裕太が買い出しから帰ると、いつもの場所に尚人の自転車がなかった。
––あれ、ナオちゃん。出かけてんのか?
ほんのわずか首を傾げて、裕太は買い物袋を抱えて家に入る。
裕太が家を出る時、尚人に出掛けるような素振りはなかった。玄関周りの掃除をしていて、このあとはキッチン周りの掃除もしようかな、と言っていたからだ。
裕太は買って来た物を冷蔵庫に仕舞うためキッチンへと向う。
玄関周りは綺麗になっているが、キッチン周りに掃除された痕跡がないところを見ると、ひょっとすると掃除に必要な物を切らしていて、慌てて買いに行ったのかもしれない。
食材を冷蔵庫へ仕舞い、水のペットボトルを取り出して飲む。そのまま部屋へ上がろうとして、食卓に一枚のメモが置かれていることに気がついた。
『図書館に行って来ます』
––ナオちゃんって、ほんと律儀だよな。
メモを手に取って裕太は苦笑した。
近頃裕太が夢中になっているのは、プログラミングだ。パソコンがそれなりにひと通り使えるようになった時に、図書館で見かけたプログラミングの本に興味が惹かれて、それで始めるようになった。まだ初心者レベルだが、それでも本を読みながら四苦八苦するのがそれなりに楽しい。
作業に夢中になっていると、ふと気づいた時には六時を回っていた。近所の図書館は六時までだから、そろそろ尚人が帰って来てもいいはずだ。
すっかりぬるくなってしまったペットボトルの水を一口飲んで、裕太はキリのいいところまで終わらせようと再びパソコンに向かった。
それから三十分、尚人はまだ帰らない。
––ナオちゃん、何やってんだよ。
家から図書館まで、自転車ならば十分ほどの距離だ。図書館を閉館時間ぎりぎりの六時に出たって、もう帰りついていなければおかしい。
––どっか、寄り道でもしてんのか?
しかし、仮にスーパーに寄っていたとしても遅い。
––自転車、パンクでもしたのかよ。
––それとも、途中で誰かと長電話でもしてんのか?
裕太は気になって、尚人の携帯に電話を掛けた。
遅くなる理由がはっきりしさえすれば、裕太はそれで安心できる。
コール音が続く。
電話中でないことだけははっきりしたが、出ない理由がわからない。
二十回程コールしたところで、裕太は諦めて電話を切った。
––電話に出れない理由ってなんだよ。
裕太は顔をしかめる。
––携帯落として捜してるとか?
それはあり得る……かも。
なにせ、今日は雅紀が帰らない日だ。夜には絶対雅紀から電話がある。その時に携帯に尚人が出なければ、雅紀は死ぬほど心配するだろう。
––いや、だったら、家電から雅紀にーちゃんの携帯に『落とした』って連絡すればいいだけだし……
その時に繋がらなければ、留守番電話にメーッセージを残すなり、PCからスマホにメールを送るなり、連絡手段は色々ある。
––でも、その辺はナオちゃんだしな。雅紀にーちゃんに買ってもらった物失くしたってことの方が重大かも。
何となく尚人が帰ってこない理由が納得できて、裕太は安心する。
しかし、さらに一時間が過ぎても尚人は帰ってこなかった。
もう、七時半過ぎだ。何の連絡もないまま、というのは、さすがに遅すぎる。
もう一度、携帯に掛ける。
しかし、尚人の携帯はコール音はするものの、やはり繋がる気配がない。
裕太は、我慢できなくなって家を出て自転車にまたがった。そして、家から図書館までの道をゆっくり進む。途中で尚人に会うかもしれないからだ。
近所のスーパーは既に閉店している。一応途中のコンビニを覗いたが、尚人の姿はなかった。そのまま図書館にたどり着いて、駐輪場に向う。
ひっそりと
––あ。
裕太はその中に尚人の自転車があることに気がついて、思わず目を見張った。
尚人は間違いなく図書館に来たのだ。
––どういうことだ?
裕太は眉を潜める。
自転車はここにある。図書館はとっくに閉館している。尚人はまだ家に帰らず、途中の道中にも姿はなかった。
携帯は繋がるが、尚人は出ない。
––もしかして、出ないんじゃなくて、出れない?
そう思った瞬間、裕太の心臓が跳ねた。
––いや、いや、いや、いや。
裕太は慌てて否定する。それではまるで何かの事件に巻き込まれたみたいじゃないか。
ドクドクと脈打つ鼓動を裕太は必死になだめた。
そんなはずない、と。そんなことしても誰も得しない、と。可愛い女子高生ならまだしも、尚人は普通の男子高校生だ。通りすがりの変な奴に目をつけられて拉致される何てことはありえない。
雅紀なら、急にとんでもない方向に感情が振り切って、突然尚人を拉致監禁してもおかしくはないが、その雅紀は今大阪で仕事中のはずだ。それに雅紀なら、わざわざ外出先で拉致しなくとも、そもそも家の中で尚人にしたい放題だ。
そこまで考えて裕太は顔をしかめた。
何かが思考に引っ掛かりかけたが、うまく形にならない。
裕太は、目の前にある尚人の自転車を睨みつける。
尚人が、この状況を自ら生み出しているとは思えない。しかし、図書館に来たのは尚人の意思だ。わざわざメモを残していた。それが証拠だ。
出かける予定のなかった尚人。だから、裕太が家に帰った時に心配しないようにメモを残した。それは、出かけるけど帰ってくる。その意思表示だ。
最初から帰るつもりのない、いわゆる家出ならば、わざわざメモなど残さない。
まあ、あの尚人が、家出なんてするはずないのだが……
しかし現実問題、尚人はまだ帰らない。
それはつまり、尚人の意思ではないということだ。
––誰かにここに呼び出された?
それで急に出かけることになった。
––そして誰かに連れて行かれた?
ならば、相手は車を使う人物だ。尚人を呼び出し、自分の車に乗せた。だから尚人は、ここに自転車を残したまま帰ってこない。
だとするならば、尚人を呼び出した人物は、尚人の知らない相手ではない。尚人は天然のお人好しだが、知らない人の車にほいほいと乗るほど迂闊でもない。
そこまで考えて、裕太は先月ここで、沙也加に待ち伏せされていたことを思い出す。
これからどうするつもりなのかと、まだお姉ちゃん
––それでまさか今度はナオちゃんを?
春休みで学校前で待ち伏せできないから、図書館に呼び出した?
そうなのか?
しかし、あれからもう二ヶ月近くは経つ。今更感がぬぐえない。
もっと別のきっかけがあった?
尚人の顔など見たくもないはずの沙也加が、尚人に連絡を入れる決意をしたきっかけ。
そこまで思って、裕太ははっとした。
––もし、ナオちゃんを呼び出したのがお姉ちゃんなら、家電に履歴が残ってるはず。
なぜなら沙也加は尚人の携帯の番号を知らないはずだからだ。
裕太は慌てて自転車に飛び乗ると、疑惑を確信へと変えるため、急いで家に引き返した。
雅紀の携帯が鳴ったのは、大阪での仕事を終えて、駅へと向かうタクシーの中だった。
明日フリーならこのまま東京行きの新幹線に乗るところだが、あいにく明日は名古屋で仕事がある。なので今日はこのまま名古屋へ向かい、駅近くのホテルに一泊するのだ。
正直雅紀は、一刻も早く家に帰りたい衝動を必死に抑えていた。
昨日家を出る前の尚人が可愛過ぎて、早く家に帰りたくて仕方ない。あの続きをしたくてたまらない。春休みなんだから一緒に連れてくればよかったかな、とちらりと思ったほどだ。尚人と一緒ならホテル泊が何泊続いても気にならない。尚人のいる場所が自分の居場所だからだ。
雅紀はジャケットの内ポケットからスマホを取り出す。表示された番号は自宅の固定電話で、雅紀はわずかに首を傾げた。尚人ならば自分の携帯から電話するはずだからだ。
––裕太か?
裕太が電話を掛けてくることは滅多にないが、全くないわけではない。そういう時は必ず、尚人がらみではあるが。
––何かあったのか?
雅紀は気になりながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
『おれだけど』
「どうした?」
『雅紀にーちゃん。今どこ?』
「大阪での仕事が終わって、名古屋に向かってることだけど?」
『……ナオちゃんが、まだ帰ってこない』
わずかに淀んだ裕太の言葉に、雅紀はしんなりと眉を潜めた。
時間を確認する。八時過ぎ。
『俺が昼過ぎに買い出しに出かけて戻って来たら、図書館に行くって書き置きがあって。それで、図書館に行ってるんだとばかり思ってたんだけど』
「違ったのか?」
『閉館時間過ぎても帰ってこないから携帯に電話したんだけど、コール音はするけどナオちゃん電話に出なくて。……それで、図書館見に行ったら、ナオちゃんの自転車があった』
どういうことだ?
雅紀は眉間にシワを寄せる。
まさか図書館から誰かに連れ去られた?
そんなこと、ありえるのか?
それとも俺の弟だと知ったうえで、あえて?
雅紀の頭の中に次々と疑問が浮かんでは消える。
身代金目的の誘拐。そんな言葉も頭に浮かんだ。
その時、
『––お姉ちゃんかもしれない』
は?
「何でそう思うんだ?」
『先月、おれ。図書館前でお姉ちゃんに待ち伏せされてたから』
何だ、それ?
初耳だ。
いや、裕太と沙也加のことなど興味も関心もないが。そこに、尚人が絡んでくるなら話は別だ。
「何の用だったんだ?」
『さあ? これからどうするつもりなのかって、そんなこと聞かれたから、それってお姉ちゃんに関係あるのかよって返したら、弟だからあるっていうから。……じゃあ、ナオちゃんのことは気にならないのかよって、返して」
それで、ナオにも話を聞こうと思い立った?
「それはいつの話だ」
『二月の頭』
それで気にして尚人を呼び出すには、時間が経ち過ぎている気がする。
それよりも雅紀が気になったのは、先週の沙也加からの電話だ。マスコミにあることないこと書き立てられたと精神的に追い詰められ、あろうことか雅紀に助けを求めて来た。
––独りで、不安で仕方ないの。
そう訴える沙也加を雅紀はばっさり切り捨てた。
だからか?
––俺が相手にしなかったから、それでナオに?
『家電の着信履歴に、おねーちゃんの携帯番号が残ってたから、お姉ちゃんからの電話にナオちゃんが出たのは間違いないんだ。それで、お姉ちゃんの携帯に電話したんだけど、電源切ってるみたいで繋がらなくて。加門のじいちゃん
「ああ。そういう話は聞いた」
『そうなんだ。……それって、やっぱり。近頃のあの騒動のせい?』
「ああ。じーちゃんやばーちゃんにも迷惑がかかるからって、由矩おじさんが提案したらしい」
『そうなんだ。それで、じーちゃんたちに一人暮らし先の住所教えてないんだ』
裕太が小さく嘆息した。
『それで、雅紀にーちゃんは、お姉ちゃんの一人暮らし先の住所って知ってんの?』
「知らない」
雅紀が即答すると沈黙が落ちた。
これ以上捜索する手段を失って、途方に暮れているのだろう。
「とにかくお前は家にいろ。どこからか連絡が入るかもしれない」
『雅紀にーちゃんはどうすんの?』
「心当たりを捜してみる。ナオの携帯電源入っているなら、位置情報掴めるかもしれないし」
『……わかった』
裕太はぼそりと呟く。
『何かあったら、また電話する』
「ああ、そうしてくれ」
『そっちも、何かわかったら、すぐに連絡くれよ?』
「ああ」
雅紀はうなずいて通話を終了した。そしてすぐさま、尚人の携帯の位置情報を検索するためのアプリを立ち上げる。裕太が言うように携帯の電源自体は入っているようで、画面に表示された地図に現在地を示すマーカーが表示された。手がかりのあることに雅紀はわずかにほっと息を吐いたが、しかし詳細地図ではどこかがわからず、地図を広域表示にして雅紀は目を見張った。
県外に出て随分南下した場所を指し示している。家からは、車で高速道路を利用しなければ移動できない距離だ。
––やっぱり、沙也加の仕業か?
雅紀は、確認のため尚人の携帯に電話する。コール音が鳴る。二十回、三十回。しつこく鳴らしても繋がる気配はない。次に雅紀は、携帯の履歴を遡って沙也加の番号を表示すると通話ボタンを押した。しかし、こちらは電波の繋がらない理由を案内する音声ガイダンスが流れるだけだった。
裕太の言う通りだ。
その間にタクシーは駅に到着し、雅紀はタクシーを降りて改札を抜ける。そして、プラットホームに向かいながら電話を掛けた相手は、加々美だった。
コール音五回で電話は繋がった。
『よう、雅紀か。おつかれさん』
「お疲れ様です。加々美さん。今、電話大丈夫でした?」
『おう。今は高倉と飯食ってたとこだ。お前も時間あるなら来ないか?』
「すみません。今仕事で大阪なんですよ」
『何だ、そうなのか。お前も相変わらず忙しいな』
「おかげさまで。––それで、そのちょっと聞きたいことがあって電話したんですけど」
『おう、何だ』
「プライベートなことで申し訳ないんですけど。沙也加のマネージャーと連絡が取れないかと思って。もし、ご存知なら教えて頂きたいんですが」
『妹のマネージャー? 唐澤だな。連絡先は……、ちょっと待て』
それからしばらく通話が保留される。そして次に加々美が電話口に出た時、その口調が一変していた。
『確認だが、何かあったのか?』
「どうしてです?」
『今、高倉の方に唐澤から連絡が入って、昨日からお前の妹と連絡がつかないと。それで、一人暮らししているマンションに様子を見に行ったみたいなんだが、車ごと姿がないって』
雅紀はため息をついた。
これで確定だ。
『近頃、週刊誌やワイドショーでいろいろ話題にされてただろう? それで随分精神的に追い詰められてたらしいから、唐澤が心配して。……警察に連絡したほうがいいだろうかって、高倉に判断仰いできてる』
「警察は、ちょっと待ってもらえますか? ……たぶんナオが一緒なんです」
『どういうことだ?』
「俺も状況が掴めているわけじゃないんですが、さっき下の弟から連絡があって。昼過ぎに図書館に行くという書き置きしたまま、ナオ、まだ帰って来てないらしいんです。で、その図書館に行った理由と言うのが、どうやら沙也加に呼び出されたみたいで」
『それでお前、妹の居場所の確認しようとしてたんだな』
「そうです。マネージャーが沙也加の居場所を把握しているなら、別の可能性が浮上しますから」
耳元で盛大にため息をつく音がした。
『お前に唐澤の連絡先教えるから、お前の連絡先も唐澤に教えていいか?』
「ぜひ、お願いします」
『で、お前。二人が今どこにいるのか、心当たりはあるのか?』
「ナオの携帯の位置情報は掴んだんで、今からそこに向かおうと思っています」
『それってどこだ?』
「名古屋の桜山展望公園」
それから雅紀は、加々美に教えてもらった唐澤の携帯番号を控えて通話を切る。
名古屋行きの新幹線が到着したのは、ちょうどその時だった。