予期せぬ告白
雅紀は自室のドアを閉めと、そのまま固まって動けなくなってしまった。
こめかみがどくどくと脈打つ。背筋がぞくりと粟立つ。たった今聞かされた尚人の告白が何度も頭の中で繰り返される。
––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。
––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。
『何だよ、それ』
動揺をごまかすように雅紀は毒づく。
不意打ちもいいところだった。
まさか、尚人がそんなことを考えているなんて思いもしなかった。
青天の霹靂。どころではない。上段から必殺の面を喰らったかのような衝撃だった。
確かに母が亡くなってこちら、尚人に対し優しくできなかった自覚は充分にある。弟たちさえいなければ。自分のことだけ考えればいいのであれば。そう、思ったことがあるのも事実だ。
母の死はあまりにも唐突過ぎて、雅紀でさえも突きつけられた現実を受け止めるのに苦労した。それでも雅紀は、葬儀をひとつの区切りとして、けじめとつけたと自分では思っていた。
なのに–−
半年ほど経って、突然、雅紀の世界から色が抜けた。心にぽっかりと穴が開いたような虚無感に襲われて、何もかもが無味乾燥になった。そんな自分を持て余し、すべての元凶である慶輔をナイフで滅多刺しにして「いっその事ひと思いに殺してくれ」と哀願する程に切り刻んでやれば、身に巣食う寂寥感が少しは晴れるのだろうかと、そんなことを考えもした。
出来なくはなかった。己のことだけを考えればいいのであれば。
でも……、
––兄が人殺しになったら、ナオはどうなる?
ただでさえ厄介な状況にあるのに、これ以上の波乱にナオは耐えられるだろうか。世間の誹謗中傷は、ナオをどれほど傷つけるだろうか。
それを思えば、あんな男のために殺人犯になるのも馬鹿馬鹿しいと、存在自体を切り捨てた。
遣り場のない喪失感は、仕事を詰め込むことでごまかした。それでも、深夜に帰宅した時のうっそりとした暗闇が重苦しくて、苛立たしくて、吐き気がこみ上げるほど嫌いで、次第に酒に逃げることを覚えた。仕事が終わって遊び仲間と酒場に繰り出してはアプローチして来た女と一夜を過ごす。刹那的なセックスをして溜まったものを吐き出す。生理的な排泄行為で時間を潰し、そうして夜が明けて家に帰る頃には大抵尚人は学校へ行った後で、尚人と顔を合わせないままに次の仕事へ出かけることも少なくなかった。
尚人はそれを、自分たちを養うために寝る間も惜しんで仕事を頑張っている、と受け止めているようだったが、実際は違う。合わせる顔がなかった。それが正しい。
沙也加は母と雅紀を罵倒して篠宮の家を捨てたが、雅紀だって、尚人に家の全てを押し付けて現実逃避していたのだ。それを全く自覚していないわけではなかったが、「俺は金を稼いできている」その一点だけを言い訳にして己を正当化した。
そうでもしなければ、耐えられなかったのだ。そういう己の弱さを尚人には知られたくなくて、つれない態度でごまかし続けた。
しかし、逃げ場のない尚人はどんな思いだっただろう。
仕事を言い訳にして家に寄り付かない兄と、怒りを抱えて部屋に閉じこもったままの弟の間で、孤軍奮闘していた尚人は。
さっさと自立してこの家から出て行こう、そう思っても不思議はないのかもしれない。
それでも雅紀は、尚人の口からその決意を聞かされるまで、そんなことを尚人が考えているなんて思いもしなかったのだ。
沙也加がこの家から出て行った時は、正直ほっとした。母と自分をあれほど罵倒して出ていったのだから、これから先の人生で沙也加と交わることはもうない。肩の荷が一つ降りて、安堵した。裕太のことは嫌いではなかったが、正直どうでもよかった。堂森のじいさんが欲しがっているというのなら、あちらに預けるのも有りかと前々から思っていた。もし裕太があちらへ行くことが決まれば、雅紀は尚人と二人この家を出て、都内のマンションにでも引っ越そうかと思っていたくらいだ。
尚人はこれから高校受験だ。いま引っ越すなら、最初から志望校を都内の高校に絞って受験すればいい。この時期での転居では公立校は学区外受験扱いになってしまうかもしれないが、それなら私立受験をすればいいだけの話で、それだけの稼ぎのあてはある、と雅紀は漠然とながらも考えていた。
二人なら、尚人の負担も随分減る。尚人だってそれがいいはずだ。そう、思っていた。
それなのに、
––この家を出て、俺は……どこへ行けばいいわけ?
––俺が必要とされているのは、この家でだけ……だろう?
淡々として口調の裏に、尚人の心の叫びが聞こえた気がした。
どこにも行けない。誰にも必要とされていない。この家以外に居場所がない。この家で毎日淡々と家事をこなすことだけが自分の存在意義で、それ以上の価値は自分にはない。
「そんなことはない!」と、雅紀は叫びたかった。「お前がいるから、俺は頑張れるんだ」と。
しかしいくら雅紀が声高に叫んでも、おそらく尚人の心には響かない。尚人がそう思ってしまうだけの仕打ちをしてきたのが、他ならぬ雅紀自身だからだ。
そんな尚人に対する罪悪感と、突如聞かされた決意への動揺。それを隠し切れる自信がなくて、情けないことに雅紀は、こうして自室へと逃げ込んだのだ。
息苦しいほどに脈打つ鼓動が治らない。仕事でならばいくらでも出来ると自信のあったセルフコントロールが効かない。
手のひらが異様に汗ばむ。
視界が歪む。
あえて無視しようとした不安が鎌首をもたげて雅紀に襲いかかる。
––ひょっとして、ナオに捨てられる?
それを思った瞬間、心臓が痛いほどに跳ねた。途端、急に足元が覚束なくなって雅紀は支えを求めるように壁に手をつく。そしてそのままずるずると力なく床に崩れ落ちた。
一体どうしてこういう展開になったのか。
床にぶちまけられた弁当を見た瞬間、雅紀は今まで抑えていた嫉妬心が怒りに変わった。尚人が裕太のために毎日せっせと弁当を作っていることは知っていた。それを、裕太が今まで一度だって食べたことがないことも。朝帰りすると裕太の部屋の前に必ず弁当が置いてあったからだ。
––俺にはないのかよ。
いつ帰ってくるかわからない奴のために弁当なんか作れないことは承知の上で、そんな埒も無いことを思ったことは数知れず。
––どうせ裕太は食わないんだし、だったら俺が食ってもいいよな?
廊下に置かれた弁当を流し見て、そう思ったことだって幾度もある。さすがに実行したことはないが、部屋に閉じこもっているだけの裕太が尚人の過分な愛情を受けている気がして、雅紀は正直不満だった。
裕太は、尚人の作った弁当を頑なに食べないことで、尚人の自分への愛情を測っている。おそらく裕太自身は無自覚だろうし、本人に指摘したところで認めることもないと思うが。雅紀に言わせれば、裕太の行動は、自分の行動がどこまで許されるのか試す自認行為以外の何ものでもない。
末っ子の裕太はやんちゃで甘え上手で、どんなわがままも大抵許された。特に慶輔は、子供達の中で一番自分に懐いてくる裕太を誰よりも可愛がり、裕太も「自分は兄姉弟の中で一番父親に愛されている」と信じて疑っていなかった。その父親にひと言の言い訳すらもなくゴミ屑のように捨てられた時、裕太の信じていた世界は崩壊した。
まだ小学四年生だった裕太には酷過ぎた、と今なら思う。が、当時は雅紀だって突きつけられた現実を受け止めるのに精一杯で、さらには次々と襲ってくる現実的な問題に対処するのに必死で、裕太を気遣う余裕などなかった。特に、尚人が小学生ながらに家の中の空気を読んで自分の感情を押し殺し、家族のために自分ができることを黙々とこなす姿を見せていただけに、自己主張を繰り返して荒れるだけの裕太を慰めてやろうなどという気も起きなかった。
誰からも愛されていたはずの自分に、誰も手を差し伸べてこない現実。それを目の当たりにして裕太は、、荒れるだけ荒れたあと、今度は自分から周囲を拒絶するという手段に切り替えた。
当然雅紀は、そんな裕太を構ってやるつもりも手の差し伸べてやるつもりも毛頭なく、
––勝手にしろ。
ただ、そう思っていた。
さすがに、餓死してしまえ、とまで思っていたわけではないが、仮にそうなってしまったとしても、ちくりとも良心が痛むことはなかっただろう、という気はしている。それくらい、裕太に関心がなかった。
それと同時に、
––ナオは、放って置けないだろうな。
という確信があった。
尚人は、自分と違って家族に対する愛情が深いのだ。
家の中がどんなに暗く淀んで、皆の気持ちがバラバラになって、互いをいたわり合う余裕など無くなってしまっても、家族という絆を一人必死に繋ぎ止めようとしていたのが尚人だ。
家族は一緒にいてこそ家族、という母の言葉を、食事は家族の基本、という母の信念を、一人守り続けていたのが尚人だ。
だから尚人は、一度だって食べてもらえない弁当を作り続ける。
母子相姦という禁忌を犯した雅紀にとって、亡母への感情は複雑で、単なる思慕の対象にはもはやなり得ないが、それでも家族を大切にしていた母のその思いまで否定しようとは思わないし、その母の思いを引き継ぐ尚人を否定するつもりも毛頭ない。ゆえに雅紀は、尚人に「甘やかすな」とは言っても「弁当を作るのをやめろ」とは言わなかった。
まあ、それに、尚人にそう言ったところで、尚人が素直に聞き入れるとは到底思えなかったが。
尚人は、普段は大人しく聞き分けがいいが、実は兄妹弟の中でも負けず劣らずの強情で、一度こうと決めればてこでも動かない我の強さがある。おっとりとした見た目と言動がその本質を隠しているが、幼い頃より尚人を溺愛してきた雅紀は知っている。
だからこそ雅紀は、尚人と裕太の我慢比べのような日常を見て、先に根負けするのは裕太の方だろうと思っていた。案の定、無視するという意思表示に反応を返さない尚人に先に焦れたのは裕太で、次の手として裕太は、弁当をぶちまけるという行動に打って出たのだ。
––これでも弁当を作り続けるつもりかよ。
歪んだ裕太の愛情の測り方は、次の段階へと進んでいたわけだ。
雅紀は、慣れた手つきで床にこびりついたおかずを黙々と片付けている尚人を見た瞬間、裕太のこの行動が初めてではないことを悟った。と同時に、そういう行動を見せても裕太に構い続けている尚人に対し怒りが込み上げた。
––俺にももっと構えよ!
そのあとの行動は、何か意図したり、思惑があったりしたわけではない。気づいたら体が動いていただけ、のことだ。裕太を部屋から引き摺り出し、床にぶちまけられていた唐揚げを口に突っ込んだ。これまで何度も自分が食いたいと思っていた弁当だ。嫉妬心が爆発した。
その結果のこのざまである。
壁にもたれかかったまま、雅紀はため息をついた。
都内のマンションに引っ越そうと言っても、尚人はこの家がある限りこの家に残ると言うだろう。
––では、この家が無くなったら?
きっと、高校卒業を待たずして自活し始めるのだ。自分一人くらいどうにか出来るよ、と小さく笑いながら雅紀に告げて。
これは、予想ではなく確信だ。その確信が、雅紀の胸をじくじくと犯す。
––この家は、絶対誰にも渡さない。
雅紀は虚空をにみつけたまま、ぐっと唇をかみしめた。