「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

21 / 122
銀波ノ雫 9

 沙也加は、電源の入っていない、真っ暗な画面のスマートフォンをじっと見つめていた。思考は飛び飛びで、自分が何を考えているのか。あるいは、何も考えていないのか。それすら判然としない。

 真っ暗な画面の向こうに、これまで何度も何度も表示させて眺めた、雅紀の携帯番号が浮かんで見える。

 電話してみようか。

 何度もそう思った。

 ちょっとでも声が聞きたい。

 それは沙也加の切実な願いだった。

 でも、何の話をすればいいのか。

 不自然ではない理由が欲しかった。

 いろいろこじつけて。

 頭の中でシミュレーションして。

 それなのにいざとなったら勇気が出なくて。

 だから……

 雅紀の方から電話をくれたらいいのに。

 そう願っても、雅紀から電話が掛かって来ることは実際なくて。

 だからなのか、沙也加は篠宮の家を出て以降、幾度も雅紀に電話する夢を見た。

 夢の中で沙也加は、緊張しながらコール音を聞く。

 電話が繋がるのを待ちながら、

 どうしよう。やっぱりこのまま切ってしまおうか。

 沙也加は葛藤する。

 しかし、

 ––沙也加か?

 電話が繋がって、耳元にこぼれ落ちて来るその声は、驚きつつも柔らかで。思いがけない電話を歓迎する雰囲気に包まれてていて。沙也加はその声に、心底ほっとするのだ。

 ––あのね、お兄ちゃん。聞いて。今日、こんなことがあったのよ。

 沙也加は取り止めのない話をする。

 雅紀はそれに相槌を打つ。言葉は少なくても、ちゃんと聞いてくれているのがわかる。話が弾んで、あっという間に時間が過ぎる。

 ––ごめんね。お兄ちゃん。忙しいのに、くだらない話に付き合わせちゃって。

 ––構わないさ。沙也加からの電話なら、いつだって歓迎するよ。

 耳元で雅紀の優しい声が響く。

 沙也加はそれにうっとりする。

 夢の中の雅紀は、いつだって沙也加の欲しい言葉だけをくれた。

 それなのに……

 ––日本で独りが不安なら、いっそ海外にでも行けば?

 ––あったことをなかったことにはできない。いい加減、そのくらい分かれよ。

 ––あの家におまえの居場所なんてない。

 現実に返された言葉は、ひとつも沙也加に優しくなかった。

 労りなど、どこにもなかった。

 勇気を振り絞って、初めて雅紀に電話したのに。

 冷たい拒絶だけがそこにあった。

 ––あったことをなかったことにはできない。

 そんなこと、今更言われなくてもわかっている。

 沙也加は、真っ暗なスマートフォン画面を見つめながら唇を噛む。

 母と雅紀はセックスしていた。

 沙也加はその関係を汚いと糾弾した。

 当たり前だ。

 母子相姦など、許されるはずがない。

 あの時母は、既に母親ではなくなっていたのだ。

 息子に関係を迫るケダモノに成り果てていた。

 ケダモノに死んでしまえと言って何が悪いのか。

 ケダモノが死んで、それで雅紀はケダモノから解放されたのだ。

 むしろ、感謝されるべきではなかったのか。

 お前のおかげで救われた。

 そう言って、沙也加を迎えに来るべきだったのではないのか。

 無視して、放置して。あったことをなかったかのように振る舞っていたのはどちらか。

 それなのに、なかったことをあったかのように書き立てられている沙也加のことは冷たく切り離す。

 あったことをなかったことにできないのなら、なかったことをあったかのように放置されるのも許されない。

 そのはずだ。

 沙也加は、ぐったりと横たわる尚人を一瞥(いちべつ)すると、スマートフォンの電源をオンにした。

 

 

 

 雅紀の携帯が鳴ったのは、加々美との電話が終わってしばらく経ってからだった。

 その時雅紀は、デスクに置いた携帯をただただ眺めながら、途方に暮れていた。

 尚人の携帯電話はここにある。沙也加の携帯は、何度掛けても同じアナウンスしか流れない。唐澤は高速を移動中で、特段情報を掴んでいるわけでもない。

 完全に手詰まっている。

 どこかから連絡が入るのを雅紀は待つしかない。

 それは、裕太が掛けて来る自宅からの電話なのか。

 沙也加から解放された尚人が公衆電話などから掛けてくる電話なのか。

 それとも、こんなことをしでかした言い訳をする沙也加からの電話なのか。

 それで、ディスプレイに沙也加の番号が表示されたとき、雅紀は待っていたものが来たのだと下腹に力を入れた。

「もしもし」

『沙也加よ』

「ナオは、一緒なのか?」

『お兄ちゃん。お願いがあるの』

「質問に答えろ」

『お願いがあるのよ』

「ナオの無事を確認するのが先だ」

 雅紀が重ねて言うと、耳元でくつりと笑う気配がした。

『相変わらず尚の心配ばっかりね。……それで、尚のことなんか知らないって言ったら、お兄ちゃん、私の話、聞いてもくれないの?』

「高校生が、こんな時間まで家に帰ってこないって連絡受けたら、心配するのは当たり前だ」

『へぇ。……それって、裕太から?』

「そうだ」

『尚だって高校生だもん。春休みだし、夜遊びしてるのかもよ』

 とぼけた様子の沙也加の口調に雅紀は苛立つ。

 一体、何のつもりなのか。

 尚人を図書館に呼び出し、名古屋まで連れ出したことはわかっている。

 問題は、今もまだ一緒にいるのかどうかだ。

「沙也加。俺はお前と言葉遊びするつもりはない。俺にお願いとやらがあるなら話を聞こう。だが、ナオが無事なのかどうか、確認が先だ。一緒にいるなら電話口にナオを出せ」

 雅紀は静かな口調で迫る。すると電話口に沈黙が落ちて、沙也加の逡巡するような息遣いだけがしばし続いた。

 それ以外に音はない。

 と言うことは、沙也加が今いる場所は外ではなく、室内なのだろう。

『––それは、ちょっと難しいかな』

 やがて沙也加がぽつりと言う。

『全然、起きる気配ないし』

 雅紀はわずかに眉を(ひそ)めた。

 まだ日付が変わる前だ。いつも尚人はもっと遅く寝る。睡魔に勝てずに眠り込むような時間ではないだろう。特に、沙也加と一緒で、安心しきったように眠りこけるはずがない。

『薬の量、間違えちゃったかも』

「沙也加!」

 雅紀は反射的に声を荒げた。

 母の死顔が嫌でも脳裏に浮かんで、心臓がはねた。

『……お兄ちゃんって、そんなふうに怒るんだ』

 淡々とした沙也加の口調が雅紀の苛立ちを(あお)る。

『あ、そうか。お母さん、睡眠薬自殺したんだったね。……睡眠薬って飲み過ぎたら死んじゃうんだった』

 雅紀はぎりっと奥歯を噛み締めた。

 まさか沙也加がこんなふうに出て来るとは思わなかった。

 いつもむくれて、(ひが)んで、文句ばかりたらたらで、その場で地団駄を踏んでいるだけなのが沙也加だったのに。

「電話に出れないなら、写真を送れ。今すぐだ」

 地を這うように低く雅紀は告げる。つぎつぎと急所狙いの必殺技を繰り出し来るかのような沙也加に、雅紀は平常心を保つのが精一杯だった。

『––わかった。じゃ、一旦電話切るから』

 それでぷつりと電話が切れる。写真はすぐに送られて来た。

 ホテルと思われる室内のベッドに尚人は横たわっていた。

 写真で見る限り、いつもの寝顔だ。起きている時よりほんの少し幼い顔つきで、ただ静かに、眠っているように見える。

 もちろん写真では、息遣いまではわからない。

 ただ、ベッドで死んでいた母のように、どこか作り物めいた、蒼白で温もりなどどこにもない顔ではなかった。

 そのことに雅紀は安堵する。

「写真受け取った」

 雅紀はすぐさま沙也加に折り返した。

「で、お前のお願いとやらは何だ」

『尚にしたことと同じことをして欲しいのよ』

 ––?

 雅紀は首を傾げた。

 一体、何のことを言っているのか。

『メディアの前で、俺の妹に手を出すなって言って欲しいの』

「記者会見でも開けって言うのか?」

 おそらくは、前回沙也加が雅紀に助けを求めて来た、あの件の続きなのだろう。

 前回はばっさり切り捨てられた。だから今回は、尚人を人質に取った。

 雅紀に要求を飲ませるために。

 つまりは、そう言うことなのだろう。

『そんな大袈裟なこと、返って逆効果でしょう? だから、さりげなく自然な形でして欲しいのよ』

「具体案でもあるのか?」

『お兄ちゃん、明日名古屋でイベントでしょう?』

 雅紀は眉を潜める。

 確かに明日は、名古屋で行われるチャリティートークイベントに参加する。百貨店の吹き抜けホールが会場で、イベント自体は無料で観覧できるが、現場に募金箱とネット配信される画面からワンクリック百円の募金が可能で、途上国や難民キャンプなどに衣類を送るための資金に使われるのだ。

『そのイベントに一般人装っていくから。イベント終わりに偶然見つけたみたいな感じでステージに呼んで。来てくれてすごく嬉しいって。そういう顔をして。そしてメディアの前で、俺の妹に手を出す奴は許さないって、そう言ってよ』

 なぜ名古屋なのか。

 ––そういうことかよ。 

 理由がわかって雅紀は冷静さを取り戻す。

 雅紀がいるから名古屋に来た。

 独りでは話を聞いてもらえないから尚人を巻き込んだ。

 尚人が自分から連絡を取れないように携帯を投げ捨て、そして逃げ出さないように睡眠薬で眠らせた。

 前回沙也加が尚人を学校前で待ち伏せし平手打ちを喰らわせた件は、あくまで尚人が売られた喧嘩だが、今回は違う。

 雅紀相手に沙也加は喧嘩をふっかけて来たのだ。

 しかも尚人を巻き込んで。

 ならば買ってやろうじゃないか。

 雅紀は腹を据える。

『そうしてくれたら、尚のいる場所、教える』

「それだけでいいんだな。お前をステージに呼んで、お前に手を出すなって、メディアの前でそう言えば、それでいいんだな」

『そう。それだけでいいの。難しい話じゃないでしょう?』

「わかった」

 雅紀は了解を示す。確かに難しい話ではない。事務所的にも問題ないだろう。

「明日のイベントは十一時からだ。遅れるなよ」

 ––この落とし前はきっちり付けさせてもらうからな。

 雅紀は心の中で付け足して、通話終了のボタンを押した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。