アズラエル本社ビル内。統括マネージャー、高倉真理の執務室。
いつものように自分で淹れたコーヒー片手に革張りのソファーに腰掛けた加々美は、カップに軽く口をつけながら対面に座る高倉をちらりと見やった。
日頃は気が向いた時に自らふらりと訪ずれる加々美だが、今日は違う。話があるから来てくれと、高倉から日時指定までされたのだ。
こういった時は大概、いい話ではない。
(一体、何の話だよ)
ちょっとドキドキして、——心臓に悪い。なんて思いつつも、大体の予想はつくのだが。
例の、——カウント・ダウン・ランウェイの舞台裏で起きた出来事に端を発する騒動は、ひと通りの社内調査を終えて報告書がまとまり、ジェイミー側にも提出したと聞いている。もちろん加々美も事前に見せてもらっていて、
(まあ、『
と一定の理解を示せる内容に仕上がっていた。
とはいえそれはあくまで『アズラエル』側の立場に立った見方であって、尚人の代理人でもある加々美にとっては胸中複雑だった。なまじ方々の内情がわかるだけ余計に、とでも言おうか。
『アズラエル』としての立場もわかる。
ヨーロッパが活動拠点のジェイミー側の立場も理解する。
ただ、加々美とって今現在一番重要なのは尚人で。
そこのバランスに苦慮する。
ひとつ幸いな事といえば、この騒動はすでに世間では風化しつつあることだ。良くも悪くも大衆は熱しやすく冷めやすい。常に目新しい話題を求め続ける。現在メディアを賑わせているのは真面目で堅実というイメージで売っていた若手人気俳優の不倫騒動で、SNSでの生々しいやり取りが流出したことで火に油が注がれた状態だ。
どんなセンセーショナルなゴシップも、投入するガソリンがなければすぐに燃え尽きてカスになる。それで行くとカウント・ダウン・ランウェイの騒動は、続報として提供できるような話題がなかった。というか、ゴシップライター達からすると飯の種となるほどの物が見つからなかったというところか。それもひとえに、事務所の危機管理が徹底したからだ。所属モデルに記者が接触しているようだとの情報をキャッチするや、すぐさま該当しそうなモデルに直接ヒアリングすると共に、マネージャー達にも危機意識を持たせ、モデルと記者が一対一で遭遇しそうなタイミングを徹底的に排除した。これによって些細な一言さえも情報が流出することはなかったのである。
当然、この動きの裏に統括マネージャーである高倉の存在があることは言うまでもない。
この高倉のそつのなさ、徹底的な危機管理に比べて、自分は危機意識が欠如していたと加々美は反省している。
モデル達に記者が接触しているようだとの情報をキャッチしてすぐさま尚人に連絡を入れたのだが、すでに時遅しだったからだ。
一番の当事者。それを考えたら、記者らがいの一番に接触を図ろうとするのは当然、——なのだが。ダニエラ対応の方に気を取られたとか。不遇な事故だがゴシップライター達が喰い付いて来るような事件じゃないと思っていたとか。気の回らなかった理由は色々あるが、どれも言い訳でしかない。
加々美は珈琲をひと口飲んで、年明け一発目の尚人との電話を振り返る。
「やあ、尚人くん。改めてだけど、あけましておめでとう」
「改めて」と頭につけたのは、新年の初顔合わせは運び込まれた病院だったからだ。当然新年の挨拶なんて交わせる状況ではなかった。ステージを終えて加々美が駆けつけた時、尚人は興奮状態にあって自責の言葉をくり返していたし、雅紀に付き添われて病院を後にするときも表情は暗かった。
加々美の知る尚人とは全く違うその様子がショックで、過去の出来事が尚人に与えている影響について雅紀から聞いて知ったつもりになっていた自分が恥ずかしくて、それで気軽に連絡を入れるのを遠慮してしまったと言うこともある。
「足の具合はどう?」
『加々美さん。お気遣い頂いてありがとうございます。松葉杖生活ですけど気を付けておけば痛みもないし、大丈夫ですよ』
だから返ってきた尚人の声がいつもの尚人らしい落ち着いたまろやかなものだった事に加々美は安堵した。気持ちの昂りもおさまって、平穏な日常が戻ったのだなと。
「それなら良かった。完治するまで安静にね。ただ、そろそろ大学の授業が始まる頃じゃないかと思うんだけど。通学はどうするつもりかな?」
大事をとって休む選択もあり得るし、通学するにしても雅紀が送迎をかって出るに違いないと想像はしたが、雅紀だって暇じゃない。送迎をしたくてもできないと言う状況はあり得るわけで、その時は自分が、とも思いつつの質問だった。
『大学の授業はもう始まっていて、兄が送迎してくれています』
「そうなんだ」
『そろそろ電車でも大丈夫そうって言ってはいるんですけど。完治するまではダメだって、兄が譲らなくて』
尚人のその答えに加々美は思わず笑う。雅紀の過保護ぶりが目に浮かぶ。
「その点は、俺も雅紀と同意見だな」
そう答えつつ、雅紀が送迎しているのならマスコミ対応は大丈夫かなと頭の片隅で考える。大学に通う尚人にマスコミが接触しようとすれば狙われるのは通学途上だ。そこを「マスコミ潰し」と有名な雅紀がべったりくっついているのならこれ以上の安心はない。
それでも一応注意喚起をと、加々美は続けた。
「雅紀と一緒なら心配ないとは思うけど。実は、年末イベントのことで記者がいろんなモデルに接触しているみたいで」
『そうなんですね』
「ぶっちゃけて言ってしまうと、尚人くんが躓いた理由が単なる不注意じゃないんじゃないかって、そういうゴシップにしたがっている連中がいるって事なんだけど」
『………あれ、そういう事だったんだ』
「あれ?」
ぼそりとした呟きを拾って加々美が問いかけると、尚人が「実は」とおっとりとした口調で続けた。
『休み明け最初の授業の日に、兄の迎えを大学の門前で待ってたんですけど。その時に記者さんらしき人に声をかけられて。俺の足の怪我のことを聞いてきたんです。イベントで怪我したんだよねって感じで。すぐに兄が到着したんでそれだけだったんですけど。なんで怪我のこと聞きたがるのかなってすごく不思議で。ひょっとして初出場の舞台裏でずっこけるなんて記者さんが話聞きたがるくらいのどじだったのかなって』
(あれ、ひょっとして。尚人くんって結構天然?)
日頃のあくまで自然体の目配り気配り達人の尚人を知るだけに、加々美は思わず乾いた笑いをもらしてしまう。
「尚人くんならわかると思うけど、ああいう連中は有る事無い事面白おかしく書き立てるものなんだ」
『はい。わかっています』
「だから無視が一番なんだけど。でも、やっぱりマスコミに追い回されると嫌なものだろう? だから、——」
『あ、それで心配して電話くださったんですね』
こういうところの察しの良さはさすが尚人だ。が、先ほどとのギャップがあるだけに加々美は思わず苦笑した。
「まあ、そうなんだ。でも、ちょっと遅かったみたいだけど」
『大丈夫ですよ。あれから大学周辺でマスコミの方に声かけられることもないですし。兄にも自分が到着するまで門から出るなって言われてますから。それに、以前の騒動の時みたいに自宅前で待ち伏せしてるってこともないですから。ジェイミーには申し訳ないなって思ってますけど、そういう俺の気持ちをマスコミを通して言う必要もないですしね』
(頼もしいけど、こうやって慣れちゃってるのが可哀想な気もするよな)
そんなことを思いつつ、加々美は
「それでも十分注意してね。何かあったら、些細なことでもいいから連絡してね」
そう言い聞かせて電話を切った。
それから雅紀とも飯を食う機会があったのでその時に尚人の様子を聞いたが、以前と変わらない落ち着いた学生生活を送っているとのことだった。
「それで?」
加々美は手にしたカップをテーブルをに置くと高倉に問いかける。
「今日の呼び出しは何事だ?」
「これが届いた」
高倉はそう言いながら書類を差し出す。
「なんだこれは?」
「いいから、読め」
目線でやり取りして、加々美は書類に手を伸ばして開く。全て英語で書いてあったが、その書類が『アズラエル』が提出した報告書に対するジェイミー側からの回答であることはすぐにわかった。
丁寧に目を通していく。尚人に対する記載もあった。そこはより丁寧に読む。勘違い、読み違い、意味の取り違えなどないように。
その結果。
「まじかよ」
出てきた言葉はそれだった。
「俺も、そうきたかと驚きはしたが。悪くないんじゃないか?」
軽く息を吐き出して、加々美は革張りのソファーに身を沈める。
(そうきたか)
そうきたか?
高倉の呟きを反芻し、加々美は眉間を寄せる。
悪くない。悪くはない、——が。
(真意はなんだ?)
ダニエラが損害賠償も辞さないと息巻いていたから、てっきり賠償額が記載されているものと思っていたのに。示されたのは金銭以外の解決方法。
しかもその内容が、加々美が思ってもいなかった内容で。
「これなら金で決着を図った方がよっぽどスッキリしねぇか?」
真意が見えない。それだけに、そう思ってしまう。
「お前的にはそうかもな。でも、向こうも少々の金銭を要求したってなんのメリットにもならないと、そう判断しだんだろう」
「それは、そうだろうが。……それにしたって」
「前回の、——カウント・ダウン・ランウェイに出演するにあたっての要望があれだったからな。お前が警戒するのもわからなくはない。が、俺はこれ以上ない解決案だと思うが?」
高倉はそう言って、直接的加害者である尚人との和解案が記載されていた箇所を指差す。
「『ジェイミー』と『NAO』とのツーショットグラビア掲載。これで二人になんのわだかまりもないことを世間に示し、今回の騒動の幕引きとする。大物として余裕あるこの対応を見せることで、新人の『NAO』に金銭を要求するより『ジェイミー』の株は上がる。少なくともこの日本ではな。そしてこの話は『NAO』にとってもメリットだらけの話だろ?」
尚人ではなく、あえての『NAO』呼び。その意図に気づかない加々美ではない。
もちろんモデル『NAO』の売り出し方だけでいうなら、こんなに喜ばしい話はない。まさに、災い転じて福となす、だ。
「『アズラエル』としては、この解決案を全面的に支持する。そちらの回答を聞かせてくれ。『NAO』の代理人として」
ビジネスマンの顔をした高倉の視線が真っ直ぐ加々美を捕らえた。