夜の0時になり、今日で4月最後の日となった夜の今。
暗い空は雲ひとつなく晴れていて、細い三日月と星空がよく見える。
暖かくなりはじめた4月とはいえ、夜にもなるとまだまだ肌寒い気温となる。
そんな時間にトレーナーである俺は、よれているスーツ姿でトレセン学園の敷地内もいる。
夜中に1人でいる理由は、夕方にトレーニングが終わったあとにさっきまで学園の校舎内で先輩トレーナーたちから押し付けられた書類仕事をやっていたからだ。
その仕事を苦労して終えてからは、外にある自分のトレーナー室へと疲れた体で向かって歩いている。
遅くまで急ぎでもない仕事をやらされ、つまりは嫌がらせを受けている原因は24歳でトレーナーになったばかりの俺が有名になってしてしまったからだ。
活躍理由は、初めての育成で俺が悩みながら一緒に成長してきたウマ娘がレースでレコード勝ちをし、3冠を取るほどに強くなったから。
そのために経験がとても少ないというのに、優秀なトレーナーとして理事長に褒められ、学園の外では期待の新人としてメディアに取り上げられた。
それが気にくわない人たちからは嫌がらせを受ける日々を送ってしまっている。
走って踊る華々しいウマ娘たちを育てる学園だが、同じ出身校で争うからこそ派閥争いが辛い。
どこかに入ってしまえば、多少は楽になるだろう。
でも、それをすると方針を指示されて俺がやりたいように育てることができず、先輩方が勝つために自分のウマ娘にとって最適なレースが選べない。
どっちつかずの八方美人をしつつ、やりすごすために俺は日々雑用をしては専属トレーナーの仕事をやっている。
こうやって日をまたぐほどの仕事をするのは時々あり、日々生きているだけでストレスが溜まって気分が悪くなる。
先輩方の仕事をやっても褒められず、うまくできても何かと文句を言われてしまう。
生きるのも辛く感じる日々だが、それでもやっていけるのは俺の専属契約ウマ娘のグラスワンダーがいるからだ。
彼女と一緒にいて2年が経ち、グラスと名前を気軽に呼べるほどに仲良くなった。
そんな彼女がレースを走り、勝ち、喜ぶ姿を見るのが俺のいきがいだ。
それを見るために俺は嫌がらせに耐えつつ彼女と一緒に頑張っていく時間は楽しい。
楽しすぎて22歳でトレーナーとなってからの2年間は家とトレセン学園の往復が中心となり出かける時間と体力がなくなるほどに。
お金はあるも時間がないという状態になってしまうぐらいだ。
日々の食事も自分で作る気力がなくて店で買うばかり。
こんな時に恋人がいれば疲れた心を励ましてくれて、ご飯を作ってくれるんだろうかと思う。
歩きながらそう思うと、なんだかとても悲しくなるがグラスが引退するまでは恋人なしで頑張ろうと考える。
グラスが無事に引退してこそ恋愛の余裕が生まれる。嫌がらせもなくなるか減るだろうし、そうでなかったら拒否して反抗すればいい。
俺はグラスのために生きているから、終わったあとはもうどうにでもなってしまえ。
トレーナー資格がなくなってもトレセン学園で働けるのなら、それでいい。
そもそもトレセン学園に就職した理由が、弱いながらもレースをやっていたウマ娘な母親の影響で『かっこよく走るウマ娘をすぐそばで見たい』というものだから、優秀でなくても頑張る子たちのために俺は頑張っていきたい。
……けれど、やっぱり専属のウマ娘を持って、すぐ近くで一緒にいたいという想いはある。
今となってはその理由の他に『グラスワンダーを立派なウマ娘として強く育てたい』というのもある。俺の人生でこれ以上はないと育て終えた以降もそう思えるほどに。
そのためにも、たとえストレスで胃が痛くなり、ふとした瞬間に自然と涙が出てしまっていてもやっていきたい。
大きく深呼吸をし、片付けをしたら早く帰ろうと思いながら自分に割り当てられたトレーナー室へとたどり着く。
そのトレーナー室は木造の平屋で1Kの建物だが、なぜか明かりがついていた。周囲にあるトレーナー室は暗いというのに。
明かりつけっぱなしだったかと反省しながら鍵を取り出してドアノブに差し込むも鍵は開いていて、ドアを開けるとあたたかな空気を感じた。
不思議に思いながらもたくさんの本棚とテーブル、ソファーがある部屋へ入ると3人掛けのソファーのまんなかに制服姿のグラスが座っていた。
グラスは小説を手に持って真剣に読んでいたが、俺が入ったのに気がつくと本を目の前のテーブルへ置くと穏やかな笑顔で俺へと振り向いてくれる。
頭の上にはふたつのウマ耳があり、右耳には青いリボンの髪飾りをしている。そして耳は横に倒れていてリラックスしているのがわかる。
その耳の下にある髪は腰まである長さで綺麗で淡い栗色だ。
俺を優しい目で見てくる、透き通る青空と同じ青色の瞳はまっすぐにこちらを見つめてきて、中等部であるグラスの幼さがある顔はかわいらしく感じる。
152㎝という俺よりも結構低く、控えめな胸ということもあって、妹がいたらこういうふうに迎えてくれるんだろうかと考えてしまう。
「遅くまでお疲れさまです、トレーナーさん」
「あぁ……いや、そうじゃない。なんでいるんだ」
仕事してきたことをねぎらってくるグラスの言葉に自然と返事が出てしまうが、ため息をついて文句を言う。
0時を過ぎた時間まで起きているなんて体によくない。それは選手として、1人の女の子としてもだ。
早く寝ないと疲れがうまく取れない。規則的な寝起きこそが健康になる手段のひとつでもある。
待っていてくれているのは嬉しいが、グラスのためにならない。
「寮に帰れ。あとで俺が呼び出したせいだと謝っておく」
「そのことでしたら、ご心配なさらず。トレーナーさんと遅くまで勉強をするという名目で外泊届けを出してきたので大丈夫ですよ」
グラスはいたずらが成功した子供のような明るい笑みを浮かべるが、今の俺にはそれに付き合う余裕はなくて1人静かになりたい気持ちでいっぱいだ。
俺は入り口そばにあるポールハンガーにスーツの上着を掛けると、部屋にある冷蔵庫から野菜の缶ジュースを一気飲みして少しだけ気持ちを落ち着ける。
しかし、いったいなんだって今日の遅い時間にかぎってグラスがいるんだ。今まで何度か同じような時間で仕事を終わったことがあるが、こんなことは1度もなかった。
ゴミ箱へと飲み終えた空き缶を乱暴に投げ入れたあとにグラスに軽口を言おうと笑みを浮かべたが、うまくいかずに変な笑みを浮かべてしまう。
グラスは耳をまっすぐに立てて俺の顔をじっと見つめると、立ち上がって俺のすぐ前までくると心配そうな顔になる。
「……今日はなにかありましたか?」
「単に仕事が遅くなって疲れただけだ」
不必要に心配されたくない俺はグラスから顔をそむけて言うが、グラスは俺が顔を動かしたほうに移動して顔を見てくる。
また顔を動かすも、その動きについてくる。
グラスの心配してくる顔を見てしまうと、弱音を言ってしまいそうだ。トレーナーだからこそ、今以上の心配をさせたくはない。
「トレーナーさん、私と顔を合わせてくれませんか?」
「グラスの美人な顔を見てしまったら、あまりの綺麗さに興奮して寝るに寝られなくなってしまう」
「あら、それは嬉しいですね。私を見て喜んでくれるなら、いつでもどこででも見せますよ?」
遠まわしに目を合わせたくないと言うがグラスはそれを気にせずに両手で俺の頬を押さえてきて、まっすぐ見つめあう形になる。
じっと見つめられ、俺は視線をあちこちに飛ばして目を合わせないようにする。正面から見られると疲労を隠しきれないが、わずかでも逃げられる可能性を信じて。
だが、それがよくなかったのか、グラスは小さくため息をついた。
ため息の意味は仕事を要領よくできない俺に失望したのかと思い、同僚や先輩と同じようにグラスにまでそういう目で見られるのは嫌だから手を振り払って離れようとする。
だが離れることはできず、グラスの手は俺の頭を抱きかかえ、グラス自身の胸元へと導かれた。
力強い手に俺は抵抗できず、身長が20㎝以上低いグラスに抱きしめられては頭を撫でられるがままになってしまう。
グラスの控えめだが、きちんとやわらかさがある胸と頭を撫でる手の優しさ。
制服越しに感じるグラスの体温と甘い匂いに包まれると、自然と心が落ち着いてくる。
俺に優しくしてくれる人がいるという安心感が苦しい。このままだと甘えてみっともないところを見せてしまう。
けれど、離れようと思っても体は言うことを聞かずグラスに包まれていたくて離れることができない。
そうやっているとグラスがひどく優しい声をかけてくれる。
「辛い時なら辛いと言ってください。愚痴や文句を言えば楽になると思うんです」
「そんなのは言えない。これは俺だけの問題だ」
「でも、しなくていい苦労をしているのは私のせいではないんですか?」
「世渡りが下手なだけだよ」
「では、そんなトレーナーさんを私が優しくしてあげてもいいですよね。いつも立派であろうとするのはいい心掛けですけど、そうしてばかりだと近いうちに倒れてしまいますよ?」
俺を心配してくれる暖かい言葉。
それをどれだけ欲しかったかと思うと同時に、グラスに心配をかけたことを反省する。
グラスは今日にいたるまで、こんな心配する言葉を言わなかった。目だけは心配していたが口には出していなかった。
それはグラスの優しさなのかもしれない。大人の男である俺だから、育てているウマ娘から心配されるとプライドが傷つくと思って配慮してくれたんだろう。
でもここ最近の疲れ具合もあり、俺を心配して戻ってくるまで待っていてくれていた。
「いつも頑張っているのはわかっています。だから、疲れたときは私に甘えてください。私だってトレーナーさんの役に立ちたいんです」
抱きしめられたグラスの胸元から顔を上げると、慈愛に満ちた表情で俺を見てくれている。
あぁ、こんなにも優しくしてくれるなら、もっとグラスの役に立ちたい。グラスがレースで勝ち続け、ウイニングライブできらきらと輝く姿を見たい!
グラスから離れると、グラスは俺の手を掴んでソファーへと連れていく。そして俺がソファーに座るとわずかな距離を開けて隣に座ってくる。
何か俺に聞くわけでもなく、ただそばにいてくれる。それだけなのに俺の目には涙が目に浮かんでしまう。
だからか、言いたくなかった愚痴をつい言ってしまう。
「先輩に言われたんだ。お前が勝てているのはグラスワンダーが優秀なだけだ。お前はその背中に乗っているリュックサックみたいな奴だと」
「私が優秀、ですか。私の血にガソリンが流れているというような噂が流れるくらいだったら自分でも良いウマ娘かなと思いはしますけど。
でもそうじゃない私は優秀ではありません。優秀だとしてもあなたがいてこそですから、そういうのはつまらない嫉妬です。
ウマ娘が自分だけで強くなれるなら、トレーナーなんていう職業はなくなりますよ。あなたの頑張りは私が一番近くで見て、一番良くわかっています。
だから、聞く必要のない言葉は聞かないでトレーナーさんを、あなたを理解してくれている人だけを見て、声を聞いていればいいんです」
……言われるとそうだ。俺はトレーナーになったばかりの頃に先輩に多くの意見を聞き、自分自身の中で多様性の考えを持ち続けろと教えられた。
だが、それも時と場合による。
特に嫌がらせを多く受けている、今の状況のような。多くの考えを意識し、聞く。それには多くの考える時間と思考する労力を取られてしまう。その結果、日頃から胃を痛くしてストレスに耐えるばかりだ。
悪い今を変えるのなら、グラスを信じるべきだと気づく。今までグラスに頼らず、信頼していないふうな形となっていた。
そんな俺なのに、グラスは優しい言葉をかけてくれた。優しく抱きしめてくれた。
「どうして俺にそこまでしてくれるんだ?」
「私のトレーナーだから、ではダメでしょうか」
「納得できないな。お前がここまで優しくしてくれるほど、俺と仲がよくはなかっただろう」
「そうでしょうか?」
「考えてもみろ。お前と一緒にいる時間なんて走ること関連でしかない。他のトレーナーたちのように遊びに行くなんてことは1度もなかったはずだ」
俺とグラスとの仲は少し他のトレーナーとは違う。そもそもの出会いが変わっていたから、それも当然かと思う。
普通はトレセン学園内での選抜レースでウマ娘とトレーナーがそれぞれ契約を結ぶ。
だが俺たちはそうじゃなかった。
俺は選抜レースでウマ娘との初めての契約がうまくいかず、選抜レース後の俺はトレーナー契約が結べなかった15人ほどのウマ娘たちのトレーニングを見ている時に出会った。
選抜レース時のグラスワンダーは選抜レースで2着となり、悪くはない結果なのにスカウトを断って練習を続けていた。
そんな時に併走相手を求めて俺のところへとやってきた。他のトレーナーたちも当初はそれを受けていたが、グラスワンダーと併走して落ち込むウマ娘が多かったためにすぐに相手がいなくなってしまっていた。
だから俺のところへとやってきた。グラスワンダーが相手をつぶしてくるという噂は聞いていたものの、自分より格上の相手との練習は勉強になるだろうと思って俺が教えていた子たちに相手をさせた。
結果は惨敗で、ものすごく落ち込んでしまった。だが、俺はそれが悪いことではないと思っていた。トレーナーがいない子たちは強い子たちと練習する機会がないから。
まぁ、俺はそう思っても本人たちはそう思っておらず、自信をなくしていたために俺はものすごく褒めた。強い子とやるのはいい経験だとか、
それプラス自腹でウマ娘たちとグラスワンダーを誘ってご飯を食べにいくなどをして元気にさせた。
結果としてグラスワンダーと仲良くなり、一緒に練習する機会も増えた。
1度併走トレーニングをしてからは、俺たちの中にグラスワンダーも混ざるようになった。
一緒に練習をし、トレーニング方法について考えあい、練習するときは俺の隣によく来るようになった。
そんなある日に『どうして悪い噂がある私を練習に入れてくれるんですか?』と言われたことがあった。
その言葉に『みんなで練習すると楽しいじゃないか』と当然のように返事をすると、きょとんとした顔をしたあとにおかしいものを聞いたとでもいうように大きな声で笑われた。
どうにも他のウマ娘やトレーナーはライバル意識が強く、楽しく練習なんてのはあまりないらしいのが理由だった。
そうして一緒に過ごし、グラスワンダーは次の選抜レースで1着となって喜び、同時にもう一緒にいられないかと寂しく思った。
でも俺を逆に指名してきた。新人トレーナーである俺をだ。
その逆指名を俺は受け、グラスワンダーの専属となった。
専属となると、以前のように今まで教えていた他のウマ娘たちと会う機会は減ったものの、専属のウマ娘を持つと学園から施設の使用回数や時間が多く与えられて一緒に過ごす時間が増えた。
グラスワンダー、今となってはグラスと呼べるようになったが同じ時間を過ごすだけで仲が良くなるものはないはずだ。
俺は過去を思い出し、考え、自分の意見が正しいことを確認する。
「……やっぱり理由はないな」
悩んでも答えが出なかった俺は静かにそう言うと、グラスは大きく深呼吸してからまっすぐに俺を見つめてきた。
それはレース前と同じように緊張している雰囲気で。
俺はグラスが何を言うか身構えて待つ。1分かそのくらいの時間が過ぎた頃にグラスはゆっくりと口を開いた。
「私、グラスワンダーがあなたを愛しているからです」
「……俺を好きに?」
「あなたの隣は美しい桜を見ているのと同じぐらいに心が穏やかになるんです。それに専属でなくても私のことを一生懸命考え、応援してくれた。そんなあなたを好きになって当然じゃないですか」
「俺はただトレーナーとしてウマ娘のことを大事に考えているだけだぞ?」
「それが嬉しいんです。私の専属となってくれた今は、私のことだけを考えてくれているのがすごく嬉しくて」
俺を愛していると言ったグラスは緊張感が一気になくなり、すっきりとした笑みを浮かべて優しい声になっている。
そんな様子に対し、俺は告白をされても少ししか驚かなかった。言われてから気づくが、確かにそういう理由でないと優しくしないよなと思ったから。
「俺はお前のことを女性として意識していない」
「それで構いません。私があなたに片想いしているだけですから」
俺は口を開けて何かを言おうとするも言葉が出ない。
つい無意識でひどいことを言ってしまったが、グラスは怒ることも落ち込むこともなかった。
それが逆に俺に罪悪感を抱かせる。
俺はいつでもウマ娘のグラスワンダーを見てきたが、それは選手としての一面だけ。
1人の人として見たことは、さっき告白された瞬間から始まったばかりだ。
「別に今までどおりでいいんです。変なことを言って失礼しました。今は心穏やかになってください」
グラスは俺から少し距離を取ってから、太ももを両手で軽くポンポンと叩いて膝枕を誘ってくる。
突然のことにどうしようか動けないでいるが、グラスはただ俺を優しく見つめてくるだけだ。
その視線に意識は吸い込まれ、自然と体は横に倒れてグラスの太ももの上に頭を置いてしまった。
グラスの柔らかくも鍛えられた太ももの上に頭を乗せた俺は、そっと頭を撫でられながらトレーナー室の景色を眺めていく。
「私はあなたの助けになりたいんです。ですから、これからは私に頼ってください。迷惑をかけてください。
そうしてくれれば、私はとても嬉しいですから」
そう言ってくれるグラスは疲れた俺の心を癒してくれ、これからグラスワンダーという女の子にはまってしまいそうだと感じた。
以前だったら選手とトレーナーの関係に個人的関係が強すぎるのはダメかと思っていたが、もうグラスがいないとやっていけなさそうだ。俺を心配してくれる子がいるならもっと頑張れる。
眠さと疲れでぼぅっとする頭でそんなことを思う。
グラスに優しく撫でられながら意識が落ちそうになっていると、グラスの撫でる手が止まったなと思った瞬間に唇へと柔らかくすべすべとした感触がきた。
落ちていく意識の中で、俺のグラスにキスをされたんだなと思いながら。