尚人の部屋のベッドの上で胡座をかいてメールチェックをしていた雅紀は、ふとあることを思い出して、PCを操作する手を止めた。
––高校の三者面談の時期って、いつ頃だっけ?
尚人はこの春三年生に進級した。高校最後の年。当然、進路決定に向けた三者面談があるはずだが、尚人がその話を話題にしたことがまだない。
中学生であるならば、高校受験は当たり前で、進路選択イコール志望校をどこにするか、という話にしかならないが、高校生ともなればその先の進路は多様だ。尚人が通う翔南高校は県下随一の進学校で、その進路はほぼ100%有名大学進学だと聞いてはいるが、だからと言って尚人がその選択をするとは限らない。
––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。
––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。
中学生の時、尚人がふと漏らしたセリフが脳裏によぎって雅紀は顔をしかめる。
家族の絆が砕け散り、家の中の空気が重く淀んで、誰もが自分のことだけに精一杯だった時、一人何の自己主張もせず、黙々と家事をこなしているだけに見えた尚人は、実は静かに決意を固めていたのだ。その事実を知った時、雅紀は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。
しかもその決意は、具体的な行動を伴っていた。
––学生の時に取れる資格は取っておいたほうが、就職の時に有利になるかと思って。
そんな考えのもと受け続けていた英検は、今では一級である。それだけで就職先が見つかるだろうと思える十分な資格だ。
それでなくとも現状、すでに尚人を虎視淡々と狙っている者たちがいる。
アパレルブランド、ヴァンスのチーフデザイナーであるクリストファー・ナイブスは、尚人を自社専属のモデルにしたがっているし、アズラエルの統括マネージャーである高倉も、バイト要員の既成事実を積み上げて自社に引っ張り込もうと画策しているとしか思えない。
そして一番厄介なのが、加々美が尚人に興味津々なことだ。
雅紀は、加々美にだけは頭が上がらない。いまだ超えることができない壁でもある。その加々美が、尚人の素質に惚れ込み、後見役になるとの提案までしてきたのだ。加々美は本気だろう。雅紀は、誰にも尚人を託したくないという本心を告げて断ったが、加々美は雅紀のそんな想いを尊重しながらも、人たらしの本領を発揮してくるかもしれない。なにせ、モデルになる気など全くなかった雅紀が、気づけば加々美の誘いに乗ってモデルの世界に足を踏み入れていたくらいだ。
いかなるスキャンダルとも無縁の王道を行くメンズモデル界の帝王は、色気と愛嬌、寛容と貫禄、気軽さと厳しさを併せ持つ、真の色男。どれをとっても、雅紀の遥か上をいく。その加々美に尚人の良さを褒められるのは嬉しい。けれども、尚人には自分以外の誰をも魅了して欲しくはないジレンマ。尚人が結構無自覚な人たらしだと気が付いた昨今、雅紀の密かな嫉妬心は抑え難くなってきている。
雅紀は、尚人には大学に進学して欲しいと思っている。自分が行きたくても行けなかったから、ということもあるが、これから先尚人には本当にしたいと思うことを思う存分させてやりたいのだ。
不倫して父親が家から出て行った時、尚人は小学六年生だった。それからずっと家事は尚人が負うべき役目になった。学業と家事。その狭い世界に尚人は押し込められた。––いや、自分が押し込めたのだ。結果論であったとしても。
家事はある意味やって当たり前のところがある。朝昼晩と飯が出てくるのが当たり前で、洗濯物はすぐに洗濯されてきれいに畳まれているのが当たり前で、家の中は定期的に掃除されているのが当たり前で、石鹸やシャンプーやトイレットペーパーなどは補充されているのが当たり前で、その当たり前を維持することがどれほど大変なことか、一緒に住んでいても意識しない、それさえもが当たり前だったりする。
実は雅紀も、最初は母の心配ばかりに目がむき、次に現実的な問題に対処するのに必死で、その内仕事にかこつけて現実から目を背けていたがゆえに、尚人にどれほどの負担をかけているのか、想像すらしていなかった。
雅紀がそれを意識するようになったのは、皮肉にも遊び仲間達との酒の席での会話である。
「実家にいた時は一人暮らしって超憧れてたけどさ、実際始めたらけっこう色々面倒くさいよな。全部自分でしなきゃだし」
「わかるー。疲れて帰っても、勝手に飯が出てきたりしねーし。朝使った皿とか、シンクにそのまんまだし」
「洗濯物もさ。カゴに溢れて、気づいたら着る服ねーの」
「俺も、よくそれある」
仲間たちが一人暮らしあるあるを言い合って、けたけたと笑い合う。それを聞きながら雅紀は、自分がそんな思いをしたことが一回もないことに気が付いた。
家に帰れば当然飯がある。それも食べ慣れた自分好みの味だ。帰る、と言ってさえいれば、尚人はどんなに帰りが遅くなっても雅紀の分の食事を用意しているし、昼近くに起きても朝昼兼用に準備された弁当が置いてある。時には、ちょっとした夜食用やつまみ用とおぼしき物が冷蔵庫に入っていることもあり、そんな時は仕事で疲れていることが多く、雅紀は冷えたビールと共に遠慮なく頂いていた。洗濯物も脱衣所のカゴに放り込んでおけば、翌日には綺麗に畳まれて部屋に置いてある。掃除も行き届いており、家の中の埃が気になったことなど一度もない。庭の雑草も「随分伸びてるな。まあ、夏だし」と思っていると、次目にした時には綺麗に引いてあるのが常であった。
その全てを尚人は、学業の合間に一人やっていたのだ。雅紀は、自分が中学生の時には、朝練夕練が当たり前の部活動に明け暮れる忙しい日々を送っていたが、家では、家事などたまにするお手伝い程度で案外ゆっくり過ごしていたように思う。いや、家でのゆっくりした時間があったから、学業とハードな部活動をこなすことができていたのだ。いわゆる家族の支えがあって、というやつだ。
では、孤軍奮闘している尚人は? 誰に支えられているのか。
ふと、それを意識した時、雅紀はとんでもない罪悪感に襲われた。なのに尚人には労わりの言葉も感謝の言葉も掛けることが出来なかった。尚人への邪な想いを自覚して、その想いを押さえ込むのに必死で、屈託のない笑顔を返されたらその必死に抑えている想いを抑え続けられなくなるのが怖くて、そんな想いを自分にさせる尚人が腹立たしくて、結局現実から目を背け続けたのだ。
雅紀にとっては、思い返すだけで胸焼けする苦い記憶である。そして、尚人を孤独へ追い込んだそのつけは、雅紀自信、思わぬ形で払う羽目になった。
中学の進路選択。尚人は雅紀に相談することなく志望校を決めていた。その三者面談は、雅紀の頭を飛び越えて加門の祖母へ話が行っていた。三者面談の希望日提出期間と雅紀の海外ロケが丸かぶりしていたと後から聞いたが、それでも保護者を自認していたのに尚人にさっくり無視されたようで腹立たしくてならなかった。
志望校合格後は、何の相談もないままに、片道五十分もかかる道のりを自転車通学をすると一人勝手に決めていた。雅紀は密かに、翔南高校までの通学方法調べて検討していたのだ。定期代がどれくらい掛かるかも含めて。それなのに、である。仕事に逃げて尚人を無視していたのは自分なのに、腹立たしくて「勝手にしろ」と言い捨てた。その時の尚人の寂しげな笑顔がぐさりと雅紀の胸を抉って、自分の吐いた言葉を後悔して自家中毒を起こしそうだった。その時も、いたたまれずに自分の部屋へ逃げ込んだのだ。
あれから雅紀と尚人の関係は変わった。秘めていた想いを全て吐き出して、心も体も繋げている。雅紀の歪んだ愛情に最初は怯んでいた尚人も、今では受け入れてくれている。
「まーちゃんが好き」
というその言葉も、子供の頃とは意味が変質しているはずだと思いたい。
それでも時々、尚人が実は兄妹弟の中でも負けず劣らずの強情で、一度こうと決めればてこでも動かない性格の持ち主だと思い出して不安になるのだ。
––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。
––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。
あの時のあの決断は、ちゃんと覆っているのだろうか、と。
雅紀は視線を上げて、机に向かって勉強に集中している尚人の背中を見つめた。受験生のはずの尚人の邪魔をしたくなくて、でも少しでも尚人と一緒に居たくて、雅紀は最近、尚人の勉強中はこうして尚人の部屋でメールチェックをしたり仕事用の資料を読んだりしながら静かに過ごしている。
視界に尚人の姿が入るだけで安心する。心が満ちるのがわかる。本当は今すぐにでも抱きしめて頭のてっぺんにキスし、耳たぶを食んでくすぐったげにくすめた首筋を舐め、そのまま唇を重ねて歯列を割り、差し込んだ舌で口内を思う存分蹂躙したいが、我慢して尚人の勉強が終わるのをじっと待っている。その待っている時間に、勉強が終わったら尚人をどうしてやろうかと頭の中で好き放題妄想するのが近頃雅紀が覚えた楽しみだ。待たされた分、セックスは濃厚さを増し、痺れるような快楽はより深くなった。だから、こうして尚人の勉強が終わるのをじっと待っている時間も雅紀は苦ではない。
だが今は、ふと思い出したことがどうにも気になって、妄想を楽しむどころではなかった。疑念をすぐにでも解消したくて、雅紀は尚人が振り向きはしないかと熱い視線をその背に送る。が、集中力半端ない尚人の背中は身動ぎさえしない。それが何となく腹立たしくて雅紀は顔をしかめた。
自分勝手すぎる、という自覚は十分すぎるほどありながら。
だから雅紀は、数分後、尚人の背中が揺らいで尚人が大きく伸びをした時、すぐさま歩み寄って背後から力一杯尚人を抱きしめたのだ。予想通り尚人のほっそりとした体がびくりと反応して、雅紀はうっそりと笑う。
尚人は、背後から急に体を触られるのが好きではない。それは、ぐでんぐでんに酔っ払った雅紀に何の労りもないまま後蕾に熱く猛った物を突っ込まれた時の痛みと
それを知っていながら、あえてトラウマを刺激するような事をしたのは、思い通りの反応が返ると自分が尚人をコントロールしている気になって満足するからだ。歪んでいる。そんなこと、雅紀は十分すぎるぐらい自覚していた。
そして雅紀は、驚かせたお詫びとばかりに甘いキスをする。尚人が大好きなバードキスだ。角度を変えて何度も唇をついばんでやる。そうしている内に尚人の体温が上がってくるのを感じる。快感が刺激され感情が
「まー、ちゃん」
雅紀が満足して尚人を解放した時、尚人は息も絶え絶えだった。隠微に潤んだ瞳が雅紀を見つめる。それに雅紀の下腹部は刺激され、熱く立ち上がって脈動を始めた。このまま押し倒してしまおうか、と思わなくもなかったが、それよりも先に疑念を解消しなければならない。
「ねえ、ナオ。三者面談の連絡ってまだ?」
雅紀が口にすると、
「三者面談?」
虚を突かれたように尚人の双眸に驚きが浮かんだ。「いきなり何?」と、言いたげだ。
「三年生なんだから、そのうちあるだろう? 年間予定とかである程度時期が決まってるなら聞いとこうと思って。その方がスケジュール調整もしやすいし」
「んー、どうだったかな」
尚人はそう呟くと棚からファイルを取り出して広げた。どうやら学校からのお知らせを綴っているファイルらしい。きれいにインデックスの貼られたプリントの中から尚人はすぐさま年間行事を見つけ出して目を通す。
「年間計画の中には載ってないかな。こないだ、二者面談ならあったけど」
「二者面談?」
「一週間5・6限の授業を自習にして、クラス全員、担任の先生と進路相談を兼ねた面談があったんだよ」
頬がピクリと反応して、雅紀はプリントに視線を落としたままの尚人の横顔をむっと睨んだ。
––なんだそれ、聞いてないし。
進路相談を兼ねた面談なんて、大事な話じゃないのか。
「それって、いつの話?」
「先、……先週だったかな?」
つまりは、二週間も前の話ということか。
「ナオ」
つい、声が尖る。すると尚人の口元が微かに引きつったのが分かった。声音で雅紀が何を言いたいのか察したのだろう。
「あの、……相談内容は進路だけに限らないって、先に説明があってたし。それに、その……。進路については、まだ決めきれてなくて」
尚人の声が尻すぼみに小さくなる。
––決めきれてない、ってどういう意味だよ。
就職先をどこにするか? それとも、就職試験を受けるか大学受験をするか? それとも、どの大学を受験するかってことで?
雅紀は、ベッドの端にどさりと座ると、机に向かったままの尚人に声をかけた。
「ナオ、こっち向いて。それって、大事な話だろう?」
雅紀の言葉に尚人がぎくしゃくと椅子ごと体を向ける。しょんぼりとしぼんだ表情が可愛すぎて、雅紀はむしゃぶり付きたい衝動に駆られたが、保護者を自認する兄としての務めを果たすことが先だとぐっと我慢した。
牡として尚人を抱くのは、この後ゆっくりすればいい。
「決めきれてない、ってことは、迷ってるってことだろう? 何をどう迷っているのか、聞かせて欲しいんだけど」
雅紀が促すと、尚人はわずかに上目遣いに雅紀を見た。
「卒業後の進路については、その……。企業を受けるか公務員試験を受けるかの二択で考えてたから、まーちゃんに去年大学受けていいって言われて、それから大学のこと調べ始めて。––正直、大学ってこんなにたくさんあるって知らなかったし、大学によって学べることが全然違うってことも、知らなくて」
どうやら大学受験を前提には考えているらしい。雅紀はほっと息をつく。
「つまり、大学が多すぎて迷っている?」
「うん。でも、多いって言っても、家から通える範囲とか、合格が見込めそうとか、そういうことを考えると、そんなに多くはないんだけど」
「ナオ、大学はナオが本当にやりたいことができるかって基準で選んでいいんだからな。都内の大学だって、電車を使えば通えるんだし」
何なら都内にマンションを借りたっていいのだ。尚人が承知するとは思えないが。
「うん。わかってる。––っていうか、一番悩んでるのがそこって言うか」
尚人は微かに言い淀むと、今度は雅紀の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺、この先もずっと、まーちゃんと一緒にいたい。だから、どうやったら、ずっと一緒にいられるんだろうって。お荷物なままじゃなくて、ちゃんと自分の足で立って、時にはまーちゃんの支えになってあげられる位の存在に、どうやったらなれるんだろうって。考えてるんだ。そのために、大学に行って何を学んだらいいんだろうって。……その答えが、なかなか見つからなくて」
雅紀は、尚人の告白にじんと胸が痺れた。自分が思っている以上に尚人が自分を思ってくれている事実に、体中が熱くなる。雅紀はもう我慢ができなくなって、尚人の腕を掴んで引っ張ると、膝の上に抱え込んでぎゅっと抱きしめた。
「ナオがそんなふうに考えてたなんて、すごくうれしい」
雅紀は、尚人の首筋に顔をうずめてささやく。
愛しくて、愛しくて、愛しくて、たまらない。一時は手放すしかないのかと考えたこともある。自分の歪んだ愛情で尚人を汚すのが怖くて。尚人に普通の未来を与えてやりたくて。それでも、手放せなくて。想いに蓋をし続けることが出来なくて。払っても払って湧き上がってくる欲情を無視出来なくて。
「俺は、ナオが傍にいてくれるだけで、何だって出来る気がするよ」
雅紀は、熱い熱い想いを込めて、尚人の唇に自分の唇を重ねた。