────
先ほどから、トレーナーさんの様子がおかしい。
何かに圧せられたような表情で、一つ一つ、大事に言葉を選んで話している。
でも、彼がそこまでの状況に至る理由が、私には分からない。
まさか足に何か異常が──?
いや、今の今まで足に違和感など何もない。
むしろ絶好調──昨日はあんなにも動いたのですから。
それに、今の私が怪我を負うわけがない。
絶対の自信が、根拠を越える自信が、私にはある。
だが今の私には、それ以外の可能性を探り当てることができない。
分からない、分からない──
それがこんなにも苦しいことだなんて、今まで感じたこともなかった。
彼の胸中を、今すぐ知りたい。
「早く言ってくださいまし。 貴方にそんな顔は似合いませんわ」
「分かった……その前に、結論から聞きたいか? それとも──」
「結論から……早く、言ってくださいませ!」
もうじれったい。
彼は何を恐れているのでしょう。
わたくしは貴方を信じておりますし、貴方がおっしゃるのならなんだってできます。
だって、貴方を愛してるから。
貴方がわたくしの中で一番だから!
だから、言って──
これ以上、わたくしを不安にさせるのは止めて──
そんな顔で、わたくしを見るのは止めて!
「……分かった。 じゃあ、言うね」
険しい顔は一切変わらない。
私を厳しく、一直線に見つめる。
まるで嫌われたかのように、じっと。
私は一つ息を置いた。
「メジロマックイーン。 君の右足は今──繋靭帯炎を発症している」
──繋靭帯炎?
初めて人の言葉を聞いたかのように、頭の中がショートする。
でもこの言葉は、記憶の中にしっかりと刻まれている。
そして分かる、これは絶対に毒リンゴだ。
私を殺す──招かれざる果実。
「マックイーンも分かると思うが、この怪我はとても性質が悪い。 でもマックイーンの場合は──」
「その怪我は、いつ直るのです?」
失敗した。
彼がまだ話してるのに。
どうしてこんなに焦ってるのだろう、私──
気が付けば私は身を乗り出し、彼との距離を縮めていた。
「マックイーン……?」
「わたくしの場合は──軽いのでしょう? すぐに復帰できるわけではなくても、来年には……」
こんなに前のめりで聞くつもりじゃなかった。
明らかに私は今、彼を困らしている。
こんな風にやる必要なんてない、そう分かってるのはずなのに。
「マックイーン、来年には復帰できない」
「……それでは、再来年ですの? そうですわよね?」
分かった、この焦りの正体が。
想像してるんだ、最悪の事態というものを。
そんなもの訪れるはずない──ふざけた慢心を裏切るような事実を知りたくないだけだ。
なんと幼稚で、くだらない理由なんだろう。
でもごめんなさい。
こんなメジロマックイーンを許して──
「再来年にも……いや、君は──」
「──っ! 待って!」
もう気づいてるはずだ。
自分が今、どういう状態なのか。
自分がこれから、どうなるのか。
でも嫌だ、聞きたくない聞きたくない!
「君はもう……復帰することはできない」
あぁ──
「現役を、引退してほしい」
やだ──私は──!
「もう……走らないでくれ……」
その瞬間、留められていた涙が溢れて、私の中の柱が壊れた。
* * * * *
────
「マックイーン……?」
私の醜い顔を見て、彼は気を掛けてくれる。
こんな辛いことを伝えなくてはいけないのに、あの人はなんて優しいのだろう。
でも私は、この優しさを──裏切らなくてはいけない。
まだ走らなくてはいけない。
走って、彼に恩返しをしなくてはならない。
一昨年見た悪夢も、去年失った半年間も、今年失墜した盾の栄冠も。
全てを振り払って、私は勝たなくてはならない。
彼が不当に得てしまった汚名を返上できるのは、それを作り出した私自身しかいない。
彼が多くの人に称えられ、敬われる一番の近道は、私が栄冠を得ること。
だから私は走る。
それが、私にできる精一杯。
ここまでの栄光を獲得しても尚、私が走る理由──それは、全て彼の為なのだ。
いや、あの人はもうそんなことを求めてないかもしれない。
いいんだよ、十分だよって。
でも、それに私は納得しない。
──怖いんだ、彼を失うのが。
走るのを止めた時に、彼は私を向いてくれるのか?
勝てなくなった私を、彼は大事に想ってくれるのか?
彼がいない毎日など、絶対に想像できない。
だから彼を、私の栄光で縛りたい。
なんて危険な考えだろうと私でも思う。
でもしょうがないじゃない、これが私のやり方だから。
他の子──それこそ、ライスさんとかに取られない為にも。
だから私は、彼に反抗する。
彼が、私から離れないように。
「……どうして、走ってはいけないのですか」
知識のない私がそのようなことを聞いても意味なんてない。
もちろん分かってる。
でも、諦めるわけにはいかないのだ。
「一応、レントゲン写真を持ってきたんだ。 これなんだけど」
そうして差し出してきた白黒写真から、どのような状況かは一瞬では分からない。
だが分からないなりに、それが意味するものを理解する。
「──ここ、複数白いところがあるでしょ。 これが炎症してるところ」
その言葉でようやく分かった写真の意味に、ひたすらに恐怖する。
その炎症は複数の個所に、大きく、映し出されていた。
「これはもう、どうしようもないほど重い。 もし復帰できても、再発する可能性はかなり高い」
「……再発してしまったら、どうなるのですか?」
恐る恐る、聞きたくないことを聞いてしまう。
もしその顛末が地獄のようなものであっても、どうせ私はこの未来に反抗するのだから、なんの意味もない問答だ。
「まず、走る最中に強烈な痛みを覚える。 それだけじゃない、もっと大きな怪我に──それこそ、一生自分の足で歩けないような大きな怪我になることもあるだろう」
一生歩けない。
走れないどころでなく、歩けない。
それは──とても、苦しいことでしょうね。
「だから、もう走ってほしくないんだ。 痛いだけじゃない、これからの人生を棒に振るような──永遠とも思える苦しみを、君に味合わせたくないんだ」
そんな私の姿を見たらきっと、心優しい貴方は見放さなくなるでしょう──こんなにしてしまった自分が、全て悪いのだと。
でもそれを求めてるわけじゃない。
私が欲しいのは哀れみではなく、愛。
彼から愛を受けながら、これからも生きていきたいのです。
その為には、どんなに危険な賭けでもやらなくてはいけないのです。
「分かってくれるよな? マックイーン……」
分かりません。
いや、分かりたくありません。
むしろ、分かってほしいのはこちらの気持ちですよ、あなた。
「……まだ走りたいと、わたくしが言ったら?」
「その時はどんな手を使っても止める。 俺は君が苦しむのを見たくないんだよ」
「知ってます? この世界には奇跡という二文字があることを」
「あぁ知ってるさ。 でもその奇跡を起こすのに、これからの人生を掛ける必要はあるのか。 君に、その勇気はあるのか」
「ありますとも。 ですから、このように口答えしてるのですわよ」
そこまで言ってから、彼の顔がようやく青ざめた。
やっと私の真意を理解したようで、信じられないという顔でこちらを見る。
きっと貴方にも、自分の信ずるものがあるのでしょう──それは、惚れさせた女を中途半端に放ってもなお続くものですか?
私は貴方を説き伏せます。
それが最良であるという、自分の信ずるものに従って。
「ねえ、貴方」
「……っ、マックイーン! あまり動いちゃ──!」
ほら、このように立つことができるではありませんか。
確かに、一旦症状が和らいでもまた痛みが出るかもしれないが、それは我慢すればいい。
もしかしたら、一生動かなくなるほどの──それこそ、昨日話した大怪我したウマ娘のような地獄を味わうかもしれない。
ならすぐ獲れる冠を獲って、さっさと引退してしまえばいい。
もう何も恐れる必要はない。
だって、貴方のパートナーはこのメジロマックイーンなのですから。
「わたくしに、分かってほしいとおっしゃいましたが……わたくしも、貴方に分かってほしいのです」
彼にゆるりと近づく。
それを見た貴方は固まって、何かことが起きるのを待つしかない。
「走ることは、恐れるものではないことを。 この怪我は、乗り越えられることを。 奇跡を起こす、時が来ているということを」
これが私の気持ち。
思いの丈を伝え、私は彼と抱擁を交わした。
いつもならこんなことできないが、今日は別。
「だからトレーナーさん。 わたくしを信じてついてきてくださいませ。 一緒に、遥かなる栄光を掴みましょう……?」
その言葉を告げて、私はより力を強めてトレーナーさんを捕らえる。
私を離さないでほしい──そんな思いも込めた、愛の伝達。
この想いはきっと、伝わってるはず。
伝わったのなら、この私を見過ごすわけがない。
「……マックイーン」
さあ聞かせて、貴方の答えを。
「──ごめん」
しかしトレーナーさんが取った行動は、私を裏切る行動だった。
自らを包んでいる腕を優しく解き、少しばかり距離を離し、厳しいとも哀しいともとれる表情を浮かべたのだ。
「──っ、どうしたのです。 そのような顔をなさって……」
「マックイーンが本気で復帰を考えてるのなら……俺は、君の担当を外れる」
「……え?」
なんで──なんでそんなことを!
この人に対して初めて、憎悪と似た感情が湧き出ていた。
彼は私の気持ちを、なんら理解してくれなかった。
貴方の為でもあるのに──
「ちょっと……どうして!」
「俺は君のレース復帰を絶対に許すことができない。 だからこうやって説得したんだ! それでも復帰しようとするなら……別のトレーナーの元でやってくれ」
彼の目はひたすらに冷たくなっていた。
あの人は私を拒絶したんだ。
この私から、すっと消えるように離れていくんだ。
それが怖くて、憎くて。
「どうしてわかってくれないのです! わたくしは貴方のことを想って言って──」
「それならさ……!」
それまで冷徹を通してた彼が突如、私の肩を掴む。
少しどころではない、尋常なる恐怖が私を包んでいく。
「俺のことを想ってるんだったら、もう走らないでくれよ……俺の気持ちを分かってくれよ……!」
しかし私が感じる恐怖とは違って、彼は今にも、涙が出てきそうな顔をしていた。
でもそんなものに惑わされてはいけない──私だって、同じことを思ってるんだ。
「分かってほしいのはこちらですわ! そうやって最初から諦めて……意気地なしのトレーナーさん!」
「諦めなきゃいけないんだよ。 そうじゃなければ、君は──!」
こんなに言っても届かない。
彼は何も分かっちゃいない。
それなら──もう──!
「この分からず屋!」
──彼の頬を一発、はたいた。
思わぬ出来事だったのだろう、彼は驚いたような表情を浮かばせる。
そしてすぐ、私を憐れむように、痛めつけられた左頬を手で覆いながらこちらを見つめた。
その時になってようやく、自分がしてしまったことに気づけた。
私は彼を──傷つけたのだ。
それも自分勝手に激昂してのものだから、とんだ大うつけだ。
こんなことをした私は、嫌われたかもしれない──
熱を帯びた右手が、少しずつ震える。
「マックイーン……」
「やめて!」
彼は怒ってるのだろうか。
いや、怒ってないはずがない。
だっていきなりビンタされたもの。
こんな暴力女のことを、許してくれるはずもない。
彼の顔は、見たくない。
「わたくしに近づかないで……!」
彼を手離すつもりなんて、本当はなかった。
どんなに言われても、最後には絶対、共に進んでいこうと決めていた。
でも一時の気の迷いのせいで、あろうことか、自ら彼を手離すような真似をしてしまった。
望んでもない展開を、手繰り寄せた自分のことが嫌いでしょうがなくなる。
彼に嫌われ、闇のように閉ざされるであろう世界が見えた。
もうどうすればいいの──
このままじゃ、また私はひとりぼっちに──
彼に、見捨てられて──!
「っ、マックイーン!」
逃げ出したい。
後も先も考えずに、ただ今のこの状況から逃げたい。
そう思って私は、トレーナーさんを置いてこの部屋から出て行ってしまった。
目から零れた涙を落としながら。
* * * * *
こんなはずじゃなかった。
本当なら、彼女を何とか説得して、走るのを止めてもらうはずだった。
その為の覚悟も決めた。
彼女を傷つけまいと、慎重に言葉を選んだ。
それでもあの子には、なんら通用していなかった。
それどころか、彼女に突き放されて、嫌われてしまった。
結局俺は、マックイーンのことを何も理解してなかったんだ。
ここまで過ごしてきた末の結果が、これかよ。
なんてまぬけで、とんでもない無能なんだろう。
彼女がここを立ち去ってすぐ、体に脱力感が宿る。
何もしたくない。
誰にも会いたくない。
ひっそりと一人で、この世界を生きていきたい。
「……もう、帰ろうかな」
──でも、それでいいのか?
このまま何もしないままでいいのか?
彼女を見捨ててもいいのか?
メジロマックイーンがいない世界を、生きてもいいのか?
それらに──俺は耐えられるのか?
否、それこそ、俺が一番望んでないことだ。
自分が責任もって大事に大事に育て、共に過ごしてきたパートナー。
一心同体と言えるそんな彼女と、こんな終わり方をしてもいいのか?
「……見捨てるなんて、一番言っちゃいけない言葉だ」
追いかけよう。
また突き放されるかもしれない。
もう大事に想ってくれてないかもしれない。
それでも、俺は彼女を守らなければいけない。
『一生をかけて、責任を負うつもりです』
マックイーンの出走で揉めた時、先生に言った言葉がフラッシュバックする。
あの時の約束を果たすときは、今なんじゃないか。
「……待っててくれ」
立ち上がって、走り出す。
誰かが見てたら怒られるかもしれないが、そんなことは関係ない。
俺は彼女の──メジロマックイーンのトレーナーなんだ。
そして俺が一番、彼女のことを理解しているはずだ。
俺が行くしか、あの子を救うことはできない。
「きっと……あそこだな」
マックイーンが向かう場所なんて、手に取るように分かる。
目的地は外の練習場──そこにいないという可能性はない。
根拠はないが、それを越える自信がある。
勢いよく外に出ると、空から無数の雨粒が飛んできた。
これならなおさら、彼女を追いかける必要があるじゃないか。
体が弱いのに、こんな雨にさらされていたら、絶対に風邪を引くだろう。
「全く、世話のかかるお転婆娘だな……」
そうだ、彼女はいつもいつも世話がかかる。
勝手にスイーツは食うし、突然野球応援に来るように言われ、誘拐同然で連れられたこともある。
泣き虫なところもあるのに、変に気が強い。
でもそんな彼女と過ごす毎日は、とても煌びやかで輝いていた。
俺の中の一等星。
それがメジロマックイーンという存在。
いなきゃいけない、いてもらわなくてはいけない存在。
失ってようやく気づくなんて、あまりに遅すぎる──
今度こそは、その手を絶対離さない。
心に決めて、俺はマックイーンを追いかけ続けた。
────
彼から逃げて、逃げ続ける。
行く当てもない逃避行──のはずだった。
でも僅かな可能性であったとしても、彼に見つけてほしくて、私は屋外トラックへ向かおうとしていた。
「──っ!?」
足が痛い。
あぁそうだ、今怪我してるのでした。
でも逃げ続けるのを止めることは出来ない。
どうすることもできないのだから、仕方ないことでしょう──?
その足の痛みは、じわりじわりと増していく。
雨に打たれて冷えた体が、痛みをより強くさせる。
だけどこの足は留まらない。
この現実から、世界から逃げる為。
そうしてがむしゃらに走り続けるうちに、目的地へと着いてしまった。
「はぁ、はぁ……」
息は荒く、体は錘でも付いてるかのように重かった。
それでも着くことができた自分は、やはりは第一線で戦うウマ娘だ。
「ふ、ふん……動けるじゃ、ありませんか……トレーナーさんの、嘘つき……」
しかし言葉にしようとすると、つい傲慢さが見え隠れする。
本当はもう体なんて動かない。
それでもこう言うのは、彼に対するせめてもの反抗の意志なのだろうか。
「ここでもっと、走れば……トレーナーさんも、考えを改めて──」
しかし私の足はそこで一切事切れる。
倒れた私を支えるのは、もはやあるだけの足という名の棒と、両の手足だけ。
ふと気になって、左足も触ってみる。
「あぁ……ここも、痛めてしまいましたわね……」
知らず知らず、使い物にならない右足を庇って左足がとても頑張っていたようだ。
そして案の定、左足も使い物にならなくなる。
身には雨が降りつけて、この身体を濡らしてゆく。
もはや廃人同然となった自分の体には、乾いた笑いと、雨と紛れるような涙しか出なかった。
「はぁ……結局、あの人がいないと、わたくしは何も、できないのですわね……」
もし彼がそばにいたらどうしてただろう。
すぐに私を抱きかかえて、まずは雨宿り場所を見つけてくれるだろう。
そこに置いて、ある手持ちでなんとか体を治療する。
献身的な看護の末、私は自力で歩けるようになって──
「でも一人じゃ、何もできない……」
彼のことを誰よりも大事に想っていた、という自負は、一体何だったのだろう。
まるっきり嘘じゃないか──分かってくれないイライラを彼にぶつけるなんて、一番やってはいけないことだ。
これならライスさんの方が、彼のパートナーに相応しい。
私は大事な人と、仲良く、一緒に過ごすことすらできないなんて。
空から打ち付ける大雨が、私の存在を抹消しようとする。
寒い──助けて──!
か細い声が宙を飛んで弾ける。
でも誰もやってこない。
人を大切にしないという業を背負った者に相応しい、無様な姿だ。
いっそ死んでしまおうかとも、思い始める。
彼に愛してもらえないのなら、生きる意味なんてあるはずない。
彼なしでは生きていけない哀しい生物だから。
このまま体を冷たくし、ひっそりと死んでしまおう。
明日、冷たくなったわたくしを見つけた時の、トレーナーさんの顔が──
「……いやだ!」
そんなもの、見てほしくない。
彼にそんな辛い思いなど、させてたまるものか。
でも、やっぱりこの足は動かない。
私には彼がいないと、生きていけることすらできない。
そう分かってたはずなのに──
後悔は積もりに積もって、山となった。
もう時計の針は戻せない。
彼との関係も戻せない。
目の前には、絶望しか広がっていなかった。
「はぁ……考えることすら……もう……」
絶望が広がった後、現実の視界が徐々に黒くなっていく。
「これが……死ぬってこと、ですのね……」
本当に死を実感すると、途端に恐怖が増していく。
会いたい──誰でもいいから会いたい──
「おかあ、さま……おばあ、さま……」
でも、一番会いたいのは──
「トレーナー、さん……」
微かに出した声も、誰かに届くわけがない。
言葉を絞り出し、自分は、深い意識の底へと──
底へと──
────
「──クイーン!」
自分を呼ぶ声に、はたと意識が戻る。
声の主なんてすぐわかる。
トレーナーさんだ。
「マックイーン!」
その涙声が、より大きく聞こえてくる。
泥を蹴る音も聞こえるようになった──かなり近づいたのだろう。
あぁ、こんな雨なのに、なんで──
「マックイーン、大丈夫か!」
泥を蹴る音がなくなり、声も隣にいるかのように聞こえてくる。
やっと──私を見つけてくれた──!
「マックイーン、起きてるのなら返事をしてくれ……」
トレーナーさんに頭と腰を抱きかかえられ、ぐったりとしながらも、私の上半身が起きる。
それに連れて、脳の機能も稼働を始めた。
「トレーナー、さん……」
本当にいる。
一度突き放されたのにも関わらず、この人は私を見つけてくれた。
どんなに泥をかぶっても、必死に私を突き止めてくれた。
どうしてそんなに、貴方は優しいの──?
「良かった……ほんっとうに良かった……!」
涙交じりのその言葉は、嘘なんて単語は似合わない程清廉としていた。
「……マックイーン」
「はい……」
「その……ごめん」
やや恥ずかしそうに、だがしっかりとした声色でそう言った。
「なんで、貴方が謝るのです?」
「俺は君に、一番言っちゃいけないことを言った。 復帰しようものなら、担当から外れるってな。 そのことさ」
それでは──いや、その前に。
私も、しなくてはいけないことがあるはずだ。
「あ、でも──」
「ごめんなさい……!」
彼が話そうとする前に、先んじて謝罪を伝える。
もちろん、彼にハッキリと聞こえるように。
「マックイーン?」
「わたくしも、貴方にとんでもないことを……! 貴方に手を上げるなんていう、はしたない真似を……! それを謝りたくって!」
良かった、伝えられた。
あとは彼に、その気持ちが届いてるかどうかだけ。
「……そんなの、別に怒ってなんかいない。 むしろ今、そうやって謝ってくれて、俺を嫌いになったわけじゃないんだって……そう分かって、嬉しい」
「あ……トレーナーさん……! 当たり前です! 貴方を嫌いになるなど、あるわけないですわ!」
そうか──彼は怒ってるのではなく、むしろ怖がってたのだ。
ちょっとした気持ちのすれ違いで、こんな大事になるなんて。
でも、知れて良かった──
思わず彼に抱き着いてしまう。
だが彼はそれを拒絶せず、むしろ抱き返してくれた。
しばらく私たちは、抱擁を続けていた。
「──それでさ、マックイーン」
「はい……!」
佇まいを直し、互いの顔を突き合わす。
自然と声も弾んでいく。
体は相当濡れてるはずなのに、そんな気配はほとんど感じない。
逆に、内の方から暖かいものを感じる。
やっぱり、私はこの人には敵わないんだ。
「俺は今まで、君のトレーナーをやっておきながら、君のことを全然理解してあげられなかった。 だから、君の気持ちを──本音を、教えてほしいんだ」
「……えぇ!」
そういえば、彼に想いの丈を伝えたことはなかった気がする。
いつもいつも恥ずかしがって、強がりなことを言って──
だからこのようなすれ違いを起こすのだ。
変わらなきゃ。
「──怖かったのです。 貴方といつか、離れる日が」
好きを自覚したその日から、それはずっと続いていた。
「ウマ娘とトレーナーという関係は、契約によって成り立つ関係。 レースをしなくなったその日に、二人の関係は変わってしまいます。 だからわたくしは、できる限りまでレースを走り、その日を延ばそうとしました」
いつかやってくる限界に、少しでも抗いたかった。
「でもその日はいつか来る……だから、貴方の中でわたくしが一番であってほしかったのです。 それも、一生涯にかけて」
彼の中でずっと私が生きていれば、関係が途切れることは絶対にない。
「沢山のGⅠに勝って、沢山の偉業を成し遂げて……引退する最後の日まで、貴方に栄光を届け続ける。 そんなウマ娘になりたかったのです」
そうでもしなければ、彼を取られる──
そのような強迫観念に囚われていた。
「でも……そんなわたくしの夢はもう、終わってしまう……」
そこまで言い切って、貯め込んだ涙を解放する。
だが彼はそんな涙を、雨粒と共に払ってくれた。
「……トレーナーさん?」
「そんなこと、気にする必要はない。 だって、俺の中ではもう一番なんだから」
「え……?」
彼は優しい顔で言ってくれた。
いつも見てる、大好きな顔。
「初めて君を見た日から、俺は君に惚れていた。 絶対にGⅠを勝てるって……凄いウマ娘になってくれるって。 メイクデビューを勝った時にそれは確信に変わった。 菊花賞を勝った時にはもう、心の中で一番になったさ。 だから俺も……願ってたんだ。 君の中で、俺のことが一番だったら良いなって」
「そんなの──!」
体の重心を前にして、極限まで顔を近づける。
顔が熱くなるのを感じるが、それすらも心地いい。
「一番ですわ。 四年間ずっと、貴方がわたくしの一番でしたわ。 一秒たりとも、貴方を想わなかった時はありません……!」
やっぱり涙が溢れて止まらない。
思いが通じ、心の底から安堵したのだからしょうがない。
当たり前の日常をまた過ごせることが、こんなにも嬉しいなんて──
「……ほっとしたよ。 同じように思ってくれていて」
またも抱き合う私たち。
雨の中であることを忘れて、互いの感触を刻み合わせ、離れないようにする。
──そうだ、彼にちゃんと伝えないと
「トレーナーさん、わたくし──引退いたしますわ」
そのままの態勢で、耳元に向かって囁く。
彼の顔が震えたような気もしたが、真面目な話をしてる今は我慢しないと。
「……ありがとう、マックイーン」
「その代わり──」
またも顔を突き合わせる──今度は額をくっつけて。
「ずっと、わたくしと一緒にいてくださいませ」
微かな告白の意も込めた、親愛の約束。
それを彼が断わるはずもない。
「もちろん。 だって昔、言っただろう? 何かあったら、一生責任取るって」
思い出される、あの時の記憶。
なんてことないと思っても尚、覚え続けてた擬似的なプロポーズ。
そんな意味を込めてないと分かっていても、この言葉に気分は高揚する。
こんな甘い雰囲気の中で、私たちは二人、笑い合った。
「──トレーナーさん」
「ん? どうした?」
柔和に聞き返す彼に、少しばかりの色欲が湧いて出た。
今、私と彼とは決して愛を交わす関係ではない。
特に私は現役の選手で、彼は学園に属するトレーナー。
だから本来止めなくてはいけない──なのに、理性が徐々に浸食されていく。
奪ってほしい──
何もかも、私の初めてを。
でもあちらからするわけない以上、私からいくしかない。
火照った体が、胸のドキドキをより高めていく。
「本当の気持ちは……」
止まらない情愛が熱を帯びて。
一度だけならと、脳を書き換えて。
額を離し、彼の顔に手を添える。
「ずっと、貴方のことが……」
彼は困惑していたけれど、受け入れるかのように一切動こうとしていなかった。
「大好きです」
唇を重ね合わせる。
恋人同士の、愛の確認行為。
でも愛し合う関係ではない私たちのそれは、ただの求愛行動。
愛してほしいという、せめてものメッセージ。
でもここでは届いたかどうかに意味はない。
ただ彼の唇の味を、知りたかった。
男はキスを拒絶しなかった。
女は更に押しつけていく。
永遠とも言える、長き口づけ。
それでも終わりはやってくる──私が息を欲したから。
「……マックイーン」
彼の心情はよくわからない。
でも複雑であることは間違いないだろう。
それほどのことをしたのだから。
「トレーナーさん、もう一回……」
欲望は更に増し、二度目のキスを要求する。
今度はもっと、はしたないことを──そう考えていたが。
「……マックイーン?」
ふっと視界が飛ぶ。
頭が動かなくなってきた。
思考力も、徐々に、失って──
「あ……」
そして、事切れた。
────
突然こちらに力なくもたれかかった。
意識がなくなったかのように、彼女は機能を停止している。
「マックイーン……!」
心音を聞く。
──大丈夫、生きてる。
それに、可愛らしい寝息も聞こえてきた。
ただ、疲れて眠ってるだけのようだ。
「そういえば、こんな雨なのに、何もせず……」
慌てて着ていた上着を彼女に羽織らせる。
濡れて妖艶な雰囲気をまとっていたマックイーンだったが、それに欲情しないように、それもろとも包む為でもあった。
そして、先ほどまでの不思議で危険な、大事に至る時間を想起する。
「……キスされたなぁ」
ギリギリ理性は保たれたが、彼女の口づけを止めることまではできなかった。
もし意識が続いていたら、どうなってしまってたのだろう。
──いや、そんなことを考えるより。
「連れてかないと、な……」
彼女をおんぶして、館の方へ踵を返す。
軽い彼女の体が、先ほどしてしまったことへの罪意識をより強めた。
確かに俺は、一生分責任を取るとは言った。
でも、こういう形での責任は想定してなかった。
いや正確には──想定したくなかった。
俺は彼女の愛を、受け入れる資格がないと思っている。
名門メジロ家の令嬢であるメジロマックイーンと、平凡で取柄も家柄もない自分。
社会的にも、能力的にも、そして自信という意味でも、彼女を愛すことはできないと思っている。
だから俺は、あの子を好きにならないように律してきた。
だから俺は、あの子に愛されないように努めてきた。
自惚れだったかもしれない心配は、本当に実現してしまった。
『大好きです』
その言葉に鼓動が早くなる。
俺はあの子を、好きになってしまったんだ。
そして彼女もまた、俺のことを好きになった。
両想い──これが普通の男女ならハッピーエンドで終わる。
でも俺たちは違う──何故なら許されないから。
きっとあの子には、自分より遥かに魅力的で、相応しい相手がいるはず。
そいつを差し置いて、自分が彼女の隣にいるのは、双方にとって良いことではない。
だから彼女には俺のことを諦めてもらう。
その方が絶対、メジロマックイーンという少女の為になる。
そして俺は、彼女のトレーナー過ぎないまま、これからを生きる。
それ以上でもそれ以下でもない、ただの人間なのだから──
「──トレーナーさまー!」
悪天を切り裂いて声が聞こえる。
ようやっと、メジロ家の人が来たようだ。
俺は後ろに背負った少女を渡し、一人悩みながら、館へと戻っていった。
「なんかおじいの匂いがしたから見に来たら……なんであいつら雨降ってんのにぼーっとしてんだ」
「キ、キタちゃん! あのウマ娘さん、もしかしたら三冠を制したあのウマ娘さんじゃ……!」
「きっとそうだよ! あ、でもあまり話しかけない方が良いってフラッシュさんに言われてたような……」
エフフォーリアはシャドーロール付いてたり、飛び方が似ていたり、どこかアーモンドアイを感じますね。
二冠達成はどうなるのか……今年のクラシックもあらかた構図が決まりましたね。
あと二、三話くらいで終わる予定ですが、残りの話も是非楽しんでいただければと思います。
今回の謎ウマ娘はオルフェーヴル、父ステイゴールド、母の父メジロマックイーンの所謂"ステマ配合"の代表格ですね。
ゴルシとは違うベクトルの問題児でしたが、爆発力はディープをも凌ぐかも。
キタサンとサトノにとっては憧れの三冠馬さんではないでしょうか、ということで出演となりました。