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メジロマックイーンの引退式で劇をやると決めて以降、トレセン学園では出演者の募集を続けていた。
見世物として劇をやる、というのはトレセン学園初の試みであるのにも関わらず、どうやら演劇に憧れる人が大勢いたようで、定員をはるかに超える希望者が集まってしまった。
そこで、会長であるシンボリルドルフとの協議を経てオーディションを開催。
そうして選ばれた、エキストラ役を除いた主要人物12人の配役が決まり、そして今日、稽古の初日が始まる。
「──それで、どうして俺も台本覚えなくちゃいけないんだ。 しかも男性役全部」
ダンススタジオで行われる稽古に向けて、俺とマックイーンは歩みを共にしていた。
俺自身は出演するわけではないが、さすがに彼女の初稽古くらいは見ておかなくては、ということで見学を希望した。
が、どういうわけかゴールドシップに台本を覚えろと言われて今日を迎えてしまったのである。
「ロミオ役のフジキセキさんがたまに稽古に出れないらしく……その時の代役として、トレーナーさんが選ばれた、ということらしいですわ」
「いやいや俺だって毎日暇なわけじゃないんだからさ、他の子にそういうのは──」
隣の小さな少女の方を向くと、俺の裾を可愛らしく握り、上目遣いでこっちを見つめていた。
「ダメ、ですの……?」
俺がそういうのに弱いことは知ってるはずなんだが、それでもやるのはズルい。
元々こういう悪魔的な行動はしてたにはしてたが、先月辺りからそれが目立つようになっていて、嬉しさ半分、困惑半分の毎日。
これが例えば現役中におけるスイーツに関わる話ならば、なんとか理性を持たせてノーと言うのだが、ここではそこまでして逆らう理由がないので、素直に彼女の誘惑に負けよう。
「分かったよ。 稽古の時だけだろ?」
「えぇ! お願いいたしますわ! ……よし!」
笑顔を隠すことすらしなくなった彼女の顔が可笑しく見える。
声も完全に漏れてるし、こういう抜けているところも可愛らしい。
「そういうマックイーンはどうなんだ? 一応、台本読みこんできたんだろ?」
「えぇ。 その成果を今日、トレーナーさん相手に見せますわ!」
なるほど──って、今日?
どうやら彼女も同じタイミングで気づいたようで、しまったという表情がまた可笑しく感じたわけだが、それよりも発言の真意が知りたい。
「マックイーン、まさか初日から……」
「……お察しの通りですわ」
しばらくして着いたダンススタジオのドアを開けると、ものの見事にフジキセキだけがいなかった。
マックイーンの反応的に、この段階で知らせて少し驚かせてやろう、という悪戯心があったのだと推察される。
「いきなり主演が休みか……多分寮関係でのっぴきならない出来事が起きたんだろうが……」
「鋭いですわね。 聞いた話だと、昨日寮からの脱獄者が出たとかなんとかで、今日はどうしても来れないそうですわ」
なんということだ、と素直にうなだれてしまうほどの大事件。
正直大変困ることではあるのだが、これも承知で配役した以上仕方のないことか。
一応それ以外の人は全員来てるようなので、俺が代わりに入れば稽古自体はできる状況下にはいる。
「あ、二人ともようやく来ましたね。 それじゃ……始めましょうか」
椅子に座っている、黒髪の小さな少女が立ち上がった。
演劇については素人な我々の為、今回学園側が用意してくれた先生なのだが、その名前はなんとマンハッタンカフェ。
実は彼女、昔から女優として活躍していたというキャリアがあり、その実績を会長に見込まれて今回の劇で総合演出、所謂監督的立場としてこちらを指南していくらしい。
コーヒー片手にこちらに近づいてくる様相は貫禄満載だ。
「分かってると思いますが、今日はフジキセキさんがいないので、代役としてマックイーンさんのトレーナーさん、よろしくお願いします」
「あぁ。 さすがに初日でこれはビビったけどな……」
豊かな表情のマックイーンと違って平静としてるマンハッタンカフェの視線が、マックイーンの方へ差し向けられた。
「……それとマックイーンさん。 顔、綻んでますよ」
その言葉を聞いて隣の子の顔を見る。
──確かに、ニンマリとしたそれは少し怖いくらいだ。
「ふぇ? ……あっ」
気づいた瞬間、彼女は顔は真っ赤にし、尻尾をしおらしく垂らしてしまった。
俺が自惚れてなければ、きっと一緒にできるのを喜んでるからそうなってるのだろうと思われるが、それでも分かりやすいように破顔するのは逆に凄い。
だがそれだけ一緒にやれるのを楽しみにしてるということなのだから、まあ悪い気分はしないに決まってる。
「さて、まずは一回通してみましょう。 台本持ってもいいので、まずは流れを体感することからです」
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「──今宵の仮面舞踏会で一緒に踊ることができたら、我が娘はきっと、貴方のことを好きになるでしょう!」
さすがはエンターテイナーたるウマ娘たち。
稽古初日であるにも関わらず、それぞれがしっかりと台本を読み込んできているからかスムーズに通しができている。
まだ一部台本を持ちながらという部分はあるも、数日後にはもう上演できるくらいのものができるんじゃないか、という気さえ生じるくらいだ。
まあプロのお眼鏡には全然敵わないだろうから、さすがに数日で完成、となるわけはないが。
「はっはっはっ! お父さんと呼ぶ日が、ボクは待ち遠しいよ!」
今はパリス伯爵という嫌味だが超金持ちな貴族が、ヒロインのジュリエットへの求婚をその父に話してるシーン。
この時まだジュリエットはロミオに会ってないが、好きな人と結婚したいと思うジュリエットは求婚をやんわりと拒否、それを父がなんとかしようと、仮面舞踏会を開いて自然と好きにさせることを企んでる、という段階だ。
そんな嫌味な伯爵を演じるのはテイエムオペラオーなんだが──主演の存在感を食うほどに、役にピッタリとハマっている。
絵面が完璧だし、声も想像通り。
何より、リアルでこういうこと言ってそうなのがハマり度に拍車をかけている。
さてそんな中マックイーンはというと。
「あの方と結婚ですって!? 私は、好きな人と結婚したいのに!」
この中で一番練習してきたのは恐らく彼女だが、それに相当する演技の上手さはしっかりと見せている。
さすがはターフの名優と呼ばれたウマ娘だ。
ただ問題はこれに見合うほどの演技を今の自分ができるか──もう少しで仮面舞踏会、主演の二人がここで初めて邂逅し、そして恋に落ちる。
その場面、今日は入れないが、本来は踊りをするところらしい。
となると、念のために自分もできるようにならなくてはならない。
しかも自分が踊る相手は当然マックイーンになるわけで、彼女の足のこととか体格差などをしっかりと考えてエスコートしなくてはいけない。
そして恋に落ちるシーンは周りの視線を一挙に集め、決して誤魔化しの効かない状況になる。
稽古だけだから気にしなくてもいいじゃないかと言われるかもしれないが、いくら稽古でもマックイーンに恥をかかせることだけはしたくない。
それは彼女のトレーナーとして最低限のマナーであろう。
その仮面舞踏会のシーンがやってきた。
「本番ではダンスをしてもらう予定ですが、今日は必要ないです。 軽い動きくらいで。 ではよろしくお願いします」
マンハッタンカフェに言われて劇が始まる。
ジュリエットの家──"キャピュレット家"が主催した舞踏会に、本来敵であるロミオとその仲間たち──"モンタギュー家"の一派が潜入する。
意味は何もない、いわば青年の好奇心からくるちょっとした出来心によってもたらされた潜入であった。
「さあジュリエット、ボクと踊るんだぁ!」
圧倒的存在感を放つオペラオ──ーじゃなくてパリスから逃れるように喧騒から離れるジュリエット。
それに合わせるように俺もメインステージから脱していくと、そこには仮面を付けたジュリエットもいた。
付けた仮面をそれぞれに外し、一時の休息を得ようとするが、目の前にいる人にそれぞれ気づく。
「……!」
俺はジュリエットを。
マックイーンはロミオを。
運命を感じた二人だが、ここは仮面舞踏会──仮面を外しての交流は厳禁だ。
急いで仮面を付け直して喧騒の中へ。
しかし感じたときめきに抗えないのがこの二人。
喧騒の中でも互いを見つけ出し、一緒に舞を踊る。
まあ今日は本格的に踊るわけではないが。
「これが……約束の出会い……」
「これが……愛し合う喜び……」
見つめ合い、手を取り合って、一目惚れを確信して顔を近づける。
そこから一言も発さず体を合わせ、抱きしめ、唇を近づけて──といったところで。
「この中に、モンタギューの者が紛れているだと!?」
ジュリエットの従兄、ティボルト役のウオッカの声によって我に帰らされた二人は、急いで密着していた体を離す。
そしてロミオと仲間たちが属するモンタギューの者たちは皆、その舞踏会から姿を消した。
理由は一つ、モンタギュー家はジュリエットの生家、キャピュレット家と血を流すほどの犬猿の仲だからだ。
しかしジュリエットにとって重要なのはそこではなく、恋をした相手が逃げる一派の中にいたこと。
相手の名を知らぬジュリエットは、自身の乳母に名前を問い質す。
聞かれた乳母は、主人の問いに明確な焦りを持って答えた。
「ロミオです! 憎きモンタギューの、子息ですよ!」
「ロミオ……!?」
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とまあそんな感じで二人が出会う場面をなんとかこなすことができた。
恋に落ちるだけあって、演技の静と動をすることだったり、わずかな視線の動かし方にも細心の注意を払ったりなど、必要とされるものが多いこのシーンは、自分がやる中での最初の難関。
最初の、というだけあってまだまだ難しいシーンはあるが、とりあえずは一安心ということで。
ここから愛し合った二人はどうなるのかというと、ロミオがキャピュレット家のバルコニーに人目を忍んで入ってきて、ジュリエットと再会。
再び愛を確認した後、ジュリエットが結婚させられそうになってることを知ったロミオは、すぐにでも結婚式を挙げることを約束して別れ、その日を終えた。
翌日、ロミオは神父様の所へ向かい、対立する家の子息同士の結婚、という無理難題をやってほしいと頼み込み、神父様はその熱意に敗れその日の内に結婚式を挙げることを決定。
ジュリエットの使いとして参った彼女の乳母に結婚のことを伝えて、ロミオは一人式が行われる礼拝堂へ。
そして約束の時間──やっぱりやってきたジュリエットと、愛を誓い、キスをし、結婚してめでたしめでたし──
となるわけがなく。
「はい、これで第一幕は終わりとなります。 次の第二幕まで、十五分の休憩をとるので、各自水分補給だったり確認作業をやっておいてください」
とまあ、マンハッタンカフェが言うように、ここまでが幸せそうな前半部分。
地獄のような展開になる後半部分がまだ控えているので、気を引き締めなくては。
「──トレーナーさん……」
結婚式のシーンが終わったので水筒を、と考えていたら目の前のジュリエット──じゃなくてマックイーンがこちらの裾を引っ張ってきた。
演技中のマックイーンはもはやジュリエットにしか見えない程役に没入していたが、今こうやって見せられてる愛らしさは間違いなくマックイーンそのものなので、安心感を覚えてしまう。
「どうした? 顔赤いけど」
周りにあまり聞こえないように問うと、更に顔を赤くしたマックイーンがむっとしてきた。
「もう、そういうことは言わなくても……! ……先ほどのキスシーン、どうして本当に口付けしてくれなかったのです……?」
「はぁ!?」
聞かれないように、というのを早速破って大声で驚いてしまう。
当たり前だ、だってキスしてほしいというのとほぼ同義のことを言ってきたのだから。
「どうしました? マックイーンさんのトレーナーさん」
気になったのだろうマンハッタンカフェがこちらを気に掛けるが、二人で解決しなくてはいけない問題に過ぎないので大丈夫と伝えた。
とはいえこの問題は少し特殊というか──彼女の要求に応えることが一番ダメな解決法である以上、こちらが案を出して納得させるしかない。
今度こそ周りに聞かれないように話していく。
「まず聞きたいんだが……マックイーンとしては、実際にキスしてほしいのか?」
「え? それとはまた、別といいますか……」
上ずった声と垂れた耳を考えると、してほしいけど恥ずかしい、という感じだろうか。
それならば、こういう妥協案を出せば納得してくれるはずだ。
ひそひそ声で彼女に耳打ちする。
「……後で誰も見てない中なら、しようか……?」
まずい、これはかなり照れくさいぞ──
そう思っていたが、目の前の彼女はわなわなと震えながら何か我慢するようにそれを聞いてたので、多分こちらの方が恥ずかしがってる。
「……! それでは、稽古の後にトレーナー室に行って、そこで……」
なんとか絞り出したような言葉を聞き、交渉が成立したと分かる。
しかしこんなにも卑しい約束を取り付けられるようになるなど、俺たちの関係性も随分と変わったように感じる。
以前ならそもそもスキンシップですらまともに行えなかったのに、今やキス──
いや、キス──嘘だろ?
気づいた時にはもう、後戻りできなかった。
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昨日ライスさんに話してからというもの、内に眠る情欲というものが私をおかしくして憚らない。
今日は稽古の時までなんとか我慢できたが、演技でキスのふりをされてからというもの、体が疼いて仕方なくなってしまった。
しかしこんないやらしいお願いをするつもりは一切なかったのだが──無意識のうちにそこまで欲が溜まってるのだろうか。
一応発散したりはしてるはずなのだが、それでも収まらないほど彼を求めているらしい。
自分が恐ろしく感じる。
「トレーナーさん、何か話してくださいまし……」
初めての稽古を終え、私たちは秘事を果たすために、並んでトレーナー室に向かっている。
冬のせいで早まった夕焼けが私たちを照らす。
ところが隣の彼はずっと黙ったまま。
これから予定されてる出来事への覚悟を決めている段階だからだと思われるが、それで放ってかれる私の気持ちも考えてほしい。
「……」
それでも彼は、固い口を開けてはくれなかった。
──そちらがそう考えてるなら、こっちにも考えがある。
「トレーナーさん……!」
右隣にいるトレーナーさんの両腕を掴むと、そのまま窓ではない壁の方まで強引に押していく。
そのまま彼を抑えつけ、力を込めて動けなくさせていき、私の支配下に置いた。
「……っ、どうした……そんな焦るなんて君らしくないぞ?」
頑張って私を宥めようとして、こちらを睨むトレーナーさんの姿に愛くるしさを感じて興奮する。
そういう顔を一方的に見たいと思って、こんな罰をしかけたのだが、これは自分の理性をも吹っ飛ばしてしまいかねない。
当初の予定にはなかったが、いっそここでことを致してしまうのも一興。
──いや、もう我慢できないかも。
そんな私のうっとりとした感情を考える暇などないだろうトレーナーさんは、なんとか体の自由を奪い返そうとするが、全くもって敵わずにじまいになる。
「……トレーナーさん、力ではこちらの方が上なのですよ? 大人しくされたらどうです?」
「いいのか? ここだと誰が見ているか分からない……いきなりそこのドアから人が出てきてもおかしくないんだぞ?」
以前の私なら、誰かに見られるというのを嫌ってこういうことは絶対にしなかった。
でも今は理性が壊れて完全に暴走してる──つまり、今私の世界にいるのはわたくしと貴方だけ。
だから何も恥ずかしくない、貴方だけを見てるから。
しかしここで何度も接吻するのは少しもったいないような気もする。
それに僅かに残った律する心が少し遠慮してやれとうるさく言うので、一回で我慢してやろう。
「一回だけ……じっとしてくださいまし?」
腕を抑えたまま、顔だけを突き出す形で唇を近づけていく。
私よりも頭一個分高い彼の顔に近づくには、つま先立ちでもしないといけないのだが、バランスを崩した場合は顔ごともたれて押し付けるようにキスしてやろうか。
「んっ……」
一か月と少し振りのキス。
意外にも、シラフの状態でやるのはこれが初めてか。
しかしとてもそうは思えない程、長い口づけを交わした。
──9、10
もっと付けておきたいが、ここで離しておこう。
「……よかったな、幸運にも誰もいなくて」
「ふふっ……では次は、誰もいないところでやりましょうか……」
彼の左腕を引っ張って、約束した密閉された空間に向かう。
トレーナー室のドアを開けるなり、私は慣れた手つきでカギを閉めて、二人だけの世界を作った。
そして目の前の彼にハグを求めた。
「わたくし……どうなってしまったのでしょう、可笑しくなってしまいましたわ……」
彼の胸の中で、甘い声色で伝える。
「よかった、自覚はしてるんだな」
「……その生意気な口、今すぐ塞いで差し上げましょうか?」
すぐさま顔を近づけて、二度目のキスに向け準備を整える。
彼の顔にも困惑の二文字はなく、気持ちが固まっているようだった。
「今度は、20秒……」
ハグをしたまま上を向き、先ほどと同じように顔を近づける。
宣言してから合わせる唇。
さっきと違い十分に準備させてからなので、息継ぎの心配は全くない。
──20秒が経ち、約束通り離していく。
「……トレーナーさんの唇って、どうしてそんなに甘いのです?」
「それは錯覚だ。 俺の口は苦いぞ」
「あら、ならもっと確かめなくては──」
今度は不意打ち的にキスをした。
驚く彼の顔が好きすぎて、もっと虐めたくなる。
舌を入れてみようか──と思ったが、先に息継ぎのターンが来た。
「……今度は、トレーナーさんからしてくださいまし」
「いやだ」
トレーナーさんは基本的につれない態度をとる。
いつも私が甘えてばっかりで、あちらの方から甘えてくることはない。
いつでも甘えてきてもいいですわ、と言ってはいるが、彼の動きはゼロ。
愛されてると分かってても、愛されてる気がしなくて寂しく思うのだ。
「それより、もう十分だろ? そろそろシリウスの為の時間な気がするが」
「……いけず」
本当につれない人。
ボソッと呟いた一言が彼を奮い立たせられたら、と薄氷の希望を想ったが、彼には届かずそのまま抱擁が振りほどかれてしまう。
力を込めて拘束することはできるが、そんなことをしたら本当に嫌われてしまう気がするからできなかった。
「さ、行くぞ」
ドア前で振り向く彼の顔は、わずかに差し込んでいる夕陽もあってかとても赤く見えた。
しかしきっと、彼自身が発してる熱のおかげもあるだろう。
──もう一回だけ。
「……トレーナーさん!」
急いで駆け出し、四度目の口づけを交わす。
ここまですると、彼の唇からは私の味もしてきて、どこかもったいなさを感じてしまう。
とはいえ行為自体が私の情欲を埋め合わせるものだから、満足はしてるが。
「……ごちそうさまでした。 また頂きます」
ニヤリとして感謝を伝える。
彼の紅潮していた顔が更に赤くなってるのを見ると、また色欲が増してはくるが今日はここまで。
黙ったまま扉を開けて部屋を出て行く彼の隣にすっと入り、手を取っていく。
「これくらいはいいですわよね?」
「……わかった」
恋人繋ぎで歩む道。
彼の手は熱く、大きかった。
* * * * *
────
初稽古から三週間が過ぎ、遂にこの日がやってきた。
「どうどう! やってきちゃったよマックちゃんの引退式が!」
「言ってもまだ数時間あるけどな」
有マ記念前日、クリスマスの中山レース場で行われる全レースが終わってすぐに、ゴールドシップは言う。
その引退式が行われる時間は二時間半後の18時45分。
それまでは俺たちチームシリウスも、自由な時間を与えられている。
ただその自由時間を超自由に過ごそうとする輩もいて。
「おっしそれじゃあダイヤ! これ売りさばくぞ!」
そう言ってゴールドシップが取り出したのは、"メジロマックイーン引退記念焼きそば"と銘打たれた文字通りの焼きそば。
一体どこから出したんだと突っ込みたくなるが、まあ無視が正解か。
「Wow!? それってヤキソバってヤツよね! 売るんでしょ? ワタシもそれ、売ってみたいわ!」
「おぉっ? いいぞインビジブル! もう一セットあるからこれ使えい!」
つい先日、留学生としてチームシリウスに入ってきたインビジブルが、日本独自の文化である売り子に興味を示した。
その意気に応えて、いつの間にか六台目を引っ張り出したゴールドシップは彼女にセットを着せていく。
「こ、これは……! とってもWonderfulね! これでヤキソバを売りつけて……」
「売りつけるとはちょっと違うんじゃないかな……」
何故かこの販売仕事に巻き込まれてるサトノダイヤモンドがインビジブルを窘める。
世間知らずなところがあるインビジブルのことだから、本当に無茶な売り方をしてしまうかもしれない──という考えのもとだろう。
「そういえばライスシャワーはドコかしら? 彼女だけいないわよ?」
「ライスシャワーは明日の有マ記念を控えてるからね。 引退式まで練習してて、こっちに来るのは直前になる」
昨日、ライスに練習見ておこうかと聞いたら何故かレース場に行けと強く推されたのはなんでだろう、と思い返しながら答える。
「ふーん……あれ、それじゃトレーナーはこの後どうするの? セット着てワタシと一緒に売り子すればいいのに!」
「いや、俺は……」
わずかに嫌な予感がして、ついゴールドシップの方を見てしまう。
目を合わせたら巻き込まれる──と思ったが、当のゴールドシップの答えは意外なものだった。
「いや、トレーナーのは用意してねえ。 というかインビジブルので最後だからな。 それでも? 売りたいというなら予備はあるけど?」
「間に合ってます……」
ですよねーという笑いを含んだチームメンバーの声が聞こえる。
「まあトレーナーは今のうちに、マックイーンへの差し入れ用にスイーツでも買っといたらどうだ?」
「それは至上命題だな。 分かった、じゃあみんな無理しない程度に頑張ってこいよ」
メンバー全員と一旦別れて、こちらはこちらでしなくちゃいけないことをこなしていく。
とりあえずはパドックの方にある甘味屋さんの所に行って、そのあとはコンビニスイーツを──
「おいサブトレーナー」
と考えてる最中、聞いたことのある声に足止めされる。
これは間違いなく、シリウスの先代トレーナー、俺の先生だ。
声のする後ろの方を振り向いた。
「先生! お久しぶりです!」
一礼しながら挨拶して答える。
視界に捉えた先生の姿は、勇退した三年前とは何ら変わらないままだ。
ハッチ帽と白髪交じりの髪。
老健なシルエットは名伯楽のオーラを引き立たせている。
「ふん、元気なご挨拶どうもありがとう。 どんだけ偉くなっても、お前は変わんないままだな」
どうやら変わらないと感じていたのは先生も同様のようだ。
「俺も同じこと考えてましたよ。 先生は老いてないなと」
「これでも随分、歳の影響きてるんだがな……ま、まだお前ら若造には一歩も引くつもりはないが」
ニヤリとしている先生の顔は、余裕という二文字がたいそう似合うものであった。
自分もいつかこの人のように、と新人の頃から思っていたが、この余裕さは逆に差を付けられるに値するものだと痛感する。
先生はそんな俺の思案も知らず、自ずから話を切り出していく。
「さて、三年間も面と向かって会ってない分、積もる話はあるんだが……今回は一つだけ、聞いてもいいか?」
一体なんのことだろう──
そう思いながら肯定の返事をすると、先生は容赦なくすぐに問うてきた。
「マックイーンが引退した後のこと、どうするんだ?」
どうにも答えづらい質問が来てしまった。
二か月前に保留にしてからというもの、この手の進退に関することは話し合ってこなかったが故に、どうしてもぼんやりとしたビジョンしか示せないからだ。
「今彼女には、俺の補佐として裏方の仕事を一部してもらってます。 そこからトレーナー業というのに興味を示す可能性はありますが、彼女の成績や家のことを鑑みれば、ウマ娘とは関係ない進路を取る可能性も──」
「そういうことじゃあない」
話を遮られて、思わず怯んでしまう。
しかし先生が求めていたのは、こういう話ではなかったのか。
「あの子とこれから、どういう付き合いをしていくかってことだ。 一応お前ら、社会的には契約で結ばれた関係に過ぎないんだ。 その契約、今日で切れてしまうが」
「それは……」
この手の話はもっと答えづらい。
今の自分が、彼女との未来を勝手に言語化するのはおこがましいし、それは彼女も思ってるはず。
彼女が望むなら彼女を受け入れ、彼女が望まないなら変わらずに接する──それがメジロマックイーンのトレーナーとして、最良の振る舞いだと思ってる。
それを先生に伝えればいいはずなのだが、先生のこの聞き方は以前と関係が変わる中でどう過ごすか、ということを聞いてるのだろうから、以前と変わらないという答え方をしても納得してくれないだろう。
とはいえそれ以外に選択肢は持ってないので、こう答えるしかないか。
「彼女がどう思ってるか次第です。 もうこれからは契約に縛られない、自由な身になりましたから……」
素直な気持ちを伝えたが、一方の先生は呆れたという反応を示した。
「マックイーンは今まで、何か言ってきたりしなかったのか?」
「……ないです」
二か月の間に、俺とマックイーンの距離感はもっと縮まったとは思う。
だがしかし、今の今まで彼女からどういう関係になりたいかという話を聞いてないのも事実。
忙しさを理由に話してこなかったのかもしれないが、もしかしたら明日以降も黙ったままかもしれない。
「……不安がってるようだな。 まあ、お前が原因のほとんどを担ってると思うが」
「どういうことですか?」
俺の言葉を聞くと、先生は大きな溜め息をついて更に呆れてしまった。
「単刀直入に言うぞ? 原因は、お前自身がマックイーンとどうなりたいかってのを、あの子にはなんも伝えてないからだ。 いい加減、そういう大事なことを担当に委ねるのはやめた方が良い。 自分から聞いたら自分に責任が回ると思ってるんだろうが、そんくらい背負う歳だろお前は」
厳しい視線が向けられる。
「あと今は知らんが、あの子は自分から何か言う性格ではなかったと思うぞ? 特にトレーナー、お前のことに関しては奥手だった気がする。 それで将来のことあっちから話してほしいってのは、いささか虫が良すぎだと思うが」
「それはまあ、確かにそうですけど……」
これまで彼女は、悩んでることも内に秘めさせたままにすることが何度もあった。
それを一番知っているのは自分なはずだ。
「まあそれがお前の良さでもある。 担当のウマ娘の意思を尊重することで、気持ちよく走ることに集中させてる……マックイーンやライスシャワーがGⅠ勝ったのも、基本自由に考えさせて走らせたからだろうな。 でもたまには、自分からマックイーンを引っ張ったらどうだ?」
「俺が引っ張る……」
「そうだ。 男なら、ってのは今は言っちゃいけないんだったか。 でも、人として惚れた子をリードするくらいの気概は見せろよ。 俺についてこいって感じでな」
「惚れたって……!」
そうじゃない、と口だけでは否定することができるが、もう既に見抜かれているだろう。
暗に先生の予想を認めながらも、言われたことについて考える。
──俺が彼女を、マックイーンを引っ張る。
「まさか怖いって言ってるんじゃねえだろうな? 惚れさせた自覚があるんなら、ちゃんと覚悟を決めろ。 怪我をさせたら一生責任を取る、だろ?」
──そうだ、自分はその約束を守らなきゃいけない。
また忘れそうになったが、今日こそ果たさなくてはいけないだろう。
なら俺がすべきことは──
「おっと……どうやらお前さんに客人のようだぞ」
「え?」
耳を澄ませると、遠くから俺を呼ぶ声が聞こえてくる。
その声は徐々に近づいてきて、そして姿を現した。
「トレーナーさん、ここにいたんですか!」
声の主は駿川たづな。
荒い息を吐きながらも、先生に遅れて気づくと軽く一礼を交わして、周りに聞かれないようにすぐに用件を伝える態勢に入った。
「たづなさん、どうしました?」
「劇の方で問題がありまして……フジキセキさんが、急病で出れなくなったんです!」
「はぁ!?」
フジキセキとなると、今回のロミオ役──つまり主人公だ。
それがいないというのは一大事だが、それを俺に急いで伝えたということは。
「まさか、俺を代役に……?」
「はい! というより、できるのがあなたしかいません!」
そりゃそうだ、だって稽古出たのが俺とフジキセキしかいないのだから。
だがそうなると、俺がステージの上に立って大勢の観客の前でやるわけで──と思考を巡らせていると、背中に強烈な衝撃が走る。
後ろを振り返ると、いつの間にか先生が後ろに立っていた。
「行ってこい。 お前なら大丈夫だ」
「先生……」
大丈夫、俺とマックイーンなら。
拳を胸の前で握りしめ、覚悟を決めた。
「行きます。 どこに向かえばいいですか?」
ぱあっと明るくなったたづなさんに導かれるまま、先生と離れて俺は勝負の舞台に向かう。
別れ際、先生が力強く俺に告げてくれた。
「自分の使命、忘れるんじゃねえぞ」
もちろんですよ、先生。
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「ごめんなキセキさんよ。 あとでいくらでも奢ってやっから」
焼きそばを売りさばき、引退式へ向かおうとするゴールドシップの一派の中には、誰にも気づかれないように変装したフジキセキの姿が。
急病とはなんだったのか、彼女はピンピンとしていた。
「本当だよ。 一か月も芝居打たせて……これがたづなさんにバレた時のことを考えると、今から憂鬱だね」
「それでも受けてくれた理由はなんですか?」
引退式に間に合ったライスシャワーに問われ、フジキセキはふうっと一息つき、伊達メガネの奥から黒鹿毛を見つめて答える。
「そりゃあ、あの二人のじれったさを見るとね。 手を貸さずにはいられないよ」
「ほう……さすがは寮長だな」
ニヤニヤとするゴールドシップを無視し、フジキセキはこれから目の前で起きる事象に目を向けた。
「それと、普通に私より彼の方が上手いからね。 お客さんに最良の物を届けるのは、何ら間違ってないだろう?」
「あれ、そうなのか。 意外とキセキも大したことないんだな」
「……もっと高いもの奢ってもらおうかな?」
「すまん、さっきのは撤回だ」
「本気じゃないよ」
慌てて手を合わせて謝るゴールドシップに愉快な顔で許すフジキセキ。
「それより、彼が入ること自体は大丈夫なのかい? 君の提案だから、大丈夫だとは信じてるけど」
「そのまんま信じていいぜ。 ちゃんと調査はしてきた。 さすがにあいつらに被害を被らせるわけにはいかないからな」
「それならよかったよ」
そんな会話をよそに、場に音声アナウンスが入る。
「さて……そろそろ始まりそうだ。 楽しもうじゃないか」
観客席は光が当たらず暗くなり、舞台は明るく照らされた。
──メジロマックイーンの引退式が、始まる。
あらすじの"甘々展開多すぎじゃねえか!"部分の回収が最近多い気がしますねえ……
そんな感じでクライマックスが近いですが、なんとかダービーまでには終わらせるくらいで頑張ります。
清々しい気持ちでダービー見るんだ……!