「あ、杉本! ちょっと」
廊下で声を掛けられて、杉本
放課後。これから部活に向かおうとしていたところで、声を掛けて来たのは隣のクラスの小坂井聡だった。
「おや、ぶちょーじゃん。どうしたの?」
小坂井は、杉本が所属する弁論部の部長だ。それで杉本は愛称として小坂井をそう呼ぶ。部活以外の場面でもそう呼ばれることを最初は嫌がっていた小坂井だったが、近頃はすっかり慣れてしまったのか何の反応も示さない。
それが杉本的に、ほんの少しだけ寂しかったりする。
「実は、一年生に二人、新規の入部希望者がいてさ」
「へえ。この時期に?」
杉本はわずかに首を傾げた。
翔南高校では部活動への入部は完全希望制で強制は一切ないが、それでも例年一年生の八割近くが、四月に行われる体験入部を経て、とりあえず何らかの部活動に入部する。高校生活を満喫したかったり、内申点を上げる目的だったりと、理由はそれぞれだが、運動部だけでなく文化系部活動も結構バラエティ豊かに揃っていることが入部率を上げている要素で、中学校まで勉強しかしてこなかったような生徒も入りやすいのだ。
つまりは、一学期も終わろうというこの時期に、まだどこにも入部していないということは、理由は様々あるだろうが、最初から部活をする気がない生徒がほとんどで、逆に、翔南高校の超ハードな学習進度を体験し、勉強との両立ができないと感じ始めた一年生が部活を辞めだすのが今の時期だったりする。
そういう裏事情もあって、この時期の新規入部希望者というのは本当に珍しいのだ。
「英語ディベートの方に興味があるっぽい。まあ、はっきり言えば、あの全国出場の幔幕効果だな」
小坂井はそう言って、ほんの少し苦笑した。
弁論部は県下の強豪校と言っても部員数が多いわけではない。翔南高校の中でも「うちにそんな部活あったんだ」程度の認識である。即興英語ディベートにチャレンジしているのはその数少ない弁論部の中のほんの数人で、今年は杉本と清田の二人しかいなかったぐらいだ。それで臨時部員として尚人を拝み倒したのである。
ちなみに、メンバーが揃わなくて困っている杉本に
「篠宮に頼んでみたら?」
と提案したのが小坂井だ。
小坂井は二年の時尚人と同じクラスだった。そういう経緯がある。
「とりあえず英語ディベートの練習見学させて欲しいって言ってるからさ。杉本の方で面倒みてくれない?」
「見学するくらい別にいいけど」
杉本は頷く。
正直言うと、大会前で一年生の世話を焼いている暇はない。が、これまでの出場経験で得たノウハウをせっかくならば後輩に伝えたいという思いもある。興味があるならなおのこと、ここでガッチリ掴んで正部員になってもらいたい。
「じゃ、あとはよろしくな」
「了解!」
杉本は軽快に答えて、部活動場所の多目的学習室へ向かった。
普段少人数のコース別学習で使用している多目的学習室は、机と椅子があるだけの普通の教室だ。その教室の黒板側を英語ディベートチームが使うのが近頃の定番になっている。英語表現を確認するために板書することが度々あるためだ。
弁論部の日頃の活動内容は、簡単に言うと『雑談』で、あるテーマに対してそれぞれの考えを言い合うことを中心とする。意外かもしれないが、雑談することで自分の意見を自覚するのだ。それに、他人の意見を聞くことで視野が広がる、ということも当然ある。雑談は思いの外、侮れない活動で、それに雑談する程度には、そのテーマに対して知識や関心がないといけない。日頃からいろんな話題に敏感に反応するアンテナも育っていく。
英語ディベートチームのメンバーはその雑談を英語でする。英語で雑談ができるようになるまでが結構大変な努力が必要だったわけだが、現在のメンバーである杉本と清田と尚人の三人は、その最低ラインは軽く超えていた。
メンバー三人が揃うと英語ディベートチームの雑談が始まる。
〔昨日のニュース見た? 飼い猫が産んだ子猫、育てられないからって、ゴミと一緒に捨ててた事件〕
〔見た。ひでー話だよな〕
杉本の振った話題に清田が答える。
〔私最初は、死んだ子猫の埋葬場所に困ってゴミ袋に入れたのかと思ったんだけど。そうじゃなくて。生きたままゴミ袋に入れたって聞いて、びっくりしちゃった〕
〔ゴミ袋の中で子猫が動いているのを見つけた人が慌てて救出したみたいだけど。死んじゃったらしいね〕
〔いくら育てられなくてもさ。あの選択肢だけはないよね〕
〔今はインターネットがあるんだからさ。引き取り手なんて、捜そうと思えば見つかると思うんだよな〕
〔でも、絶対見つかるわけでもないよね? 育てられない事情があるのに、引き取り手が見つからないままに大きくなっちゃったら、どうしたらいいんだろう?〕
〔そもそもの話をすると、飼い猫が出産して困るなら、きちんと避妊手術をしておくべきだったし、そういう知識がないままに猫を飼うべきじゃなかったんだけど。生まれて来た命にはやっぱり責任を持つべきだと思う〕
〔俺もそう思う。生まれて来た命を自分の都合でゴミのように捨てるべきじゃない。自分で飼えないのなら、必死に里親捜しするべきだし。里親が見つからなかったら自分で飼うしかない、と俺は思う〕
〔二人は、何かペット飼っているの?〕
〔私はチワワ飼ってる。『そぼろ』って名前なんだ。ちょーかわいいんだよ〕
〔俺ん家にペットはいないけど。ずっと飼っている金魚ならいる。小学生の時夜市の金魚すくいで手に入れた金魚でさ。びっくりするくらい大きくなってんだぜ〕
〔えー、すごい。金魚すくいの金魚ってすぐ死んじゃうイメージだったけど。清田くんの育て方がうまいのかな〕
〔普通に育ててるだけだけど。毎日餌やって、時々水変えてやって〕
話はそれから、小中学校時代にクラスや学校で飼育していた生き物の話やその世話の体験談などの話になり、顧問の坂下が登場したところで雑談は終了した。
ここからは、坂下の示した論題について、賛成反対どちらの意見も出し合って話し合う、より実践的な活動だ。大切なのは、自分がどちら側なのか、なのではない。意義ある討論にするための、論題のポイントを絞り出していく作業だ。この時に重要なのは視座を固定しないこと。時に大人目線になる必要があり、時に子供目線になる必要がある。あるときは女性目線で考えてみる必要だってある。この作業が尚人は結構好きだった。
今まで尚人は、あえていろんな事を考え過ぎないようにして来た。尚人を取り巻いていたのっぴきならない状況は、深く考えれば自分を雁字搦めにしかしなかったし、周囲の大人たちに散々好き勝手に言われるのにもうんざりしていた。耳を塞ぎ目を閉じ、自分の感情さえ奥底に押しやって、日常を淡々と過ごす。そうやって尚人は自分を守って来た。本当はそのことさえ無自覚だったが、今振り返ってみればそうなのだ。いろんなことが好転し始めた今だからこそ、それがようやく自覚できるようになっただけである。
そして今、ディベート部の活動を通して知った、物事をいろんな視点から眺め考える、という行為によってまた見えてくるものがあるということに、尚人は面白さを感じていた。あえて違う視座から眺めてみる。そこから見えてくる世界。客観的に考え尽くした後に残る主観によって自分の考えがクリアになる感覚も心地よかった。
〔じゃあ、今日はここまでにしましょう〕
坂下のその言葉を合図にその日の活動が終わる。
直後杉本が、すぐさま立ち上がって、教室の隅っこに座って見学していた一年生に歩み寄った。
「見学してみてどうだった?」
「すごかったです! 先輩たち皆さん英語ペラペラで尊敬します!」
「えへ? そうかなー」
一年生の感嘆の声に、杉本が照れたように笑う。
その様子を、尚人は少し離れた席から横目に見た。
今日の活動が始まる前、杉本に入部希望の一年生が見学すると聞かされた。少々緊張気味に現れた一年生二人は「皆川亜湖」と「渡辺香織」と自己紹介した。英語ディベートに興味があって、見学したいのだという。二人は同じクラスの友人同士ということだったが、皆川はキャピキャピ系、渡辺は大人しい系と随分と性格の違う二人だった。
「二人とも入部してくれるといいね」
尚人は、今日の討論内容のまとめをしている清田に声をかける。ディベート活動で記録は大切な活動の一つ。毎日当番を決めて回しており、今日の当番が清田なのだ。もちろん英語で記録する。この活動も最初は四苦八苦。スペル間違いも大量にあったらしいが、今では「随分マシになった」と清田は言う。それでも、いまだ活動時間内に書き終わらない清田は、尚人が最初に記録当番をした時に、活動終了時に全て書き終わっていたことにものすごく感動していた。
「マジかよ、篠宮。って、筆記も綺麗だし! なんか記録ノートが一気に格式高くなった感じじゃんか」
そんなに感動されるとは思っていなかった尚人がきょとんとすると、清田は苦笑して
「篠宮は何気に凄いことをさらっとやっちゃうって聞いてたけど、マジだな」
と呟いた。
「……それ、誰情報?」
「もちろん、中野」
清田と中野は今同じクラスだ。
「あー、まぁ。部員が増えるのはいいことだろうけど」
清田は呟いてちらりと視線をあげる。
女子三人で盛り上がっている。いや、正確に言うと、皆川と杉本の二人が盛り上がっている横で渡辺は聞き役に徹しているが。
「なべっち、実はすでに英検準二級持ってるんですよ。あ、なべっちってこの子のあだ名で、普段なべっちって呼んでるんです」
皆川が親しげに渡辺の肩にポンと手を置く。しかしそれに対する渡辺はほぼ無反応で。そんな二人の温度差は見るからに明らかだ。
押しの強い皆川に渡辺は引っ張られて来ただけ。そんな雰囲気ありありだが、それでも尚人は何となく、互いに気の合う部分のある二人なんだろうと思った。
「そうなんだ。じゃあ、私もそう呼んでいい?」
「え、あの。……はい」
「一年生ですでに準二級ってすごいね」
杉本が気さくに声を掛ければ、渡辺は俯き加減のまま小さく返す。
「……いえ、そうでもないです。……日常会話、できませんし」
「英語って、使ってなんぼだからねー」
「あ、やっぱりそうなんですか?」
「うん。日常的に使ってないと言葉がとっさに出てこないもん」
「私も先輩方みたいに英語ペラペラになりたいです。でも、英語ってなかなか日常で使う場面ないですよね?」
「まあねぇ。道端で外国人見かけたからって、いきなり英語で話しかけても不審者だしね」
「そうなんですよねぇ。杉本先輩はどうやって喋れるようになったんですか?」
「私は完全に部活でだね。坂下先生に鍛えてもらったから」
「じゃあ、ディベート部に入れば、私も先輩方のようになれますか?」
「まあ、努力次第かな。あと、一応言っとくけど、うちディベート部じゃなくて弁論部だから。日本語弁論の方も活動あるからね。英会話の活動は即興英語ディベート大会に出るために、あくまで有志でやってるだけ。今は私と清田くんの二人だけだし」
「え、あの。じゃあ、篠宮先輩は?」
尚人は一年生の口から自分の名前が出てきたことに少し驚いた。一年生は自己紹介したが、こちらは自己紹介しなかったからだ。まあ、昨年あれだけ世間を騒がせたのだから、あのMASAKIの弟である『篠宮』という名前の先輩が在籍しているということくらい新入生だって知っているかもしれないが。顔ばれしていることが少しだけ意外だった。
「即興英語ディベート大会に出場するのにメンバー足りなくて、拝み倒して参加してもらっている臨時部員」
「へぇ。そうだったんですね。……あの、じゃあ。篠宮先輩は、どうやって英語喋れるようになったんですか?」
皆川の視線が尚人に向く。
それで尚人は、皆川に視線を向けた。
「普通に、独学で」
尚人が答えると、皆川は興味津々と言った感じで軽く身を乗り出した。
「独学って、どんな勉強の仕方ですか?」
「ひたすら、読んで、書いて、聞いて。あとは、洋画を字幕なしで見たり」
「へぇ。それで英語ペラペラになるんですね。先輩の英語が一番聞き取りやすかったです。すごく発音が綺麗で、耳馴染みがいいっていうか」
「あ、わかるー。篠宮くんの英語って全く癖がないもんね」
また女子三人での会話に戻る。尚人はそのタイミングで、清田に「じゃあ、お先に」と声を掛けると教室を後にした。
その背を皆川が視線で追っていたことなど、尚人は気づきもしなかった。
* * *
翌日、一年二組の教室。
皆川が登校すると、すぐさま親友の伊藤朱音が駆け寄ってきた。
「アコ。あんた昨日、本当に弁論部見学に行ったの?」
その表情も声音も好奇心丸出し。
そんな伊藤に皆川は、自分の席に鞄を置いてにこりと笑う。
「当たり前じゃん。行くって言ったでしょ?」
「弁論部なんてかたそーな部活、あんた絶対向いてないじゃん」
「なんでよ」
皆川はわずかに目を眇めて見せたが、伊藤のこういう歯に衣着せぬ物言いが実は結構好きだ。
「––って、まあ正直、弁論には興味ないけど。英語ペラペラ喋れるようになったらかっこいいじゃん。私、将来グローバルな仕事したいし」
「とか言ってさ。本当のところは、篠宮先輩狙いなわけでしょ?」
「まあね」
皆川は笑う。
「一年と三年じゃ、同じ部活にでも入んないと接点ないし」
「で、昨日は篠宮先輩と接近できたわけ?」
伊藤の問いかけに、皆川は思わせぶりにふふっと笑った。
「もちろん。少しだけど、話もしたし」
「おお! さすがアコ。やること早いね」
伊藤が軽く目を見張る。
そんな伊藤に皆川は、小さく肩をすくめた。
「まあ、ほんとに、ちょっとだけなんだけどね」
「それでもすごいよ。私がいつも感心するのはさ。アコのその、有言実行する行動力と、思い立ったが吉日とばかりの速攻性だよ。で、正式入部するの?」
「んー、そこはまだ保留かな。篠宮先輩、どうやら弁論部の正式部員じゃないらしいし」
皆川はそう言いつつ、席に座って鞄から筆記用具と朝課外のテキストを取り出す。伊藤は、まだ来ていない皆川の前の席に座ってわずかに首を傾げた。
「それって、どういうこと?」
「即興英語ディベート大会に出るのにメンバーが足りなくて。それで、篠宮先輩にお願いして臨時部員になってもらってるんだって」
「へぇ。篠宮先輩って、そんなに英語できるんだ」
伊藤が感心したように呟く。
皆川は、昨日のことを思い出しながら頷いた。
「ペラペラだった。めっちゃ発音も綺麗だったし」
「じゃあ、あの噂って本当なのかな」
「噂って?」
「去年京都で、カップルガイドってのが話題になったの知ってる?」
「あー、聞いたことある。外国人観光客相手に歴女の説明を完璧に通訳する高校生カップルの正体が実は修学旅行中の翔南高校生だったって話でしょ?」
「そう、それ。最終的に学校ホームページにお騒がせしましたって謝罪文載せただけで該当生徒の名前は伏せられてたけど。それって篠宮先輩だったからだって。去年まで翔南にいた従姉妹に聞いたんだよね」
「へぇ。そうなんだ。それってやっぱり、先輩の名前出しちゃうと騒ぎになっちゃうから?」
「そうじゃない? それに、先輩のお兄さんがさ。ほら『うちの弟に手を出すな』って感じでマスコミ相手に超ガードしてたじゃん。だから、学校内でも篠宮先輩の名前を安易に出すのはまずいって雰囲気あったみたいだよ」
「へぇ」
呟いたところで渡辺が教室に入ってくるのが見えて、皆川は手を振った。
「あ、なべっち。おはよー! 今日も一緒に部活見学行こうね」
皆川の声に近くにいたクラスメイト数人がびっくりしたような顔をしたが、皆川はさっくり無視する。
前にいた伊藤がだけが、怪訝な顔をして皆川を小突いた。
「あんた、渡辺さん誘ったの?」
「うん。やっぱ一人は無理じゃん。それになべっちなら、いかにも弁論部って感じだし?」
「そもそも、あんたいつから渡辺さんのこと、なべっちなんて呼んでんのよ」
呆れたように呟く伊藤を横目に、
「そんなこと、どうでもいいじゃん」
皆川は軽く流すと、小さく返事を返した渡辺に笑顔でひらひらと手を振った。
皆川亜湖が篠宮尚人のことを知ったのは、自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害者の一人がカリスマモデルMASAKIの実弟だったとメディアが報じた時だ。名前は伏せられていたが、在籍する高校名は公表された。翔南高校に入学すればMASAKIの弟がいる、というのは皆川たちの学年で話題にならないはずがなかった。
「翔南に合格してMASAKIの弟と面識持ったらさ。MASAKIとも知り合いになっちゃうかもね」
それは半分夢物語で、半分本気で。それが理由かどうかは定かではないが、その年の翔南高校の入学倍率は例年より若干高めだった。
しかし、翔南高校は県下随一の進学校で、希望すれば入れるという高校ではない。皆川が翔南を受験した理由も、MASAKIの弟を見てみたい、というミーハーなものでは当然なく、将来は有名大学に進学してグローバルな仕事がしたいという夢実現のためである。
しかし、入学すればどうしても『先輩にMASAKIの弟がいる』という事実を意識せずにはいられなかった。
最初は、どの人が『篠宮尚人』なのか、確認できればいい程度の軽い興味だった。しかし学年が違えばその確認さえ簡単ではない。教室は知っていてもまさか直接訪ねるわけにはいかないし、靴箱前で待ち伏せは目立ちすぎる。それで皆川は、自転車通学の『篠宮尚人』を見つけるために、駐輪場が見える渡り廊下で朝夕の時間を過ごす生活をしばらく続けた。
入学してすぐに仲良くなった伊藤は呆れて、二つ上にいたという従姉妹情報から
「MASAKIには似てないらしいよ」
としきりに言っていたが、皆川にとっては別に、似てる似てないは問題ではなかった。
単に見てみたい。
それだけの興味なのだから。
そうして観察を始めてすぐに、皆川は一人の気になる男子生徒を見つけた。
見つけた、というより目が引きつけられた、と言う方が正しい。人混みの中にあっても、その男子生徒だけ妙に目を引いたからだ。
最初はその理由がわからなかった。綺麗な顔はしていた。クラスの男子とは全然違う、品みたいなものもあった。一人の時もあれば、二人か三人と連れ立っている時もあって、そのどちらでも、その男子生徒の放つ雰囲気は変わらなかった。
凛として、しなやか。
華やかさはないが、独特な穏やかさがある。
やがて、歩き方が綺麗なのだと気が付いた。
今まで人の歩き方など気にしたことはなかったが、よくよく見れば皆、大小違いはあれど、前傾姿勢になっているか、体軸を揺らしながら歩いている。そのなかで、真っ直ぐ綺麗に歩くのだ。それが不自然ではなく、とても自然に。
あの人は誰だろう。
そう思っていたら知ったのだ。その人こそ『篠宮尚人』だということに。
すごく衝撃だった。
カリスマモデルMASAKIとは全然似ていない、というのは伊藤の言う通りだったが、世間にだだ漏れの悲惨な子供時代を感じさせるものが何もなかったからだ。
気になる男子生徒が『篠宮尚人』と知る前は、
「絶対良家のおぼっちゃまだよね」
と思っていたくらいだ。
皆川亜湖が篠宮尚人に本当の意味で興味を持ったのはそれからだ。興味は恋心とリンクした。校舎を飾った幔幕の『高校生即興英語ディベート大会 全国大会初出場』のメンバーの一人が篠宮尚人と知った時、皆川はもうじっとしてはいられなくなったのである。まずは部活見学。と思いはしたものの、さすがに一人は心許ない。仲良しの伊藤はすでにバドミントン部に所属している。それでクラスで一番英語が得意そうな渡辺に声を掛けたのだ。渡辺は大人しい性格で、クラス内でも一人でいることが多い。昼休みはよく読書をしていて、一度渡辺が読んでいた本が気になって声を掛けたことがあるが、その程度の関係だ。しかし、皆川が部見学に誘うと意外にもすんなりOKした。ひょっとすると渡辺も、前々から英語ディベートに興味があったのかもしれない。ただ、皆川にとってそれはどうでもいいことだった。三年生しかいないメンバーの中で一年生が自分一人というのは辛い。その程度のことだ。ただ、昨日の感じでは、杉本はすごくフレンドリーで喋りやすかったし、弁論部全体で見れば一年生も数人いた。もう少し場に馴染めば渡辺がいなくても大丈夫だろう。それに、皆川の主目的は篠宮尚人と個人的に仲良くなることで、その目的さえ達成できれば部活にこだわる理由はない。
(あー、せめて帰る方向が一緒だったらなぁ)
部活帰りに一緒に帰りませんかと声を掛けて、ぐっと一気に仲良くなれるのに。まさかの正門を出てすぐに真反対だ。それに、大会までひと月を切っている。篠宮尚人が大会に出るための臨時部員である以上、大会が終われば部活に顔を出すことはなくなるだろう。それでなくとも三年生は、最後の大会が終われば引退するのが普通だ。
(ぼんやりしてられないよね)
皆川は心の中でそっと呟く。
しかし、何かいい方法が思いつくわけでもなく、今のところは、一週間が期限という部見学に行くことくらいだ。
朝課外の始まりを知らせるチャイムが鳴ったのは、その時だった。