『沙也加さん、急で申し訳ないんですが、今からアズラエル本社まで来ていただけませんか?』
沙也加がマネージャーの唐澤からそんな電話をもらったのは、大学構内のカフェテリアで加持や相田達と旅行の計画を立てている時だった。
後期期末考査や課題レポートの提出も終わり、大学はこれから約二ヶ月の春休み期間に入る。まだゼミに所属していない一年生にとってはサークル活動以外に大学に顔を出す必要のなくなる期間で、ある意味遊び放題なのだが、バイトや帰省とそれぞれのスケジュールで動いてしまうと、なかなか友人とも会えなくなってしまう期間でもある。それで相田が言い出しっぺとなり、せっかくの春休みなのだからスケジュール調整をして四人で旅行に行こう、ということになったのだ。
お互いのスケジュールを確認し合うと、三月上旬に二泊三日の旅行ができそうだった。今年に入ってモデルの仕事を始めた沙也加も、レッスンやスポンサー回りなどの予定がそこそこ入っていたが、スケジュール帳が真っ黒になるには程遠い。前からやっているバイトのシフトはこれからいくらでも調整可能で、旅行計画に支障なかった。
旅行なんていつぶりだろう。まして友人だけでの旅行なんて行ったことがない。
沙也加の気持ちが自然浮き立つ。
それは皆も同じようで、二泊あればそこそこ遠出ができると、沖縄や京都、北海道と、あちこちの地名が飛び交って話が弾んだ。候補地情報をスマホで検索して名産品がヒットすると、今度はあれが食べたい、これが食べたい、と話が膨らんでいく。
沙也加の携帯が鳴ったのは、そんな時だった。
「あ、ちょっと。ごめん」
沙也加は、ディスプレイに表示された名前を確認し、皆に軽く断りを入れてから席を外すと、カフェテリアの隅の人気のない場所へ歩きながら通話ボタンを押した。
「はい。沙也加です」
『お疲れ様です。沙也加さん。今は、まだ大学ですか?』
電話の相手はマネージャーの唐澤だった。
「はい。そうです」
『今日の講義は終了しましたか?』
「今日は、レポートの提出に来ただけなので、この後はフリーですけど?」
『では、沙也加さん。急で申し訳なんですが、今からアズラエル本社まで来ていただけませんか』
唐澤の言葉に、沙也加は首を傾げた。
一体なんだろう。
想像がつかなかった。
今までこんなふうに、急に電話で呼び出されたことがなかったからだ。
しかし、マネージャーがすぐに来い、と言う以上、行かないわけにはいかない。なにせ沙也加はまだ新人で、マネージャーに逆らうなどという生意気な真似はできないからだ。
「はい。わかりました」
『できれば、タクシーで来てください。タクシー代は事務所で持ちますので』
それほど急ぐのか。と沙也加は内心驚きつつ、了解を示して電話を切った。
いい話なのか、悪い話なのか。どんな時も淡々としている唐澤の口調からは読み取れない。沙也加が若干気持ちをざわつかせながら席に戻ると、相田たちはまだ、沙也加が席を立つ時に話題にしていた、ご当地ソフトクリームの話で盛り上がっていた。
「ごめん。悪いんだけど、急に事務所から呼び出しかかっちゃった」
沙也加が言うと、三人はおしゃべりをやめて沙也加に視線を向けた。
「仕事?」
「うーん。わかんない。そんな予定は、入ってなかったんだけど」
「ひょっとすると、誰か仕事に穴開けたんじゃない? それで沙也加に声かかったとか?」
柏木が言うと、それに相田が同調した。
「ありえるー。こないだの『ノエル』すっごく、良かったもん」
それは、沙也加がデビューした雑誌だ。
『自分らしさを彩る 春色ジュエリー』というテーマの雑誌企画があり、沙也加はそれでモデルデビューを果たしたのだ。グラビア撮影当日は、衣装やジュエリーを何度も交換して様々なポーズで何十枚と撮ったのに、雑誌に掲載されたのはたった一枚だったが、それでも沙也加的に満足いく出来だった。
普段から『ノエル』を購読してるらしい相田からは、雑誌が発売されるやすぐさまLINEが入り、「すっごく良かった」と、スタンプ付きメッセージが送られてきて、沙也加は「ありがとう」とだけ返したが、本当はものすごく嬉しかったのだ。
有頂天になりすぎてはダメ、と自制する一方で、やっぱり他人が見ても良かったよね? と浮き立つ気持ちが抑えられなかった。
そして、もっと紙面の中心を飾りたい、できれば表紙を、という欲求が大きく膨らんだ。
世の中には、代打でチャンスを掴んで売れたモデルもいると聞く。だが、万が一柏木の予想が当たっていたとしても、穴埋め要員が沙也加一人とは限らない。のんびりしている間に、掴めていたかもしれないチャンスを失うことだけはしたくなかった。
「とにかく、私行くね」
何か決まったら連絡ちょうだい、と言い置いて、沙也加は荷物を掴んでカフェテリアを出た。そのまま早歩きで大学構内を横切り、東門から外に出る。そこから出た方が大通りに面し、流しのタクシーを捕まえやすいからだ。
ラッキーなことに、タクシーはすぐに捕まった。
「アズラエル本社ビルまで」
沙也加がそう告げると、運転手は迷う様子もなく車を発進させた。
平日の昼過ぎのこと。道路は比較的空いており、目的地に到着するのにさほど時間は掛からなかった。
沙也加は一階エントランスの総合受付で入館手続きを取ると、慣れた足取りで受付奥にあるエレベーターホールに向かい上階行きのボタンを押した。そしてわずかに待ってやって来たエレベーターに乗ると、モデル部門のある三階のボタンを押す。途中誰も乗って来ることなくエレベーターは目的階に到着し、沙也加はエレベーターを降りた。
ホールのすぐ脇にフロアカウンターがある。沙也加は、早足で歩み寄ると、そこにいたスタッフに声を掛けた。
「唐澤さんから連絡をもらって来たんですけど。唐澤さんはどちらに?」
スタッフは沙也加の名前を確認すると、少々お待ちください、といって内線電話を掛け、短いやり取りで電話を切った。
「すぐに参りますので、こちらで少々を待ちください」
その言葉通り、唐澤はすぐに現れた。
「急に呼び立てて申し訳ありませんね」
唐澤の態度は至って通常通りだ。
「いえ」
と小さく口の中で答えて、沙也加は探るように唐澤を見やった。
「それで、あの。急にどうしたんでしょう?」
「部屋を押さえているんで、話はそちらで」
唐澤はそれだけ言って沙也加を一つ上のフロアへ連れてく。そして403と書かれた部屋の扉をノックもせずに開けると、沙也加に中に入るよう促した。
ひょっとしてここで誰かが自分を待っているのかも、と沙也加は思ったが、中は無人だった。そっけない作りの小さな部屋で、長机と椅子が置いてあるだけ。いかにも少人数での打ち合わせに使いますといった雰囲気だったが、正面に大きな窓があるため、広さの割に開放感があった。
「どうぞ、座ってください」
勧められて、沙也加は素直に従う。唐澤は机を挟んで沙也加の正面に座ると、机の上で両手を組んでひと呼吸置いた。
「今日は早急に確かめたいことがありまして、こうして来ていただきました。正直にお答えいただきたいと思います」
唐澤のその言葉に、沙也加は思わず眉を潜めた。
––何よ、一体。
この雰囲気はどう考えても、柏木が予想したような状況ではない。
何かトラブルが起きて、沙也加に真偽を確かめようとしている。そんな雰囲気だ。
––嫌な感じ。
沙也加の中で反射的に拒絶反応が起きる。
今まで散々、自分の意思とは関係のないトラブルに巻き込まれて来た。その時に染み付いた嫌悪感が、沙也加の心臓をぎゅっと掴む。
何を聞かれるのか。
構えた沙也加に、唐澤は至極淡々とぶつけた。
「弊社所属のモデル、タカアキさんとは、個人的お付き合いがありますか?」
「は?」
唐澤の言葉に沙也加は思わず耳を疑った。
聞かれたことが予想外すぎて、聞き間違ったかとすら思った。
「あの、もう一度言っていただけますか?」
その沙也加の言葉をどう受け取ったのか、唐澤はわずかに口の端を歪めて、小さく嘆息した。そして
「明日発売予定の週刊誌です」
唐澤は迷うことなく目的のページを開いて、沙也加の前に差し出した。
恐る恐る覗き込むと、そこには、
『芸能人の春模様』
『あの人も この人も カップル誕生か』
そんな見出しと共に、いかにも週刊誌らしい書き振りで芸能人カップルの恋愛模様が特集されていた。見開き紙面に複数カップルの記事を載せているため、一人一人の扱いは小さい。良くも悪くも週刊誌でよく見る穴埋め記事だった。
––これが?
と一瞬首を傾げた沙也加の目に、ある見出しが飛び込んできた。
『SAYAKA×タカアキ』
沙也加はギョッとした。
––うそ。いや、何これ。
身に覚えのないことを書かれた。そのことよりも先に、誰かにそういう目で見られた、と言うことに言葉にできない嫌悪感が湧いた。
沙也加は、兄と母の
自分には、あの母と同じ血が流れている。
雅紀にしがみつき、髪を振り乱してよがっていた。ケダモノみたいな気持ち悪い声を上げて、いやらしく悶えていた––––母。
セックスをしたら、まさか自分もああなるのか。
そう思うだけで虫唾が走る。
しかしもう一方で「意識し過ぎ」と自嘲するもう一人の自分がいて、そんな自分の葛藤を他人に悟られることすら嫌だった。
だから、異性からの好意は、何でもないような慣れた振りをして断って来た。
「ごめんね、今は誰とも付き合う気がないの」
それはそれで、お高く止まっている、と周囲の女子たちの反感を買うことになったが。
記事には写真が添えられていた。カフェの窓際の席でひと組の男女が丸テーブルを挟んで座っている。小さいが、見る者が見れば誰が写っているのかわかる写真だ。
––あの時だ。
沙也加はすぐにピンと来た。
初グラビア撮りをした数日後。レッスン終わりに皆で食事に行こうという流れになった。正直沙也加は行きたくなかったが、断るのも角が立つような雰囲気で、渋々参加したのである。
もちろん、顔には出さなかったが。
レッスンスタジオを出た時は女性モデルばかりだったが、そこに何故か、タカアキとその仲間だという若手メンズモデルが合流した。成人している者たちも多く、食事会は自然と半分飲み会になった。酒が入ると皆テンションが上がる。未成年の沙也加は当然最後まで
それで解散した後、気持ちを落ち着けるためにカフェに入ったのだ。すると何故かそこに少し遅れてタカアキが現れて、さも当然の顔をして沙也加と同席したのである。
そこを週刊誌の記者に撮られたのだ。
『今春一番のビックカップル誕生か。先月モデルデビューしたばかりのSAYAKAが同じ事務所の先輩モデル、タカアキとカフェデート。SAYAKAはあのカリスマモデルMASAKIの妹であり、今年活躍が期待される女性モデルの一人。一方のタカアキは事務所最大手アズラエルの大型新人モデルで、MASAKIとは何度も同じグラビア誌面を飾っている注目株の一人。兄も公認の仲なのか。この二人から目が離せない』
そんな煽り記事が添えられている。
––信じられない。
雅紀の名前まで持ち出して、事実無根のことをさも事実かのように書いてある。
怒りに震えた。
「個人的な付き合いはありません」
沙也加はわずかに震える声できっぱりと言い切った。
「モデル仲間たちと食事した後、一人でカフェに入ったら、タカアキさんがやって来たんです。モデルの心構えなどについて少しアドバイスをもらって、その場で別れました」
それが沙也加の真実だ。
いきなり同席したタカアキの真意はわからないが、タカアキからも男女の付き合いをほのめかすような言動はなかった。
「さっき、あまり話せなかったから」
そう言って、本当に世間話をしただけだ。モデル現場の裏話などは多少興味がそそられて、それで少々話が弾んだのも確かだが。
「そうですか」
唐澤は、疑いの目を向けるようなことも、さらなる追求をするようなこともなかった。静かな眼差しを真っ直ぐ沙也加に向けただけだった。
「ひょっとすると、この記事のことでどこかのマスコミがコメントを欲しがるかもしれませんが、すべて『事務所を通してください』と答えるようにお願いします。否定や弁明など、余計な発言をすればマスコミの思う壺です。彼らは言葉の切りはりするプロですから。いいですか?」
「わかりました」
沙也加は頷く。
かつてマスコミに囲まれても
––私だってできるわよ。
無視すればいいんでしょう?
今までだって散々マスコミに付け回されて来たのだ。
「大丈夫です。慣れてますから」
沙也加がきっぱりと言うと、唐澤は今日初めて小さな笑顔を見せた。