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これで、良かったのだろうか。
思考の狭間で反復する、いつまでも残る迷い。
ちゃんと覚悟を決めたはずなのに、今になって大きく、大きく、今までになく揺らいでくる。
本能が、これから向かう現実に対して悲鳴を上げている。
抑えなくては──しかし、徐々に理性が本能に押されてゆく。
気が付けば、重い罪を背負っている感覚がひんやりと伝わってきた。
苦しい──
冷やりとする感覚が、想像上のものではないことに気づく。
何かが、自分の肩に──
恐る恐る振り返ってみると、そこにあったのは、自分が今一番大切に思っている対象であった。
「マックイーン……」
緊張の糸が張り巡らされてるからか、耳や尻尾の先はピンと立っている。
よく見れば、口元は微かに震え、瞳は今にも泣きそうになっている。
──そうか、また俺のせいで、彼女は泣きそうになっているのか。
自然と至るその考えは、俺の罪意識をより強くさせた。
「……どうしたんだ、何かあるんだろ? 言ってくれ」
彼女は俺の肩に震える手を置いたまま、黙ってこちらを見続けていた。
俺も当然、彼女の瞳に釘付けになる。
しかしふっと、彼女は何かを決心したかのように目を閉じて、そこから大きく息を吸い上げる。
そしてそれらを全て吐くと、真っすぐな瞳で話し始めた。
「……トレーナーさん、海外に行かれるのですよね?」
──やっぱり、気づいていたのか。
恐らくさっき話していたのをどこかで見ていたのか、それとも誰かからその話を聞いたか。
どちらにせよ、このことが彼女にバレてしまったことには、どうしてか不快感を感じなかった。
むしろ、少し清々しい気分ですらいる。
「……あぁ。 俺は来年の春にはもう、この国を離れてイギリスでトレーナー業をする」
「……どうして、わたくしを連れて行ってくれないのですか……?」
告げられた言葉に、一瞬耳を疑った。
連れていく、彼女を?
それは一番、許されてざる行為なのではないか。
「そんなこと……できるわけないだろ! だって君は、メジロ家が大事に大事にしてる令嬢なんだぞ! もっと自分の立場を理解して──」
「それはわたくしだって分かってますわ!」
遮られ、涙を飛ばして悲痛に叫ばれた。
「でも……わたくしは家の命令に従うような、出来た人間ではないのです……貴方と共に、ずっと在り続けたいと願っているから!」
彼女の宣言に、自分の中のどこかに強い衝撃が走る。
俺はいつの間にか、どこか彼女を見くびってたのかもしれない。
「貴方が地の果てまで行くと言うなら、わたくしも地の果てまで行きます。 天まで昇ろうというのなら、わたくしだって空を駆けてあげましょう。 一心同体を誓った者同士が一緒にいるのは、当然のことなのですから!」
そこまで言い切ると、彼女がすっと歩み寄ってくる。
そして大切そうに、しかし力を込めて抱き着かれた。
「だから、わたくしを離さないで……どこに行ってもいいから、一緒にいさせて……」
顔を埋め、涙を胸に擦り付けて言う言葉に、胸が打たれる。
──元々、彼女と離れる必要など、なかったのかもしれない。
俺は彼女を包むように抱きしめ、頭を撫でた。
「……俺はもう、君と一緒にいるべきでないと思ってたんだ」
「トレーナーさん……」
もう隠し事はしないようにしよう。
俺が彼女に求めたように、自分の本音を伝えなくては。
「ごくごく平凡な家に生まれた俺と、名家に生まれた君。 一緒にいたら、君が不幸になると考えてたんだ。 だから俺は、こんなことを……」
貰ってきた涙が零れそうになるのを抑えていると、彼女が上を向き、微笑みを浮かべてくれた。
「何を言ってますの……貴方といれないことこそが、わたくしにとって一番の不幸──死んでしまいたいと思ってしまうくらい、辛いことですわ。 どうして貴方はそんなに、鈍感なのですか……?」
「……ごめんな、マックイーン。 気づいてやれなくて」
「……えぇそうです。 貴方は本当に……鈍感なのですから……」
一生懸命、誰かが剥がそうとしても剥がれないような、力強いハグをする。
再び彼女が涙を零して、粒を落とし、その粒が俺の足まで到達した。
「……マックイーン」
「はい……!」
明るさを取り戻したその声にはやはり、安心させられる。
これを永遠に守り続けることが、俺の使命だ。
「今から、先方に契約の破棄を希望しに行ってくる」
「え……? いいのですか? だってこれほどの話、そうそうあるわけではないのに……」
上を向いた彼女は困惑の表情を浮かべてはいるが、少し嬉しそうなのを我慢しているのは見え見えだった。
しかし俺のことを考えて、この話を受けるべきだという思いは本物のようだ。
「もちろん、凄い光栄な話だとは思ってるし、普通なら受けるだろうな。 でも俺はまだまだ未熟なトレーナーだ。 このプロジェクトを遂行できる自信は正直ないし、このまま受けるのも迷惑がかかる。 それに、俺はマックイーンがいるチームシリウスを、家族ぐらい大切に思ってるからな」
「家族のように……」
何故かその言葉を反復させるマックイーンだが、理由がなんとなく分かってしまったかもしれない。
それを言うと、絶対に怒られるだろうけど。
「でもまぁ、決まった話をいきなり取り消せってのはありえない行為だからな。 ちょっと……大変なことになるだろうね」
「……っ、それなら!」
ハグしていた腕が解かれると、今度はこちらの手を掴んできた。
「わたくしも一緒にいますわ。 これは貴方の我が儘だけでなく、わたくしの我が儘でもあるのですから。 それに……」
手を握られたまま、突如として彼女はこちらの横に立ち、そしてカップルがするという手の繋ぎ方──所謂、恋人つなぎをしてくる。
「この人はわたくしのものであると、言わなくてはいけませんから」
悪魔的な顔をする彼女は、今日見てきた表情の中で最も魅力的で、体がゾクッとするほど煽情的であった。
この子にこんな側面があるなんて──
いつか来てしまう、理性が完全に壊れる瞬間が恐ろしくも、楽しみになってきた。
「それじゃあ……行こうか」
あの人たちの居場所は分かっている。
それはマックイーンも感じ取ってくれたのか、何も言わず、連れられるがままに歩みを共にしてくれた。
* * * * *
────
「東京第10R、シャングリラ賞──」
やはりレースは熱い。
この学園に来てから八か月近いが、この興奮に慣れる時は来るのだろうか──それほど、体が上気している。
しかし今日のメインレースまでにはまだ一時間もあって、そこまでにはここ東京だけで二レースある。
もう一方の京都でも京阪杯があるし、こんなに楽しくてもいいのだろうか。
──あれ、そういえばトレーナーさんがいない。
「ゴールドシップさん、トレーナーさんがどこにいるか知ってますか?」
席で新聞片手にレースを見ていたゴールドシップさんに問うた。
正直この人が知ってるような気はしないが、マックイーンさんも何故かいないんだからしょうがない。
「んあ? んなもん知らねえよ……アタシはこのシャングリラ賞で万バ券当てなきゃなんねえからな……」
ま、万バ券?
何を言ってるかさっぱり分からないが、とにかく居場所が分からないことだけは理解できた。
「わ、わかりました……」
やっぱりと言うべきか、知らなかったようだ。
「まああれじゃね? マックイーンとラブラブキャッキャウフフ・うまだっちうまぴょいなフラワーカーペットを歩んでるんだろ」
「どういう意味ですか……」
長すぎて一発で意味を理解できなかったが、多分あの二人が仲良くいるかもしれないよね、ということか。
確実ではないが、恐らくあの二人は付き合ってるのだろうし、その線は全く不思議ではない。
──そうだ、この際聞いてみよう。
「ずっと気になってたんですけど、トレーナーさんとマックイーンさんって付き合ってるんですよね? だってあんなに仲いいですし……」
言うと、意外なことに彼女は厳しい顔をしてしまった。
「……あいつらは、付き合ってない」
「え、そうなんですか?」
「あぁ……普通ならとっくのとうに付き合って、やることやってるもんだけどな。 あいつらのヘタレ度が飛ぶくらいレベチだからか、全くそんな関係にならずにここまで至ったんだ……」
苦労してきましたよみたいな態度で話をしているが、こればかりは同情してしまう。
あれだけラブラブな雰囲気を醸し出しておいて、正式にお付き合いしてないとは──
「きっとあいつらをがっちゃんこさせるにはな、多分稲妻クラスの衝撃を与えなくちゃならねえ……」
「それほどの、衝撃を……」
ただの色恋沙汰だと思っていたが、なかなかに大変な話に見える。
普段は自由奔放に活動するゴールドシップさんがこんなにも考えてるわけだから、今シリウスで最もホットな問題なのだろう──私も、解決策を提示しなくてはいけないのでは。
「こういう時に効果的なのは、"吊り橋効果"ですよ!」
吊り橋効果──恐怖や緊張をしている時に、それらを共有している相手に恋愛感情を持ちやすい、という心理学での理論である。
まあ二人は既に恋に落ちているだろうが、それは気にしない。
「それはな……もうやってしまってるんだ。 しかも一か月前にな!」
「う……それなら"ロミオとジュリエット効果"はどうですか!?」
ロミオとジュリエット効果──何か障害が立ちふさがってる場合、その障害を乗り越えようという気持ちが高鳴って、二人のキズナが強まる、という同じく心理学の理論である。
しかし二人は既に何回も障害に立ちふさがれて、その度に協力して乗り越えてきてるだろうし、今更これをやる意味があるのかは、不明だ。
「ロミオとジュリエット……そうか!」
私が言った"ロミオとジュリエット"にどうやら反応したようで、閃いたという顔をした後、ゴールドシップさんは一言も発さず下を向いて考え込むようになってしまった。
なんというかこう、情緒が不安定すぎて色々不安になる。
「……あまり触れない方がいいのかな──ってわぁ!?」
振り向くと、目の前には緑の人が。
完全に油断していた所、なんと、知らない間にアサシンの如く、学園理事長の秘書さんが近づいてきてたではないか。
もし彼女が忍者だったら、間違いなく私はやられていただろう。
それほど、突発的にぬっと登場してきたのだ。
「すいませんねサトノダイヤモンドさん。 ちょっと、ここのトレーナーさんに用があるんですけど、電話が繋がらなくて……」
「え、トレーナーさんに!? ライスさんに何かあったのですか!?」
彼女は理事長の秘書という立場なので、URAのレース運営にも結構噛んでいたりしているし、そうなると出走者に何かがあったら、当然それも分かるわけで。
まあそれでライスさんに何かあったとしても、こんなアナログな方法では来ないでしょうけど。
「いえいえ、ライスさんは順調そのものですよ。 それではなくて、別の理由で探してるんです」
「なるほど……それは、急がないといけませんか?」
「うーん……そうですね、急ぎの用事です」
首を傾げる彼女の姿は見た目の年齢にそぐわない、とてもフレッシュなものであった。
しかしライスさん以外のことで急がなくてはいけない用事となると、一体何なのだろうか。
「実は私たちも知らなくて……そろそろ、ライスさんの所に向かった方が良いんじゃないかなと思ってるんですけど──」
「……天啓が降ってきたぞ!」
それまで声のしなかった方──ゴールドシップさんの方向から大きな声が聞こえる。
びっくりしてそちらの方を見ると、ゴールドシップさんが空に手を上げて仰いでいた。
「こ、今度はゴールドシップさんですか!?」
「分かった……このレースの勝ちウマと、二着三着……そしてトレーナーの位置が!」
「本当ですか!?」
たづなさんがぱあっと明るい顔になるのを見るや、ゴールドシップさんは手を頭に持っていった。
何をするのだろうと思っていたら、いきなり人差し指を一方向に下ろしてくる。
いうなればうさみみポーズの手をより下方向にして、指を人差し指のみにした感じ──まあ、本人にウサギの意味は含んでないだろうが。
「ゴルシちゃんダウジングによると……ここだぁ!」
たづなさん、分かりますか。
あまりに抽象的すぎて、私には分かりません。
「なるほど……ゴールドシップさん、ありがとうございます!」
「え、分かったんですか!?」
驚いてたづなさんの方を向いたが、もうすでに彼女の存在は確認できなかった。
は、速すぎる──
というより、ツッコミどころが多すぎてもうよく分からない。
呆然としていると、ゴールドシップさんが今度は新聞の一部分を指差していた。
「このウマ娘……絶対に来る!」
「そうですか……」
ゴールドシップさんは置いておいて、気になるのはたづなさんのこと。
なんとかなってほしいと思いながら、次のレースが始まるのを待つこととした。
「……ハマる時は、案外ハマるもんだな、ライス……」
ゴールドシップさんがまた何か言ってる──
* * * * *
────
インビジブルは世界で大活躍するウマ娘だ。
当然彼女を受け入れるURAも、最高級の待遇を用意しているはず。
となると、ただの関係者では入れない、とんでもないVIPルーム──通称"ダービールーム"にも入れるはずだ。
そこにいる可能性が一番高いと思われるので、我々はそこに向かうこととした。
俺たちがそのダービールームに入れるか、という問題はあるが、多分インビジブルは入れてくれるだろうし、大丈夫だろう。
一応、リバーズコアにメールを送っておいた。
「トレーナーさん、リバーズコアさんのこと覚えてらっしゃらなかったのですか? まったく……そういうところは直した方が良いですよ」
恋人つなぎしたまま、窘める顔をするマックイーン。
そのまま歩幅を合わせて横並びに歩いてるから、二人はどっからどう見てもカップルにしか見えないはずだ。
しかし悪い気分はしない。
「すまん……その時はマックイーンのことしか考えてなくて……」
自然と、少し気障なセリフを口走ってしまった。
彼女に怒られるだろうか──と思って振り向いたら、意外と少し嬉しそうな表情であった。
「わ、わたくしのことしか……それなら、しょうがありませんわね」
少し浮ついた発声が、嬉しいことを裏付けている。
ふと背中を見ると、尻尾は落ち着かない様子で右へ左へと動いていて、可愛らしさをまた感じ取ってしまった。
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「ここだな……」
リバーズコアから受け取った情報をもとに、辿り着いてしまったドア。
ドア横の表札には"8"の数字と"シンボリルドルフ"というウマ娘名が併記されていた。
どうやら部屋一つ一つに、ダービーウマ娘と部屋ナンバーが割り振られてるようだ。
そういえば14番には、"トウカイテイオー"の名前が書かれていたな──
「すごくわたくし、緊張してまいりました……一番大変なのはトレーナーさんであると分かってますのに……」
見ると、握るマックイーンの右手が少しであるが震えていた。
大レースに何度も出ている彼女でも、こういう場所で震えるというのは、少し意外だった。
そして正直なところ、自分もかなり緊張しているが──それを悟られてしまうと、彼女をもっと不安にさせてしまう。
だから我慢、どれだけ怖くても、彼女よりは毅然としなくちゃいけない。
「……っ、トレーナーさん?」
震えている右手を、すっと俺の左手で握り返す。
大丈夫、俺がついてる──そういうメッセージが、伝わればという行動だった。
「ふふっ、暖かい……貴方がいるから、怖さもなくなってきました」
緊張の糸が切れたようで、柔和で安心した表情を見せてくれた。
「じゃあ……行こうか」
「えぇ、行きましょう」
合図をして、ドアをノックして声を掛ける。
返事は思いのほか早く返ってきた。
「トレーナーか!? いいぞ、入ってこい!」
元気な声は間違いなく、インビジブルのものだ。
このルームの主の許可が出たので、恐る恐る扉を開けた。
そこには、椅子に鎮座しているインビジブルと、その横で立っているリバーズコアの姿が。
「おおトレーナー! 一体ワタシに何の用──って!」
きっと、入ってきた人が、見知らぬ女性と手を繋いでるのを見て驚いたのだろう。
その人が自分の将来的なトレーナーなのだから、なおさらだ。
それは彼女のマネージャーも同様だったようだが、さすがにインビジブルと違ってすぐに冷静さを取り戻していく。
「……お久しぶりですね、メジロマックイーンさん」
「え、えぇ。 会うのは四年ぶりになるのでしょうか」
「そうですね。 そこの、君専属のトレーナーさんも、同様です」
仏頂面なリバーズコアの語り口は、怯えやすいお嬢様に威圧感を与えるには十分だった。
しかしマックイーンは決してひるむことなく、頑張って立ち続けている。
「……それで、何の用でしょうか。 契約の確認──ではなさそうですね」
「はい」
すうっと、息を吸う。
呼応するように、隣の彼女も息を吸っていた。
そして同時に、吸った空気を吐く。
「……先ほど交わした契約を、取り消してもらえませんでしょうか」
重い言葉を出してから、頭を深々と下げる。
連れて、マックイーンも頭を下げる。
耳には、驚く少女の声と、呆れたというようなため息が入ってきた。
「……どうしてか、教えてください」
「……はい」
頭を上げると、顔を手で押さえるリバーズコアと、唖然としているインビジブルが目に入った。
申し訳ないという気持ちが強まる──だが自分の主張を押し通さないといけない以上、避けては通れない。
「俺がチームシリウスに所属していることは、お分かりですね。 俺はそのシリウスを……離したくないんです」
「なんで! それならこっちにも魅力的な──んぐ!?」
慌てたインビジブルが前に出てあれこれと喋ろうとしていたが、空気を読んでくれたマネージャーさんによって口を塞がれる。
当のリバーズコアは、ただ黙ってこちらの話を聞いていた。
「俺にとって、シリウスは家族のようなものなんです。 ライスシャワーにゴールドシップ、他にも──」
シリウスのチームメンバー五人と、俺が先生と慕う先代トレーナーやオグリキャップ、まだ正式加入してないが、サトノダイヤモンドの名前も出していく。
「そしてもちろん、メジロマックイーンも。 みんな、俺にとって大事な仲間なんです。 そんな人たちとは、まだ……離れることはできません」
一つ一つ、言葉を慎重に選んで話していく。
この思いが偽りでないことを、しっかりと伝えるため。
「ですから、無理なお願いだとは重々承知してます。 この契約を、なかったことにしていただけないでしょうか」
再び頭を下げる二人。
しばらくすると、目の前にいるはずのリバーズコアが重い口を開けてくれた。
「……あなたの言い分は分かりました。 所属しているチームから離れたくない気持ちは、私も昔味わったものですから」
「リバーズコアさん……」
「……ですが、私たちとて引くわけにはいきません。 そう簡単に、あなたという人材を放ってはおけないのです」
鋭い眼光で俺たちを睨みつけていくリバーズコア。
彼女の立場を考えれば当然なわけで、これくらいはもちろん想定している。
「リバーズコアさん、わたくしからもよろしいでしょうか」
今度は俺の隣にいる少女が口を開く。
気が付けば、彼女の右手は震えることなく、がしっと俺の手を掴んでいた。
まるで、この人は渡さない、と言わんばかりに──
「えぇ、いいですよ」
「ありがとうございます。 ……わたくしたちチームシリウスは三年前、先代のトレーナーさんやオグリキャップさんの引退に伴って、新しく生まれ変わりました」
マックイーンと俺だけが歩んだ足跡を、まず最初にと丁寧に話している。
「当時はサブトレーナーと呼ばれていた、今の彼がトレーナーになったものの、当時のチームメンバーは、わたくしを除いて全員、チームを脱退してしまったのです」
「……っ、だからチームメンバーが大きく……」
合点がいったような表情をするリバーズコア。
元チームメンバーだからこそ、その謎が生まれていたのだろう。
「そこからわたくしたちは、先代が託してくれたチームシリウスを守る為に尽力してまいりました。 変な勧誘活動をしたりもしましたが……結局は、わたくしが春の天皇賞を制したことで、チーム存続の為に必要な規定の五人を集めることができました」
集まってくれた四人の顔を思い浮かべる。
よくもまあ、あんな終わりかけのチームに入ってくれたものだ。
「翌年にはライスシャワーさんも加わり、六人に……チームシリウスでの日常は、わたくしが今まで感じたことのないほど、幸せな日々が続きました。 トレーナーさんも含めた七人で、トゥインクルシリーズを勝つために日々研鑽を積み、時には笑い合いながら、誰かが悲しんだ時はメンバー全員で慰めたりもしました」
脳裏に、あの大雨の天皇賞秋が出てくる。
マックイーンが真のエースになったあのレースは、シリウスというチームの強さを表した典型例だ。
「そうしてわたくしたちは強いキズナを結びあって、今に至ります。 もちろんチームメンバー同士という関係に変わりはありませんが……このトレセン学園の中でも最も強い繋がりを持っていると、確信しております」
彼女の握る手が、更に強くなった気がする。
「トレーナーさんは、そんなシリウスにとっての核──なくてはならない存在なのです。 彼がいなくなれば、シリウスは瞬く間に弾け、消えてなくなってしまうでしょう。 わたくしたちはそんなシリウスを、見たくはありませんわ」
「シリウスが弾ける……」
そこまで言われると、少し照れてこそばゆくは感じるが、この雰囲気に呑まれてか顔はそこまで変化しなかった。
「ですから、わたくしからもお願いいたします。 彼を──トレーナーさんとの契約を、翻してはいただけませんか」
三度垂れていく頭。
三度目となるとさすがのリバーズコアもばつが悪く感じたのか、顔を上げる旨を伝えるようになっていた。
顔を上げると、頭を掻いてどうしたものかという所を見せてきている。
「……私も、本国から言われてここにきています。 どうしても、引き下がるわけにはいかないのです」
しかし情勢は変わらず、いつまで経っても平行線なまま。
不安がってきたのか、隣のマックイーンの手の力が少し弱まってきたような気がする。
これは長期戦か──そう思っていた瞬間、後ろのドアからコンコンという音が響く。
「……? 誰だ、一体何の用だ?」
「えーと……インビジブルさんとリバーズコアさん、そこにシリウスのトレーナーさんはいらっしゃいますかぁ?」
この声は──
「たづなさん!?」
「あ、これはいますね! ちょっと失礼します!」
こちらが少し混乱している中で、堂々とダービールームに入ってくる緑の理事長秘書さん。
俺とマックイーンが唖然としているのをスーッと通ると、リバーズコアと俺たちとの間に入った。
URAの上層部に位置している彼女だからだろうが、あまりにも容赦がなさすぎる。
「たづなさん、お久しぶりです」
「はい、リバーズコアさんはお久しぶりですね。 インビジブルさんは……一応初めましてですね?」
視線をたづなさんからインビジブルへと向けると、いつの間にか塞がれてた口は開けられていたようだ。
「そうだな、Nice to meet you! ワタシの名前はインビジブルだ!」
こんな状況でも元気一杯な彼女には、正直驚きしかない。
「はい、初めまして。 では早速、本題へ移りたいのですが……」
「……ん? 一体どうしました?」
こちらを探してきたはずのたづなさんだが、こちらを向かずにリバーズコアの方を向いた。
当然、リバーズコアも気になって訊くだろう。
「何やら、あなたたちがうちのとあるトレーナーさんと、海外就業の契約を結ぼうとしているらしい、という話を風の噂で聞いたのですが……それは本当ですか?」
「えぇ、本当です。 その相手が、そこのトレーナーさんですが……」
リバーズコアはこちらを指さすと、たづなさんはニンマリとした顔をして今度はこちらを向いた。
「そうですか、ありがとうございます。 それで、実はですねトレーナーさん……これ、正式に受理されたんです!」
そう言うと、彼女は懐から一枚の紙を出してこちらに見せてきた。
いきなりでビックリしたが、マックイーンとともに読み進め、内容を確認すると──
「"トレーナーの、ウマ娘との担当契約の、受理に関する報告書"。 "甲はサトノダイヤモンドと、トレーナーとして担当契約を結んだことを"──って、これなんですか!?」
そこに書いてあったのは、簡潔に言うと、俺がサトノダイヤモンドのトレーナーになりましたよ、ということをURAが認めたもの。
つまり、サトノダイヤモンドは正式に俺と契約をしたわけで、そうなると──
「お分かりですか、トレーナーさん。 未デビューのウマ娘さんを引き受けたので、規則として、これより一年間は海外に拠点を移してのお仕事は認められません! なので、この契約は実質的には無効となります!」
満面の笑みでそれを伝えるたづなさんは、こちらにとっては天使のように見えたが、向こうからすれば悪魔のようなものだろう。
そしてその向こう側はというと、二人とも口があんぐりと空いていて──
「そ、それは何時に受理されたのです!?」
「それはここに書いてありますよ? ほら、午前9時とありますよね。 一応ホームページでも確認はできますが……」
「いやでも、レースの開催日は基本、契約の受理をしていないはずでは……」
「えぇ。 "基本は"受理してませんが、規則として受理してはいけないという決まりはありませんので……」
あらゆる逆転の目を、さらりさらりと潜り抜けていくたづなさん。
その笑顔で言われると、こちら側も足が竦んでしまうのですが。
「じゃあ、トレーナーはどちらにしても、わが国には来てくれないということか!?」
「えぇそうです、インビジブルさん。 私たちとしても大変心苦しいのですが、ルールですので……」
大焦りで聞いたインビジブルだが、たづなさんの得も言えぬ圧に屈したか、今にも泣きそうになってしまう。
正直、ここまでくると胸が痛んで同情せざるをえない。
しかし、こちらとて全く謎がないわけではない。
「た、たづなさん。 俺、書類にサインした記憶ないんですけど……」
「え? でもトレーナーさんの判子はしっかりと押されてましたし……ちゃんとこちらに提出した印章であることも確認済みです」
当然URAに渡した印章でないと受理されないが、しかしそうなると別の誰かが押したという線はかなり薄くなってくる。
となると、どっかのタイミングで自分が押したことになるが──まさか!
「その契約書がURAに提出されたのって、昨日の昼過ぎですか?」
「はいそうですよ。 ライスシャワーさんが、持ってきてくれました」
なんてことだ──昨日碌に確認せずに押した書類が、そんな大事な書類だったとは。
いや、結果的にいい方向には進んだから、結果オーライか?
でもたまたま上手くいっただけだから、これからは気を付けないと──
「でも秘書さん、あれってゴールドシップさんのレース登録の書類では……?」
「え? ゴールドシップさん? はて、そういう話は……」
まさか、俺はライスシャワーやゴールドシップに半分騙されていた、というわけか。
しかし俺が書類をちゃんと確認してさえいれば、全然上手くいかなかったわけで──賭けにしてもとんでもないぞ。
俺とマックイーンは二人して、昨日のあの出来事を思い返しながら戦慄していた。
「……残る」
混濁した空気が流れる中、インビジブルの声が切り裂く。
「インビジブル、残るって……?」
「日本に残る! もう国には帰らない! ここのスクールに入って、シリウスにも入るもん!」
駄々をこねる子供のように振舞いながら発せられた言葉が、またも場を混迷へ突き落とす。
「はぁ!? 今あんたなんてことを言ったの!?」
「さっき言った通り! シリウスで、このトレーナーと一緒に頑張るの!」
「トレーナーさんの隣はわたくしですわよ!?」
慌てるリバーズコアと、相変わらずのインビジブル。
そこに何故か嫉妬したマックイーンも入ってきて──色々分からなくなってきた。
「リバーズ! 今から本国に行き、交換留学の手続きをしてきなさい! ワタシは日本に残ってるから!」
「あら? インビジブルさん、手続きが完了するには少しお時間かかりますけど、それまではどうするのですか?」
たづなさんが当たり前のことを聞くと、しばらく考えこんで──
「そうね……じゃあ、日本全土のレース場を回るわ!」
「そこまでのお金ないんじゃ……」
「では、わたくしがお金を出してあげましょう! その代わり、"お一人で"お行きになってくださいね? トレーナーさんはまだやることがありますので……」
マックイーンの嫉妬がかなり甚だしいことになったが、それよりも。
「待ってインビジブル! そもそも私はそんなこと認められ──」
「それじゃワタシ、ウェルカムステークスを見ないといけないから! あとはリバーズ、お願いね!」
「ちょっと──!」
勢いそのままに、インビジブルは部屋を出て行ってしまった。
リバーズコアも急いで追いかけるが、はてさてどうなるのか。
とんでもない嵐が過ぎ去ったと思ったが、その気持ちはマックイーンも一緒のようで。
「す、すごいバイタリティですわね、あの人……」
「あはは……マックイーンもちょっと、勢いすごかったけどね……」
隣の少女の独占欲が並外れてるのを見ると、これから大丈夫だろうかという気持ちが先行してきてしまう。
「でもトレーナーさん……これで、来年からもシリウスのトレーナーですわね!」
嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振り回すマックイーン。
彼女の安堵も含まれた笑顔を見ると、頑張った甲斐があるってものだ。
「でも大丈夫か? 結構圧が強かったけど、怖くなかったか?」
両手で彼女の手をそっと握ると、マックイーンがいじらしく答えてくれた。
「怖くなかった、というと嘘になりますわ。 でも……トレーナーさんがずっとこの手を握ってくれたから、わたくしは立ち向かえました。 本当に、ありがとうございます」
少し涙を零しながらも、面と向かって一生懸命、伝えてくれている。
そして彼女もまた、こちらの手を握り返して──
「でも、離したらまた怖くなってしまうかもしれません。 だから……今日は別れるまで、ずっと手を握ってもらえませんこと?」
「というわけで、インビジブルだ! "神のウマ娘"だぞ! トレーナーと一緒に、Twinkle Seriesのトップ目指して頑張るぞ!」
「はぁ、なんでこんなことに……リバーズコアです」
「えぇ!? ライスがいない間にこんな人たちが……って、マックイーンさん!? 顔凄く怖いよ!?」
インビジブルとリバーズコアの元ネタは下の方に残しておきます。
しかしこのトレーナー、割とえげつない行動してますね……まあ絶対的な聖人として書いてるわけではないのですから、あれですけど。
あと、ここまで来てまだ付き合ってないって、すんごいヘタレですよね。
書いてる本人が言うのもズルいですが。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます!
あと一章で終わりとなるはずですが、残りのお話もどうぞよろしくお願いいたします。
インビジブルの元ネタは、"神の馬"と呼ばれたラムタラ。
新馬、英ダービー(本場のダービー)、キングジョージ(日本で言う宝塚記念)、凱旋門賞(世界最高峰の芝レース)の四戦全て勝った後引退したという、とんでもないキャリアのお馬さんです。
レースだけでなく、自身の生命の危機や周辺の人間関係のゴタゴタなど、数奇な運命を辿ってきているんですよね。
リバーズコアの元ネタは、外国の馬ながら安田記念を武豊さんで制したハートレイク。
ただ先に設定の方を考えたキャラなので、名前以外に元ネタ要素はほとんどないです。
細かいネタ解説は完結したら出そうかな……