暗い雨雲と共に、梅雨の雨がしとしとと降ってきている少し肌寒い午後の1時。
担当のウマ娘であるナリタブライアンを山に連れてきた、担当の僕は1人静かにエンジンを止めた車の中で待っていた。
軽自動車の後部座席にはブライアンの着替えや練習用具が置いてあり、けれどブライアンはここにはいない。
1人雨の降る山道を走りに行ったからだ。
本来の予定だと、日頃のストレス発散と練習を兼ねて晴れの山道を走る予定だったが急に雨が降ってきた。
そのため、やめようと止めるも赤いジャージを着ているブライアンは「これぐらいの雨なら、むしろいい練習になる」と言って勢いよく走っていった。
僕が声をかける間もなく1人で行くと、残された僕は持ってきた小説の本を読むことにする。
僕とブライアンの関係は今年で2年目。その育成方針からは放任主義と周囲からよく言われるけど、ただ話す回数が少ないだけ。
話す時はお互いに向かい合って話すし、冷めた関係というものではない。必要な時には必要なだけ言葉を交わす。
今日だって車を出してくれと頼みに来たし、時には一緒にご飯を食べに行こうと誘い誘われる間柄だ。
ブライアンが帰ってきたら、僕の方からご飯を食べに行こうと誘うつもりだ。最も誘いに乗ってくれるのは気まぐれで3回に1回くらいだけど。
それでも1人暮らしで恋人もいない僕としては今日のような天気が良くない日には人恋しくなって1人でいたくないときがある。30歳になった今では恋人が欲しいなという気持ちがある。
そんな気分になった時は今のように読書をすればいいわけだけど。
そう思いながら車に当たる雨の音を聞き、シートベルトを外してリラックスした状態で山の中で静かに小説を読む今の時間は贅沢だ。
アパートにいると周囲の生活音や車のエンジン音ばかり聞こえる。
でもここでは自然の音しか聞こえてこない。それが耳に心地よく、トレーナー室で高くていいスピーカーを買って自然音を流そうかと考えるほどに。
それを実行しないのはお金がないのと、ブライアンと一緒に山や海に来たときに聞くからそれでいいかと思っているから。
雨音と風で木々の葉っぱがこすれる音を聞きながら小説を読んでいると、不意に後部座席が開く音が聞こえる。
その方向へ顔を目を向けると、雨で全身を濡らしたブライアンの姿があった。
背中まであるポニーテールのつややかな黒髪とウマ耳がぬれ、金色に輝く鋭い目が僕を見つめてくる。
ブライアンが帰ってくると、僕は手に持っていた小説を助手席のダッシュボードに入れると車のエンジンを動かして暖房を動かす。
まだ冷えている車に、大きな胸を持つブライアンはこの小さい車に入りづらそうにしながらも後部座席の荷物を強引にどけて車内へと濡れたまま入ってくる。
当然、座席はびしょびしょになるけどもそれくらいなら後でかわかせばいいだけだ。
ブライアンがドアを閉めてから僕は顔の向きを戻すと、ルームミラー越しに走りに行くときよりもすっきりした表情のブライアンを見る。
「楽しかったかい?」
「別に。いつもとやることは変わらないからな」
そっけない言葉のやりとり。でもこれが僕とブライアンの普通だ。
ブライアンはバッグからかわいたタオルで顔と髪を拭くと、不意にルームミラー越しの僕と目を合わせてくる。
それを5秒ほど続けると、ブライアンはタオルを手放して急にジャージの上着を脱ぎ始めた。
灰色のスポブラが見えてしまったところで、僕は殴るように勢いよくルームミラーの角度を手で変えると、目を閉じて着替え終わるのを待つことにしている。
そうしたらブライアンがつまらなそうに文句を言ってきた。
「そんなに私の体を見るのは嫌か。自分から脱いだんだ。見たぐらいで文句は言わないぞ」
「教え子を性的な目で見たくないだけだよ。まぁ、大人の体だったら文句を言われても見てしまうだろうね」
「……今、ブラジャーを外した」
「言わなくていいよ!?」
突然、いらついた声で着替え実況を始めたブライアンに驚きつつも目を開けないように気をつける。
でも目を閉じていても音は聞こえてきて、衣擦れの音が僕の耳によく聞こえてくる。
ブライアンの着替え実況も最初の報告だけで、あとは無言のまま続いていた。時々強い視線を感じたけど、それが意味するのは何かわからない。
こんなにも近い距離で着替えをしてくるのはめったにないことなせいか、ブライアンが近くにいるのはちょっとだけ心臓がどきどきと強く動いてしまう。
普段は背中合わせで本を読み、肩をくっつけて映画鑑賞をすることはあるのに、音だけでこうなるだなんて。見えるよりも見えないほうが興奮するというのはこういうことかと1つ勉強になった。
少しの時間が経ってから着替え終わったらしいブライアンは僕に終わったと声をかけると、新しいジャージを着たブライアン後部座席から車の中を通って助手席へとやってくる。
移動する際にブライアンの尻尾が僕の顔や手にぶつかり、尻尾はまったく気にかけていなくて雨でぬれたままなのがわかる。
ブライアンはいつどんな時でも尻尾のことを考えていなく、練習やレースで汚れた時やライブ前の手入れは僕が全部やっている。
そのおかげで上手なブラッシングや手入れ用オイルに詳しくなったことはいいことだけど。でも時々でいいから気にして欲しいところ。
まだ少女と言えるから彼女に許されているけど、大人になったときに1人でうまくできるか不安だ。
「今回ぐらいは尻尾を気にしてもいいと思うんだけど」
「私は気にしないが」
「僕が気にするの。風邪を引いちゃうでしょ」
尻尾のことを言われて不満げに僕をにらんでくるブライアンの両肩をつかむと、強引に体を後ろ向きにして僕の方へと向ける。
いつも似たようなやりとりをしているからか、さしたる抵抗もなくすんなりと尻尾を僕に向けてくれた。
まったく水分が拭き取られていない尻尾のぬれた状態を見てから後部座席に手を伸ばすと、ぬれていないバスタオルを取って雨でぬれた尻尾を優しくつかんで丁寧に拭き始めていく。
強引にやって尻尾の毛を抜かないように注意しつつ、尻尾の根元から。
今回は練習後にブラッシングする普段と違い、今は尻尾に水分が多いから何度もふいていかないといけない。
そうしておとなしくしているブライアンの尻尾をタオルでふいていくと、ふとブライアンから色気がある声がもれ出て来た。
「ん……、あっ、んっ……」
「僕の理性に悪いからやめて欲しいんだけど?」
「私は悪くない。お前の手つきがいやらしいせいだ」
「そんな理不尽な」
早口で恥ずかしそうに言うブライアンが少し水分が取れた尻尾でバシバシと僕の手を叩いてくるが、僕はそれを無理につかんでタオルでふいていく。
しっかり水分を取ったあとはドライヤーで乾燥したいところだが、車の電力的な問題でできないのが悲しい。
早く帰って自分でやって欲しいところだ。いや、あとで姉であるビワハヤヒデに電話して面倒を見てもらうか。
タオルを後部座席へと戻し、帰りはご飯を食べに寄るか、家に戻るかを考えようとしたらブライアンは僕の読んでいた小説を手に持って表紙を眺めていた。
「本を読んでいる時というのは、どんな気分になるんだ?」
「そうだなぁ……知らない世界を体験できる幸せというものかな」
「知らない世界、か」
その答えがいいのか悪かったのかわからないけど、それを聞くとブライアンは小説を開いて読み始めた。
読んでいる間に車を動かしてもいいけど、それは邪魔をしてしまうだろうから5分ぐらいはこのまま待つことにする。
ブライアンが真剣な顔で本を読み始めると、僕はやることがなくなって昔の印象深いひとつのことを思い出してしまう。
それはスカウト合戦の時で周囲のトレーナーたちが走る能力がどうこうとか将来の展望を言っている時に「レースは勝つか、負けるかだ」とブライアンが言ったときに、僕が「勝利か、より完全な勝利かだよ」と小さくつぶやいた言葉が気に入られて、専属トレーナーとなった。
実績が少なかった僕に周囲からの嫌がらせの言葉が何か月か続いたけど、練習の内容やブライアンがレースに挑んでいくなかでそんな声は消えていった。
「おい、帰るぞ」
「もういいかい?」
「ああ。もう腹が減ってたまらん」
「お昼も食べてなかったからね。すぐに帰ろうか」
小説を戻してシートベルトを装着したブライアンを見て、ルームミラーを直して僕も同じようにシートベルトをつけると車を発進させた。
山道を降りていくなか、帰りはどこで食べようかと考える。
焼肉屋、ラーメン屋、食べ放題の店と候補はある。でも、どれでもいいというわけでもない。
肉が大好きで、待たずにたくさん肉が食べられるところが好みだから。
この食事代は経費で落ちず、僕のポケットマネーから出て大きな出費となっているけど、ブライアンのためと思えば気にはしない。
レースで力強く走り、ライブでかっこいい歌声を出すブライアンのファンだから。
最も近い場所にいるファンとして考えれば、これくらいのお金なんて出させてもらうほうが嬉しいと思う。
その代償として、削るところは削っているために家の暮らしは質素に暮らしている。
「今日はどのお店で食べようか」
「肉があるならどこでも……いや、少し私のわがままを聞いてくれないか」
「いいよ。無理なら無理って言うけど」
「それで構わない。私はトレーナーの家で肉を食べたい」
「僕の家で?」
1人暮らしで恋人もいなく、部屋はそれほど散らかってはいないから問題はないけど。
でも今まで1度もブライアンが来たことはなく、僕が誘うとかブライアンが行きたいと言う事はなかった。
別に禁止していたわけではない。仲良くはあるけど、それ以上の、たとえば恋人のような関係に思われないように無意識でお互いに一線は引いていた。
だと言うのにどうしたんだろう。
「ダメ、だろうか。私が知らないだけで恋人がいるというなら行くのはあきらめるが」
あまり弱気な声を出さないブライアンが、今だけは不安そうな声を出しているのが意外だった。
運転中にちらりと横を向くと、声と同じような目で僕を見つめている。そんなのを見てしまうと、僕の家でご飯を食べるぐらいいいかと思う。
女の子を連れ込むわけでもなく、担当であるウマ娘の子なんだから。
「いないよ。恋人を探してはいるんだけどね」
「いないのか? 誰かを好きだということもなく?」
「それ以上聞かないで。まだ恋を見つけられないんだ。ブライアンが僕なしでやっていけるようなら見つけられるかもね」
「無理だな。私はお前がいないと無理な練習をするぞ? それにお前から別な奴に担当が変わるなんてごめんだ。今から来る奴はみんな私の名声目当てだろうからな」
「それなら仕方ない。一緒に独身を貫こうか」
「それはお前1人でやってくれ。私は結婚する予定なんだ」
「僕も将来的にはしたいね」
ブライアンとプライベートな話は時々するけど、恋愛系の話をするのは非常に珍しい。今まで恋愛はバカバカしい。走るウマ娘なら、それよりも練習とレースに情熱をそそぐべきだと言っていたのに。
いったい何があったんだろうかとワクワクする。レースしか頭にないんじゃ、ひどく落ち込んだときに気分転換は難しいと思っていたから、今はいい傾向だと思う。
ここから話を続けたいと思ったけど、続けると僕の恋愛経験や好みやらがバレるのでやめることにする。
これ以上話を続けたくない僕の空気がわかったのか、ブライアンもそこから先は話を広げることなく静かになった。
だから僕は今日これからの予定を言う。
「僕の家で食べるなら、スーパーに寄って材料を買おうか」
「それはつまり、手料理、ということか?」
「そうなるね。あ、お寿司や総菜を買う―――」
「お前の手料理がいい。……待て。これはお前の財布に負担がかからないようにと考えただけだ。別にお前が作るものをすごく食べたいと言うわけでは、いや、食べたくないわけではないが!」
僕の言葉をさえぎり、力強く言う僕の手料理が食べたいと言ってくるブライアン。でもその直後、慌てたように大きな声で言う。
その後は言葉が続かず、山を下りて赤信号で止まったところで、僕の体をパシパシと手で軽く叩いてくる。
青信号になるまでそれは続き、ブライアンは不満そうに窓を眺めたままでスーパーの駐車場に着くまでは一言も会話をしなかった。
普段は愛想が悪いけど、こういうふうにかわいいところを見るといいなと思う。そのいいな、はブライアンが大人だったら交際を申し込みたくなるほどに。
「ブライアンはここで待っているかい? それとも一緒に?」
「……遠まわしなやり方は私らしくないな」
駐車場に着いてシートベルトをはずし、ブライアンはどうするか聞くと僕に目を合わせず小さくつぶやいた。
その言葉からどんな料理の希望が出てくるか待っていると、シートベルトをはずしたブライアンは僕のほうへ身を乗り出すと両手で僕の首へと手を回してきてをしっかりと押さえてくる。
そして僕を見つめたまま素早く顔が近づき、勢いあるキスをした。
そのキスは柔らかさやときめきを感じることもない、歯と歯があたって痛みがあるロマンが足りないキスだった。
でもこれがファーストキスになる僕には、それでも心臓がドキドキとして急に目の前にいるブライアンに女性らしさと愛おしさを感じた。
「ブライア―――」
どうしてこんなことをしたか聞こうとする前に、ブライアンは僕の背中に手を回して抱きしめるような態勢になってから続けてキスをしてくる。
今度はゆっくりと顔を近づけ、優しくふれるようなキスをし、そのあとは唇を強く押し付けてくるキスへ。
息が苦しくて離れようとするも、ブライアンは僕を力強く抱きしめたまま離してくれそうにない。
とても長い苦しみと甘いキスを感じていると、不意にキスの感触がなくなっていく。
鼻先がふれあいそうなほどに近い距離で僕たちは荒い呼吸をしながら見つめあい続ける。
色々と考えることは頭でぐるぐると回っているけども、今すぐに聞きたいことはひとつ。
「僕はまだ君に恋愛感情を持てないんだ」
「それならこれから先、私がお前を落とすこともできるんだな?」
「……ノーコメントで」
自分の感情に素直でいたかった。でも年齢とトレーナーとウマ娘という関係性の都合上、恋人関係になれるかは言えない。
「お前がいると私は安心してやってこれたんだ。これからもそうありたいから覚悟してくれ」
そう言ったあとにもう1度強引に短いキスをしてきたあと、ブライアンは車から出て僕の側に回ってくるとドアを開けてきた。
ブライアンはキスで力が抜けたまま立ち上がる気力がない僕を見るとため息をつき、でも嬉しそうな顔をしながら両手で僕を引っ張り上げる。
「しっかりしてくれ。お前が作る肉料理には期待しているんだ」
「男の料理にそれほど期待しないで欲しいんだけど」
「期待するさ。なにせ、好きな男の料理を食べられるんだからな」
男前すぎる言葉に、僕は心がときめいてしまう。
恋愛感情を持っていないと言ったけど、キスと今の言葉がきっかけで恋愛感情が目覚めてしまった。
さっきとは違って今ではブライアンのなにもかもがキラキラに輝いてみえる。
そうなってしまって思うことは、遠くないうちに僕は攻略されて恋人関係になるだろうと。
そんな未来があると考えると、悪くないと思う僕がいた。