服飾の新作発表や販促展示会であるファッションショーのうち一週間にわたって開催されるものをファッションウィークと呼ぶ。最も有名なのは、ミラノ・パリ・ニューヨーク・ロンドンの世界四都市で開催されるコレクションショーで、世界四大コレクションとも総称される。
ただし、コレクションショーは四都市でのみ行われているわけではない。世界中で開催されていて、日本で開催されるジャパンコレクションもその一つ。他にもソウルや香港、マカオなど、アジア発のコレクションショーも多く、ファンションウィーク中、グローバルに活動するモデル達は世界中を飛び回ることになる。
ジェイミーも日本の年末イベント、カウント・ダウン・ランウェイに出演した後は、一旦イタリアの自宅に帰ってほっとひと息つきはしたものの、すぐさまロンドン、ミラノ、パリとヨーロッパを中心に飛び回る多忙な日々を送っていた。
日本から待ちに待っていた調査報告書が届いたのは、そんな多忙な日々がひと区切りついた頃だ。
ジェイミーが、日本の年末イベント、カウント・ダウン・ランウェイへの参加を決めたのは、ナオとの再会を果たすという私的な目的あってのこと。そのためにイベントと『アズラエル』を利用した。もちろん打算はあっても仕事の手を抜くつもりはなく、日本での地盤固めと合わせて一挙両得という感覚だったのだが、そんな思惑がこれほどの騒動へ繋がっていくなど想像できたはずもない。
どうしてこんなことに?
ナオは大丈夫なのか?
目に見える傷、見えない傷。全て含めて気掛かりで。多忙な日々にあっても、それを考えるたびにジェイミーは胸が痛んだ。
届いた報告書を開きながら、ジェイミーはあの日のことを振り返る。
あの日、——カウント・ダウン・ランウェイの出演を無事に終えたジェイミーは、ナオの出番を確認し、ステージが終わって戻ってくるのを待っていた。
できるだけ早く出迎えたくて、どこで待とうかと考え場所探しするために舞台裏をさりげなく彷徨いていたのだが、その時に通路口の階段上に男が一人立っているのを見た。
ステージからこちらへ戻ってくる専用通路の終わり。面識のない男でモデルなのかスタッフなのか分からなかったが、出待ちには最適な場所柄で、「彼も誰か待っているのか?」と思いつつ視線を向けたところで、その向こうに戻ってくるナオの姿を見つけた。
その時ジェイミーは、なんとかうまいことナオを誘い出し、ほんの少しでもいいから二人きりになれる時間を作り出そうと思っていた。すぐホテルに帰るというのなら送って行くのを口実にしてもいい。ナオの周りをチョロチョロしている加々美や『MASAKI』はまだ出番が控えているから邪魔されることはないはずだとの思惑があった。
しかし……
通路向こうからやって来たナオが脇に立っていた男の前を通り過ぎようとしたその時、男の足がわずかに動くのをジェイミーは見た。その動作は、無意識的なものではなく、明らかな意図を持ったものであるとジェイミーには見えた。
つまりは前を通過する者の足を引っ掛けてやろうという、そう言った意図だ。
ジェイミーが瞬時にそう感じたのは、この
ライバルを蹴落とすため、いろんな嫌がらせをする者は世界中のどこにでもいる。荷物を隠す、汚す、壊す、捨てる。そんな間接的なものから、足を引っ掛ける、突き飛ばす、あるいは閉じ込めるなど直接手を出す者もいるし、誹謗中傷不名誉な噂の捏造等、口撃によって精神的ダメージを与えようとする者もいる。
ただ、ジェイミーがこれまで見て来て思うのは、そうやって誰かを
だからジェイミーは、ナオの足を引っ掛けようとする男のことなんてどうでも良かった。その行為に立腹することもなかった。それほどに男には関心がなかった。後々こんな騒動になるんならちゃんと顔を見ておけばよかったと思ったほどどうでもよかった。
ジェイミーの関心は、男の足に
躓いたことに驚いて、今までどこかぼんやりしていた表情に焦りと戸惑いが浮かんで、宙を舞うナオの視線とかち合う。その全てが鮮明に記憶される中で、ジェイミーはカッコよくナオをキャッチして姫のピンチを救ったプリンスの
上から降って来たナオは思っていた以上に勢いがあって、キャッチはしたもののそのまま体勢を崩してしまったのである。
その後の記憶はない。気がついた時には病院に運ばれていて、枕元で騒ぎ続けるダニエラに変わって状況説明をしてくれたのが桐生だった。
それで事の顛末を把握して。そして、その結果。
(……かっこ悪過ぎだろ、俺)
ジェイミーはただひたすらへこんだ。自分の不甲斐なさが情けなくて、ため息が止め度もなく漏れた。姫のピンチを救うプリンスどころかとんだ
そんな自己嫌悪の中、次の仕事のために日本を離れざるを得なくて——。
帰国時はそれなりに体のあちこちが痛んだが、日本メディアの前でそんな素振りを少しでも見せるとナオが悪者にされてしまうかも知れない。そんな懸念があって、空港で待ち構えていた日本メディアの前ではにこやかに笑って見せた。
しかし、ジェイミーのそんな思いとは裏腹に、ダニエラがイベント運営会社どころからナオまで訴えようとしていると後で知ったのだ。知った時にはダニエラと激しい口論になった。ジェイミーは、今の自分の成功の半分はダニエラのおかげと認識している。だから今までダニエラの指示や口うるさい小言に真正面から反抗することはなかった。だが今回だけは、どうしても受け入れられなかったし、許せなかった。とは言えダニエラとしても無罪放免では体面や矜持や事務所の格とか、そういった大人の事情の諸々から受け入れるわけにはいかないというので、折衷案というか二人の折り合いのつくところとして、「第三者介入の疑惑」を持ち出して『アズラエル』からの正式回答を待つとしたのである。
『NAO』も被害者。その事実確認が欲しかったのだが—————-
届いた報告書の内容を確認し、ジェイミーは思わず顔をしかめた。書面に並ぶ文字の羅列がジェイミーが期待していたものではなかったからだ。
『指摘のあった疑惑の人物の存在は確認できたが、転倒への介入の証拠となる物証や証言は得られず、本人も否定している』
『また、NAOの転倒については指摘のあった人物以外にも疑惑があったが、これも本人否定および証拠がない』
『確証が何もない中、犯人と断定することは名誉毀損に当たることからもできない』
などなど。さらには。
『なお、転倒した当人が、転倒は自分の不注意が原因であると申し述べていることを付け加える』
とまである。
ジェイミーはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。巨大な権力の中で結局はナオ一人がスケープゴードにされてしまったのではないか、そんな想いが脳裏をよぎる。良かれと思った自分の思いつきが逆手にとられてしまった感覚にジェイミーは深い深いため息をついた。
「これで納得したでしょ?」
報告書を持って来たダニエラが軽く肩を竦めてジェイミーを見る。その視線にジェイミーはもう一度ため息をついた。
「あちらの言い分はわかった」
納得はできないが、これ以上長引かせたところで事態は硬直化するだけだ。それは誰得にもならない。
この件はこれで終わり。それを明確にする事がナオのためにもなる。——はずだ。と、ジェイミーは無理やりに自分を納得させる。
「じゃあ、あとはこちらでやっておくわ」
ダニエラはそう口にして、どさりとソファーに身を投げ出したジェイミーにわざわざ歩み寄って来てささやいた。
「前にも言ったけど、これはあなたの価値を落とさないためなのよ」
ダニエラの言う「あなた」とは、当然いち個人としてのジェイミー・ウェズレイではなく、モデル『ジェイミー』だ。世界四大コレクションの常連で世界の主要ファッション誌の顔を務めるモデルとしての価値だ。イタリア出身の世界トップモデルが「アジアでぞんざいな扱いを受けた」などと吹聴されるわけにはいかないのだ。
そこにあるのは、誰もはっきりとは口にしないが、アジアを一段下に見る風潮。今や日本のポップカルチャーは世界を席巻しており、日本という不思議な国を理解したいと思う若者は多いが、欧米人の中に根強く残るアジア差別は一筋縄ではいかない、と言うのが実情なのだ。特に重鎮と呼ばれる年配の人々にはそれが染み付いてしまっている感が拭えない。もっと言うなら差別をしている意識すらないのだ。彼らはそれを「当たり前」という感覚でいる。自分と彼らが同じであるはずがないというのが「普通の」受け止め方なのだ。そんな彼らの中には平気でリベラルなんて言葉を口にする者もいるが、それは彼らの考える範疇のリベラルであり、彼らが許容できる範囲の多様性なのだ。
(あー、ダメだ。思考が全部ネガティブになってる)
頭をぐるぐると回る体制批判にジェイミーは頭を掻き毟る。
考えてもどうしようもないこと考えてしまう不毛。それには虚脱するしかない。
「………俺の価値ね」
つぶやいてジェイミーは振り返ってダニエラを見た。
「じゃあ、中途半端な対応では終わらせられないね」
ダニエラがほんの少し片眉を上げた。その表情は、「ようやくわかった?」と言う気持ちと「急にどうしたの?」という感情が入り混じっているかに見える。
「使えるものはなんでも利用して、俺の価値を最大限上げてもらわないと。突き詰めるところ、ダニエラの目指すところはそこなんでしょ?」
「もちろんよ」
ジェイミーの問いかけに