空いっぱいに広がる黒い雲から強めの雨が降っている午後の5時。
6月中旬の今は梅雨なだけあって雨の日が多い。
つい30分前までは降っていなかったが、天気予報どおり夕方からの雨だ。
雨が車の屋根をリズムよく叩く音を楽しみつつ、俺はフロントガラスの向こう側を見る。
エンジンを切って車を止めている場所は、トレセン学園の外にある正門近く。
ウマ娘たちが強くなってきた雨から逃げるようにランニングからトレセン学園の中へ慌てて走っていく姿を眺める。
その中には俺の担当であるウマ娘はいなく、あいつのことだから雨の中を楽しんでいるだろう。
元々俺が車でここにいるのは遠くの場所で走りたいと言ったフジキセキの要望だったが、雨が降りそうなのとヒシアマゾンがいたからという理由で俺をここに待たせてトレセン学園の周囲を走っていった。
わざわざ車を持ってきたのに使わないのは無駄な労力を使ったとため息が出たものの、こうして車の中で静かに読書ができる時間は幸せだ。
トレーナー室にいると同僚のトレーナーたちや学園職員、フジキセキをはじめとしたウマ娘が来るから1人静かな時間を長く確保できないから。
歳を取るほどに自分だけの静かな時間の大事さがわかってきた。28歳というおっさんになった今では特に。
2分ほど窓の外を見続けていたが、フジが来る気配なく、読書へと戻ることにした。
事前に雨に濡れたフジが帰ってきてもいいように、後部座席にはバスタオルを敷き詰めていて、畳んだ状態のバスタオルも多く置いている。
髪や服、尻尾が拭けるようにと。
体を拭いた、短い距離とはいえ車ごと学園の中へ連れていく予定だ。
いつ帰ってきてもいいように準備を整え、安心した気持ちで本を読んでいると、不意に運転席側の窓をノックする音が聞こえる。
本から顔を上げると、そこには笑顔を浮かべて雨に濡れたジャージを着ているフジがいた。
フジは首筋にかかるぐらいの黒髪と、水彩絵の具のような淡い水色の目を持っていて男性アイドルのような美形の顔を持っている。
168㎝という高身長もあって女性でありながらイケメンと言ってもいい。胸が大きくても。
そんなフジを見ていると、視界の端にはフジとランニングしていたヒシアマゾンが学校の中へと急いで駆け込んでいく姿が見えた。
俺はフジに向かって指で後部座席を指差すと、ダッシュボードへと本を置く。
そして置いたと同時に扉が開き、ひんやりとした雨の空気と一緒にフジが車の中へと入ってきた。
フジが扉を閉めたのを確認してから車のエンジンを動かして暖房を入れる。
「ランニング楽しかったか?」
「楽しかったとも。雨が降っている街は普段と表情が違っていて新鮮だったよ。あと、雨が降ってきたときに帰りたがるアマさんの反応がかわいくてね」
ルームミラー越しにタオルで体を拭いていくフジキセキを見ながら、そう返事を返してくる。
どんなことでもそうだが、練習というのは単純な作業の繰り返しが基本だ。
でも時々は違う練習を取り入れると、新鮮な気分になれる。
「怪我はしなかっただろうな?」
「もちろん。雨が降ってきたときは走る速度を抑えてたさ。君が怪我には気をつけろ、と毎日のように口を酸っぱくして言うものだから無意識にね」
「それは普段から言っていた甲斐があったというもんだ」
髪や体を拭きながら、すっきりした顔になるとルームミラーで見る俺と目線を合わせてくる。
フジの様子を確認すると、そのまま雨に濡れた姿を見続けるのは俺の理性にダメージを与えてくるので目を離して窓の景色を眺める。
ボーイッシュでイケメン女子なフジだが、17歳の少女であることは変わりない。
専属の担当となって2年目だからこそ、距離感を大事にしていきたいと思う。
フジは俺の前なのに、気にすることなく服を脱ぐことがよくある。
注意してもあまり気にせずに『トレーナーさんなら大丈夫でしょ?』と抜群の信頼を寄せてくれるのは嬉しいことではあるが。
時々男と思われていないんじゃないかと思うことがある。今だってジャージを脱ぐ音が聞こえてくるし。
車の中でならいいが、人前で無防備な面を見せていると俺が現役女子高生なウマ娘に手を出す変態と噂になってしまう。
そうなるとフジが学園を卒業したあとに契約してくれるウマ娘はいなくなるだろう。
フジがタオルで体を拭く音が聞こえなくなるのを待ってから、俺は声をかける。
「学園の中に戻るぞ」
「それはもう少し待ってくれないかな」
「なんでだ」
ハンドルに伸ばしかけた手を戻し、後部座席へと体をひねってフジを見る。
そうした途端、目の前はフジがいて、ジャージの前を開けた状態で強引に助手席へと来ようとする。
ただでさえ狭い軽自動車の中で動くもんだから、フジの水気がある尻尾がべしりと俺の顔へと当たった。
助手席へと座って満足そうにしているフジだが、タオルを敷いていないから濡れるのは気になる。まぁ、あとでフジに掃除させればいいか。
「冷たいんだが」
「ごめん。でも君に尻尾を拭いてもらいたかったんだ」
「自分で拭け。男に尻尾を預けるな」
「君になら私は気にしないけど?」
「気にしろ。俺だって男なんだ。そういう気持ちはないが、そういう言葉を言い続けているとムラムラするぞ」
「イケメン女子と呼ばれている私に、女の子らしさを感じるのかい?」
「……考えてみたが、そんなのは感じてないな」
そんなことを興味なさそうに言うと、フジは濡れた尻尾をべしりと俺の太ももへと叩きつけるようにして置いてくる。
「てめっ! 俺のスーツが濡れたじゃねえか!」
「私が濡れたんだ。トレーナーである君自身も濡れたっていいと思うんだけど」
「よくねぇよ、このイケメン女子が。俺はお前と違って雨に濡れるのは嫌なんだ」
俺はフジが手に持っているバスタオルを奪うと、尻尾をごしごしと雑に拭き始めた。
「尻尾はウマ娘にとって大事な部分だ。少しは大事にしてくれないかい?」
「だったら俺に任せるんじゃねえよ」
「信頼している君にしてもらいたいという乙女心だよ、これは」
フジに乙女心。
どのウマ娘よりも男心を持って女の子たちに甘くささやいているフジが、乙女心。
あまりにも似合わなくて、つい手を止めてフジの顔をじっくりと見てしまう。
「なんだい、そんな目で見てきて。私だって1人の女性だよ? 信じられないならジャージを脱いでブラでも見せようか?」
「見たくねぇよ。だから、脱ぐな。いや、脱ぐなって! 尻尾を丁寧に拭くからやめてくれ!」
その返事を不満に思ったらしく、脱ごうとするフジの手を止めようとするが力で負ける。
俺の理性を刺激してくるのはやめて欲しい。いくら恋愛対象ではないとは言うが、美人な子が無防備にされると非常によくない。
明日にでも貞操観念が強いウマ娘に教えてもらおう。さしあたってはシンボリルドルフやエアグルーヴだろうか。
そう考えている間にもジャージの上を脱いだフジに仕方なく譲歩すると、フジは気分よく俺の太ももへと尻尾を置きなおした。
ひどく大きなため息をつくと、毛先から根本までをじっくり丁寧に拭いていく。
そうして話もなく雨音とエンジン音、尻尾をタオルで拭く音だけが車内に響く。
「ねぇ、トレーナー」
「なんだよ」
「読書って楽しい?」
「あん?」
「ほら、よく本を読んでいるから。トレーナー室の本棚にシェイクスピアや柳田国男、サン=テグジュペリに寺山修司があるじゃない」
「そうだな……。ギャリコの雪のひとひらは文章が綺麗なんだ。平凡な女性の一生を雪のひとひらに例えていて。人生を肯定する話だったよ。読んでいて浄化される気分になる。
しかし、作者名までよく覚えているな」
「好きな人の物は好きになりたいからね」
「そういうことを言うのはファンか、好きな男ができた時にしておけ」
「君がそういうのなら、次に言うときはそうするよ」
「そうしてくれ」
フジはこういうふうに他の女の子に言うように、同じような感じで俺へと言葉を投げかけてくるのが困る。
今ではそういう言葉にはなれたが。はじめの頃はどういう対応にすべきか悩んだが、子供として扱えば対処は少し楽になった。
「それで楽しいの?」
「読書がか? 知らない世界を体験できるってのはいいぞ。楽しいというよりも幸せな気分になれる」
「幸せかぁ。そういうとわかる気がする。私も女の子たちにサプライズをして喜んでもらえると嬉しいから」
「だろう?」
「……ところで私の幸せのために尻尾の根本まで拭いてくれないかな?」
話の途中で根本以外の尻尾を拭き終わり、尻尾を掴んで投げるようにフジのところへ移動させるとそんなことを言ってきた。
今まで尻尾の根元を週1回の間隔で俺がブラッシングしてきたが、根本までというのはいつも拒否していた。
担当ウマ娘との距離感はある程度持っていたい。
「なんでそれが幸せになるんだ」
「ほら、私の好きな男性である君にしてもらうのは、今までやってもらったよりもきっと気分がいいなと思って」
いつも俺をからかうようなことを言うフジだが、今までのと違って声が違う。
表情も笑みを浮かべてはいるが、どことなく真面目な印象がある。
こういうのを見ると、フジに何かあったかと思う。それも精神が不安定になるような。
フジに言葉を返さず、フロントガラス越しの雨を見る。
外の道路にはもうウマ娘たちはいなく、傘を差して歩いている人が2人いるだけだ。
「フジ、今日はずいぶん攻めてくるな。何かあったか?」
「特別なことはないよ。ただ、アマさんに恋愛相談をしたら、関係が変わるのを怖がっていては進めないのが嫌だと気づいたからね」
「恋愛相談か」
「そうだよ? 君に恋人へなって欲しいと告白しようと思っているんだ」
実質的にフジから告白をされてしまった。
ムードはなく、いや、狭い車内でふたりきり。雨の中というのは多少あるかもしれないが。
さりげなく雰囲気作りもなかったから、事前に回避もできなかった。
好意を向けてくれるのは嬉しいが、どうしたものかと悩む。
年齢差は9歳差だが、それは別に気にしない。
学生だから、というのは卒業まで待てばいい。
「俺はお前を女性としては見れていないぞ」
「なに、私が卒業するまでに君を落とせばいいだけさ」
「自信があるな」
「いいや、自信なんてないさ」
いつものように自信ある力強い声なのに、弱気な言葉を言ったフジについ振り向いてしまう。
フジは俺が振り向くと少し恥ずかしそうに目をそらして不安そうに耳を動かしている。
「今のように誰も来ない場所で、君と近い距離にいる。だから言った。でも今のがきっかけでよそよそしくなるのが怖い自分もいるんだ」
「変なことをしなきゃ大丈夫さ」
「恋愛アピールをしてもいいということかい?」
「常識の範囲内と、俺の評判が悪くならない程度になら」
「ありがとう、私のトレーナーさん」
その時の笑みが普段はイケメンか子供っぽさがあるのに、この時だけは大人の色気があって1人の女性として見てしまうほどの綺麗なものだった。
無表情を維持しようと頑張っているから、声や顔には出ていないが内心は心臓がバクバクだ。
やばい、普段からこういう大人な雰囲気出されたら手を出してしまそうだ。
今日フジがいなくなったあとに、フジの母親と連絡を取らないと。担当になって会ったときに、週1回の連絡をすると約束したからな。
このあとにするのは定期的なのではなく、お宅の娘さんに迫られたということを電話で言うのだが。
フジの母親なら、フジが暴走しないように抑えるか、おっさんである俺との恋愛を止めるだろう。
そう思いながら、シートベルトを締めるよう言ってから車を走らせた。
いつもと違う場所で、いつもとは違う様子のフジの本音を聞けたのはいいことだったなと思いながら。
今日という雨やフジの相談に乗ったヒシアマゾンに感謝もして。
そして、その日の夜にフジの母親に電話をしたんだが『娘を末永くよろしくお願いします』と言われた。
なんでそうなった。
母親というものは娘を心配するんじゃないのかと、控えめな表現で聞いた。
その返事はこうだった。『私の娘が好きになった男の人となら幸せになれるから』と。
そう言われると恥ずかしくなり、長い時間を空けてから「…………わかりました」と言う。
親公認になったフジの恋愛。
それを真面目に考えて行こうと思う。