「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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引きこもりをやめた裕太を図書館前で沙也加が待ち伏せ


反駁する岐路

「本当なんだ」

 図書館から出てきた裕太の姿に、沙也加は目を見張った。

 ––裕太ちゃん、近頃は近所を出歩くようになったんですって。

 先日、夕飯の席で祖母がそう言った時、沙也加はにわかには信じられなかった。

 中学進学と同時に引きこもりを始めた裕太は、これまで何度も祖父母や沙也加が電話で「環境を変えてやり直した方がいい」と呼びかけても拒絶してきた。「おれはこの家を出ない」と言い張り、何も知らないくせに「お姉ちゃんだって、おれたちを見捨てて独りで逃げ出したくせに」と沙也加を責めた。

 あの家で何があったかも知らずにしがみ付いている裕太がいっそ可哀想で、一時は沙也加もどうにか裕太をこちらの家に連れて来たいと思っていたが、近頃はもう無理だろうと諦めていた。馬鹿で我儘(わがまま)で身勝手な弟は、このままどうしようもない人生を歩むのだろう、と。

 あの救いなどない、(けが)れた家の中で。

 しかし何がきっかけだったのか、その裕太が、引きこもりをやめた、というのだ。祖母が飽きもせずに、裕太を引き取りたいと再三の電話をした時に雅紀が言ったらしい。

 ––裕太なりに変わろうと動き出している。

 ––だから、今は静かに見守って欲しいだけど。

「雅紀の言うことも最もだな」

 それが祖父の答えだった。

「大事なのは裕太が自分から動き出したってことだ」

 自分から? 本当に?

「それって、やっぱり、あいつが死んだから?」

「まあ、それもあるのかもしれん」

 そうなのか。あいつが死んで、区切りがついたのか。

 なら、裕太は自分より恵まれている、と沙也加は思った。自分は、母が死んで返って呪縛された。いや、死によって呪縛されてしまった。沙也加の言葉を免罪符に、一人さっさと楽になる道を選んで、沙也加に消えない罪悪感を植えつけていった。本当に、ひどい母親だ。

 一方の裕太は、父親が家を出て行ったと同時に、荒れて手がつけられなくなった。自分を溺愛していたはずの父親から一言の言葉もなくゴミ屑のように捨てられたという現実を受け入れきれなかったのだろう。自分勝手で我儘で我慢することを知らなかった裕太らしい反応だった。一緒に住んでいた時はそんな裕太の行動が目に余って腹立たしいばかりだったが、離れて暮らすと、裕太の心情も理解できる気がして可哀想だと思った。しがみつく価値もない穢れた家に必死にしがみついて、訪れるはずもない幻想ばかりを見ている。そんな裕太を哀れに思っていた。

 なのに、あいつが死んだ途端、全てをリセットしようというのか。

 ––でも、そんなに簡単にリセットできる?

 裕太はすでに中三だ。本当なら、受験生のはずだが、中学に一回も通っていない裕太が受験なんて出来るはずがない。しかしこの先、中卒ではまともな仕事になど就けない。しかも実質小卒だ。モデルなら学歴不問だが、あの性格の裕太がモデルなんてするとは到底思えない。三年も引きこもっていたツケは、かなり大きいはずだ。

「で、四月からどうするって? どこか学校に行くつもりなの?」

「それがねぇ。その辺りは未定なんですって。一回裕太ちゃんと電話で話した時は、勉強は尚ちゃんに見てもらっているみたいなことを言っていたんだけど。尚ちゃんだってまだ高校生でしょう。自分のことで手一杯のはずだし、ちゃんと一回話をした方がいいと思うんだけど」

 しかし、そういう話も含めて、雅紀に「今は静かに見守ってほしい」と言われてしまったようだ。

「雅紀なりに何か考えがあるんだろう」

「そうよね。裕太ちゃんが引きこもりをやめたのだって、きっと雅紀ちゃんの励ましあってのことだろうし」

 ––お兄ちゃんが裕太を励ます? 絶対あり得ないんだけど。

 沙也加はそっと鼻で笑った。

 その逆ならわかる。

 あいつが死んだのに、いつまで引きこもっているつもりだと。このまま引きこもるつもりならこの家を出す、と。冷ややかに裕太に迫る姿なら想像がつく。

 いや、そうであって欲しいのかもしれない。

 雅紀に、いらない物を切り捨てるような冷たい視線を向けられるのが自分一人ではないと。そう、思いたくて。

「私から、裕太に連絡とってみようか?」

「そお? 沙也加、そうしてくれる?」

「裕太が引きこもりやめたなら、私も話したいことあるし」

 それで沙也加は、裕太が近頃足繁(あししげ)く通っているという図書館前で裕太を待ち伏せたのだ。

 場所をそこにしたのは、もちろん、篠宮の家には近づきたくなかったからに他ならない。

 ––本当に、引きこもりやめたんだ。

 図書館から出てきた裕太は、祖父の葬儀で見た時よりも落ち着きある顔をしていた。すっきりと引き締まった容貌は、少年から青年へと成長段階にある若者らしい凛々しさすらある。今の裕太を見て誰も、ついこの間まで引きこもりだったなど信じないだろう。

 エントランスの階段を降りてくる裕太の視線がふと上がった時、沙也加と視線がかち合った。刹那、裕太の目が切れ上がった。

 不快な物を見るようなその目つきに、沙也加は息を飲む。と同時に、怒りが沸き起こった。

 ––何よ、裕太のくせに。

 沙也加は、ぎりっと奥歯を噛み締めて、つかつかと裕太に歩み寄った。行手を阻むように前に立つと、裕太ははっきりと眉間にシワを寄せた。

「何か用?」

 口調はさらに刺々しかった。

「引きこもり、やめたのね」

「だったら、何?」

「話があるんだけど」

「おれはない」

「あんたがそうでも、私にはあるのよ」

 沙也加は裕太の態度に苛つきながらも、図書館横の小さな広場へ裕太を連れ出した。

 

 

 裕太は、図書館を出てすぐの場所に沙也加の姿があることに気がついて、しんなりと眉を潜めた。待ち伏せされていたのは確実で、その事実が単純に不快だった。

 ––一体、何の用だよ。

 沙也加が自分たちに近づいてくる事はもうないと思っていた。それは、沙也加が間違いなく、雅紀と尚人の三人だけの秘密にしておきたかった事実を自分も知っていると告げたからだ。

 ––何にも知らないくせに。

 それが、今まで沙也加が裕太に言い続けてきた言葉だ。それを盾に沙也加は、ずっと裕太をお子様扱いしてきた。だから裕太は沙也加に突きつけたのだ。

 自分は全てを知っている。知った上で、この家にいるのだ、と。

 それで沙也加はもう、何も言えなくなるはずだった。

 なのに、

「何か用?」

 さっくり無視してしまいたかったが、目の前に立たれるとそういうわけにもいかない。それに、逃げた、と思われても(しゃく)(さわ)る。

「引きこもり、やめたのね」

 沙也加の言葉にため息が漏れた。だったら、何だというのか。

 ––まだ、姉ちゃん(づら)するつもりかよ。

 裕太の中で、もはや家族と呼べるのは雅紀と尚人の三人だけだ。篠宮の家を捨てた沙也加はもう家族ではない。雅紀も言っていた。自分と母を罵倒して出ていった時から赤の他人も同然だ、と。あの尚人だって、溝が埋まらないならもういいと割り切っている。母と雅紀の情事を目撃してしまった衝撃は理解するが、いつまでもそこに捕われている沙也加に同情する気はない。

「あんた、これからどうするつもり? 学校、行く気あるの?」

「それ、お姉ちゃんに関係あるのかよ」

「あるに決まってるでしょう? あんたは、私の弟なんだから」

「それをいうなら、ナオちゃんも弟だろう。ナオちゃんのことは気にならないのかよ?」

「は? なんでここで尚が出てくるのよ。あの子は、ちゃんと学校行っているでしょう?」

「高校卒業後、どうするつもりなのかって、気にならないのかよ?」

 裕太が問うと、沙也加は苛立つように眉根を寄せた。

「翔南高校に通ってるんだから、大学進学は当たり前でしょう? お金なら、あいつの保険金降りたんだし。奨学金借りて大学に進学した私なんかより、よっぽど恵まれてるじゃない」

「お姉ちゃんはさ、お母さんが死んだあと、あの家がどんな状況だったか、想像したことあるの?」

「は?」

「あの家に、当たり前なんてひとつもなかったってこと、お姉ちゃんはわかってる?」

「何よ。何が言いたいのよ」

 (いら)つきを見せる沙也加に、裕太は嘆息した。

 自分に散々「何もわかってない」と言い続けてきた沙也加こそ、本当は「何もわかってない」という事実に裕太は今更ながらに気がついたのだ。

 沙也加はおそらく、自分が高校受験に失敗したのは、ちょうど受験の時にあんなことがあったからだと思っている。だから、本番で力を発揮できなかった。それは、ある面事実かもしれない。学内でもトップクラスの成績だと、得意げに自慢していたのを祐太は覚えている。だから沙也加は、あんなことさえなければ自分は第一希望の翔南高校に受かったはずだ、と信じているのだろう。そして尚人の時は、自分の時とは違って、受験に専念できる環境になっていた。だから、尚人は翔南高校に受かった。

 当たり前、にそう思っている。

 尚人が高校受験する時の篠宮の家の中が、どういう状況だったか知りもせず。

 尚人ほどの芯の強さがなければ、翔南高校には受からなかっただろう。学業の(かたわ)ら家事の一切をこなしていた。しかも、あの時の尚人には、誰一人として味方がいなかった。それでも尚人は、自分が決めたこと、としてやり通した。それは誰にでも出来る、当たり前、なことではない。

 しかし沙也加は、自分はタイミングが悪くて、尚人はタイミングが良かった。当たり前にそう思っている。そして今回も、尚人は大学進学前に学費の心配をする必要がなくなった。尚人ばかりがタイミングがいい。そう思っている。

 高校さえ出してもらえれば自活する。そう、決意していた尚人を、沙也加は知らない。そこを乗り越えて今がある、という事実を沙也加は知らない。篠宮の家が再生するまでにどれほどの痛みを伴ったのか、沙也加は知らない。

 でも、そういう一切を、裕太は説明する気にはならなかった。沙也加が真に理解するとは思えなかったからだ。

 そう思った時、

 ––あ、そういうことか。

 裕太は、不意に悟った。

 かつて裕太が、雅紀に

「お母さんとセックスしているのがナオちゃんにバレたとき、雅紀にーちゃんさ、どうせ舌先三寸でいいように丸め込んだんだろう? なのに、なんで、お姉ちゃんの時は––そうしなかったわけ?」

 そう問うたとき、雅紀はこう答えたのだ。

「俺が沙也加に何も弁解しなかったのは、そういうことを、一から十までくどくど説明するが面倒くさかったからだよ」

 あの時は単純に、尚人は手放せない存在で、沙也加は切り捨てても気にならない存在、だからだと思っていた。(じょう)もない相手に説明するのは面倒くさい、と。

 だが、説明したところで真に理解しない、と思えば、説明するのも面倒くさい、という気持ちになるのもわかる。

 あの時、雅紀は沙也加の顔を見て、そう判断したのだ。だから、面倒臭かった、のだ。まさに今の自分と同じように。

 だとすると、沙也加が雅紀に切り捨てられたのは、二人を罵倒して一人家から逃げ出したから、ではない。真に理解し合えない。そう判断されたからだ。

 ––沙也加はずっとあんなふうだから、俺には重すぎる。

 それは、超がつくほどのブラコンのことを指すのではなく、一方通行すぎる思いに対しての言葉だったのだろう。だから、同じ超ブラコンでも、尚人は丸め込んで、沙也加は切り捨てた。

 クソ親父がゴミ屑のように家族を捨てた時、雅紀には長男としての責任がその肩にのしかかった。出来た長男とはいえまだ高校生で、バイト三昧で家計を支える中で、精神を病んだ母親からは夫の代用品としてセックスを迫られていた。そんな修羅場の日常生活の中、雅紀が渇望したのが双方向の思いだったのだろう。

 一方的な沙也加は重い。裕太は、懐かないペットみたいで可愛げがない。だから、尚人に(すが)ることだけが雅紀の救いだったのかもしれない。

「––お兄ちゃんは、何て言ってるの?」

「高卒じゃなくても、大学検定があるって」

 その辺のことは、まだ祐太自身何も決めてはいないが。

「––大検。そうね。確かに、そういう選択肢もあるわね」

 沙也加は、ぼそりと呟く。正直裕太には、どうでも良かったが。

「じゃあ、勉強はしてるのね」

 ––だったら、何なんだよ。

 裕太は、沙也加が一体何をしに自分を待ち伏せしていたのか測りかねた。近況を訊ねるだけなら電話で良かったはずだ。わざわざ待ち伏せまでした意味があるのかないのか。それがわからない。

「話はそれだけ?」

「––お兄ちゃんは、元気にしてるの?」

「元気だよ」

 昨夜も散々尚人を()かせていた。毎日学業と家事に追われて、雅紀のセックスの相手までしている尚人の体の方が心配になる。何しろ雅紀は、いつでもどこでもどんな状況でも、尚人に発情するケダモノだ。しかも自覚して開き直っているだけにたちが悪い。

 裕太の返しに、沙也加は黙り込む。何か言いたいが、何を言えばいいのか迷っている。そんな様子の沙也加に、これ以上ここにいても時間の無駄だと判断した裕太は、

「じゃあ」

 一声かけて(きびす)を返した。振り返ることなく、自転車を止めている駐輪場へと向かう。その背に沙也加が声をかけてくることはもうなかった。

 

 

 こんなはずではなかった。

 沙也加は、遠ざかる裕太の背中を見つめながら、身動ぎできなかった。

 裕太に軽くあしらわれた。

 そんな気がした。

 沙也加の質問にまともに答えることもせず、訳のわからないことを逆に問うてきた。

 ––尚が一体何なのよ。

 尚人は翔南高校に通っている。翔南高校は、有名大学進学率ほぼ100%を誇る超進学校だ。大学進学は当たり前のはずだ。

 ––あの家に、当たり前なんてひとつもなかったってこと、お姉ちゃんはわかってる?

 裕太の意味深な言葉がリフレーンする。

 ––何よ、それ。どういう意味よ。

 翔南高校に通っておきながら、大学進学するつもりがない、ということなのだろうか。それを思った時、

 ––まさか。

 沙也加は、はっとして息を飲んだ。

 先月、アズラエルの本社ビルで見かけた光景がフラッシュバックした。アズラエルの双璧と言われる、総括マネージャーの高倉とモデル界の帝王加々美蓮司の後ろを尚人がさも当然の顔をして歩いていた。しかもその横には、今何かと話題のヴァンスのチーフデザイナー、クリストファー・ナイブスがいて、尚人とにこやかに談笑していた。

 しかも、英語で。

 雑誌『KANON』が掲載したインタビュー記事で、尚人がその通訳をしていたことを後で知った。それで、クリスと面識があるのは理解できた。しかし、それでもあの時、あの顔ぶれでアズラエル本社内を歩いているのが何故なのか、わからなかった。

 しかし、

 ––まさか、そういうことなの?

 沙也加は急に足元が覚束なくなって、近くのベンチに座り込んだ。

 雅紀をモデルデビューさせた加々美蓮司。業界最大手アズラエルの統括マネージャー高倉真理(まさみち)。そのアズラエルと専属モデル契約を交わしたヴァンスのチーフデザイナー、クリストファー・ナイブス。その三人が揃って尚人に会う理由。

 ––まさか。

 鼓動が早鐘のように打つ。

 沙也加の脳裏に、アズラエルとモデル契約した時のことが(よみがえ)る。

「新人モデルは、売り出し方が非常に重要なんです。沙也加さんは、MASAKIさんの妹だと認知されてしまっているので、特に。色付きがメリットになることもあれば、当然デメリットになることもあります。どんなに素材が良くても、読者受けしなければスポンサーは使ってくれませんから」

 マネージャーの唐沢は、沙也加にはっきりと言った。

 MASAKIの妹だからこそ、難しい面もある、と。

 ––だから、尚人をデビューさせるためにストーリーを作った?

 雑誌通訳のアルバイトをして、そこでデザイナーに見出された、というような。

 そうでなければ普通、雑誌インタビューの通訳などという大役を高校生に任せたりしないだろう。

 加々美は、雅紀をスカウトしてモデルデビューさせた恩人で、その加々美は、尚人の学校の課題だという職場見学の引率を引き受けていた。それで加々美が、面識のあった尚人に雑誌インタビューの通訳を頼み込み、その縁で尚人はヴァンスのデザイナーの目に留まった。一見自然に見える、出来過ぎたストーリー。

 ––うそ。いや。なに、それ……

 そんなのって、ズルじゃない。

 そんなことはありえない。そう思う一方で、妄想が沙也加を侵食していく。

 そうなの?

 本当に? そんなことってありえる?

 尚人をそこまでお膳立てする必要、ある?

 でも、雅紀が加々美に頼んだとしたら? ありえるのか……。

 お兄ちゃんのコネ?

 でも尚は、お兄ちゃんのいうことなら何でも聞く、使い勝手の良いハウスキーパーでしょう? 尚が家事しなくなったら、誰がするの?

 ありえない。……でも、ひょっとすると。

 思考がループする。

 沙也加は、今すぐにでも真実を確認しないと気が済まなくなって、慌てて立ち上がると、裕太の向かった駐輪場に走った。全力で駆けて、裕太の背中を追う。しかし、駐輪場に裕太の姿はなく、沙也加はそのまま一番近くの敷地出入り口まで走って辺りを見回したが、裕太の姿はもうどこにもなかった。

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