11月らしい冷たい空気を頬に感じ、耳からは灯油ストーブがうなり声をあげる音と本のページをめくる音が聞こえて目を覚ます。
目を開けて見えるのは、トレーナー室の白い天井だ。
3人掛けのソファーの端でのんびりともたれかかって寝ていた今。
本を読んでいたのに、いつの間にか寝ていたらしい。首を上にしながら寝ていたため、痛む首を片手で押えながら体を起こした。
まだ起きていない、ぼぅっとした頭で今は何時だっけかとちょうど正面にある壁掛け時計を見る。
時計は午後7時になっていて、ウマ娘たちのトレーニングを終えたのを見届けて戻ってから2時間ほど寝ていたことになる。
目の前にある背の低いテーブルには、寝る前に読んでいた小説が置かれていた。
ふと体があまり冷えてないことに気付き、毛布が親切な誰かによって首から下へとすっぽりかけられている。
普段から体を鍛えているとはいえ、スーツを着ているだけでは風邪を引いていたと思うのでこれには助かった。
29歳のおじさんになった今となっては、若い時と違って無理をしても中々病気やケガが治らないから。
今の自分の状態を把握していると、段々と意識がはっきりしている。
それで起きた時から聞こえてくる、本のページをめくる音にようやく意識を向けることができる。
寝ている間に誰か来たのだろうか。用事があるなら起こしても構わなかったというのに。
そんなことを思って聞こえてくる音の方向、左へと頭を向ける。
そこには僕と同じ、端の方に座ったウマ娘が熱心に小説を手に持って読んでいた。
その子はサイレンススズカ。僕と育成契約をしているうちの1人だ。
ウマ耳は緑色の覆いをつけていて、明るいさらさらとした栗毛の髪には白いカチューシャ。右耳には緑と黄色の小さなリボンを付けている。
ワンピースタイプの青を基調としたセーラー服の制服を着ていて、走りやすそうな小さい胸元には大きな青いリボンと蹄鉄の形をしたブローチがついている。
下は白色に青いラインが入っているスカート。太ももまである白いニーソックスな制服に皮靴のローファーだ。
そんな彼女の横顔を見るのはトレーニングの時に少し遠くから見るぐらいで、こんな1mぐらいしか離れていない距離で見るのは滅多にない。
小説を読み、笑みを浮かべてリラックスしているスズカはかわいく、ついつい眺めてしまう。
10秒ほど眺めていると、僕の視線に気づいたスズカは読んでいた本を閉じてはテーブルへと素早く置く。そうしてから、俺へと優しい笑みを向けてくれる。
「寒くありませんでしたか?」
「ん、ああ。毛布をかけてくれてありがとう、スズカ」
「いえ、礼を言うほどのことではありません。体が冷えたと思うのでコーヒーを淹れてきますね」
「角砂糖は5つで頼む」
「はい、いつもの数ですね」
僕の要求に、スズカはわかっていますよとでも言うかのように僕の頭を軽く一撫でしてくると、ソファーから立ち上がったスズカはコンロへと向かい、ヤカンに水を入れて火をかける。
僕が選んだ、最初のウマ娘であるスズカとの付き合いも今年で4年目。
今では他のウマ娘もいるけど、不思議とスズカの前では気を許してしまう。
もし隣にいたのがスズカでなく、他の子だったら自分でコーヒーを用意するとこだ。
お湯が沸くのを待つスズカの後ろ姿を見ながら、ふとなんでこんな時間にいるんだろうと今になって気づく。
トレーニングが終わったのは5時で、今は8時だ。トレーニングが終わったらジャージから制服へ着替えて帰るのが普通なのに。
申請すれば夜も練習はできるものの、今日はうちのチームでそういう予定はなかったはずだ。
話し合いや相談をする予定もない。練習したら解散だったはずだ。
何か理由があっただろうかと考えるも思いつかず、コーヒーを飲み終えたら聞くことにしよう。
ひとまず悩みは置いといて、スズカにかけてもらった毛布をたたんでからテーブルの上に置き、同じテーブルからスペちゃんに借りた女性向け恋愛ライトノベルを手に取り、コーヒーが来るまでの短い時間を待つ間に読み始める。
本を読みながら耳へと聞こえてくる音を楽しむ。
スズカがふたり分のマグカップを用意し、ドリップコーヒーの袋を破く音。それをセットし、お湯を入れる音や角砂糖を入れる音が静かな部屋へと響く。
コーヒーの香りが僕へと届いたと同時に本をテーブルの上へと片付けると、スズカがそれぞれの手にコーヒーが入っているマグカップを持ってやってくる。
「お待たせしました」
「ありがとう」
スズカの手から両手でマグカップを受け取り、熱い湯気が出ているコーヒーに息を吹きかけてから小さく口をつける。
熱いのを飲んでいるとスズカはさっきよりも近く、マグカップ3つぶん開いたぐらいの距離に座ってきていた。
普段からこのぐらいの近さだから、起きたときよりも近いことに安心し、コーヒーを飲んで体が内側から温まる感触を楽しむ。
そしてお互いに会話もなく、静かにコーヒーを飲む時間が過ぎていく。
別に話すことがないから静かなわけではなく、スズカと一緒にいるだけで僕は満足しているからだ。だからといって恋人関係ではなく、そこはきちんと公私の区別をつけている。
トレセン学園的には健全な付き合いなら恋人になろうが気にしないという方向だが、僕としては教え子と恋仲になってしまったら色々とダメになってしまいそうなので気をつけている。
その子だけ練習をひいきするとか、甘やかしてしまうだろうから。
恋人でなければ、僕とスズカはどんな関係だろうかとよく考えることがあるけど、この関係につける名称が思いつかない。
……そういえば、ふたりきりだなんてひさしぶりだ。
育てているウマ娘が6人もいるからか、いつも誰かがいて3人以上でいることが当たり前になっていた。
だから、こうしているのは最初に出会った時を思い出してなつかしく感じる。
スズカが入学したばかりの時、練習コースにいたスズカとの最初の会話で『走るのにあなたが邪魔です』というひどく冷たい言葉をぶつけられたものだ。
あの時は練習がひと段落したと思っていたけど、まだ終わってなかったことに気づけなかった僕のミスだった。
その経験を元にスズカの練習を邪魔しないようにして、雑談や近頃のウマ娘たちの話をするうちにわずかずつ仲良くなった。
そこまで僕がサイレンススズカというウマ娘に入れ込んだのは顔や髪が綺麗だったからという、ウマ娘のトレーナーにあるまじき一目惚れ理由だった。
あとは走っていて、楽しそうな顔を1度も見なかったから気になったということもあった。
そういう理由でなんとか口説き落とし、こうして仲良くできていると昔の僕はよく頑張ったと褒めてあげたい。
思い出にひたったあと、コーヒーを全部飲んでマグカップをテーブルに置いてから、なんでこんな時間にいるかと聞こうとしたときにスズカが声をかけてきた。
「トレーナーさんが読んでいた本。いつもと違いますね」
「あー、これか。これはスペちゃんから借りたんだよ。『今のトレーナーさんに足りないものがあります!』って言われてね。今日読み終わって、あとはあとがきを読むだけなんだ」
「……そうでしたか」
スズカに聞かれたことを素直に言ったというのに、スズカの顔は初めて出会った時のようになんだか怖く感じ、じっと僕を見つめてくる。
「スズカ?」
名前を呼ぶ声にスズカは反応もせず、僕とぴったり体をくっつけてきてはとても近い距離で見上げてくる。
上目遣いとなっているスズカはかわいさもあるが、それよりも怖くてたまらない。
元々ソファーの端に座っていたこともあり、これ以上下がれないから、どうしようもない。
「ずっと前から思っていたんですけど、どうして私以外の子を『ちゃん』と付けて呼んでいるんですか?
私はトレーナーさんから見て、そう呼びたくなるほどにはかわいくないのでしょうか」
スズカは僕に対して時々怒っているが、それは僕がジャンクフードを食べまくっていた時や無理して風邪を引いたぐらいだ。その時はこれほど怖さを感じず、かわいさがあって怒り続けて欲しいと思うほどに。
だけど今の怒りは滅多に見ない。これほど怒ったのは……スペちゃんの髪をぐりぐりと撫でまわしながらじゃれあっていた時だけだ。女性の髪を撫でまわすのはよくありません、って言われたけど今は同じ状況じゃない。
いったいスズカが怒っている原因はなんだ。
名前の呼び方はきっかけなだけで本質は違うと思う。
というか、こんな至近距離で見つめられるとドキドキして苦しいんだけど。一目惚れした顔がこんなにも近く、そう、首を前に少し動かすだけの距離へとスズカの顔が僕へと近づいてきているから!!
青いサファイヤのように美しい瞳は、いつまでも見ていたくなるほどに綺麗なんだ!
淡い茶色の髪は、いつでも撫でて柔らかさを楽しみたいのを我慢しているっていうのに!
スズカが小さく笑みを浮かべた時なんて、あまりのかわいさに胸が痛くなるほどだ!
もちろん声も素晴らしい! 耳元でささやきながらベッドで寝たいぐらいに!
だから、そんなスズカに見つめられると心臓がバクバクと音を立てて辛いから、目をそらすのは仕方のないことだ。
僕は心の中で叫び声をあげてスズカから目をそらすと、スズカはすぐに僕の顔を両手で掴むと僕の顔の向きを戻してくる。
そうして見つめあう僕とスズカ。
「……私はかわいくありませんか?」
「そんなことはないよ」
「じゃあ、なんで顔をそむけたんですか?」
お前がかわいすぎるからだよ!! と叫びたくなるも、そんなことを正直に言うと嫌がられそうだから言いたくない。
てか、愛の告白をしてしまいそうだ。あぁ、とにかく、何かを言わないといけないからマイルドにした褒め言葉を言おう。
スズカとキスをしてしまいそうなほどの至近距離で見つめられ続けられる中、僕はついに口を開いて言葉を言おうとする。
その時に、ふと部屋に寒い空気が入ったのを感じると、スズカは手の力が弱まって扉の方向を見る。それにつられて僕も扉を見ると、そこにはスペちゃんがいた。
制服を着た、黒髪が綺麗なスペちゃんはドアを少しだけ開け、なんだか申し訳なさそうにしている。
「スズカさんがなかなか帰ってこないので探しに来たんですけど、いい雰囲気のところでお邪魔してすみません……」
緊迫した空気なところに、突然スペちゃんが来たことで僕とスズカは硬直するけど、いち早く意識が戻った僕は密着しているシーンを見られて恥ずかしく思いながらもなんでもないかのように振る舞う。
そうでないと、トレーナーとウマ娘の不純異性交遊と思われかねない。今なら、スペちゃんに聞かれればケンカ中だったと言えるはずだ。
「あー、さっき読み終わったからいいよ」
そう言うとスペちゃんは素早く近づき、テーブルに置いてある本を手に取っては僕とスズカの顔を交互に見る。
入ったときは申し訳なさそうな表情だったのに、今では安心したふうに笑みを浮かべている。
「それほどくっついているなら、おふたりは恋人同士になったんですね! 毎夜スズカさんがトレーナーさんのことを好きすぎて部屋で『トレーナーさんに甘えたいわ』とか他にも―――」
そのスペちゃんの言葉は最後まで言い終えることがなかった。
なぜなら、僕から離れたスズカがレースの時ぐらいの早さでテーブルに置いてある自身のマグカップを手に取ると、立ち上がっては強引にスペちゃんの口へと押し付ける。
スペちゃんの口を強引にふさぎたかったスズカのことは気になったが、それよりも顔を赤くしながらも怒りの笑みで飲ませているスズカのことが気になった。
「スペちゃん? たくさん喋ってノドが渇いたでしょう? ほら、私のコーヒーを飲むといいわ?」
「ス、スズカさん、わた、私。ブラックはダメで―――」
本来ならコーヒーを強引に飲ませているスズカを止めるべきだが、止めるとスズカに怒られそうなのと動揺するスズカはあまり見ることがないので見続けることにしよう。
それにスズカも加減はわかっているだろうから。
そんなスズカとスペちゃんを見つつも、気になっていたのは僕に甘えたいと言っているらしいスズカのことだ。
事実なら、今日スズカが普段よりもくっついてきたことや、怒ってきた理由に説明がつくかもしれない。それでも、名前の呼び方の違いで機嫌悪くなったのはわからない。
ひとり静かに悩んでいると、スズカはスペちゃんにコーヒーを飲ませたらしく、スペちゃんは床に膝をついてはむせていた。
「スペちゃん、大丈夫?」
「……はい、大丈夫です! スズカさんの照れ顔がかわいかったので!!」
心配して声をかけると、すごいいい笑顔で言ってきた。それになんだか腹が立ってしまう。僕の角度ではスズカの後ろ姿しか見えなかったらうらやましい。
だから、ほっぺたを両手でむにむにとさわって嫌がらせをしてやろうかと思っていると、スズカは僕とスペちゃんの顔を2度見てから真面目な顔をしては部屋の中をぐるぐると左回りで歩き始めた。
それはゆっくり、時には早く。耳をそわそわと落ち着きなく動かし、尻尾は興奮したように高い位置で元気に振っている。
僕とスペちゃんはそんなスズカの様子を不思議そうに見ているけど、何かを決心した顔になったスズカは勢いよく、さっきと同じような位置で僕に迫ってきていた。
「トレーナーさん、私、急に甘いものが欲しくなりました。
「甘いもの? それならグラスちゃん用の和菓子があるけど」
「いえ、目の前にあるものです」
目の前? と不思議に思っているとスズカは僕の首に両腕を回し、目をつむって勢いよくキスしてくる。
でもそのキスは勢いがよく、歯と歯がぶつかって痛いキスになってしまう。
それでもスズカはキスを続け、歯があたりながらも唇同士がふれあうキスへと変わっていく。そして次第に僕の口の中にはスズカの舌が入ってきた。
スズカの行動に混乱しつつ、されるがまま。
甘いものってのは僕が甘いコーヒーを飲んだ口の味か、なんてのを冷静に考えてしまう。
ディープキスをされている中、一生懸命にキスするスズカの顔や荒い息は好きだなぁと感じつつ、視界の端には熱を持った表情で僕たちのキスを見つめているスペちゃんがいる。
スズカの長く情熱的なキスによって呼吸が苦しくなってくると、スズカはようやく目を開けるとキスをやめて僕から離れていく。
その時にキスをした僕たちの唇の間から唾液が粘りを持って糸を引いていく。
お互い息を荒くし、スズカのとろんとした甘い笑みを見ているとはまってしまいそうだ。
スズカのためなら、いくらでもお金と時間を使いたくなる。ひとりの女性として求めてしまいたくなるが、ウマ娘たちのトレーナーだという意識を強く持ってなんとか耐える。
そうして耐えたとこで、スズカが自分のポケットから出したハンカチで自身のと僕のを拭いたスズカは不安そうな顔になった。
「あの、私のこともみんなと同じように呼んでくれませんか?」
「……えっと、スズカちゃん?」
「はい、あなただけのスズカちゃんです」
お願いされるまま、スズカちゃんという名前を呼ぶと、スズカはとても幸せそうな笑顔を見せてくれる。
「これで私も他の子たちと一緒になれましたね?」
僕とスズカの話を聞いていたスペちゃんは「スズカさんは、そう呼ばれたいためにキスをしたんですか!?」と大きな声で驚いていた。
そもそも僕はスズカをスズカと呼んでいたことに深い理由はなく、出会ってすぐの頃から呼び捨てだったのは言いやすかっただけ。もしかしたら、1人だけ違う呼称なのが寂しかったのかも。
でも今は疑問を考える時間や説明をすることはしない。だってスズカが、スズカちゃんがこんなにも嬉しそうだから。
「初めてのキスは、甘いコーヒー味でしたね?」
口元を両手で隠し、嬉しそうに尻尾を高く振りながら恥ずかしげに言ってくるのはずるい。
もう最高にかわいいんだけど。僕のウマ娘が。
スズカちゃんに対して、僕の衝動が高まりすぎて、ついスズカちゃんの体を強く抱きしめた。
女の子特有のやわらかい体。シャンプーの香りがする髪、耳がくすぐったくなる呼吸の音。
それらすべてが僕の心をおかしくしてくる。
スズカちゃんと僕が、それぞれお互いを好きだと気づいた今、僕は今以上にこれからのことを考えていこうと決めた。
きっと長い付き合いになる、スズカちゃんとすぐそばで過ごしていく時間のために。