新緑の色が美しい葉桜の時期が来ている5月1日。
今日は普通の日だけども特別な日だ。
それは俺の担当ウマ娘であるサイレンススズカの誕生日だから。
誕生日という日に朝から降り始めた強めの雨は、テレビの気象予報によると分厚く黒い雲は晴れることがなく、今日いっぱい降るらしい。
放課後は俺が担当しているウマ娘たちを連れ、スズカが行きたがっていた山でランニングをする予定だった。
でも雨が強いと風邪を引くことや、すべって転ぶこともあるから中止だと朝の段階で伝えている。
自分のせいではないけど、スズカを喜ばせることができないというのは強い罪悪感がある。
スズカの誕生日プレゼントを買い忘れたということもあって。
失敗に落ち込み、ひとり静かにトレーナー室で椅子に座っては窓越しにしとしとと降り続ける雨をぼぅっと眺めていく。
今は昼前である授業時間のため、学校全体が静かだ。
部屋にある暖房を設定しているエアコンの音がよく聞こえるほどで、スーツを着ているだけだから暖房がないと今日は寒い。
先輩トレーナーたちは今が冬かと思うような厚着をしているけど、俺は27歳という若さだからか寒さはほどほどにしか感じない。
ただ、雨が降って静かだとなんだか気分が落ち込んでしまう。
窓の外に見える向こう側はグラウンドだが雨だから誰もいない。今のように雨音とエアコンの音しか聞こえないとつい自分のことを考えてしまう。
トレーナーとして能力が低い俺は、1勝ウマ娘をひとりだけ育てたあとは色々なトレーナーのところを巡り渡ってサブトレーナーの勉強をしていた。
トレーニングの指導はウマ娘に向いているメニューを組めているとは自分では思えず、日々頭を悩ませている。
怪我をさせないことを強く考えているせいもあって、過保護になってしまうところとか。
よくないのは走りだけじゃなく、ダンスやボーカルもだ。
怪我をせず、楽しくライブなどをやっていくということが俺の基本方針だから。
こういう方針、俺でも人並み以上にできていることもある。
それは一生懸命勉強した化粧と、動画投稿サイトでやっている企画だ。スズカのペン回し解説講座やタイキの色々なものをなんでも焼いてしまうバーベキューなどの動画人気は評判がいい。
そのふたつがあるから、自分にわずかな自信を持ってトレセン学園での仕事を続けられている。
あと担当ウマ娘がスズカだけでなく、他にタイキシャトルといった3人のウマ娘が契約を結んでくれているのはありがたいことだ。
あまりにもウマ娘たちからの評判が悪ければ学園側から退職勧告が通知されるが、何もないのは彼女たちのおかげだ。
全員が寂しがり屋というのが少し気になるが、時々遊びに出かけ、バーベキューを短期間で何度もやってはついつい甘やかしてしまっている。
学園側からすごく褒められていることがひとつあって、それは公私を区別してウマ娘たちと接しているのがいいと。
トレーナーの中にはセクハラやパワハラや暴力沙汰になるのもあり、たまに週刊誌やテレビで報道されることもある。
若くて美人な子たちが多いウマ娘を見ていると、手を出したくなる気もわかる。
でも俺は絶対に手を出さないと決めている。
トレーナーと教え子の恋愛なんて面倒なだけだ。
恋人関係になったら未成年に手を出したという問題が起き、学園卒業後に付き合う、結婚しようと思ってもそれまで我慢ができないからだ。
特に問題となりそうなのがウマ娘を恋人にしたら、その子だけを優遇や甘くしてトレーニングに支障が出そうだから。
隠れて付き合い、他の子たちにも平等に接することができるのなら問題はないのだろうが。
俺の好みは年上女性で胸が大きくおおらかな性格だから、ひとまずそういうことは考えなくて済むからありがたい。
こうやって恋愛について無駄に考えてしまうのはやる仕事がないということもあるが、つい昨日届いた手紙も関係がある。
差出人は地方のトレセン学園で仕事をしている友人からで、結婚式をするという知らせだ。
そいつは『子供なんかに手を出すわけがないだろ?』と自信たっぷりに言っていたというのに。
仕事机の上に置いてある手紙や同封されたウマ娘と一緒に写っている写真をちらりと見て、大きなため息をついてしまう。
こうやって恋愛のことを考えてしまうのは、全部あいつが悪い。
あいつも俺と同い年なのに教え子のウマ娘が学園を卒業するのを待って結婚をやるなんて。
9歳年下だぞ? そんな年下の子に恋愛感情なんて出るものかと疑問だ。
妹みたいに思うというのならわかる。
お願いされればスズカとふたりきりで遠くの場所に行くし、タイキが大好きなバーベキューは月に1度やっている。
だが、学生相手に恋愛関係はなぁ……。
俺自身、結婚したいという気持ちはある。愛する人と暮らし、子供が欲しいというのが。
でも友人のようになりたくはない。
もし俺がスズカやタイキに恋愛感情を持ったらどうなるか、と考え始めてしまうが自分で自分のほっぺたを強く叩いて恋愛を頭の外へと追い出した。
乱れた心を落ち着かせるために雨を集中して眺める。
窓にポツポツとあたる音、ザッーと地面にあたる音、それらが聞こえると不思議と気分は落ち着いていく。
3階にあるトレーナー室の窓から、落ちてゆく雨をただ見ているだけでも意外と飽きないものだ。
ぼーっと雨を見ていると、コンコンと扉をノックしてくる軽い音が聞こえてくる。
部屋にある壁掛け時計を見ると午後12時だった。
授業終了の時間を教えるチャイムの音はここまで聞こえず、知らないうちに昼ご飯の時間になっていたことに気づく。
「入っていいぞ」
「失礼します。ご飯を食べに来ました」
やわらかい笑みを浮かべて入ってきたのは、菓子パンや総菜パンを5つとペットボトルのジュースを持ってきたスズカだ。
スズカに限らず、俺が担当しているウマ娘は時々こうしてお昼ご飯を食べにやってくることがある。
俺より少し低い身長をしているスズカのウマ耳は緑色の覆いをつけていて、明るいさらさらとした栗毛の髪には白いカチューシャ。
右耳には緑と黄色の小さなリボンを付けている。
ワンピースタイプの青を基調としたセーラー服の制服を着ていて、走りやすそうな小さい胸元には大きな青いリボンと蹄鉄の形をしたブローチがついている。
下は白色に青いラインが入っているスカート。太ももまである白いニーソックスな制服に皮靴のローファーだ。
服は綺麗にアイロンがかけられていて、靴もよく手入れされているから几帳面だなと見るたびに思う。
几帳面さは物静かな性格から来ているんだろう。
走ることに関しては俺と強い口調で言い争うこともあるが、基本はおしとやかなお嬢様と言った雰囲気だ。
メジロのお嬢様たちに混ぜても違和感がないくらいに。
そういう上品な雰囲気がある青い目をしたスズカは茶色の尻尾を嬉しそうに揺らしながら、部屋の隅に置いてあるパイプ椅子を手に取って俺の前へとやってくる。
「今日は来るのが早いな」
「前もって買っていたんです。ソウマさんと早く食べたくて」
やわらかく微笑むスズカは俺のことをソウマと下の名前で呼んでくる。
これは前にサブトレーナーとしていた時から続いていて、名前の方が他の人と間違わずに呼べるからという理由だ。
そうスズカが呼ぶ影響で他の娘たちも俺をそう呼ぶようになってしまった。
名前で呼ばれるとトレーナーではなく、歳の離れた兄と妹のような関係に思える。
呼び方のせいかスズカやタイキといったウマ娘たちとは他のトレーナーと比べると仲が良すぎる気もする。
指導能力が足りない俺にとっては、仲良くできるのも自慢できることだから問題が起きていない今はこの関係でいたい。
トレーナーの中には俺よりも親密にしている人がいるから、その人たちを超えないようにすればいいと考えている。
自分の担当ウマ娘にお兄ちゃんやお姉さまと呼ばせている人もいるらしい。
いったいどんなプレイをしたいのかトレーナーの性格が気になるところだ。
スズカは俺の机の前にパンを置いてから持ってきた椅子へと座る。
やってきたスズカはすぐにご飯を食べるかと思っていたが、不思議そうに首を傾げて俺を見つめてきた。
「私が来る前は何をしていたんですか?」
「外を見ていただけだ」
と、今も雨が降り続いている外を見る。
するとスズカは立ち上がると、俺に体がくっつくほどのすぐそばへとやってきては同じように外を見始める。
スズカから髪のいい匂いと、俺の太ももの上に尻尾を置いてきたのが気になってしょうがない。……スズカは俺を同年代の女子と同じように扱っているんじゃないかと気になってしまう。
俺が変に意識してしまうから、太ももの上に置かれた尻尾を雑に手で振り落とす。
でもすぐにスズカはまた同じように尻尾を俺の上へふわりと置いてくる。
「……スズカ」
「どうかしましたか?」
スズカは俺の迷惑そうな声を気にもせず、ちょっかいを出していることが実に楽しそうだ。
こういうからかいモードに入ったスズカは無視するに限る。
振り落とす、乗せる、というのを2度続けたあと、3度目に乗せてきた時には小さくため息をついてスズカの好きにさせることにした。
もうスズカに何をされても気にしないようにして、ぼんやりと窓に強くあたるぐらいに降ってきた雨を気にしながら外を見る。
「……雨しか見えませんけど楽しいですか?」
「飽きはしない。雨が落ちるとこや雨音なんかは心が落ち着くからな」
「わかります。ランニングで火照った体に雨があたると冷たくて気持ちがいいですから。雨音は周囲の雑音を消して走ることに集中できますし」
「ランニングジャンキーのお前と一緒にするな」
いつでも走ることしか考えていないスズカにあきれた声をぶつけるが、スズカは楽しげだ。
スズカといえば走ることを第一に考えているウマ娘だが、彼女のことを理解する出来事があった。
スズカと知り合うきっかけになった2年前の夏合宿。
あの頃のスズカは最初のトレーナーの教えに従い、今やっている大逃げを抑える走りをしていた。
だが、それでストレスが溜まり無茶な自主練をしている中で左足の筋肉断裂。
入院が終わり、治ってからの復帰レースでは全力を出せずに負けて落ち込んでいる時期のことだった。
◇◆◇
始まりは2年前の夏だった。
あの時の俺は担当するウマ娘がいなく、教官やトレーナーたちの補助をする仕事をして日々を過ごしていた。
ウマ娘を育てる能力が自分には足りず、このままトレセン学園にいては気分が落ち込むだけだと辞めることを考えていた。
そんな時に夏合宿で見て欲しい子がいると以前お世話になった、チームを持っている先輩トレーナーから頼まれたのがきっかけだ。
スズカの2人目のトレーナーだが、先輩は自分じゃスズカに対応しきれないと言ってきた。
だから、ウマ娘が怪我をしないことを第一に考えている俺へと助けを求め、俺はそれに応じた。
辞めようとしていたところだが、辞める前に怪我で苦しんでいる子になんらかの助言や優しさをぶつけたかった。
俺がトレセン学園で誰かのためになった、という自信を持つために。
夏合宿に行く前日に俺へ見てもらいたいウマ娘がいる寮のラウンジを使い、夕方にふたりで顔合わせをした。
赤いジャージを着ている子の名前はサイレンススズカ。
デビュー戦を勝つも2度目のレースで筋肉断裂をしても頑張り、復帰レースをしたウマ娘。
でもレース結果はよくなく、それ以降レースに出ず日々暗い顔で練習を続けている。
雰囲気はと暗くテーブル越しにソファへ座っている彼女はこの世界のすべてがどうでもいい、と言っているかのように俺は感じとれた。
「明日からの夏合宿で君を見ることになった者だ。名前は―――」
「名前を聞く必要はありません。サブトレーナーのようなものでしょう?」
目を合わせることなく、静かで小さな声でそう返事をしてきた。
最初から拒絶してくる子にどうすればいいか悩む。
俺たち以外の周囲には楽しそうな声が聞こえている中、ここだけはとても冷えた空間に。
その後も練習ややる気について話しかけたが、まともな返事が返ってきたのは最初だけだった。
それだけならやる気も向上心もない子と判断する。
だけど何かが気になった
自分でも理由はわからないものの、彼女は走ることをあきらめていない。
翌日から夏合宿は始まり、俺は受け持った子について考え、行動する日が始まった。
サイレンススズカのトレーニングを俺が担当し、練習内容や食事についても指示を出す。
スズカは何も言わず、俺に従ってはくれた。
冷たい目をし、誰の助けをも必要としていないような、暗く重い雰囲気を出しながら。
一生懸命で、だけど辛い表情で練習をするサイレンススズカ。
そんな彼女が気になり、俺はサイレンススズカと同じチームの子や友達たちから話を聞いた。
怪我をした時と後の様子や走り続ける理由。彼女は昔からああだったのかと。
みんなが色々なことを言った。でも意見の方向性は3つだった。
サイレンススズカをやる気がないと見ている子がいた。
サイレンススズカはやる気があると見ている子がいた。
なんとか助けて欲しいと俺にお願いしてくる子がいた。
サイレンススズカは人とあまり話をしなく孤立している。でも気にかけている人がいる。
色々な人の話を聞き、サイレンススズカとはどういうウマ娘かと練習の時間やそれ以外の時間で考えるようになった。
夏合宿の間は彼女のことばかり考えていた。
でも彼女の心へふれようとはしなかった。
今までまともにウマ娘を育てられなかった俺が手を出して悪化したらどうしようという想いがあって。
でも決めた。
3週間ずっと悩み続けてから俺がやりたいことを。
決心をしてからスズカと話すきっかけを作れたのは夏合宿が始まって4週間が過ぎた頃。
夕食を終え、長風呂をしたあとに海風へとあたりたくなり上着を着こんで夜の海へと向かう。
夜空は雲が少なく、満月に近い月が地面を明るく照らしてくれている現在。
夏とはいえ、夜の、それも海ともなれば風が冷たくて震えるほどに寒い。
ジャージの上にはパーカーを着ているものの、長時間いると風邪を引いてしまいそうだ。
そうまでして海に来たのはスズカに対する指導がうまくいかないため、気分を変えたかったから
でもそのおかげでチャンスが巡ってきた。
砂浜でスズカがひとり寂しそうに座っているのを見つけたからだ。
スズカは両ひざを抱えて抱きしめているように座り、顔は吸い込まれそうなほどの黒く、けれど月明かりで綺麗な海を見つめていた。
俺はしゃりしゃりと砂を踏みしめる音を鳴らしながら、スズカから人ひとり分ほどの距離を開けて座る。
「サイレンススズカ、ここに座ってもいいか?」
「はい。構いませんよ」
あぐらで座り、スズカと同じように海を見つめる。
時々横目でスズカの様子を確認する。
ジャージの上にフリースを着ているスズカは何度も見てくる俺が気になったらしく、文句を言いたそうに不満げな様子でにらんできた。
「私に何か用事でもありますか?」
「そういうわけじゃないが」
「私はあなたと仲良くしたくはありません」
「俺はしたいがな」
「私のトレーナーに言われたからですか。だったら何も言わずに練習を見ていてください。何もしていなくても、あなたの指導はよかったと言いますから」
「俺自身の意思で来たし、君の助けになりたいんだ」
「じゃあなんですか。私の担当になりたいとでも?」
「違う。ただ、他の子が心配していたから気になっているんだ。君が走れなくなっている今を」
夏合宿の間、見ているあいだに俺も強く心配しているようになった。そういうことを言うよりも先にスズカは勢いよく立ち上がると、まっすぐに歩いて海の中へと入っていく。
何をするのかと慌てて俺も立ち上がり、波打ち際まで行ったところでサイレンススズカは美しい栗毛の髪をなびかせて振り向いた。
海に膝まで浸かり、俺を強くにらみつけて。
「他の子たちが私を気にしている? それがなんだって言うんですか。あなたは人の意見を気にして動いているんですか?
私は悲しまれるようなウマ娘ではありません。
調子が悪いのはまた筋肉が断裂したらどうしようと考えてしまうだけで、それさえなくなれば私は先頭で走り続けます。
いつでもどんなレースでも! 私が、私だけの景色を見るために!!
私は走りたいだけなんです。でもこのままだと学園を辞めることになって、どうしようかわからないんです。
サイレンススズカはもう走れない。そう噂をされてどんなに苦しいかわかりますか?
はじめは誰もが私の走りを気に入ってくれた。でも今は誰もいない。それは今、私と契約してくれているトレーナーさんも。
私の苦しみが全部なくなってしまえばいいのに、と今も思って……。
もう、私、ここからどうすればいいか……」
悲痛な想いと叫びに俺の心が痛む。
夏合宿まで接点がなかった俺たちだ。俺がどう心配し、声をかけても警戒し、いらだつのは当然だ。
落ち込んでいたら優しい言葉をかけようと思ったが、それは意識の彼方へと投げ捨てる。
今までは夏合宿中になんとかできればいいと思っていた。
でも俺では依頼された期間だけではどうにもできない。
サイレンススズカは変わらない。
彼女は自分の力で変わっていくことを望んでいた。
俺ができることは邪魔をしないだけ。そう思えてくる。
「早く私を心配したらどうですか。この冷たい海は私の足に悪いですよ?」
自虐的な笑みを浮かべるサイレンススズカを見ると、俺は月を見上げてから意思を決める。
仕事のことなんてどうでもいいと。
ただこんな悲しそうに笑い、誰も頼ろうとしない子に手を差し伸べたかった。
目の前にいて、助けを求めてこないサイレンススズカを。
俺はサイレンススズカとまっすぐに目を合わせ、服が濡れることも構わず海の中へと入っていく。
スズカは俺が近づくとうろたえたように少しずつ後ろへと下がる。
「なんですか、あなたは。私に何をさせたいんですか。何を期待しているんですか。私は1勝しただけの強くないウマ娘なんですよ?」
「お前の強さなんかどうでもいい。俺はお前が、サイレンススズカというウマ娘が苦しむ姿で走って欲しくないだけなんだ」
「それはあなたの自己満足じゃないですか。私のことを考えていないというのがはっきりしましたね」
「そうじゃないというのを知って欲しい。夏合宿が終わってからも俺はお前を近くで見ていたいんだ」
悲鳴のようにも聞こえる、俺を拒絶する声。
だが俺はそれを聞いても前へと進み、一緒にやっていきたいと言いながら近づいていく。
「近づかないでくだ―――」
俺に向けての言葉を言い終える前に、サイレンススズカは足を取られたのか驚きの表情をしながら海の中へと勢いよく倒れ込んでしまう。
それを見た俺は慌てながらも急いで近づき、水の上へ出ようともがいている右手を握る。
はじめは俺の手を振りほどこうとしてきたが、すぐに俺の手をしっかりと握ってくれた。
俺はサイレンススズカを引っ張り上げて立たせると、手を握ったまま力強く砂浜へと向かって引っ張っていく。
そうして波打ち際までたどりつくと、手を離す。
乾いた砂浜まで行って倒れ込むように座る俺たち。
「サイレンススズカ」
「……いちいちフルネームで呼ばないでください。呼ばれる身としてはあまり気分がよくありません。これからはスズカと呼んでください」
冷たい風で体を震わせながら名前を呼ぶと、サイレンススズカは、スズカは恥ずかしそうにしながらスズカと呼ばせてくれた。
「あなたがそんなにも私を心配してくれるのなら任せます」
「なに、俺に任せてくれればG1に勝つ……とまでは言えないが、怪我をさせないように気をつける」
「そこは勝たせると言ってください。かっこ悪いですよ」
そういってお互いに小さく笑いあい、そしてくしゃみをした。
海に入るまでとは違い、スズカの信頼を得て。
自分でもこれほどスズカに入れ込んでいるとは思わず、月明かりに照らされているスズカは妖精を連想するかのように幻想的で、すごくきれいだ。
そんな姿を見て、一瞬だけときめいてしまい口説きそうになったのは内緒にしておきたい。
そのあと俺たちは仲良く風邪を引き、練習を再開したのは3日後からだった。
しっかりとホテルで体を休めている間に、スズカは自身のトレーナーから話を通して俺がスズカの担当ウマ娘になって欲しいということになった。
俺はその話を受けてスズカの担当トレーナーになった。
正式な契約変更は学園に戻ってからになるが。
夏合宿が終わり、朝の4時に起きてしまった俺はせっかく起きたから、と着替えて朝日を見に行くことにする。
まだ日が昇っていない海は暗く、今日が帰る日だからトレーナーや練習しているウマ娘の姿はいない。
波打ち際からだいぶ離れた砂の上に足を抱きかかえるようにして座る。
ぼぅっと暗い海を見て考えるのはスズカのことだ。
契約して後悔はない。俺がまたトレーナーとしてやっていこうと思えたことに感謝している。
でもスズカほど才能が眠っていそうな子に、俺がうまく指導できるのかと不安だ。過去のレース映像や練習風景を見るとG1を勝てそうなほどに思えて。
自分が怪我をしないことを重視しての育成方針だが、スズカの能力を引き出せるのか不安でたまらない。
スズカのおかげで救われた気持ちになるが、勝手に不安になって落ち込むなんて情けない。
大きなため息をつき、気分が低くなっていると波音に混じって砂を踏みしめる音が聞こえてくる。
その音はどんどんと近づいてきて、俺の真横まで来る。
「隣、座ってもいいですか?」
「ああ」
「では失礼します」
横を見ると俺からひとり分ほどの距離を取ってスズカが膝を抱えて座ってきた。
俺の目をじっと見つめ、口をゆっくりと開く。
「何か悩みごとですか?」
「……お前のことで悩んでいたんだ。俺はあまりウマ娘を育てるのが上手じゃない。これから先、お前が不満に思うようだったら契約変更をする」
「言いませんよ、そんなこと」
「ずいぶんはっきりと言うんだな」
「今だから言いますが、このままだと学校を辞めるしかないと思っていたんです。ですから面倒な私を拾ってくれるあなたがいて感謝しているんですよ」
「責任が重いんだが?」
「とても重いですよ? あれだけ情熱的な言葉を言ってくれて、私みたいな面倒な子を拾ってくれるんですから」
「心配で見ていられなかったんだ」
「それでいいと思います。もし私と同じように苦しんでいる子がいたら助けてあげてくださいね」
「気が向いたらな」
そう言って暗い海を見る。時間的にはもうすぐ日の出だ。
せっかく寒いのを我慢してここにいるんだ。その瞬間を見逃したくはない。
スズカも俺から視線を外し、同じように暗い海を見ているのがわかる。
でもすぐにスズカから言葉が出て来た。
「……あの、これから何と呼べばいいですか?」
「トレーナーと呼べばいいだろ」
「いえ、その、トレーナーと呼ぶのは少し嫌な気分があって」
最初のトレーナーが原因で、スズカが大怪我をしてしまった。だから嫌悪感を持っているんだろうか。
「好きなように呼んでいい」
「ええと、それじゃあ……ソウマさん?」
「名前を知っているのか」
「昨日、ちょっと調べたのでそれで、今のように呼んでいいですか?」
「スズカの好きにしてくれ」
「ありがとうございます、ソウマさん」
なんだろう、このくすぐったい感じは。
美人で年下の子から下の名前を呼ばれるのは。
年下が趣味ではないが、ちょっとばかり照れてしまう。
このよくわからない気持ちはフタをして放っておこうと考えていると、太陽が水平線の向こう側から淡い光と共に顔を出す。
スズカがきっかけでまたトレーナーとして仕事ができる今回は日の出の記憶と共に長く記憶するだろう。
救い、救われた俺たちの関係を忘れないように。
スズカが学園を卒業するまではトレーナーを続けようと心の中で誓った。
◇◆◇
そんな2年前の夏合宿の時があって今の俺がいる。
あれからスズカがきっかけで、俺が気になったウマ娘は3人増えた。
精神が不安定で飛び降り自殺未遂をした子やトレーナーを殴って退学になりかけた子たちを。
今ではみんな仲良くやっていると思う。
困った子にはよく話をし、どうすれば問題を解決できるか一緒に悩んだりもした。
それぞれの癖に合わせ、シューズや蹄鉄といったものは俺が自費でオーダーメイド品を購入。
今ではどの子も3勝以上しているという、以前の俺なら考えられないほど良い成績だ。
スズカはG1を勝てていないものの、G3やG2のマイルと中距離を勝てる素晴らしいウマ娘になってくれた。
スズカだけでなく、他の子たちも重賞を勝つといった成績を残し、嬉しい限りだ。
あの夏合宿が終わってから、俺も猛勉強をした甲斐があったというもの。
レースやライブに関する勉強だけでなく、コミュニケーションも積極的に取っていて小さな心配でも相談に乗っている。
その中でもスズカは特に好意的で、俺を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくるし、暇さえあれば俺が仕事をしているだけなのにそばにいてくれたり、もっと役に立とうと考えているらしく料理を練習し始めた。
それが犬に懐かれているみたいで微笑ましく思う。
あの夏の時とは違うが、今と同じようにふたりきりで静かな状況だと似ているなと思ってしまう。
今日が5月1日で誕生日プレゼントを忘れてしまったことに気づいて、焦っているのを思い出さなければ。
去年はお祝いしたんだから、今年もしないというのはおかしい。これも全部結婚したと手紙を送ってきた奴が悪い。
以前から自慢や惚気話を話してきた奴が!
そう怒りをぶつけて、でもやっぱり忘れた俺が悪いと落ち込む。
するとスズカがじっと俺を見つめてくる視線を感じて顔を向ける。
「なんだ」
「いえ、色々と表情を変えていたのでどうしたのかなと思いまして」
「スズカと仲良くなった夏合宿のことを思い出したんだ。それで次には友人の結婚式とスズカの……いや、3つ目は忘れてくれ」
「私がなんですか? 何か忘れたんですか? 今日という日に関連する何かが」
スズカはからかうような笑みを浮かべ、尻尾で俺の足をぺしぺしと軽く叩いてくる。
このわかってやっているスズカはかわいらしくあり、こんなやりとりができるのも仲良くなった証拠のひとつと言えるだろう。
だからこそ、今なら言える。その後は苦笑して許してもらえると!
「あー、怒らないで欲しいんだがスズカのプレゼントを忘れてしまったんだ」
「プレゼントですか」
「去年は渡したから今年もと思っていたんだが」
「仕事で忙しかったとか、なにか気になることがあったんですか?
スズカは怒りもせず、叩いてくる尻尾の動きを止めると心配そうに俺を案じてくれる。
「2日前に親友から結婚式の招待状が来てな。自分の人生について考えていたんだ。でも家で考えると落ち込むだけで、学園でなら気分が変わるかと思って」
俺は机の上に置いてあった手紙を取り、スズカへと手渡す。
手紙を受け取ったスズカは、招待状や同封された写真を見ていくうちに優しい笑みを浮かべている。
「良かったじゃないですか。でも、なんでこれを見て落ち込むんです?」
「俺も結婚を考える歳だなと思って」
「結婚、ですか?」
なぜか、少し緊張しているスズカから返された手紙を机の上に置くと、椅子に深く腰掛けると天井を見上げて目をつむる。
「俺も結婚を真剣に考える歳か、と考えてはいるが。そのうち恋人ができるだろという甘い考えじゃ結婚をしないで人生終わりそうだからな」
「でもトレーナーさんなら今のままで自然と流れで結婚するかと思いますけど。ほら、トレセン学園のトレーナーは高収入ですし、女の子はたくさんいますから」
「学生、女トレーナー、学園関係者とたしかに女性は多いな。でも職場恋愛をすると面倒なことになるし、ウマ娘の子たちは恋愛対象じゃない」
「そんなに限定すると出会いがなくなってしまうと思いますけど。近くを見るのも大事ですよ?」
目を開けて天井からからスズカへ顔を映すと、すぐ目の前にスズカがいて俺を見下ろしていた。
それは威圧感があり、いつも穏やかなスズカらしくない雰囲気だった。
別に変なことを言ったわけじゃないはずだ。
言ったことを思い返すが、問題になるようなことはない。
「近くで妥協するよりも理想を大事にしたいね。たとえば恋人にするなら、胸が大きくて優しく包容力がある人がいい」
そう言うとスズカはすぐに自分の胸へ両手を当て、自身の胸元をじっと見たあとに俺へ冷たい目を向けてくる。
無言の抗議を受けているが、それに構わず俺は言葉を続けていく。
「合コンをしたほうがいいかもしれない。今まではスズカたちと自分の勉強で忙しかったが、余裕が出て来たからな」
「……私を捨てるんですか?」
「違う。結婚前提の恋人が欲しいだけだ。捨てるというようなことは言ってないぞ?」
「でも、それって私じゃない人と一緒にいるってことじゃないですか。嫌です、そんなの。私はあなたの隣にいて、ずっと一緒に同じ景色を見ていきたいんです」
「まぁ恋人ができたら今のようにみんなで出かけてるとか、バーベキューをやる機会は減るだろうが」
スズカは今まで見たことのない不満そうな表情をし、尻尾をぶんぶんと強く振って俺の足へとぶつけて来る。
にらみつけてくるのが少しばかり怖く、かといってなだめようにもなんと言えばいいのかわからない。
すごく落ち着かないままスズカと見つめあっていると、スズカはふと何かをひらめいたらしく首を勢いよく振って窓の外を見た。
そうして耳や尻尾が落ち着いたかと思えば、雨降っているのに窓を勢いよく開け放つ。
突然、窓を開けた理由を不思議に思っていると俺は、スズカに腕を力強く掴まれて上半身を窓の外へと放り投げ出そうとしてくる。
だが、危ないということだけに気付いて必死に両手で窓枠を掴んで俺は抵抗をした。
叫ぶことも考える余裕すらなかった。
スズカは俺の左腕を掴み、腰のベルトを持って落とそうとする。
冷たい雨が頭に降り注ぎ、見える景色は3階下にあるアスファルトの地面。
状況がよくわからないが、混乱した頭で落とされないよう抵抗するのでいっぱいいっぱいだ。
ここから落ちれば、死ぬというのに頭は落ち着きをすぐに取り戻してくる。
でも俺が抵抗しているとはいえ、ウマ娘が本気ならもう落ちているだろう。
「ずいぶんと冷静なんですね。もっと慌てるかと思いました」
「それはこれが現実的じゃないからだ」
「現実じゃない? 私がこうしてソウマさんを落とそうとしているのに」
「スズカの言うとおり、これは現実だ。でも現実的じゃない」
「……私にはその違いがわかりません」
現実的じゃない。
それはスズカのような、がんばり屋で寂しがりで甘えたがりの子がこんなことをするとは思えないからだ。
実際に俺を突き落とそうとしているが、今の状況は夢を見ているかのような気分がちょっとだけある。
スズカへ顔を向けると、突き落とそうとしているのに困惑して今の状況に困っているみたいだ。
そんな顔をするということは俺を落としたいのが本気ではないとわかって安心する笑みが浮かぶ。
「……なんで笑うんですか」
「スズカが優しい子だと思ったからだ」
「優しい? こんなことをしている私が優しいですか?」
「ああ。それでスズカは俺にどうして欲しいんだ?」
スズカは俺の質問に返答をせず、目をそらして床を見ては考え始めた。
俺はせかすようなことはせず、スズカが答えを出してくれるのを待つ。
だが、内心はスズカが手を離すことで落ちてしまうということに恐怖感がある。
死ぬのなら、苦しまずに死にたいなとスズカから目を離して地面を見つめ、雨が当たった冷たさと恐怖で体がぶるりと震える。
「私はあなたと一緒にいたいだけなんです。授業やトレーニングが終わってからもずっと一緒に」
小さな声でつぶやいた言葉。
次の言葉をしっかり聞き取ろうとスズカへ顔を向けると、恥ずかしそうに目をそらしたスズカが俺の体を慌てて引っ張り上げて部屋の中へ入れてくれる。
それから窓を閉めると、上半身がずぶぬれな状態で座っている俺へとしゃがみ込んで目を合わせてきた。
「あの……大丈夫ですか?」
「あぁ、問題はない」
色々と言いたいこと、聞きたいことはあるが今それをしてしまうと興奮した精神が話をしている途中で怒鳴り声になってしまいそうで言うのを我慢している。
意識的に深い呼吸を始めると、スズカは「ごめんなさい」と一言言ってから立ち上がって俺の机へと行く。
机の上にあるペン立てに手を伸ばし、ゆっくりとした動きで手に取ったのはカッターナイフ。
カッターから刃を出すと、両手で握り直してから首筋の動脈へとゆっくり向けていく。
そんな様子を見ると、すぐさま慌てて体を動かしてスズカが持つカッターナイフに手を伸ばして体当たりをする。
どうしてスズカがそういうことをするのかわからない。
でも今は話をするより先に、スズカが血を流すということを見たくないという気持ちが。
「あっ」
それは小さな声だ。
どことなく安心した気持ちが入った、小さな悲鳴。
遠くでカッターナイフが落ちる硬い音が聞こえた。
俺の体の下にはスズカがいて、押し倒した格好となった。
スズカの首元に顔を埋めた状態で、フローラルな髪の香りが俺を落ち着かせてくれる。
が、今はそれどころじゃない。スズカの頭の両脇に手を置いて体を起こすとスズカに怪我がない様子に安心をする。
「何をしているんだ、お前は!」
つい怒鳴ってしまったが怒る気持ちはなく、むしろ心配だ。
今のスズカは心が不安定で、だけど大事なスズカに対してどうすればいいかわからず、怪我がなかったことにひとまず安心して力強く抱きしめてしまう。
俺に抱きしめられているスズカは声にならない泣き声を出したあと、抱きしめ返してくれた。
でもその力は強く、抱きしめてくる力は痛いが我慢する。
「ごめんなさい。今まで一緒にいたのに、遠くに行ってしまうのが嫌なんです」
耳元でささやかれるスズカの悲しい声を聞き、俺は静かに頭を優しく何度も撫でていく。
しかし、困ったことになった。
これは依存という状態になっているのか。スズカが俺によく甘えてくるのは気になっていたが。
でも他の子たちと一緒にいても、その子たちに対して怒るなんてことはなかった。
「私を救ってくれた恩があるのに、それを……」
「こっちも唐突に結婚だなんて言って悪かった。だが、俺だって恋人が欲しいんだ」
今まで仲がいい女友達はいたものの、お互いに恋愛感情を持っていなくて恋愛関係には発展しなかった。
だからドラマのような熱い恋がしたい。
大人だと好きという感情だけで恋ができないと聞いたことはあるが。だからこそ、恋愛感情だけでの恋が―――。
「私にしませんか?」
「……すまん。もう1度言ってくれ」
自分が理想の恋愛を考えていると、突然スズカが理解しがたいことを言ってきた。
「恋人にしませんか、と。私はソウマさんのことを1人の男性として好きです。ですから、その、付き合ってみるというのをおすすめしますけど」
今まで考えてなかったことを提案され、一瞬硬直してしまうが、聞きなおすと具体的に提案してきた。
スズカの表情を見るため、腕を離して顔を見ようとするがスズカは離してくれない。
「あの、恥ずかしいので顔を見られるのは困ります」
俺がなんらかの答えを出すまで解放してはもらえなさそうだ。
昼休みの時間が終わってチャイムが鳴るまで待とうと思ったが、それはまだ遠い。
だから考える。
スズカのとてもささやかな大きさの胸を感じながら。
恋愛というのは対等な関係であってこそだと俺は思っている。
こういう今のように、俺が結婚しようかと考えただけで取り乱す精神状態なのはよくない。
そんな状態で付き合っても長続きはしないだろう。
教え子としては好きだが、女性という意味では何の感情も持っていない。
男としてはっきりとした返事をしよう。俺はスズカと付き合えないと。
「スズカ、俺は―――はっくしゅ!!」
深呼吸をし、スズカに文句を言われる覚悟を決めて言おうとしたのに、ついくしゃみが出てしまう。
上半身にたっぷりと雨を浴び、スーツは思い切り濡れているから、こうなるのも当然だが。
タイミングが悪い自分に嫌気がするが、改めて言おうとするとスズカが腕から解放してくれた。
「すみません! 私、自分のことばかりで。あの、今すぐ保健室に連れていきますね!」
返事をする前に、スズカは体をぐるりと反転させてから俺の膝裏と背中を持ってお姫様抱っこをしてくる。
そして勢いよくトレーナー室を出ていくと小走りで廊下を走り出す。
人生で初めてお姫様抱っこをされたが、恥ずかしさを感じるよりも先に来たのは恐怖だった。
自分で速度をコントロールできず、スズカの首に両腕を回して耐えるしかない。
途中、すれちがいに俺へ会いに来ただろう弁当を持ったタイキシャトルと遭遇する。
「タイキ! トレーナー室から替えの下着と服を保健室に持ってきてくれ!」
「What!?」
スズカに抱きかかえられている今、これ以上説明する余裕がなく、角を曲がり階段を下りていく。
まるでジェットコースターのような気分で保健室にたどりついたあとは保険医の薦めもあってベッドで寝ることになった。
スズカは俺を心配して一緒にいるといったが、保険医が追い返してお昼ご飯を食べに行く。
少ししてからはタイキから服を受け取ったあと、ジャージに着替えた俺はベッドでぼぅっとしている間に寝てしまった。
昼のは短時間の出来事だったが、考えることが多くて疲れていたから。
―――時間が経って放課後。
学園内のざわめきで目を覚まし、ぼんやりとした頭であたりを見回す。
するとスズカが椅子に座って俺をじっと見てきていた。
「うわぁ!」
「元気そうで安心しました」
小さく息を吐き安心した様子のスズカだが、俺はもうびっくりして心臓がドキドキだ。それに寝顔を見られたことも恥ずかしい。
体を起こし、靴を履いてベッドから立ち上がると俺たち以外は誰もいない保健室を見渡す。
「あの、お昼のことはすみませんでした」
「ああ、いや、構わない。次に何かある時はお互い丁寧に話し合うということが必要だな」
「ソウマさんが恋人を作りたいと言ったときに自分を抑えられなかったんです。ひどいことをしたと自覚をしています。……私にお詫びができればいいのですが」
下を向いて落ち込んでいるスズカにお詫びなんていらない、と言うのは簡単だ。
でもそれだとスズカが納得しないし、ここで罰もなしということになるとまた同じようなことが起きるかもしれない。
「あの……私を嫌いにならないでください。捨てないでください。もうしませんから」
「スズカ」
優しい声をかけ、俺を見上げてくるスズカの両肩を掴んでベッドの上へと優しく押し倒した。
「怪我をしても頑張っている君を嫌いになんてならないよ。今回はちょっとだけ興奮してしまっただけだろう?」
「でも私は面倒で迷惑な女と思っていませんか?」
「時々はあるけど、そんなのは人同士でならいくらでもあることだ」
「でも……」
「スズカ、目を閉じて」
俺の言葉にきょとんとした様子だが、すぐに言葉の意味に気づき、顔を赤くしたスズカは勢いよく目を閉じた。
俺はスズカの顔に向かって、ゆっくりと近づいてく。俺の気持ちを伝えるために。
そして、おでことおでこをコツンとくっつけ、顔を離す。
「……キスしてくれないんですか? 今日は私の誕生日なのに」
唇がくっつきそうなほどの近い距離で、スズカは不思議そうに声を出す。
「プレゼントにキスを欲しがるだなんてスズカはえっちだなぁ」
「え、あの、えぇ!?」
苦笑しながらスズカの上から離れると、キスをされると思い込んでいたスズカは赤くなった顔を両手で隠してしまった。
スズカとキスするのは早い。そういうことをするのは俺がスズカに恋愛感情を持った時だ。
良くて妹のような、という感情しか向けられないスズカにはおでこをくっつけるだけで十分だ。
「恋人ができたらスズカには言うし、ウマ娘を優先してもいいという女性と付き合う予定だから少しは安心してくれ」
「……恋人ができなかったら私を選んでくださいね?」
「その時に考えさせてくれ」
「ちょっとでも私を恋人にしたいと思ったら声をかけてもいいですからね」
こうも恋愛に積極的なスズカを見ると、偽装恋人でもいいから1度作ってスズカを落ち着かせたほうがいいんじゃないかと強く思う。
たとえば、たづなさんや桐生院さんのような大人の女性と。
「私がこうして学園を辞めずに済んでいるのはソウマさんのおかげなんです。私のすべてはソウマさんの物だということを覚えていてください」
両手の指の間から、恥ずかしそうに俺の顔を熱がこもった目で見つめてくるスズカに俺は照れて顔をそむけてしまう。
努力家で放って置けないスズカのことを俺はこれから考えていく。
俺の担当ウマ娘、サイレンススズカを結婚前提で恋人にしたいかということを。