僕のことを兄みたいだと言っていたから、こういうのは信頼の証だと思っている。
「こんなにたくさんもらっていますけど、私からのチョコは必要ですか?」
「グラスからならいつだって喜ぶよ」
「本当ですか? こっそり私以外の子からもらったチョコを食べてません?」
「僕はグラスからもらえるチョコがいいんだ」
「まぁ、そんな嬉しいことを言っていただけるなんて。ちょっと取ってきますね」
ソファから立ち上がり、壁にかけてある学生バッグからチョコを入れてあるだろう小さな紙袋をふたつ持ってくると、また僕のすぐ隣へと座ってくる。
今度は肩がぴったりとくっつき、手は上から優しく握るようにして繋いできた。
これほど近くにいるのはずいぶんとひさしぶりで、たしか今年の正月以来だった気が。
そうやってくっつくことに嬉しいのと同時に、グラスからチョコをもらえる嬉しさで安心する。
「ビターが苦手だとは知っていますけど、もしかしたら食べるかもしれないと思って甘いのと苦いのを作ってきました」
「甘いものの後になら食べられるかもしれないけど、去年と違って今回は手作りなんだね」
「はい。とは言っても、ただ溶かして形を作っただけですけど」
「嬉しいよ。その手間の分だけ大切に思ってくれているようで」
「私はいつだってあなたを大切に思っていますよ?」
嬉しい言葉を言ってくれるグラスから渡された青いドット模様の紙袋を受け取って紙袋を開くと、中には僕の手の平より小さなハートの形をしたチョコがふたつ入っている。
手作りだけど綺麗に仕上がっているチョコからは甘さと苦さを脳へと感じさせてくれるカカオ特有の匂いがした。
その香りは市販の安い板チョコではなく、初めての香りで食べたことはないものの高級チョコの雰囲気がする。
来月のホワイトデーに何を返すか、実に悩ませてくれるも今は食べるほうが先だ。
「これ、どっちが甘い?」
「お好きなほうから食べてください。私的にはあなたの苦そうなものを食べた顔が好きなので、こちらをおすすめしますけど」
僕はグラスの指差したのとは別のチョコを指でつまむと、口の中でに少しだけかじり、口の中で溶けていくチョコがきちんと甘いのに安心する。
甘いだけでなく、カカオの豊かな風味がある。
生きていた中で安いものしか食べたことがないから、これ以上チョコのことを褒める言葉が思いつかない。
だからグラスにかける言葉はシンプルで、けれど想いを込めた一言になる。
「おいしいよ」
「それはよかったです。頑張って作ったのでとても安心しました」
グラスのウマ耳がぴこぴこと動き、繋いだ手をぎゅって握ってくるのを見ると、喜んでくれているのが言葉だけじゃなくて心からだというのがわかって嬉しい。
言葉だけだと本当に喜んでいるのか心配になるけど、こういうふうに行動でわかるととても安心する。
女心は難しいというのは人もウマ娘も同じであり、それに年齢は関係ないだけに苦労をするものだ。
「では次に食べるのは苦いほうですね」
「……グラスが作ってくれたんだから、食べたい気持ちはあるんだけど」
「そんな嫌な顔をしなくてもいいですよ。もうひとつは私のにしますから」
苦笑を浮かべたグラスは袋の中から苦い方であるチョコを手にとって食べていく。その時のチョコをかじっていくリズムのいい音は聞いているだけで落ち着くようだ。雨がしとしと降る時のような。
食べていくグラスを見ていたけど最後の部分は口にいれず、くわえた状態で僕をじっと見つめてくる。
グラスはどこか緊張したようで少し息が荒い。チョコにアルコールなんて入った味はしなかったし、なんでそんな目で見てくるんだろう。
そんな悩みをグラスへ聞く前に、グラスは繋いでいた手を離すと両手で僕の背中と頭を力強く抑えてくる。
そうして後ろへ逃げようとするも逃げられず、グラスはゆっくりと僕の顔を近づけ、止まる。
グラスのくわえたチョコが僕の口にぶつかり、目を閉じるグラス。
そこまでされたところでようやくわかる。
これはグラスから愛の告白なんだってことが。
目を閉じてから口を開け、グラスからのチョコを受け入れる。
すると僕の口へチョコを押し込むと、そのままキスをしてきた。
グラスの唇はマシュマロを連想するほどにやわらかく、ふれるだけで気持ちよくなる。
「うん……んっ、ん……♡ 私の初めてのキスはどうですか?」
チョコレートを口にふくんで甘い声を出してくるグラスのキス。
そのチョコは苦味を感じるものだけど、すぐ近くで感じるグラスの熱い吐息や甘い声。それらでチョコの苦味なんて気にならなくなる。
キスをしてすぐに液体となってとけたチョコは、それぞれ僕とグラスの口の中にある。
その状態で舌と舌がねっとりとからみあうチョコ味のキスは気を飛ばしそうになるほどに気持ちがいい。
グラスとのキスはこれが初めてだけど、グラスははじめから積極的にしてくる。
キスをしている時の息継ぎはまだ下手だけど、段々と上手になってきた。
僕には以前付き合っていた恋人はいたけど、キスなんて滅多にしない関係だった。
だからこそ、こうやって求めてくれるのは嬉しくなる。
そうして普通のキスよりも甘さと苦み、ビターな香りがある。
キスを続けているうちに溶けたチョコは飲み込んでしまい、終わりにしようと思ってもグラスはまだ離してくれない。
「グラス、ちょっと、苦しい……」
「そのまま苦しんでください。女の子たちに追いかけられて、たくさんチョコをもらうような人には私の物だという証をつけないといけないんですから。
まだ恋人にならなくてもいいと思っていましたけど、私以外の匂いがたくさんついてるのはもう我慢できません」
キスを止めて僕の言葉を聞いてくれたものの、どうにも今日の行動はグラスには不満だったようだ。
僕だけ酸素を求める荒い息をし、グラスは普段トレーニングで慣れている苦しさなのか平然としている。
苦しむ中、理解するのはグラスが僕のことを異性として好きだということ。
今まで恋人に甘えるような行動や言葉があるのはわかっていたが、グラスは抑えが効く子だから、恋人を求めるにしてももっと先だと思っていた。
だから僕はトレーナーと教え子という関係がなくなる卒業まで待って告白をしようと考えていたんだから。
そのことを伝えようとするも、グラスは僕の口を唇でふさいで強く抱きしめてくると勢いよくソファへと押し倒される。
普段からしているトレーニングで鍛えられているグラスの体。だからといって筋肉質なだけじゃなく、女の子らしい体のやわらかさや胸のふくらみがあって少しドキドキする。
でもそれを正直には感じ取れない。いまだ僕を抱きしめているグラスから離れることはできず、されるがままだから。
「んっ、ちゅっ、ちゅ……♡」
グラスからの一方的にされるキス。
でも僕がグラスのことを好きだということを伝えたくて自分から舌を動かし、そして耳や髪を優しくさわっていく。
少し前まで子供だと思っていたけど、グラスは段々と大人っぽくなってきている。
それは見た目だけでなく、中身もだ。初めて会った頃より化粧やスキンケアに気をつけ、レース以外でも俺と話題が会うようになってきた。
出会った時から素敵な女性ではあったけど、ここ最近はもっと素敵になってきている。
「グラスはいい女性になってきたよね」
「それはあなたのそばにいたくて。あなたに選んでもらいたいから化粧や上品な仕草を頑張っているんです」
髪を撫で、キスの勢いが止まったところで口を離したグラスに僕は力を入れて抵抗をしてこないグラスから抜け出すと、今度は逆にソファへとグラスを押し倒す形になる。
そうやってグラスを見下ろしている状態で僕は僕自身の言いたいことを言う。
「僕は前からグラスしか見ていないよ。卒業してから告白をしようと決めていたぐらいに」
「それは……私にとってずいぶん甘い言葉ですね」
「僕からしてもね。恥ずかしさのあまり、今なら苦いチョコを食べても大丈夫なぐらいだ」
「次もチョコ味でやりましょうか?」
「チョコを食べる時にグラスとのキスを思い出すからやめよう。興奮しちゃうから」
「わかりました。では次もチョコを用意してキスをしましょうね」
うきうきとした様子でグラスはテーブルへと手を伸ばし、僕が色々な女の子たちからもらったチョコが入った箱をひとつ取る。
その箱の中から丸いチョコを取って口に入れて転がしている様子は見えるけど、きらきらとした目で僕を見つめてくるのはなぜだろう。
理由を知りたくないけど、G1に勝った時と同じぐらい目がきらきらしているから情熱的になっているグラスから逃げられる気がしない。
「あのグラス? グラスワンダーさん?」
グラスは僕の呼びかけに答えず、僕の背中に手を回すと無言で強く抱きしめてくる。
そうして僕とグラスはまた甘くて苦いキスをしていく。キスだけの、長く幸せな時間を。