午後10時、寮の門限である時間を過ぎるとトレセン学園にある芝コースの照明が落ちる。
芝を照らしていた光がなくなると練習ができなくなり、後片付けをして残っていたウマ娘たちは途中で切り上げて更衣室に行ってはジャージから制服に着替えてみんな帰っていく。
私もみんなと同じように制服へと着替えるけど、まだ走り足りない。
だからみんなが帰る流れに途中までついていき、木の陰に隠れて5分ほど待つ。
そうして人がいなくなり、警備員さんが正門を閉めたところから私の時間が始まる。
更衣室は使えないから、学園の通路にある外灯の光を頼りに制服から汗にぬれたジャージへと着替えていく。
今は11月の後半。秋も終わり、冬になっていく今は肌にひんやりとして火照った体には気持ちがいい。
走りすぎるのは怪我をするからはダメとトレーナーさんに言われているけど、走りたいときに走らないとダメになると思うの。
だから私は走る。それに今日の天気は事前にしっかりとスマホで確認しているから大丈夫。
今日の最低気温は8.8度。空に月はなく、ところどころにある雲と星空が広がっている。
静かでひんやりとした空気の中、星空の下で走るのはとても気持ちがいい。コースに照明がある時は見えない夜空の景色が見えるのは心が喜ぶ。
学園に入学して4年。数えきれないほどに消灯後のコースで走ったから警備員さんとは仲がよくなった。
はじめの頃はすぐに追い返され、警備員さんに隠れてはコースで練習してはつまみだされた。
隠れて練習するのを何度も続けた結果、今では堂々とコースに行くのが当たり前のようになっている。
毎日行っていたら私に何を言っても無駄だとの経験を得てから、日をまたぐ時間までは静かになってくれた。
警備員の人が私を見ても『あぁ、またサイレンススズカか』と言ったあきらめの目で見てくるまで頑張り続けたのは私の自慢できること。このことを言ったらエアグルーブにはずいぶんとあきれられたけれど。
それと私を指導してくれた教官や今のトレーナーさんもエアグルーヴと同じ反応だった。
でも私だって迷惑をかけているのはわかる。だから時々警備員の人たちに差し入れを持っていくことはしている。
日々頑張ってくれている警備員さんに心の中で感謝をして、私はさっき使っていた芝のコースへと行く。
近くにある木の根元にバッグを置くと、制服を脱いで下着姿に。最初の頃は外で脱ぐというのには恥ずかしさがあったけど、慣れれば大丈夫。
トレセン学園は防犯がしっかりしているし、真っ暗闇のコースの隅っこでは人が見てくることはないから。
私自身でもあまりに暗くて服が見えないぐらいだから。でも着替えなれている服だから見えなくても何も問題はない。
暗闇の中で汗に濡れているジャージへ着替えると、さっそくランニングを始める。
照明がついている時はレースで走るための練習だけど、今は趣味で走る時間。誰もいない、自分しかいない世界となった芝の上で走るのはとても気分がいい。
練習が終わり、まだ整備されていないデコボコな地面。やや走りづらくもある状態でも足を進めるたびに予測がつかないというのは楽しさがある。
整備されたのと、使用されたあとの違いの芝はそれぞれに面白さがある。
そう思って気持ちよく走っていると、私の耳へ私以外の走る足音が聞こえてきた。
その足音はアドマイヤベガ先輩だ。
私の後ろから聞こえてくる音へ振り向くと、200mほど離れて同じ速度で走っている。
私と一緒に同じコースで走るようになって4年。中等部1年の頃からずっと同じ時間帯、同じコースで走っているけど、別に約束をしているわけじゃない。
走る場所の好みが同じなだけ。それに学園の外でもよく一緒になることが多い。
落ち着いた空気がある神社、鳥の声が聞こえる山の中、犬の散歩が多い河川敷、野良猫が多い住宅街。
話をすることはあんまりないけれど、頭を軽く下げる、手を振るということで挨拶はよくしている。
あ、でも夜のコースで走るときは話をすることも時々ある。
ランニング中、または走り終わったときにするのは夜空の話。
月や星のことを。
中等部2年の頃に先輩に初めて走ること以外の話をされた時は月や星への興味は薄かったけれど、先輩がほんのりと笑みを浮かべて言う姿は綺麗だった。
夜のコースで会うたびに星座や星のことを教えてくれた。
初めて教えてくれは星はスピカ。おとめ座にもなっている星。
小学生の頃から星空の下で走っていたけれど、ただ漠然と見ているだけ。
ひとつひとつの星や星座の歴史なんて気にすることもなかった。でも先輩のおかげで私の知識が増え、季節ごとに移り変わっていく星座を見る楽しみが増えた。
私に星座を教えてくれる先輩の横顔は少し楽しそうで、けれど同時に悲しみを持っている。
中等部2年の頃は星座に深い感情を持つほど面白いものなのかなと思って私も興味を持ち、昼休みや放課後は図書室に行って星に関する本を読み始めた。
知識が増えた私と先輩は夜の学園で、肩を並べて星の話をする。
先輩が持ってきた星座早見盤とライトを使い、一緒にあの星座はどこにあるかという楽しい時間を。
今まで走ることにしか興味がなかった私にとって、この時間はとてもかけがえないのないもの。
普段、なにげなく星座ひとつにも深い物語と歴史がある。
それに先輩のすぐそばで話を聞き、私だけに向けられる優しさがある声と表情だけを独占できるのは嬉しかった。
でも3年ほど続いたそれは、2週間前の菊花賞で変わってしまった。
先輩が以前言っていたことがある。『私はね、罰を受けるべき人なの』とそういうことを。
あまりそのことを教えてくれなかったけど、先輩の悩みを心配した私に長い時間をかけて少しずつ教えてくれた。
『私は元々双子であり、私が生まれるために双子の妹はなくなってしまった。だから妹への罪滅ぼし、いいえ、謝り続けないといけない。これは私であるアドマイヤベガ自身の罪』だと。
私には苦悩がわからない。走ることしかできない私は練習相手や並走相手としかできない。
私には答えがわからない。先輩の悩みを聞くだけしかできない。
だから先輩の悩みを解決するきっかけとなったナリタトップロード、テイエムオペラオーのふたりに嫉妬する。
その2人は私にできなかったことをしたし、私だけに向けてくれた優しい笑顔は菊花賞が終わってから2人に向けられるようになったから。
「あの、先輩!」
「どうしたの、スズカ」
嫉妬しながら、コースを4周したところで立ち止まった私は先輩へと声をかける。
先輩は私を不思議そうに見ながらすぐ目の前に来てくれた。
「今から星を見ませんか?」
「今日はまだ2周しか走ってないじゃない。……もしかして体調が悪いの?」
月が出ていなく、暗い夜の下でも先輩が私を心配してくれる表情はよく見える。
以前はこれほど近くに来て、心配することなんてなかった。
今だけは私だけを見て、心配してくれる。
そのことが嬉しくてたまらない。
「体調はいいですよ」
「本当? 走るのがなによりも好きなあなたが短時間で満足するとは思わないのだけど」
星明りと遠くにある外灯で照らされた先輩の黒髪。心配そうな表情でウマ耳と首を傾け、ローポニーの髪が揺れて背中からあらわれる。
その髪はよく手入れがされている。前に先輩から聞かされたことがある。
髪の手入れはルームメイトであるカレンさんが勝手に整えてくる、と。そう不満げに言っても表情と耳は嬉しそうにしていた。
今、この場所には私と先輩しかいない。なのに、その髪を見るといらだちがやってくる。
「普段の私からすれば変でしたね。すみません。体調が悪かったとしても走っていればよくなります」
「……あなたがそう言うのなら」
嫉妬した自分の顔を見せたくなく、私は先輩の返事を聞き終える前に走る。
するとすぐ後ろから先輩も追いかけるように走ってきた。
それからコース1周分は会話もなしに走っていたけど、やっぱりさっきの態度は悪かったと思う。
気持ちがもやもやした私はすぐに謝るため、急ブレーキをかけて先輩へと振り向く。
先輩は私にぶつからないよう反応して横へと移動するけど、私も同じように同じ方向へと動く。
その結果、衝突してしまった。でもそれは普通にぶつかったんじゃなくて、びっくりするぶつかりかただった。
ここで私は言いたいことがある。
事件は突然やってくるものだってことを。レース前で脚はなんともないのに、走ったら骨折することがあるような予想できないことを。
それが今、起きてしまった。
唇同士がふれる、キスというものを。
これはキスというものに数えるべきかはわからない。
でもこれは偶然の事故にできるほど、私は落ち着きがない。
勢いがついた体でぶつかったけど、唇と唇がふれる瞬間だけは勢いが弱くなった。
だから歯と歯がぶつかるようなものじゃなく、友達のメジロドーベルから借りた少女漫画に描写されているキスのような感じ。
自分のではない先輩の温度とすべすべした感触が唇を通して私へと伝わってくる。
キスするほどの近さだと先輩の顔は私の視界いっぱいに広がっていて、普段は落ち着いた、またはにらむ目が今だけは驚きで見開いている。
滅多に見ない表情を見て、こういう顔も素敵だなぁと私はどこか遠くの世界で起きている出来事のように思ってしまう。
だって、こんなことが起きるなんて思っていなかった。
2年前から走るときに会うだけの関係じゃなく、ルームメイトがいない私の部屋へ泊りに来るほど仲良くなっているとはいえ。
同室のカレンチャンに追い出された、布団乾燥機を使いたい、静かな部屋で過ごしたいと言ってはやってくる先輩をいつも歓迎していた。
話は盛り上がる、と言えるほどじゃないけど、静かに会話をする時間が走る時間の次ぐらいに私は好きだった。
今まで私の部屋へ泊りにくるのは週に1度だったけれど、菊花賞が終わってからは私以外の子とも仲良くなり始めている。
仲良く話ができるのは私だけだったのに。少しずつ私から離れていっている。
先輩自身のことを思えば、多くの人と仲良くなったほうが練習相手もでき、私では相談できないこともできる。
でも、私だけのものであってほしいというのはわがままかな。
そう悩んでいた。
今回のキスで私は先輩へ感じていた感情に気づく。
高鳴る鼓動、誰にも渡したくないという気持ち。いつでも私のそばにいて欲しい。
「その、ごめんなさい、スズカ」
「いえ、私が急に止まったのが悪いんです。すみません、不快な思いをさせて!」
「…………別に不快というわけじゃ」
おたがいに謝り、私から顔をそむけた先輩は小声で何かを言ったけれど、誰かに見られてないかと気になってあたりを見回した私にその言葉は聞こえなかった。
なにか声が聞こえたときには先輩は口元を片手で抑えていた。
尻尾や耳は落ち着きがなく、大きく動いている。そして表情はどことなく恥ずかしそうな。
それを見て嬉しくなる。
いつも落ち着いていて暗い雰囲気を出している先輩が、私を強く意識しているから。
嫌悪感もなく、ただ驚いているだけじゃない。これは私を友達以上に見ているに違いないと思う。
私はキスした唇を指でなぞり、自分のとは違う温度と感触を記憶に焼け付ける。
そのあとは深呼吸して気持ちを落ち着けていると、先輩も私と同じようにしてから目を合わせてくれる。
「ふたりとも悪かった、ということにしましょう。それでスズカ、、どうしたの?」
「えっと……?
「止まった理由。私に言いたいことが何かあるの?」
キスしたせいで、その止まった理由なんか言いづらい。謝りたかったけど、この甘酸っぱさがある気持ちをまだ感じていたくて。
「キスで忘れました。走っているうちに思い出すかもしれませんから、ならんで走りませんか?」
「それはいいけど、大丈夫?」
「何がです?」
「あなたは自分自身が先頭に立たないと気分が悪くなるじゃない」
そう言った先輩はからかうように言ってくる。
まるで私が常に先頭でいたいと思っているだけの子、みたいじゃない、それは。
いえ、実際に先頭でいたくはあるけど先輩となら一緒にならんで走るのならいいと思う。
ふたりで見る景色はいつもと違うだろうから。
「先輩となら歓迎ですよ」
「そう? それなら走りましょう」
先に走り出した先輩に、慌てて後ろから追いつき私も横に並ぶ。
そのとき、先輩からいい匂いがする。
ずっと、いつまでも嗅いでいたいという匂いが。
いつもは私が先に走るからわからなかった。でも今日は後ろから。
その匂いは香水とは違い、自然というか……うまく言葉にできないけど、とてもいいものだった。
落ち着こうとしていた心臓が、また強くバクバクと動くくらいに。
並んで見る先輩の横顔はとても美しく、唇もやわらかそうだ。
ずっと見ていたくなるけど、理性を振り絞って前を見る。
先輩からキスした感触をずっと思い出すえっちな子だと思われたくなくて。
でもすぐには忘れたくなくて、思い出し続けていたい。
先輩が、アドマイヤベガが私のものだけになるにはどうしたらいいんだろうと考えることにし、それで心を落ち着ける。
今はまだ方法がわからない。急に考えてもいい意見は出ないし、あとでタイキやフクキタル、エアグルーヴやドーベルに相談しようかな。
きっと先輩を独占して拘束し、愛情を独り占めできるアイディアを考えてくれるはず。
ひとまずは、この時間を私だけが独占しているのを十分に楽しもう。
スズアヤの小説が全然ないんです