「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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銀波ノ雫 4

 年明けからこちら、雅紀は多忙な日々を過ごしていた。

 尚人にも本気で

「ちょっと、働きすぎだと思うんだけど」

 と心配される始末だ。

 モデルの仕事は好きだ。最初は生活費を稼ぐための手段でしかなかったが、今では天職だと思っている。それに尚人を大学へ行かせるためなら、スケジュール帳が真っ黒になるまで頑張れるという言葉に嘘はない。

 とはいえ、この一週間は家に帰れず流石(さすが)に疲れが溜まっていた。尚人が足りない。尚人に飢えている。一刻も早く家に帰って、尚人の匂いを思い切り嗅ぎたい。唇を思う存分(むさぼ)って、尚人の全部を舐めたい。尚人がトロトロになるまでいかせて、尚人の中に己を埋めて精の全てを吐き出したかった。

 午後十時少し前。そんなことを考えながら、仕事を終えた雅紀が、定宿にしているシティ・ホテルに戻ってくると、狙いすましたかのように携帯電話が鳴った。

 こういう時の電話は加々美からのことが多い。が、ディスプレイには見たことがない番号が表示されていて、雅紀は一瞬どきりとした。

 尚人が自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害にあった時のことがよぎったからだ。あの時電話を掛けてきたのが尚人のクラスメイトの桜坂で、以降知らない番号からの電話に雅紀は反射的に構えるようになってしまった。

「はい。雅紀です」

 雅紀が電話に出ると、耳元で微かに息を飲む気配がした。

 思い切って電話を掛けたが、とっさに何を言えばいいのか言葉に詰まる。こういう電話もいい思い出がない。

 ––誰だよ。

 雅紀がわずかに眉を(ひそ)めると、

『……お兄ちゃん』

 耳元にこぼれ落ちてきた声に、電話の相手が誰だか悟って、雅紀はさらにきつく眉を潜めた。

 ––一体、何の用だよ。

『––お兄ちゃん。お願い。……助けて』

 ––はぁ?

 一体何の冗談かと、雅紀は唖然とした。

 助ける? 俺が? 沙也加を?

 その内容はともかく、沙也加とはすでに縁が切れている。それは、沙也加も承知しているはずだ。昨年、慶輔が暴露本を出す直前に加門の家にその話をしに行った時、五年ぶりに再会した沙也加と顔を突き合わせて、二人の間にある溝はもう埋まることはないと確認しあったのだから。

 だから拓也の葬儀の時も、沙也加は自分たちに近寄っては来なかった。そうではないのか。

『お兄ちゃん。お願い。もう、限界なの』

 沙也加の声は涙に濡れている。しかし、雅紀の中に同情も心配も沸いては来なかった。

「一体、何の話をしているんだ?」

『週刊誌にデマを書かれて。……事務所の先輩モデルと交際してるって。それでマスコミにつけ回されて』

 だから?

 モデルは顔を売るのが仕事だ。その程度の記事を書かれて参っているようなら今すぐやめた方がいい。

『加門の家の前も張られて。それで、おじいちゃんとおばあちゃんに迷惑がかかるから、しばらく加門の家からは離れた方がいいって由矩(よしのり)叔父さんに言われて。……今、都内のマンションに一人でいるの』

「賢明な判断だな」

 さすが由矩叔父さんだ。

 マスコミに付け回されるのがうんざりなら、しばらくそこで大人しくしておけばいい。マスコミだって暇ではないのだ。いつまでもいちモデルの恋愛事情ばかりを話題にするわけがない。

『……独りで、不安で仕方ないの』

 ––だから、何なんだよ。

 雅紀は、沙也加がなぜ自分に電話を掛けて来たのか、全く読めなかった。

 独りが不安なら、友達でも彼氏でも呼べばいいじゃないか、と雅紀は心の中で吐き捨てる。あの駄犬が彼氏なのかどうか知らないが、そんな事は雅紀にとってはどうでもいい。何より、自分に助けを求めるのはお門違いもいいところだ。

「日本で独りが不安なら、いっそ海外にでも行けば? お前、以前留学したいって言ってたんだろう? 今なら金の心配もないだろうし。ちょうどいいじゃないか」

 そうやって、どこまでも逃げればいい、と雅紀は思う。

 篠宮の家から逃げ、加門の家から逃げ、仕事から逃げ、日本から逃げ。そうやって逃げた先に何かあるとは到底思えないが。

『……そうやって、切り捨てにするんだ』

 沙也加の声が低く淀む。その声音に昨年の夏がフラッシュバックするようで

 ––また、それかよ。

 雅紀はうんざりした。

『でも、そうよね。お兄ちゃんにしてみれば、私のこと絶対許せないもんね』

 沙也加の声はどこか自嘲混じりで、雅紀の神経を逆撫でする。

 許せないのはこちらではなく、そちらだったはずだ。

 拒絶したのはこちらではなく、そちらなのだから。

 そして、母と雅紀を汚いと(ののし)り、二人の関係を糾弾し、さらには、

 ––おかあさんなんか、死んじゃえばいいのよぉぉッ!

 激昂のまま吐き出した言葉通りに母が死んだ時、二人の間に生じた壁も溝も傷も永遠のものとなった。そのはずだ。

『私のせいでおかあさんが死んじゃったから……。だから、私のこと許せないんでしょう? ––––でも』

 沙也加は黙り込む。

 雅紀はいい加減電話を切りたかった。

 疲れて帰ってきて、一刻も早く尚人に電話して少しでも癒されたいのに、訳のわからない電話に付き合わされるのはうんざりだった。

『千束の家に戻りたいの』

「はぁ?」

 ––何言ってんだよ、おまえ。

 雅紀は素で驚いて思わず声を上げた。

『忘れるから。全部忘れる。––全部、なかったことにするから。だから、千束の家に戻りたいの。だって、もう私には。……他に帰れる所がないんだもの』

 ––ふざけるなよ。

 雅紀は目眩がしそうだった。

 沙也加の考えていることが、全く理解できなかった。

 自分たちの間にある溝は、二度と埋まらない。それは絶対だ。

 なのになぜ、その溝を飛び越えて来ようとするのか。

「あったことをなかったことにはできない。いい加減、そのくらい分かれよ」

 雅紀は冷たく言い放つ。二度と沙也加が勘違いしないように。

「それに、あの家におまえの居場所なんてないってこともな」

 雅紀はそれだけ言うと、一方的に通話を切る。

 これ以上、訳のわからない電話に付き合う気はなかった。

 

 

 

 通話の切れる音を沙也加は茫然と聞いた。

 勇気を振り絞って電話したのに。今まで沙也加を呪縛し続けてきたあの事実を忘れると決意したのに。雅紀は容赦なく沙也加を切り捨てた。

 救いの手を差し伸べてはくれなかった。

 いや、その前に話すら聞いてもらえなかった。

 千束の家に本気で戻れるとは、沙也加だって思っていない。どんなに忘れると言っても、記憶は消去できない。そんなこと沙也加だってわかっている。あの家の戻れば絶対、あの日見た光景が沙也加の目の前に立ち上がってくるに違いなく、あの部屋の扉の前で沙也加は立ちすくむしかないのだ。

 だから、そんな家には帰れない。

 ただ、沙也加は、わかってもらいたかっただけ。

 デマを書かれて大変だな、と。話ぐらいは聞いてやるよ、と。雅紀にそう言ってもらいたかっただけだ。そうすれば、今の状況だって耐えられる。雅紀の励ましさえあれば、群がるマスコミだって無視し続けられる。

 そう思っていたのに––

 沙也加は、体の芯から力が抜けるような感覚に、その場に膝から崩れ落ちた。

 涙が溢れて止まらない。痛みと苦しみで息もできなくて、声を上げて泣きたいのに、嗚咽さえ出てこない。

 独りだ。独りだ。自分は本当に独りなのだ。

 そのことが苦しい。

 どうして雅紀は、いつも沙也加の欲しいものをくれないのか。そんな大層なものを欲しがっているわけではないのに。ほんの少し、手を差し伸べて欲しいだけなのに。尚人に向けている眼差しの半分でもいいから自分にも向けて欲しいと思っているだけなのに。

 それは、そんな大層な願いなのか。

 雅紀にとって、自分はそんなに不要な存在なのか。

 ––だってこれが尚だったら、お兄ちゃん、絶対全力で守るんでしょう?

 昔から、なぜか雅紀は尚人ばかりを可愛がる。

 一緒に風呂に入り、一緒の布団で寝て、膝に抱えて絵本を読んでやるのも尚人だけ。沙也加が唯一雅紀と一緒に出来たのがピアノの連弾だったのに、そのピアノも中学生になって剣道をするようになるとあっさり辞めてしまった。沙也加がどんなに辞めないでと懇願してもダメだったのに、尚人がねだればいつでも弾いてやっていた。

 ––何で尚ばっかり。

 沙也加がテストで百点を採ってもさしたる関心もなさそうなのに、尚人が百点を採れば頭を撫でて褒めてやる。尚人が家の手伝いをしていたら偉いと褒めるのに、沙也加には私も褒めてと言わないと褒めてくれない。

 昔からそうなのだ。

 小学生の頃は、週末よく尚人を連れて近くの公園へ行き、一緒に砂場で遊んでやっていた。沙也加が一緒にバドミントンしようと誘っても、滅多にお願いを聞いてはくれなかった。やっと一緒にバドミントンをしてくれたと思っても、尚人の作る砂山を裕太が壊すのを横目に見た途端に、すぐさまバドミントンをやめて「ほらナオ、一緒に作り直してやるから」と尚人に構い始めるのだ。

 ––尚なんか、いなくなればいいのに。

 そう思うたびに、自分の胸から血が流れる。

 ああ、自分は何ということを思うのか。

 尚人は自分にとっても弟なのに。

 胸が痛い。息が苦しい。

 それでも、

 ––尚なんて、生まれてこなければよかったのに。

 どうしても、そう思ってしまうのだ。

 二人きりの兄妹だったらよかったのに。

 私だけのお兄ちゃんならよかったのに。

 そしたら、こんなことにはならなかったのに。

 あんな過ちなど、そもそも起きなかったのに。

 ––ねぇ、お兄ちゃん。ナオがいなくなったら、どうする?

 沙也加は焦点の定まらない視線で、じっと部屋の壁を見続けていた。

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