「『NAO』と申します。よろしくお願いします」
きっちりしっかり挨拶をして来た相手を前に宗方奨こと『ショウ』は、ほんのわずか気構えた。
聞きたいことは山ほどあった。所属事務所のこと、デビューのきっかけのこと、加々美蓮司との関係性。そして『ヴァンス』との繋がり。頭の中では質問したいことがぐるぐる回っていたが、ほぼ初対面のまったく親しくもない相手にそんなことつっこんで聞けるような性格ではなく。
「こちらこそ、よろしく」
結局は、軽く微笑んで挨拶を返すのが精一杯だった。
奨の笑顔につられたのか『NAO』もにこりと微笑む。その笑顔が可愛らしくて何となく肩に入っていた力が抜けた。
(悪い子じゃないよね)
そう思うと、敵愾心を抱くのもおかしく感じて。
「今日はお互い頑張ろうね」
そう声をかけると『NAO』の笑顔が一層深くなって、真っ直ぐ向けられていた視線の艶が深まった気がした。
「はい。ありがとうございます」
『NAO』がぺこりと頭を下げる。そのタイミングでアシスタントからメイクの時間だと告げられ、奨は『NAO』と別れてメイクブースへ向かった。
こう言った大きなイベント会場の舞台裏は、グラビア撮影とは全然違う。モデル専用の控え室なんてないし、メイクブースも所狭しとモデルが詰め込まれ、あちこちでメイクが施されている。
その雑多な人混みの一画に、奨は『タカアキ』の姿を見つけた。
(結局、参加できたんだ)
『タカアキ』が、カウント・ダウン・ランウェイの参加が決まらないことをぼやいていたのを奨は知っている。
同期である『タカアキ』とはそれなりに仲がいい。——というか、邪険にするメリットもないのでそこそこ無難に付き合っている。お互いそれなりに仕事が忙しくてしょっ中つるむような関係ではなかったが、『タカアキ』がジュエリー・テッサの件でやらかして、マネージャーが狭山に交代したあとから時々愚痴聞きの飲みに誘われるようになっていた。
「——マジで、やばいかも」
カウント・ダウン・ランウェイへの参加が決まらず、今までにない深刻な表情でそう呟いていたのが今月頭だ。内心では「この時期まで決まらないというのは、さすがにもう無理なんじゃ?」とは思ったが、だからと言って同期の凋落を喜ぶほど性格は悪くないつもりだし、本気で落ち込む貴明の姿にはやはり同情した。
「狭山さんのことだから、ギリギリまで言わないでいるとかじゃないの?」
「なんのために?」
「それは、わからないけど。例えば、一つ一つの仕事に集中させるためとか?」
「…………あのヤローなら言いそうだな」
『あのヤロー』とは当然、狭山を指すのだろう。自分のマネージャーの事をそういう言い方をする時点でもう終わっている、とは思いつつ。
「そう思うなら、狭山さんのこと信じて待ったら?」
そんな慰めを口にしたが、実際のところ奨は狭山のことをよくは知らない。ただ、的場が言うには「かなりできる人」らしく、その狭山を貴明につけたというのは「会社としては背水の陣」で「狭山さんでダメなら諦めるってことだろう」ということらしかったが、貴明の様子を見れば狭山とうまく行っていないのは明らかで、ひょっとしてカウント・ダウン・ランウェイに参加できないことをもって引導でも渡すつもりなのかと奨は密かに思っていた。
(やっぱりそう簡単には見捨てないってことかな)
『タカアキ』を、と言うより、自社モデルを、といったところか。
(参加できて、よかったじゃん)
素直にそう思う一方で、一抹の不安がよぎる。
それは、貴明があからさまに『NAO』を敵視しているからだ。一緒に飲みに行った時も話題はほぼ『NAO』に対する不満と怒りだった。『NAO』に直接何かされたわけでもなければ『NAO』に仕事を奪われたわけでもないのに、あれだけ敵視できる貴明に正直ドン引きだったが、よく知らない『NAO』を庇うのもおかしな気がして、適当に相槌を打ってやり過ごしていた。
しかし貴明にとっては、自分の怒りには正当性があるのだ。
まず、学校の課題とかで『アズラエル』に入り込んできたこと。『アズラエル』が学生の職場体験を受け入れること自体珍しいことで、何らかの伝かコネがないとほぼ実現不可能らしく、貴明に言わせると、高校生のくせに(おそらくは親の)コネを当たり前に使うのがそもそも許せない。その上、その時に超多忙な加々美を引率者にするという横柄ぶりに加え、それが当然と思っているらしい平然とした態度も不遜。どこのお偉いさんの息子か知らないが、そんな態度を悔い改めさせるのが年配者の務めである、らしい。『ヴァンス』とのムック本撮影現場に潜り込んで来ていた時までは、「何で周りの大人がちゃんと躾ないんだよ」と思っていたが、コネごりを押し通してモデルの世界に足を踏み入れたのなら「この世界の常識」を教えてやるのは先輩である自分の務めでもある、とのことで。「現場であったら、マジよーしゃしねー」らしい。
具体的にどうする、とは聞いていないが。この業界では目立つ新人が受ける洗礼は数々ある。とは言え、あからさまな新人いじめは自分の身も危うくするので、表沙汰にならない程度にひっそりこっそりやるのが普通だ。それと、本人の仕事に穴が開くのは良くても、ショー自体がダメになるような事は禁止、という謎ルールも聞いたことがある。聞いた話としてはグラビア撮影開始前にトイレに閉じ込めて撮影に参加できなくするのはオッケー(他のモデルが準備できるからと言うのが理由らしい)でも、コレクションショー出演前にトイレに閉じ込めるのはアウト(ショーにはいろんな人間が関わっていて、契約も複雑なため、最悪賠償金の支払いに発展すると言うのが理由らしい)とか。奨的には「どっちもダメだろ」と思うのだが、その理論から言えば、今日のこの日に何かするほど『タカアキ』もバカじゃないはず。一年の締めくくりの、この業界にとって一番大切なイベントだ。ワンステージが来年の仕事に直結する一方で、些細なミスが自分の首を締める。
(『NAO』に何かしてやろうなんて余裕、ないはずだよね?)
目を閉じて大人しくメイクされている『タカアキ』の横顔を見るに、大事なステージに向けて気持ちを集中させているように見える。
「『ショウ』さん、こちらにお願いします」
アシスタントのその声に、奨は『タカアキ』から視線を外すと自分のことに集中しようと気持ちを切り替えた。
* * *
挨拶回りを終えて『ヴァンス』のブースに戻って来た尚人にはユアンとゆっくりお喋りをするような時間はなかった。待ち構えていたスタイリストに衣装に着替えるよう指示され、最終フィッテングを終えてリハーサルに臨む。練習で散々歩いたランウェイだったが、照明も音響も本番仕様になった会場はまだ観客が入っていないとはいえ練習の時とは全然違う空気が充満していた。
出るタイミングや立ち位置など、しっかり確認しながらリハーサルに臨む。
こう言ったステージイベント初参加の尚人が意外に驚いたのが、舞台裏に取材カメラマンが入っていた事だ。モデルが衣装に着替えるとそこかしこでパシャパシャと写真を撮っている。カメラを向けられたモデルは特段指示を受けることなく自ら表情を作りポージングする。その以心伝心ぶりに尚人はただただ感心した。
本番直前ギリギリまでメイクをチェックされ、細かく直される。出番が近づいて舞台裏に並ぶよう指示されるとリラックスモードだったモデルたちもさっと表情を引き締めて一気に緊張感が高まった。
尚人はゆっくり深呼吸を繰り返し、平常心を保つ。
(いつも通り。いつも通り)
心の中で自分に言い聞かせる。
焦らず、落ち着いて。ランウェイの端まで歩いて戻って来ればいいのだ。
前に並んでいたモデルたちが次々と出ていく。尚人の出番はあっという間にやって来て、尚人はほとんど無に近い感情で表舞台へと飛び出した。
スポットライトの煌めきが目を刺し、一瞬視界を遮る。会場に充満した熱気が肌をぞくりと刺激したが、それは尚人を萎縮させるよりも高揚感を誘った。体にフィットした衣装がプロテクターのようで、何となく尚人を強気にさせる。今なら自分も、加々美や『ジェイミー』に負けない、自分らしい堂々としたウォーキングができる、とそんな気になった。
スポットライトを浴びてランウェイを歩く。光の向こうに何百何千という視線があるんだと思ったが、怖くはなかった。見られている自分を俯瞰する。今、皆が見ているのは『篠宮尚人』ではなく『NAO』なのだ。それは自分であって自分でない。その感覚が尚人をより冷静にさせた。
ステージの端まで来てターンする。練習では苦手にしていたが、今日はなんとも体が軽かった。今来たランウェイを戻る。戻ればおしまい。それがなぜだか名残惜しかった。
* * *
尚人の出番を加々美は舞台袖で見守っていた。
練習通りに歩ければ大丈夫。そうは思っても本番と練習は全然違う。観客の入った会場は興奮と熱気に包まれていて、初参加ではそれに圧倒されたっておかしくはない。緊張すれば体が強張る。体が強張ればいつも通りが難しくなる。
加々美はすぐに自分の心配が杞憂であったことを知る。
ステージに登場した『NAO』は加々美もハッとするようなオーラを纏っていた。
練習の時には見せたことがない明確なオーラ。
他を圧倒するような激しいものではなく、まるで水のような透明感、清涼感でありながら、視線を縫い止めて離さない。流れるようなウォーキングは、とても初参加とは思えない落ち着きがあって、いつもの尚人からは想像できない貫禄すらあった。
(おい、おい、おい、おい。……マジかよ)
加々美は心の中で唸り声を上げる。
本番に強そうだと思ってはいたが。ひょっとすると『MASAKI』よりも天賦の才があるかもしれない。
観客が『NAO』に惹き込まれていくのがわかる。
(こりゃ、明日から電話が鳴り止まないかもな)
加々美は密かに覚悟した。
* * *
(くそ、マジなんなんだよ。こいつ——)
自分の出番を終えてバックステージに戻っていた貴明は、ステージを写すモニター越しに『NAO』が出演していることに気づいて舌打ちした。
久々の大きなステージは気持ちよかった。溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らす勢いでド派手パフォーマンスを見せつけて、盛り上がった観客の熱気に貴明は満足した。
カウント・ダウン・ランウェイへの出演が決まったと狭山に告げられた時、貴明は狭山からこんなことも言われていた。
「このイベントの重要度は『タカアキ』君もよくわかっていると思います。ワンステージで来年の仕事が決まることもザラです。まだモデルを続けたいと思っているのであれば、自分の力で仕事をつかみ取ってください」
狭山の言葉はいちいち腹が立つ。しかし、言っている事は確かにその通りで。しかも実力で仕事をもぎ取ったとなれば腹の立つ狭山を今後黙らせることができる。何なら部長の榊に狭山の職務怠慢を訴えてマネージャーを交代させたっていい。そう思えばこそ、貴明は今までにない程のやる気を持ってこのステージに望んだのだ。
手応えはあった。『タカアキ』はまだまだ賞味期限切れじゃない。誰にも負けないド派手さを武器にモデル界を牽引する存在だと。観客に見せつけ、そして観客も納得したはず。
今年の打ち上げは気持ちよく盛り上がられる。そんな気分だった。——それなのに。
『NAO』を目にした途端、そんな高揚した気分は一気に霧散した。
気持ちよく終われるはずだった年末最後の仕事にケチがついた。そんな感覚に貴明はイラつく。
(だいたい『ヴァンス』のモデルって、ありえねーだろ)
『ヴァンス』の専属モデルを務めているのは同じ事務所の同期『ショウ』だ。『ヴァンス』と『アズラエル』が交わしている契約の詳しい内容までは知らないが、『ヴァンス』と『アズラエル』が専属モデル契約を交わしているのは知っている。だからCMで『NAO』が『ヴァンス』の衣装を着ていた事自体「有りなのか?」と疑問に思っていたが、それについては、CMの広告主である『リゾルト』と『ヴァンス』との間の特別契約による衣装提供があったかららしい、と呑みの席で『ショウ』に聞いた。いわばその場限り。だからこそ許された特例。それなのに、その特例は雑誌グラビアへも適用され、そして今、このステージにも拡大されたわけだ。
そんなこと、よっぽどのコネと我を押し通す
加々美に特別に可愛がられている『MASAKI』も目障りといえば目障りだが、『MASAKI』の実力は貴明も認める。現場で何度も一緒になって、悔しいけれども今のところは自分よりも上だと認めざるをえない。
『MASAKI』と『NAO』の違いはそこだ。一方は実力があり、一方にはない。実力もないくせに周りにお膳立てされて、今自分と同じステージに立っている。そしておそらくは、それを自分の実力と勘違いしている——世間知らずのガキ。
思えば思うほど、ふつふつと怒りが湧く。
そんな事を思っている間にモニターから『NAO』の姿が消える。
ランウェイを終えたモデルは、舞台裏の狭い通路を抜けて貴明が今いるバックステージへと戻って来る。貴明も先ほど通り抜けてきた通路。——ふと、その現場が頭に浮かんで。
貴明は口の端に小さく笑いを浮かべると静かに