11月はじめの菊花賞はナリタトップロードの勝利で終わった。
そのレースには僕の担当ウマ娘である、アドマイヤベガも参戦して6着。
でもなぐさめる言葉は何もない。ダービーを勝ったときと同じく「おつかれさま」とシンプルに言う。
他になにか言葉があるだろ、と多くの人に言われるだろうけど僕とアドマイヤベガの関係はビジネスライクなもので、レースやライブに関すること以外は話をしない。
彼女は1人でいることを好んでいて、自分自身に関わって欲しくないことを望んでいた。
契約条件にも最低限の接触と干渉というのがあり、それを満たすことができたが新人トレーナーの僕だった。
サブトレの経験を積んでいたとはいえ、新人の僕と契約してくれたのはありがたいことだ。
契約した担当ウマ娘とは仲良く話をしていきたかったけど、求める関係性というのはそれぞれが違うもの。
ウマ娘がそれを望むのなら、合わせるというのがトレーナーというものだと僕は思っている。
契約だけでなく、練習に必要なものだったら全部の要求を受け入れるとかそういうのを。
それを僕は実践していて蹄鉄や練習用シューズ、自室で使う筋トレ用道具。他ウマ娘が練習しているメニューの内容を渡している。
担当ウマ娘のためなら、たくさんの苦労と金銭の出費ぐらいなんともないぜ! という精神だったが練習メニューを手に入れるのは大変な思いをした。
練習メニューが欲しいトレーナー相手には自腹で食事代を払って接待。お互いの持っている知識や技術の交換。あとはひたすら愚痴を聞き続けるというのもあった。
でもそういう苦労と金銭の出費でアドマイヤベガの要望をすべて満たしている。
練習メニューを作るのに失敗することもあるけど、そういう努力もあって契約してから2年がたっても、何かに追われるかのように自分を追い込み続けている彼女との契約は続いている。
けれど菊花賞が終わったあと、何かに脅迫されているかのように走っていたアドマイヤベガの表情がやわらかくなった。
理由はわからない。
普段からアヤベを見ているのに、そのきっかけが何かきづけなかった自分が情けなく思う。契約で彼女自身のことを深く知らないようにしていたとはいえ。
でも僕の助けがなくても解決できたのはいいことだ。今は楽しく走れているから、そんな姿を見れて嬉しいし。
問題が解決したからか、僕の指導に対する返事も以前の冷たく短い言葉ではなく、ちょっとだけ優しくなった。
たとえば助言をした時に『そんなの、わかっているわ』と言っていたのが『あなたもそう思うのね』と。
他のウマ娘にも冷たかったが、今ではナリタトップロードやカレンチャンと仲良くしている場面を見ることが多い。
だからこそ、僕も少しだけ仲良くなりたいと思う。
レースや練習が終わったときにすごく褒めたかったから、関係性をちょっとだけ変えてレース後や練習の結果がよかった時に甘やかしたい。
菊花賞が終わって2週間がたって、以前よりも僕は彼女に近づきたいと思った。どれくらいあやまかしいかという目標も決めて。
「頭をなでられるぐらいになりたいなぁ」
昼休み中のトレーナー室でテーブル前のソファーに座っている僕は静かにつぶやく。
関係性を変えようとしたのは先輩トレーナーたちから、冷めた関係だと契約を解消されやすいと聞いたから。
他にもビジネスライクな関係だとウマ娘を育てる楽しみもなくなり、トレーナー側としても苦痛になるとも。
それを知っていた僕は、今こそ甘やかそうと思うのだ。
菊花賞のあとでで愛想が良くなったいまだアドマイヤベガと!
それに愛称でも呼びたいこの頃だから。
深呼吸して来るのを待ち遠しく思いながら、先輩方の意見をメモした手帳をスーツのポケットから取り出す。
そこに書かれているのは『ウマ娘の態度を気にしろ』という意見だ。
男には気づきづらい行動や仕草のサインを注意深く見ようと言ってくれた女性トレーナーの言葉は最も大事にしている。
不満が行動や仕草だけでなく言葉に出てきたら、かなり高い状態でたまっていることらしい。
そんな僕へのアドバイスは、担当ウマ娘になった運命の出会いを信じろというものが第一だった。
好感度が高いとわかる要素はボディタッチが多い、連絡が多い、周囲45㎝以内に近づくなどのことがメモ帳に書かれてある。
それらと共に女性への言葉遣いや行動にどう気をつけるべきかも。
やけに熱心に教えてくれた女性トレーナーにはあとでお菓子の詰め合わせでも送ろう。
とりあえずは必要なことしか話をしない関係性はダメだということらしい。
そんな冷え切った関係だと、ケガや調子が悪くても自分自身で解決しちゃうからとのこと。
……心あたりしかない。アドマイヤベガはいつも何かに追われていた。
僕に教えてくれない何かに恐怖を持って、いや、恐怖じゃなく悲しみと後悔の感情のようだった。
それを解決できないままに苦しみながらレースを続け、菊花賞を走って解決していた。
今の僕はただレースを管理していただけだから、僕を担当として選ぶ必要性はない。
ダービーを勝ったことがある今、足を少し痛めているとはいえベテランのトレーナーに変える可能性があるかもしれない。
まぁ、僕がダメなら変えてもいいというあきらめの心は持ってはいるけど。
あきらめが早いのは男らしくないけど、役に立ってなかったのは事実だから。
どうせダメな気がするけど、それならそれでアドマイヤベガと楽しい会話のひとつはしておきたいところ。
小さくためいきをつき、手帳を見ると『女性はさびしさに弱い! 信頼関係を作るには満足感や安心感を与えろ! スキンシップと甘やかしは最重要!』という内容のが要約すると書いてある。
「今までは遠慮をしていた。僕が邪魔になるかもしれないって。でも僕から行動をしなきゃ変わらない」
決意したあとはメモ帳に書いたことを読み、スマホで甘やかしかたを調べる。
言葉のかけかたや表情などを。
調べてやりかたがわかったあとは、実際にやってみよう。
もし嫌がられたら全力でジャンプ土下座をするしかないけど。
放課後になると、トレーナー室にノックの音が響く。
それに返事をすると、ジャージ姿でカバンを持ったアドマイヤベガがいつも通りの無表情。
彼女はソファー前のテーブルにカバンを置き、僕をちらりと見てから部屋を出ていこうとする。
このまま見送るれば、いつもと何も変わらない。
だから、僕はここで声をかける。
「アドマイヤベガ、その、寒くなってきたが体調は悪くないか?」
「……悪くないけど。どうしたの、そんなことを聞くなんて」
ドアノブに手をかけて出ていく直前に声をかけたからか、整っているまゆをひそめて不満そうに返事を返す。
こういう時は不機嫌にさせないよう、会話を続けなかったが一度決意したからには会話を続けよう。
「今まで君と向き合ってなかったから、変わろうと思ったんだ」
「別に私と仲良くなろうとしなくても契約は解除しないわよ」
「そういう心配もあるけど、僕は君と話をしたいんだ、アドマイヤベガ」
「まぁ、別にいいけれど」
そう言ってアドマイヤベガはテーブルを挟んで僕の向かい側においてあるソファへと静かに座って手や顔を見つめてくる。
「それで話って何?」
「これということはないんだけど、アドマイヤベガのことはレースやライブ以外のことでは何も知らないから」
「私自身、あなたに気持ちを向ける余裕がなかったのはあるけど、これからはお互いのことを知ったほうがいいわよね」
「よかった。そう思ってくれて。アドマイヤベガ自身もそう思っ──」
「名前」
「名前?」
僕の言葉をさえぎり、はっきりと言ったことが不思議に思う。
いつもは僕が言い終えてから言葉を言うのに、今日はそうじゃなかった。
アドマイヤベガは、部屋の中を一周ぐるりと見渡す。
「アドマイヤベガなんて毎回呼ぶのは長いでしょ。短くよんでもいいと思うけど」
「他の子と同じようにアヤベって呼べばいいかい?」
「ええ。それでいいわ。仲良くするなら、まずは名前からでしょう?」
「わかったよ、アヤベ」
「なんか変な感じねこれ」
「普段言うことないから、言った僕が恥ずかしいんだけど」
「いい大人が名前を呼んだだけで何を言っているのよ。それじゃ私は走ってくるわ。話はまたあとでしましょう」
「いってらっしゃい、アヤベ」
「……ええ、行ってくるわ」
名前を呼んでから意外そうに返事をし、いつもどおりに部屋を出ていく様子を見ると会話は成功したと思う。
嫌がる様子もなく、耳と尻尾は不機嫌そうじゃなかったし。
契約を結んで2年。ようやく彼女のことをアヤベと愛称で呼ぶことができたのはすっごく嬉しい。
彼女の親友であるカレンのことはカレンと呼べて話ができているだけに。
アヤベとはもう少し話をしたかったとこだけど、愛称で呼べたことがうれしくて満足してしまう。
急に変化をさせるのではなく、ゆっくりでもいい。
今はただ、名前を呼べた嬉しさをかみしめよう。
しかし26歳にもなって女の子の名前を呼べただけでうれしくなるとは。
まだまだ純粋な気持ちを持っているんじゃないのか、僕は。
子供っぽさがあるカレンと違い、落ち着いた雰囲気が大人なのが好みだからうれしいのかもしれない。僕自身の見ためがかわいいとウマ娘たちから言われることが多いから余計に。
アヤベと仲良くなれたことに感動し、この感情を持ったまま気分よく仕事机に行くと、パソコンを立ち上げて仕事を始める。
アヤベのグッズ展開や他のウマ娘のレース動画を見て考えていると、ノックの音が聞こえる。
返事をすると、汗を少しかいたアヤベが外の冷たい風と一緒にトレーナー室へと入ってきた。
「足の調子はどう?」
「問題ないわ。明日からは練習内容を重いのにしてちょうだい」
「わかった。明日の放課後までにメニューを作っておくよ」
仕事をする手を止めてアヤベと話をすると、アヤベは僕の目の前へと歩いてくる。
いつもならすぐにタオルや消臭スプレーを使うのに、こんなのは初めてだ。
それに何かあるならはっきりと言うアヤベは不安そうに耳や尻尾を動かしている
「えっと、アヤベ?」
「……その、あなたの手は荒れていると思うの。だから手を出して」
「手? まぁいいけど」
よくわからないまま手を出すと、アヤベはジャージのポケットから手のひらより少し小さいハンドクリームのボトルを取り出す。
そのボトルを仕事机に置いてからふたを開けると、中身を取り出して僕の手を持ち上げてからつけていく。
「これはいったいどういうこと?」
「あなたに優しくしたくなっただけよ。ほら、手を上げてちょうだい」
言われるまま手を持ち上げると、アヤベは恥ずかしそうにしながら両手で僕の左手にハンドクリームを塗ってくれる。
こうやってふれられるのは初めてで、手がちっちゃいとかいう気持ちを持ちながらドキドキする。
女子高生にこうしてもらえるの初めてで、いや、それ以前に今までの経験からも女性に塗ってもらうことなんてなかった。
だからこそはずかしい。
今まで仲のいい女の子はいたけど、恋人という関係まではならなかったからこういうのはなかった。
僕がアヤベを甘やかそうとしているのに、これだと逆じゃないか。
大人の男としてそれでいいのかと思うところもあるけど、ウマ娘との関係は人それぞれだと聞くし、優しくされるのもありだと思う。
でもさ、少し思うことがあるんだ。
誰もいないふたりっきりの部屋で、会話もなく恥ずかしそうにハンドクリームを塗ってくる姿を見るとアヤベがとてつもなくかわいい。
今まで女性として見ないように意識していただけに、心がときめいて仕方がない。
これがギャップ差という奴か!
クールな子がかわいい姿を見せてくれるのは、その子への印象がぐっと心へ響き渡る。
だけど、これは普段の恩返しというか感謝の気持ちなだけで恋愛感情はないはずだ。
ないに違いない。今まで事務的な話しかしなかったんだから。
トレセン学園で楽しい会話をしている子はカレンだけだし。あの子とはお互いの知らないアヤベの話なんかで盛り上がっている。
「あなたの手、結構おおきいのね」
「そりゃ大人の男だからね」
「……私、お父さん以外の男の人の手をさわるのは初めてよ」
「がさがさしているだろう?」
「そうね。これからはふれる機会があるだろうし、自分で手入れをして欲しいわ」
待ってくれ。
これはいったいどういう意味なんだ!?
ふれる機会ってなんだ。今までよりも仲良くしてくれるっていうのはわかるんだけど。
顔を見るとからかっているわけでもないし、おだやかな顔で手の平から手の甲。指先にまで丁寧に塗ってくるんだけど。
それに時々僕とアヤベの細い指をからめてくるのなんかはどう反応すればいいかわからない。
なんでこんなに好感度が高いんだ。男への興味ってだけじゃここまでしないと思うし。
カレンがなにかしたのか!?
今すぐカレンに電話をしたい気持ちになりながらも、ハンドクリームからただよってくるバラの匂いが気分を落ち着かせてくれる。
そうして静かに塗られている手を見つめながら、気になることが浮かんできた。
僕は今までカレンにアヤベのかわいいところや心配しているところを言ってきた。本人には言わないで、とは伝えてはいるけど。
カレンにアヤベのことを言うのは寮内でもアヤベのことを見てほしいという気持ちと、誰かにアヤベのことを言いたかったから。
事務的な関係とはいえ、人と接する限りはその相手のことに対して色々と思うことが出る。
いいところや悪いところ。それらを本人に言ってしまわないよう、カレンへと相談や愚痴を言っている。
俺の心が広く大人の精神を持っていれば、そういうことは自分の中で解決できるんだけど。
考え事をしている間、左手は塗り終わっていて今度は反対側の手も塗り始めた。
僕はアヤベの整っている顔をみつめながら、お返しにどう甘やかそうか考える。
事前では言葉や行動でやろうと思ったけど、プレゼントをあげればいいか?
でもあげる理由はないし。アヤベの好きな物はふわふわ系のものっていうのは知ってはいるんだけど。
そもそも半端な製品だと、ふわふわマスター(カレンが呼んでいる)からすれば、不満がきてしまいそうだ。
記憶にあるなかでふわふわ製品といえば、猫のような手触り感がある毛布っていうのが売っていたなぁ。
もう持っているかもしれないけど、クリスマスの日にプレゼントするか。僕にダービー勝利をくれてありがとうって。
「私の顔がどうかしたの?」
「いや、特に何も」
「何もなかったら見ないでしょう? 思うことがあったら、はっきり言って欲しいんだけど」
口に出したらアヤベのクールな顔がかっこいいだなんて言ってしまう。
今のところ悪くない雰囲気なのに、そんなことを言ったら嫌がられてしまうかも。
顔しか見ていないのね、とかそんなことを。興味のない異性から顔がいいだなんて言われても、気持ちがいいものじゃないだろう。
だからといって他に理由を作るほど、僕は器用じゃない。
むしろ不器用で隠しごとができないからこそアヤベには評価されている気がする。
レースやライブの練習で悪いと思ったところは口に出てしまうし、僕の表情を見ながら練習するアヤベは『わかりやすくてありがたいわ』なんて言ってきたこともある。皮肉じゃなくて素直に褒めたと受け止めたい。
だからこそ、小さく不満な様子を見せているアヤベには素直に言うしかない。
「きれいだと思ったんだ」
「何がよ」
「君の表情が」
堂々とそんなことを言う自分に恥ずかしくなるが、言われたほうのアヤベは僕の言葉には動じていない。
僕が気に入っているクールな雰囲気がある表情を変えないまま、ハンドクリームを塗るのを終えてくるりと背中を向けてくる。
……これ、怒ってないか? 耳を見れば怒ってはいないようだけど。小さな怒りか、不満のどっちかはあると思う。
「休憩をしたから走ってくるわ」
「待って、スポドリを飲んでから行って……行っちゃった」
背中を向けたまま、棚に置いてあるタオルを取るとアヤベは僕が止める声を無視して外へと出ていった。
今まで事務的なことしか話さなかったから、雑談だとどういうことを言っていいかがわかりづらい。
甘やかすよりも先に、普通の会話ができるのが先だな。
カレンとはあまり怒らせることもなく話ができるんだけど。あとナリタトップロードもやテイエムオペラオーとも。
翌日はアヤベを怒らせないための事前準備をした。
それはカレンからアヤベに何をしたらあまやかして喜ばせられるかというのを。
同室で仲がいいカレンから僕がやりたいことを提案し、それにセリフを指導してもらったから今日は怒られないはず。
いや、怒られないだろう!
なんたってカレンだ。乙女心に関しては僕よりも非常に詳しい。
そしてあまやかすのはトレーニングが終わったあとのシャワー後だ。
その時ならシャワーを浴びた安心感と汗のにおいがなくなっているから、アヤベをあまやかす最高のタイミングだと。
これが成功するかしないかで、これからの関係性が決まる。
ダメだったら今のままのシンプルな関係でも悪くはないんだけど。
今回はアヤベのためではなく、俺自身のわがままだ。それは担当ウマ娘と雑談ができるようになりたいっていうのと、美人な子と楽しい話がしたいからという理由で。
今の時間は午後の6時。陽はすっかり落ち、今は学園のシャワー室に行っている。
浴び終わった後はトレーナー室に来て、今日のトレーニングについての話を軽くして解散だ。
話をする時間はだいたい5分にも満たない。その時間内でどうあまやかす過程に持っていくかはいまだ未定だ。
こんな無計画だってことを聞いたらカレンに怒られるだろう。笑われるだろう。
だがな、仕方がないだろう?
いきなりあまやかそうっていうんだから! 今までの関係性を変えたいとはいえ、そんなことをする仲じゃないし!!
カレンが言うには空気を気にせずやっても大丈夫とは言われているけど、それは女の子同士だからできることじゃないのかと不安になってくる。
相談した時は謎にテンションが高かったからカレンの勢いに押されたけど。
あぁ、アヤベが走ったG1のレースと同じぐらいに緊張してきた。
ソファーに座りながら落ち着きなくうつむいていると、昨日と同じようにノックをしてアヤベがやってきた。
練習時のジャージから制服に着替えなおしたアヤベ。その髪と尻尾はふんわりしている。
ドライヤーやシャンプーって偉大だというのを、毎回こうやって実感してしまう。
「今日も練習おつかれ」
「別に私自身のためにやっているだけだもの。それとも無駄なメニューでもあったかしら?」
「いいや? アヤベが気になっているところがあるなら変えるけど」
「気になるところがあるとすれば、私はそんなに足を痛めてないから次の大阪杯までレースがないのが気になるわ」
「今までのレース、特に前回の菊花賞では足を痛めていたからね。アヤベは問題ないって言っていたけど、休ませたいんだ」
「そう。それならいいわ。それじゃあ今日はもう終わりね?」
「あー……ひとつだけ用事があるんだ」
「なに?」
僕は大きく深呼吸をして立ち上がると、アヤベに嫌われるかもしれない覚悟をして近づく。
嫌われた時にはカレンに苦情とアヤベと1年間の並走をさせてやる。カレンの女トレーナーも巻き込んで、他にもアヤベの役に立つ色々なことを!
これからアヤベをあまやかせる嬉しさと嫌われるかもしれない可能性。それらで感情のコントロールが難しくなってくる。
アヤベの目の前に立ち、俺より20㎝低いアヤベの姿を見下ろす。
アヤベの身長は157㎝であり、不思議そうな目を俺に向けてくる。
「えっと、どうかしたの?」
「アヤベ、すまない」
そう言って片手でアヤベの頭をなでていく。
ポニーテールの髪型をしているアヤベの耳と耳の間の神をさわると、さらさらだ。
……シルクの手触りってこういう感じだっただろうか。ポニーテールのさきっぽまで全部さわりたくなってくる。
髪フェチというわけじゃなかったけど、前髪と後ろ髪も同じくさらさらだ。
さわっていて気持ちよく、ずっとさわっていたくなる。
日本人女性の髪の毛は約0.08mmだ。尻尾の場合は平均0.04mmだけど、0.03mmから0.08mmと幅がある。
学校の授業で習ったことを鮮明に思い出してしまうほどにアヤベの髪は衝撃的だ。
さらに細い尻尾の毛もさわりたくなるけど、それはあまやかしではなくセクハラにしかならない。耳にある毛もさわると最高だし、耳かきもやりたいところだ。
アヤベに夢中になりつつ髪の毛に想いをはせながらさわっていると、アヤベが両手で手をつかんで止めてきた。
もうさわれないという残念な気持ちと、やりすぎたという気持ちの両方がやってくる。
「なによ、急にこんなことして」
「あー、アヤベをあまやかそうと思ってな。今まではG1を勝っても褒めたことがなかっただろう?」
「それは私が事務的に対応して欲しいと言ったからじゃない。だから褒めなくてもいいわよ。それに私みたいな愛想が悪くてトレーナーを振り回すウマ娘なんて面倒なだけでしょ」
「でもそんなアヤベが好きだよ。しっかりとトレーニングする努力家は見ていて気持ちがいいし。それに菊花賞が終わったあとの、気持ちに余裕ができた今のアヤベも好きだ」
「…………好きだなんて、ずいぶんと簡単に言ってくれるわね」
じとーとした目で不審人物を見るかのようなアヤベの視線を受けて気づく。なんで僕は好きだとを言ったんだ?
ただアヤベをあまやかしたかっただけなのに。
髪がとてもさわり心地がよかったから、無意識で自分の感情を伝えてしまった。
この気持ちはライクかラブかがわからない。
「僕はアヤベのことが好きなの?」
「なんで私に聞くのよ。自分のことでしょ」
「さっきの言葉は聞かなかったことにして欲しいんだ」
「別にいいけれど。次にそういうことを言うときは自分の気持ちを知ってから言えばいいと思うの」
アヤベは小さなためいきと共に、僕の手を目のアヤベ自身の目の前に持っていってはぷにぷにと手をもんでくる。
僕に目を合わせず、じっと手を見つめる姿は怒っていないっぽいので安心だ。
でも左右の耳はばらばらに動いていて、落ち着いていないのがわかる。
あまやかす予定どころか担当ウマ娘を不安にさせてしまった。
今日は失敗してしまったけど、途中まではよかった気がするから次の時もカレンに相談しよう。
「まぁ、今日も無事に一日が終わってなによりだ」
「……本当に無事なのかしら」
無事に終わったことにさせて欲しい。
だから、じとーとした目で俺を見つめないでくれ。無意識で好きだなんて言ってしまったのは恥ずかしいんだ。
あと、そろそろ手を離して欲しい。
アヤベは僕の手を1分ほどぷにぷにとさわってから、トレーナー室に置いてあるバッグを持って部屋を出ていった。
今日はアヤベの頭をなでたけど、嫌がられなくてよかった。これで次も同じことをしても大丈夫そうだ。
しばらくは自分の好きという感情を無視して、アヤベをあまやかしたい。好きなものがあれば食べさえ、行きたいところがあれば連れていく。
そうして、今までの事務的な関係で我慢していた想いを発散するんだ。
ただ、照れた様子がまったくないのはさすがアヤベといったところか。
◇◆◇
ウマ娘の私とトレーナーの彼と契約はお互いに関わりを薄くするビジネスライクのものだった。
必要以上に仲良くせず、事務的で冷たい関係。
これからもそれは変わらないと思っていたけど、今日になって急にあまやかしてきた。
その理由はなにかと考えてみると、私の雰囲気がやわらかくなったからだと思う。
菊花賞を終えた私は、私の代わりに亡くなった妹と仲直りができた気がしたから。
だから優しくしたかったんだと思う。
でも菊花賞が終わったあと、私はトレーナーのことを考え始めた。
よくこんな愛想も悪く、自分勝手に練習内容を求め、変える私を怒らなかったなと。それはトレーナーが私に対して"走るウマ娘"としてしか見ていないからだと思っていた。
でも最近はトレーナーに対して興味が湧いた。今まで興味を持っていなかったぶん、結構強く。
まずは観察をすることにした
すると、私みたいに愛想がないと思っていたのに結構かわいいところがある。
ブラックコーヒーは飲めないし、好きな食べ物はタコさんウインナー。私以外のウマ娘と話す時はまるで同じウマ娘かのように気楽に話をしてもらっている。
今まで他人のことは興味がなかったから、自分のトレーナーが他のウマ娘たちと仲がいいのに驚く。
他の子に私のトレーナーの評判を聞くと、苦労をしても私のために色々な苦労をしていたのがわかる。他のトレーナーだとあまりしないことを私のトレーナーがしていたのを始めて知る。
トレーナーは私の要望を全部満たしていたのに当時は『新人なのになかなかできる人だな』とだけ思っていた。
でもそれらを得るまでの苦労していた過程を知ったとき、私の心はなんだかもややもとした気分にな。
私が一番近くでずっとそばにいたのに、何も気づかなかった。あの人のことを見ようとしなかった。
そこは後悔している。気づいてから2日間ほど、私のことを大事にしないなんてという逆恨みまでするように。
でもそうしたことで気づいたことがある。
私は自分で知らないうちに、トレーナーのことをずいぶん気にしていたんだなと。
今となっては匂いや声が気になって仕方がない。
それと表情も。笑顔ひとつ取ってみても、気分によって差があるのを見つけるのが楽しい。
なんでこんなに気になっているんだろうと不思議に思ったけど、わからなかった。
そこで同室のカレンさんに相談したら、とてもいい笑顔で「それは恋だよ、アヤベさん!」と言われて顔が熱くなったのが恥ずかしくて、カレンさんを毛布でくるんで勢いよく床に転がした。
自分がトレーナーに恋していることに気づいたのが4日前。
そして今日は予想もしなかったことが次々と起きた。
練習前にトレーナー室に来たら、名前をフルネームから愛称で呼んでくれたこと。
シャワー後に頭を優しくなでてくれたこと。
そのふたつに深い衝撃を受けた。
それと私がトレーナーにハンドクリームを塗ろうと思ったことも。
菊花賞前だったら、トレーナーと契約解除をするぐらいのことをされたのに。
今となっては嬉しいだけのことをしてくれた。
仲良くなる時間や意識ははなくても、一緒に過ごした時間は気づいてみれば多くて信頼から愛情に変わっていたのを自覚した日。
トレーナーにされたことが頭の中がいっぱいのまま、私は寮へと戻る。
「アヤベさんおかえりなさい! 少し休んだら一緒にご飯を食べに行きません?」
部屋に戻ると制服を脱ごうとしていたカレンさんから元気に声をかけられたけど、私はそれどころじゃない。
いっぱいいっぱいの私はカレンさんを無視して、持っていたバッグを床へ放り投げてから顔から自分のベッドに倒れこむ。
日頃から布団乾燥機でいい状態に仕上げている布団はやわらかく、毛布のふわふわとした感触がとても素晴らしい。
このふわふわ感は私の悩みを抑えてくれる気がする。
「えっと嫌なことでもありました? アヤベさんのトレーナーさんが何かやっちゃったりとか」
「何もされてないわ!」
心配そうに声をかけてくるカレンさんに力強く返事をしてしまう。
いつもならこういうふうに力を入れないのに。
そんな返事をしたからか、カレンさんが近くに寄ってくる気配を察して顔を動かす。
私の目の前には、にまにまと嬉しそうな笑みを浮かべているカレンさんがいた。
「なによ」
「トレーナーさんと何かあったんです?」
「ないわ」
「本当ですか?」
「ええ」
笑みを浮かべていたカレンさんだけど、私がそっけなく言うと笑みを浮かべたまま離れていく。
ここで今日されたこと、したことを言ってしまうと長くからかわれる。
別に嘘じゃないとも言える。
トレーナーと担当ウマ娘の日常的なやりとりと言えば、それだけだから。
カレンさんも自分のトレーナーとは恋人に近いやりとりをしていると言っていたし。
でも同性同士なら恋人というよりも、姉と妹のような関係な気もするけど。
「アヤベさんのトレーナーさんは素敵な人ですよね。自分の担当でもない子や私にもしっかりと相談に乗ってくれますし。なによりもかわいい顔なのが高評価!」
「それが?」
「アヤベさんとトレーナーさんが仲良しな姿を見せないと、誰かに取られるかもしれませんよ」
「……私はあの人を縛ったりしないわ。そこそこ優秀なんだから、他の子と契約してもかまわないわ」
「いえ、恋愛的な意味でですよ?」
私とトレーナーは余計な会話をしないで今までやってきた。
でも今日になってトレーナーは私と親しくなろうとしてきて、それを悪く思っていない自分がいる。
以前なら親しくなるなんてのは邪魔にしか思えなかったけど、心に余裕ができた今ならそうは思わない。
だからこそ私以外のウマ娘があの人と仲良くするのは我慢できる。
でも私以外の子と仲良くなって恋人になり、いつもとなりにいるのを想像したらムカムカとした気持ちが出てくる。
自然と私の耳は後ろへとしぼられ、私以外のウマ娘を見ないで欲しいなんて気持ちになる。
「やっぱり恋をしたんですね!」
「勝手に変なことを言わないで。私は恋なんてしていないわ。ただ、頭からあの人が離れなくて、声や匂いが恋しくなるだけよ」
「うんうん。アヤベさんも恋をするとかわい──わぁ!?」
カレンさんが変なことを言い始めたから全力で枕を投げつけたけど、上手にキャッチしては私を暖かい目で見てくる。
時間が経つほどに、彼のことが頭から離れない。
これが恋というのなら、なんてやっかいなものなんだろう。
恋の病という言葉があるけれど、今ならワクチンも薬もないものなんだって理解ができる。
これから彼と一緒にいる時間を増やし、仲良くなるという自然治癒しかないんだってことも。