前に付き合っていた恋人は幼馴染で中学生から付き合っていたウマ娘の女性だった。
でも二十七歳で別れた。俺からの一方的な理由で。
理由は今の恋人よりも夢中になることができたからというものだ。
恋人よりも仕事を愛し、担当ウマ娘を持ってからはその子のことばかりを考えてしまう。
だからケンカをして仲が悪くなる前に別れを切り出した。
そのとき別れを切り出した俺に対する彼女のセリフは二年たった今でも覚えている。
「……そう。話してくれてありがとう。あなたの誠実なところは好きよ」
さびしそうな笑顔で言ったのを最後に会うことや話をすることがなくなった。
それからの俺はよりトレセン学園でのトレーナーの仕事に集中できるようになった。
彼女と別れたときはミスターシービーという新しい担当ウマ娘を育てはじめたばかりであり、男の身だからこそ少女である彼女には対応が苦労していた。
年頃の女性への配慮というのは実に難しい。誰ひとり同じ対応ではよくなく、言葉や態度で機嫌よく走る練習や歌と踊りを頑張ってもらっている。
弥生賞、皐月賞を勝って菊花賞の当日。
俺は静かな控室でシービーと向かい合う。
シービーは緑と黄色のチューブトップと、その上に着る左だけノースリーブの長袖。白のズボンという勝負服を着た、機嫌よさそうなシービーの前に立っている。
「気分は?」
「すごくいいよ。もうね、胸が高鳴って待ちきれないよ」
「今日は最高にかっこいいシービーが見れそうだな」
「それは違うかなぁ」
俺から目をそらし、憂鬱そうな顔をしたシービーに慌てて顔をじっくりのぞき込む。
そうした瞬間にシービーは顔をぱっとひまわりのように明るくして笑顔を浮かべた。
「いつもアタシはかっこいいってことだよ!」
「驚かせんなよ。ほら、シービーらしく走ってくればいい」
「うん、任せてよ。それじゃ、行こっか!」
シービーが控室から出ていくのをついていき、部屋を出る。
出たあとはすぐにシービーが親指を立てるサムズアップをした。俺もそれと同じのを返し、シービーは俺に背中を向け自信たっぷりにコースの方へと歩いていく。
俺はパドックを目指して歩き出す。
そこでシービーが出てきたときの落ち着いた様子を見たあとは観客席に行き、二着に三バ身差をつけて菊花賞を勝った瞬間を見た。
三冠達成。
偉業であり、人々の記憶に長く残る足跡を作った。
まぁ嬉しくはあるが、長距離を無事に走り終えたほうがずっと嬉しい。
その後はウィナーズサークルでふたり一緒にインタビューを受けたあとはシービーと別れ、ウイニングライブとなる。
それからだ。シービーの様子が変わったのは。
今の俺はトレーナー室で、雑誌の仕事を受けて記事をパソコンで書いている。
なのに、今日はいる。
菊花賞が明けて翌日の月曜日だからトレーニングは入れていない。
用はないはずなのに、制服を来たシービーが部屋にあるソファに座って俺をじっと見つめてくる。
目は合わせてはいないが視線を感じるし、視界の端にシービーの姿が見えている。
なんかやりづらい。
そのせいでシービーを意識しすぎて、これからの展望と3冠達成についての記事がシービーが普段どう過ごしているかばかり書いてしまう。
これではただの日記だ。いや、それよりも悪い。
俺がシービーに対する感情だだ漏れの記事になっている。シービーは好きだが、それは恋愛感情じゃなく親愛だ。
一緒に接するうちに愛着が湧くのは誰だってそうだろう? だからシービーの顔がいいとか、気分で自由に動くなかでの俺への配慮。一緒にご飯を食べに誘ってくるのが嬉しいとか。
そういう気持ちでしかない。
恋人と別れてまでやりたかったのはシービーの育成だ。
でも今では明確に恋愛感情を持っているのがわかっている。
皐月賞を勝ったことで今までシービーを勝たせなきゃというプレッシャーが減り、自分の感情に気づくことができたときから。
恋心に気づいても告白をすることはなく、ずっと気持ちを抑えていくだろう。
俺がこの感情を伝えたら、今までの関係がなくなってしまう。自由に生きているシービーは魅力的であり、彼女の自由は強さとなるから。
ぎくしゃくした関係になりたくない。
シービーのそばで彼女の元気な笑顔や走りが見れればそれでいいんだ。
俺のシービーへの気持ちがあふれすぎているので記事を書く手を止め、大きく深呼吸をする。
そのときにシービーと視線が合うと、シービーはにこりと爽やかで明るい笑みを向けてきた。
「仕事はまだ終わらないぞ」
「いいよ、続けていて。アタシのことは気にしなくていいからさ」
「普段いないやつがいると気になるだろ」
「あ、それもそっか。でもさ、今日はトレーナーを見ていたい気分なんだよ」
「じっくり見なければ構わない」
「ありがと」
そう返事をしたシービーは俺から視線を外すと、体を倒して横になる。
俺の位置からだとスカートがちょっとまくれていて、太ももの上側まで見えてしまう。
おそらく本人には見えているという感覚がなさそうだが、こっちがどきどきしてしまうのでやめてもらいたい。
「シービー、足」
「足? ……あぁ、ごめんね、すらっとした綺麗な足じゃなくて」
「いいや、綺麗すぎて仕事が手につかなくなるよ。だから倒れるなら足を向けないでくれ」
言った瞬間、シービーはばねのように勢いよく体を起こすと俺を驚きの表情で見てくる。
変なことを言っただろうかと考え、なんて言葉をかければいいか悩んでいると、さっきと同じように体を倒す。
今度は俺へ足を向けずに。
シービーからの視線がなくなったことを確認した俺は深呼吸をし、意識を仕事へと切り替える。
それから二十分ほど記事を書き続けて仕事が終わった。
いまだシービーはソファーで倒れている。だけど、リラックスではなくどことなく緊張した様子なのを耳や尻尾の動きから感じ取れる。
さっき言ったことは怒ったわけじゃないから原因は違うものだとは思う。
思うが、その理由がわからない。シービーがちょっといたずらしたことや約束した時間に遅れても、今まで怒ったことがない俺なのに。
そこまで緊張するのはいったいなんだろう。
「仕事が終わったぞ。言いたいことがあるなら言っていい。記者に悪評を書かれたのなら会社に乗り込んでくるが」
こう言ったらシービーは起き上がると机越しに俺の前へとやってくる。
座っている状態から真剣な顔をしているシービーを見上げる。
「ねぇ、アタシたちさ、付き合おうよ」
「……すまない、シービー。もう一度言ってくれないか」
「結婚を前提にした恋人になろうよ」
告白されて心がときめいたけど、トレーナーとして大人として感情は制御する必要がある。
だから俺が落ち着くために聞き直したら関係性がより重くなったんだが?
いったい何がどうなってこうなったんだ。今まで俺への恋愛感情なんてなかったはず。
一人とはいえ恋人がいた経験があるから、ウマ娘の恋愛行動は知っているつもりだ。
「恋人を作ったら自由がなくなるぞ? 恋愛をするのなら学園を卒業してからでもいいと思う」
「その間に取られる気がしてさ」
「誰にだ」
「君の元恋人」
悪いことはしてないが、元恋人と聞くと背筋が冷たくなる。
あいつに悪いところなんて一切なかったのに、俺の一方的都合で別れたのは今でも罪悪感が残っている。
それを思い出したくはない。かといって、まったく連絡を取らないのも悪すぎるだろう、と思って年賀状のやりとりだけはしているが。
シービーには前に恋人がいたとは伝えたことはあるが、それがいつ、何年間付き合ったかなどは言っていない。なのになんで元恋人の話が出てくるのかわからない。
いま恋人がいないのなら、それは終わった恋愛であり復縁することなんてのはそうそうないのに。
「この前ね、会ったんだ。控室から出てウイニングライブに行くとき。そこで誰もいない場所でちょっとだけ話をしたんだけど、いい人だった。君に恋人がいない理由がわかったよ」
「恋人より仕事を選んだ男だってのがばれたか。文句は言わないでくれ、悪い奴だっていう自覚はあるんだ」
深くため息をついて気落ちすると、シービーは両手を前に出しては大きく横に振って、焦った様子で違うことを表現してくる
「文句なんて言わないよ」
「それでいったい何の話をしたんだ? お前に変なことを言っていたら、苦情を言うが」
「トレーナーが元恋人と別れた理由と、トレーナーを大事にしてねって言われただけ」
それだけならいいが。いや、よくない。おそらくファンサービスのつもりで話をしたら俺のことだったなんて驚いたことだろう
恋人を捨ててまでシービーの担当トレーナーをしている理由を知られると、気にしてしまうに違いない。
いや、シービーなら大事にしてくれて嬉しいぐらいで軽く終わる可能性が高いと思うけど。
「今でも連絡を取っているの?」
「正月にメールを送るだけだ」
「ふぅん。それだけならよかった。幼馴染だなんて聞いたから、友達以上恋人未満の関係かと思ってた」
あいつとは幼稚園の頃から一緒にいて、自然と恋人になっていた。
隣にいるのはとても居心地がよく、俺の家に来ては家事洗濯をしてくれたからダメな人間になりかけるぐらいになっていたのを思い出す。
トレセン学園に就職するときは応援してくれたし、遠距離恋愛になってもお互いに会いに行っていた。
そんな懐かしい記憶が出てくるが、別れた元恋人の話をされるとつらいため、立ち上がってトレーナー室を出ていこうとする。
でもシービーはさっと俺の前へと立ちふさがり、どことなく暗い目で俺をじっと見つめてくる。
「君がアタシを選んでくれてよかった。きっと付き合ったままで指導を続けていたら三冠ウマ娘のミスターシービーはいなかっただろうし」
「そうかもな。お前に集中したかったから別れたんだ」
「それならさ、元恋人の人とはもう連絡はしないでよ。その人をすっかり忘れちゃってアタシだけをずっと見ていて欲しいな」
いつも明るいシービーらしくない、暗く、じめっとした重さを感じる声。
身長が百七十五の俺より十センチほど低いのに、すごく大きなウマ娘のような錯覚を感じた。
シービーが無言で俺へ一歩近づくごとに俺は後ろへと下がっていき、最後は壁へと押しやられる。
背中が壁へくっつくと、シービーが俺の両脇へと両手をつく。
壁ドンと呼ばれる体勢だ。これをされると逃げるのが大変難しく、抵抗する気力が減ってしまう。
「アタシのために別れたんでしょ? だったら恋人になっちゃおうよ。十二歳の年齢差が気になるの? アタシの親はトレーナーと担当ウマ娘で結婚したから、問題なんて周囲もアタシの親も何も問題ないって」
「俺がお前と恋人になったら、ミスターシービーではなくなるんじゃないか。自由に生きてこそのシービーだ。俺と付き合ったことが理由でダメになったら死にたくなる」
元々シービーへ恋愛感情を持っていたから、こんなにイケメンな顔を近くで見ると抑えていた感情が出てくる。
いや、出てもいいのか? 過去の恋人に縛られ、恋愛ができないままでいいのか?
シービーを大事にしたい気持ちから恋愛感情に変わっている今、新しい恋をはじめてもいいのか?
「アタシのことが好きじゃなかったら、きちんと言って。そうしたら一週間もあれば、この恋心は抑えられるから」
答えが出ないまま、返事をしないでいるとシービーは両腕を俺の首へと優しく回してきた。
シービーに抱き着かれた状態になり、大きな胸の柔らかい感触とと熱い体温。フローラルな髪の香りを感じてドキドキとしていると、シービーの綺麗な顔がすぐ間近まで迫ってきている。
「嫌じゃないのならキスするから」
……俺はシービーと恋人になったら、どんな悪影響が出るかを気にしていた。
だが、心配しているシービーはこんなにも俺を求めている。
色々と頭で考えるが、心が感情にしたがえと強く言っている。
ここに来て決心した。シービーと恋人になりたいと。
でもキスはまだ早く、その代わりにぎゅっと抱きしめた。
「えっと、その」
「シービー。好きだ。恋人になってくれ」
「いいの?」
「ああ。担当ウマ娘と恋をすることに悩んでいたんだが、正直になったんだ」
「嬉しい!」
シービーは力いっぱい抱きしめ返してきて、体があちこち痛い。
でもシービーが尻尾を高く振り、耳を俺の体へ押し付けてくる様子がすごくかわいい。
恋愛は段階的にしていきたい。手をつなぎ、デートをしてキスをし、その後も。
精神が子供と言うがいい。俺はシービーとゆっくり恋をしていきたいんだ。
急に色々やってしまうと、恋人と担当ウマ娘というのを分けて考えられなくなる。
「もう嬉しくてどうかなっちゃいそう! ちょっと全力で走ってくる!!」
昨日レースを走ったばかりなのに元気いっぱいのシービーは勢いよくトレーナー室の扉を開け放って走っていく。
止めるまもなくいなくなったシービーの姿に、恋人関係になっても自由なシービーは俺に縛られることなくやっていきそうな予感がした。
シービーがいなくなった部屋で俺は元恋人に、スマホを使って『恋人ができた』とメッセージを送る。返事は『おめでとう』とシンプルな文章だった。
短すぎる文章だからこそ、言葉にある感情を色々想像してしまい、心が冷える。俺を恨んでいるんじゃないか、怒っているんじゃないかと。
彼女とのことを思い出す。誠実なところは好きと言ってくれたけど、一方的に振って自分だけ恋人ができて幸せなことに罪悪感がある。
自分だけ幸せになっていいのかと考えてしまう。だが、俺はその気持ちを持ったまま前へ進む。
元恋人からのメッセージは帰ってきたシービーに見せ、元恋人との未練を断ち切った証拠を見せると見たシービーは喜んだ。俺の腰につやつやとした綺麗な尻尾をからませるほどに。
翌日、シービーと話し合ったうえでSNSで恋人関係になったことを公表。
祝福の声だけでなく、恋人関係でトレーニングはできるのか、といったものが出てくる。
他にも担当ウマ娘と恋愛していいのか、年齢差が大きい、三冠ウマ娘になったばかりなのに恋愛にかまけていいのか! というようなのがメディアや有識者から来た。
そんな言葉をあまり気にはしない。なんでこんなに不満があるかとは思ったが。
メディアが好き勝手言うなか、俺たちは結果を出した。
本来は疲労を癒すために出る予定のなかったジャパンカップ。アイルランドウマ娘で二着になったスタネーラを負かし、一着。
有馬記念では菊花賞で四着だったリードホーユーを抑えて一着。
恋人になったことでさらに強くなったのでは? とまわりが話はじめる。
実際、シービーがトレーニングをさぼって遊びに行くことが減ったという理由もあるし、俺とのいちゃいちゃした話を友達に話したいがために友人とのトレーニング時間が増えたということがある。
なによりも学園を卒業したら、即結婚ということだからやる気で満ち溢れている。
好きな人が生き生きとしている姿は見ているとすごく嬉しく、シービー卒業後には新しいウマ娘をスカウトすると言ったら、部屋の空気が重くなるほどの雰囲気を出して暗い目で嫉妬するのがかわいい。
そんな感じで俺とシービーの関係は良好で、クリスマスイブの夜である今だってデートの待ち合わせをしている。
今の俺はダッフルコートを着て、頭にはニット帽というラフな格好だ。人通りが多い街中で、大きなクリスマスツリーのそばでひとり静かに待っている。
週に一回程度はデートをしているが、今日は婚約指輪を渡そうと思っているから今から心臓がばくばくと音を立てて緊張が高まっている。
今日という日を迎えるために心の整理はきっちりとつけてきた。つい先日まで元恋人との写真データはスマホ、パソコン両方とも削除をしたし、過去のメッセージも消した。
今まで元恋人と作ってきた大事な思い出がボタン操作だけで全部消えたのは大きな喪失感と寂しさがある。小さい頃からずっと一緒だったから、それはより重く。
そんな気持ちになりながら消したことを言ったら「バックアップもしっかり消した?」と聞いてきた彼女の目は笑っていたが、その奥にある色はどこまでも深く、暗い。
俺は「ああ」と返事をするとシービーは安心してくれた。
……今までデータを持っていたのは、懐かしい思い出として取っておきたかったから。
でももう違う。今の俺はシービーだけを見ている。
指輪を渡すという緊張と、過去と決別し新しい時間を送るという爽快感のふたつの気持ちが混じっている。
そんななか、待ち合わせをしている場所にシービーが少し息を切らせてやってきた。
「待たせちゃった? ごめんね、さっき君に似合いそうなネクタイピンを買ったから遅れたんだ」
「別に構わない。それじゃ行こうか」
シービーからネクタイピンが入っているであろう紙袋を渡されて受け取り、歩こうとするとシービーが俺の手を引っ張って歩くのを止めてきた。
紙袋をコートのポケットに入れて、シービーが何をしたいのか待っていると唐突にシービーの左手が目の前に突き付けられる。
「いま指輪をちょうだい」
「こういうのはムードを大事にしたかったんだが」
「ムードよりもアタシは今もらいたい。待つドキドキもいいけどさ、幸せな気持ちで君の横を歩きたいんだ」
そういうものなんだろうか。場と雰囲気を準備してからやろうと思っていたが、シービーが望んでいるんだから渡そうか。
先週シービーの指のサイズを調べて準備した婚約指輪のデザインは、プラチナのリングにダイヤモンドを一粒つけたものだ。
ポケットの中から婚約指輪が入ったケースを出し、そこから指輪を取り出す。
シービーは指輪をきらきらした目で見つめている。その指輪を右手で持ち、左手でシービーの左手を持ち、薬指に指輪を入れていく。
「これからもずっと一緒にいてくれ」
「ありがと、すごく嬉しいよ」
シービーは照れながらもはにかんで言ってくれた。
愛する人がいつも近くにいるというのは素晴らしく、その幸せを胸にし、これからも俺はトレーナーという仕事を頑張っていける。