「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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一陣ノ風 8

『尚君、久しぶり。ちょっと会って話せないかなって思ってるんだけど。どうかな?』

 夏休みに入ってすぐ、久々に零から電話があった。智之が入院して以降、何度かメールでの連絡はあったものの「会って話がしたい」と言われることはなかったので、尚人はわずかに首を傾げた。

 ––何かあったのかな?

 しかし自分からは問わない。向こうから話す分には構わないが、余計なことに口を出さない。というのが、零と連絡を取る上で尚人が決めた線引きだからだ。

「日曜の午後なら大丈夫だけど」

 尚人が返すと、零からはそれでいいとの返事がある。それで尚人は約束の日曜日、零と会うときの定番になっている駅前に向かった。約束の時間より早めに着いたのは、せっかくなら再開発された駅前の大きな商業ビル内に入っている大型書店に寄ろうと思ったからだ。滅多に外出しない尚人は、最初ここで待ち合わせした時は、立ち並ぶ大きなビルの中にどんな店が入っているのか知りもしなかったが、その後、中野や山下と会話する中で、結構品揃えの良い大きな本屋があると知ったのだ。

 ––いつか行ってみよう。

 そう思っていたものの、なかなか時間が取れなかったし、無理やり時間を作ってまで行こうと思う程でもなかった。そういう意味では、零からの電話はちょうどいいきっかけだった。

 目当てのビルに入ると、真っ先に目に飛び込んできた巨大な吹き抜けホールとその正面のエスカレーターの規模の大きさに尚人は度肝を抜かれる。つくづく自分がこういう場所に慣れていないと実感させられながら、目当ての書店がどの階に入っているのか確認するため、インフォメーションボードへと歩み寄った。

(5階か)

 尚人は行き先を確認してエスカレーターに乗る。レディースファッションや時計宝飾などを扱う煌びやかな階を通過して目当ての5階へ来ると、そこはワンフロア全て書店だった。

(……すごい)

 予想外の規模の大きさに尚人は一瞬絶句する。自分がすごい田舎者になった気分だ。が、すぐさまワクワクが上回った。

 漫画、文庫本、新書、小説。それらが並ぶコーナーを抜けていくと、次に雑誌コーナーがある。ファッション紙以外にも、園芸、陶芸、裁縫、ホビー、料理などのほか、バイクや鉄道、カメラ、時計といったあらゆる趣味の雑誌が並ぶ。

(あ、まーちゃんだ)

 尚人は、雑誌の表紙に雅紀を見つけて思わず手に取る。

(はぁ。やっぱり、まーちゃん、かっこいい……)

 女性誌に載っている時はにっこり笑顔が多い気がするが、今手に取ったのが男性紙だからなのか、開いたページの雅紀は、キリッと引き締まった表情でさりげないポーズをとっているのが痺れるくらいにかっこいい。左手を顎に持ってきているのは、おそらく腕につけている時計を見せるためだろう。

(この腕時計、まーちゃんにすっごく似合ってる)

 そう思いつつ、雑誌の下に小さく表示されている時計の値段を見て、尚人は絶句する。尚人が預かる篠宮家の一年間の生活費の倍以上もする金額だ。つまりは、二年間尚人たちが飲まず食わず我慢しても買えない金額の時計だということで。

(すごい……)

 尚人的に、それしか言いようがなかった。

 尚人は雑誌を棚に戻し、さらに奥へ進む。美術書、歴史書、専門書などの書棚が並ぶ。

(あ、洋書コーナーもあるんだ)

 尚人は引き寄せられるように歩み寄って、適当に一冊手に取った。流石に近所の小さな本屋では洋書の扱いはないし、図書館もそんなに品揃え豊かではない。小説以外にもビジネス書や経済誌などそこそこ豊富に並んでいるのは、近隣に住む外国人のためなのだろう。数人の外国人が立ち読みをしていた。

(これ面白い。買おうかな)

 尚人は手に取った雑誌の値段を確かめる。手持ちで十分買える値段だ。時間を確認すれば、そろそろ零との待ち合わせ場所へ行かなければいけない。尚人は雑誌を手にレジへ向かう。その途中、参考書のコーナーに見覚えのある姿を見かけて尚人は足を止めた。

(……あれって)

 間違いない。清田と皆川だ。私服姿なのだから、きっと二人で待ち合わせしてここにいるのだろう。真面目な雰囲気で参考書を選んでいるが、日曜にわざわざ二人でいるということは、そう言うことなのだろう。

(邪魔しちゃ悪いよね)

 尚人は、声を掛けずにそのままレジへと向かった。

 

 

 * * *

 

 

 日曜日、零は朝からずっとワクワクそわそわした気持ちが止まらなかった。久しぶりに尚人に会える。そう思うだけで、気持ちが高揚した。尚人との待ち合わせ時間になるのが待ち遠しくて、零は早めに家を出た。

 尚人に最後に会ったのは、去年の十二月、尚人から修学旅行のお土産をもらった時だ。その後は、大学受験本番が直前に迫り「ちょっと息抜き」何て言っている余裕は無くなったし、無事に大学に合格した後は、家計を助けるためすぐさまアルバイトを始め、零自身忙しかった。雅紀からの支援のおかげで(智之)の入院費用の心配はなかったが、母のパート収入だけではじわりじわりと家計を蝕む。特に、スポーツ特待で高校に入ったわけではない()の部活費はかなりの負担だったが、母も零も、瑛に部活をやめて欲しいとは思っていなかった。周囲の誰も彼もを敵と思い込んでいる瑛にとって、野球は今、唯一瑛を支えているものだというのは二人の目に明らかだったし、少しずつ調子の良くなってきた智之が、瑛の頑張りを楽しそうに聞いているのが回復の手助けになっているように思えたからだ。

 半年前は、どうなるのだろうという先行きの不安しかなかったが、少しずつ好転し始めている。尚人という心の支えや、雅紀からの金銭的援助がなければ、今頃どうなっていたか。それを思うと、従兄弟たちには感謝しかない。それが零の偽らざる本音である。が、瑛はまだ相変わらず従兄弟たちを敵視している。母が折々に雅紀に電話を入れ、智之の回復状況の報告と合わせて金銭的援助に対する感謝を伝えているのを耳にするたびに、

「そもそもあいつらの親父(おやじ)が元凶なのにさ。そんなに何回も礼を言う必要なんてあるのかよ」

 と愚痴り、それを(たしな)めると、

「それともあいつら、しつこく礼を言わなきゃ、マスコミに『援助してやったのに礼も言わない』と垂れ流すとでも脅してきてるのかよ」

 とまで言う始末だ。もはや何をいっても瑛の敵愾心は拭えない。そう悟った母は、瑛のそんな物言いに何も言わなくなった。零も同じだ。互いに不快にしかならないのなら、言いたくもない。が、瑛はそんな空気を読み取って、ますます(かたく)なになる。もう半年以上、零と瑛はまともに口を利いていない。そもそも、大学生になってバイトも始めた零と、朝練夕練が当たり前のハードな部活動をしている高校生の瑛とでは、生活時間にかなりのズレが生じ、そもそも顔を合わせる機会が減ったということも理由ではあるのだが。

 どうして瑛は、いつまでもああなのか。瑛のあの態度さえなくなれば、家の中の空気はもっとずっと良くなるのに、と零は思わずにはいられない。父は順調に回復してきている。そのことに母は安堵し、母の精神的負担が軽くなっているのがわかる。だから、あとは瑛だけなのだ。それを思うと、零のやるせなさは積もる一方だった。

「お待たせ、零君」

 声を掛けられ、零はハッと我に返る。振り向くと私服姿の尚人が立っていた。白シャツにライトグレーのスリムパンツという大人しめの格好だが、尚人のほっそりとした体のラインがさりげなく強調されていて、とてもよく似合っている。しかもシャツのボタン糸が青で、差し色の使い方がなかなかおしゃれだ。

「あ、尚君。久しぶり」

「うん。久しぶり。やっぱり、大学生になると、ちょっと雰囲気違うね」

「そう?」

「うん。去年会ったときより大人っぽい」

 尚人にニコニコ顔でそう言われると、くすぐったくも素直に嬉しいと思える。

 零の中に(くすぶ)っていた、モヤモヤとした気分が一気に吹き飛んだ。

「お昼食べた?」

「うん。軽くね。零君は?」

「俺は、まだ。尚君と食えば良いかって、思って来たから」

「じゃあ、どっかお店入る?」

「暑いし、そうしよっか」

 零は尚人と連れ立って、駅前のビルに入った。

「食いたいのもある?」

「うーん、特には。零君は? 零君の入りたいお店でいいよ」

「じゃあ、あそこにしようかな」

 零は、尚人を伴って地下へ降りる。実は、こういう展開になるだろうと思って下調べして来たのだ。リーズナブルで、ちょっと長居しても良さそうな洋食の店に入る。昼飯の時間帯が終わった頃で、席にはすぐに通された。

「奢るから、好きなもの頼んで」

 席に着いて零が言うと、尚人はびっくりした顔をした。

「そんな、悪いよ。俺、ちゃんとお金持ってるし、大丈夫だよ?」

 尚人のそんな様子が可愛らしくて、零はプッと吹き出す。

「俺が、尚君にご馳走したいんだよ。去年、辛かった時に尚君には本当に色々支えてもらったから。だから、バイトして自分で稼いだ金で、尚君にご馳走したいんだ」

 零が言うと、尚人は零を見つめたまま、それじゃあ、と言ってはにかむように笑った。

「お言葉に甘えて、ご馳走になろうかな。って、零君、本当に一気に大人になっちゃった感じ」

(それなら本当にいいんだけどね)

 零は、心の中でひとりごちる。

 こんな穏やかな気持ちで笑えるのは、相手が尚人だからだ。うつ病の父が入院したことで家の中の重く淀んでいた空気は薄まったが、その分、兄弟間のギスギスとした空気が濃厚になった。家の中で笑い声など絶えて久しい。

(尚君が弟だったら、よかったのにな)

 つい、そう思ってしまう。そう思ってしまうほどに、瑛の態度は頑なで、手を焼いている。しかし、それを言えば裕太だって相当手を焼いたはずだ。何せ、荒れまくった後は、中学時代の三年間全く学校へ行かず引きこもっていたのだから。

 ––刺々しい空気を周囲に撒き散らすくらいなら、いっそ、部屋に引きこもってくれた方がマシ。

 そう思って、零は自己嫌悪に陥る。

 そちらが良いなんてはず、ないのだから。

 引きこもりになれば、それが何年続くかわからない。将来どうなるのか。先行きの見通せない不安しかない。だから、零と母は二人とも、瑛の支えになっている野球を辞めさせようとは思っていないのだ。

 引きこもってくれた方がマシ、とつい思ってしまうのは、裕太が引きこもりをやめたと言う結果があるからだ。しかし、引きこもりを辞めたからと言って、裕太の将来的な心配が何もなくなった、ということはないはずだ。何せ、中学校に一日も通っていないのだ。学習の遅れは当然想定されることで、今のところ高校へも進学していないと聞いている。中卒でこの先どうなるか。普通だったら、お先真っ暗、と落胆するところだ。ただ千束の従兄弟たちには雅紀がついている。それだけで大きな励ましになるだろう。

 そんなことをつらつらと考えていると、真剣にメニューを眺めていた尚人が視線を上げた。

「決まった?」

「うん。これにしようかな。おすすめランチプレート」

「へぇ、色々載ってて、美味しそうだね」

「零君は、どれにする?」

「俺は、ガッツリ食べたいから、このオムライスランチセットにするよ」

 卓上ボタンを押して店員を呼び、注文する。ランチメニューにセットでついているドリンクバーから、それぞれ烏龍茶とジンジャーエールを注いできて、再び席に座った。

「尚君、今日、駅の反対側から来たみたいだったけど。電車で来たんじゃないの?」

 零は、少し気になっていたことを問いかける。零は、やって来る尚人を見逃さないように、改札の見える場所で尚人を待っていたのだ。

「あ、せっかくだから、本屋に寄ろうと思って早めに来たんだ」

「本屋って、このビルの5階に入ってる?」

「そう。結構大きな本屋が入ってるって話だけ聞いてて。いつか行ってみたいなって思ってたところだったから。––––で、実際行ってみたら、ワンフロア丸々本屋だったから、びっくりしちゃった」

(そうなんだ。だったら、先に言ってくれればよかったのに)

 そしたら、一緒に付き合ったのに、と零はつい思ってしまう。

「俺も、できたばっかりの時一回だけ行ったかな。大きすぎて、逆に捜したいものが見つからない、って感じで。それ以来行ってないけど」

「確かに、品揃えすごかった」

「何か買ったの?」

「うん。ちょっと気になった雑誌があったから」

「へぇ」

(尚君って、雑誌買ったりするんだ)

 興味がそそられる。

「どんなの買ったの? 見せてもらってもいい?」

「うん。いいけど」

 尚人は、カバンから書店名の印刷された手提げ袋を取り出す。その中から雑誌を出して零に渡した。

(あ、なんか(かた)そうな雑誌)

 雑誌と言えば、ファッション誌か趣味系の雑誌かと思っていたので、ちょっと意外だ。そして、パラパラっとめくって零は固まった。

(……って、これ。全文英語じゃん)

「尚君。普段からこんな雑誌読むの?」

「ううん。雑誌なんて滅多に買わないんだけど。ちょっとだけ立ち読みした時に、アメリカの経済ジャーナリストが、日本とアメリカの学校教育の違いに言及しながら今後の日米の経済的成長への私見を述べてる特集記事が面白いなって思って」

「へぇ……」

(衝動買いで、そんな雑誌買うんだ……)

 しかも英語の。

 どちらかと言えば英語が苦手な零は、尚人にそう説明されても

 ––そんなこと書いてあるんだ。

 と思う程度で、何が書いてあるのかさっぱりわからない。しかも、「学校教育」や「日米の経済成長」なんて堅いワードを出されて、それが「面白い」と言われてしまうと、自分とのレベルの違いをひしひしと感じずにはいられない。

 やっぱり、超進学校に通っていると、普段から気になるものが違うのだろうか。

「ねぇ、零君。大学ってどんな感じ? やっぱり、高校とは違う?」

 烏龍茶を一口飲んで、尚人が問いかける。尚人の方から質問してくるなど珍しく、零の沈みかけたテンションはそれだけで上がった。

「全然違う」

「どんなところが?」

「高校までって、授業の時間割って決まってて、自分で選べる授業って何個かの選択教科ぐらいでしょ。でも、大学は全部自分で時間割組むんだ。ただ、絶対取らなきゃいけない必修科目と進級に必要な単位数ってのが決まってるから、その辺のことは考えないといけないんだけど」

「それって、結構緊張するね。うっかり取り損ねてたってなったらどうなるの?」

「大学はすべて自己責任だから。単位取り損なって進級単位足りなかったら留年。ただ、大学は前期と後期に分かれてるから、前期のうっかりは後期でフォローできる場合もあるかな。ただ、前期にしか取れない授業、後期にしか取れない授業ってのもあるから。やっぱり、時間割組むときはしっかり考えないとやばい」

「そうなんだ」

 尚人が興味津々といった目を向けてくる。その姿が何とも微笑ましい。

「必修科目と必要単位数満たしてれば、あとは自由に授業取れるから。どの授業受けるか結構迷った。興味あるなし以外にも、この教授は厳しくてなかなか単位くれないって噂があったりすると、取るのやめとこうかなってなるし。バイトのシフトとの絡みで、この曜日は五限目に授業入れるのやめとこう、とかも考えたし」

「へぇ。大学って、そんなに自由なんだね」

「尚君は、志望校はもう決まったの?」

 零が問いかけると、尚人はわずかに乗り出していた身を引っ込めた。

「実は、まだ迷ってて」

 それは、珍しい。と思うのは、超進学校に通う尚人なら、もっと計画的に受験対策をしているように思っていたからだ。

「実は俺、高校卒業したら就職するつもりだったんだ」

 急な尚人の告白に、零はどきりとする。翔南高校に進学して、高卒で就職しようなんて思う生徒がいるのだろうか。

「俺が高校受験する時って、家の中が結構最低最悪の状態でさ。お互いにギスギスしてて。ほとんど口も利かなくて。それに、雅紀兄さんに負担かけてるのは明らかだったし。だから、自分のことは自分でどうにかしなきゃって、思ってて」

(そう、なんだ……)

 尚人の言葉に零は息を飲む。千束の従兄弟の家が、結構大変な思いをしたことは知っていても、実際どうだったのか、というのは知らない。塾には通えなくても、家事の一切を担っていても、翔南高校という超進学校に合格できたのだから、それなりの家庭環境は維持できていたのだとばかり勝手に思っていた。特に、尚人と雅紀は、互いに思いやり、労わりあいながら、二人手を携えて辛い時を乗り越えて来たのだろうと。子どもの頃、兄妹弟の中でも明らかに尚人ばかりを可愛がっていた雅紀の姿を見ていただけに、ドン底時代も、雅紀の尚人に対する態度は変わらず同じだったに違いないと思い込んでいたのだ。

「そしたら、去年、雅紀兄さんに大学受けていいって言ってもらって。それから大学のこと調べ始めたら、色々迷っちゃって」

「大学の二次試験って結構大学によって傾向違うから、志望校決めるのが遅くなると、受験対策も大変じゃない?」

「実は、そういうことすら最近まで知らなくって」

 尚人が苦笑する。本当に大学進学が頭になかったのだろう。

「でも、その辺は友達がいろいろ教えてくれて。結構みんな詳しいから、すっごく参考になった」

 まあ、そうだろう。それに翔南高校は、有名大学進学率ほぼ100%という噂だから、二次対策のノウハウなど学校側がいくらでも持っているだろう。

 会話が途切れたタイミングで、注文した料理が運ばれてくる。いただきます、と手を合わせ、零はホワイトソースのかかったオムライスを口に運んだ。

「実はね、父さん、今月末に退院できることになったんだ」

「そうなんだ」

「うん。退院って言っても、自宅療養に変わるってだけで、完治したってわけじゃないんだけど。これからは通院に切り替えて、少しずつ日常生活に馴染んでいく治療に切り替えていくって」

 零の説明に尚人が穏やかに微笑む。

「よかったね。智之おじさん、回復に向かってて。それが聞けて、俺も少し安心したよ」

「これも雅紀さんのおかげ。雅紀さんの援助がなかったら、俺たちだけでは入院させられなかったから」

「俺もね。お金の使い方の勉強になった。やっぱり雅紀兄さんって、すごいなって」

 そう言って尚人が笑う。その笑顔に、兄に対する絶対的な信頼と揺るぎない敬意が透けて見え、零は本気で従兄弟たちが羨ましくなった。

 どうして自分たち兄弟は、従兄弟たちのような関係が築けないのか。瑛のあの頑なな態度がほんの少し軟化するだけで改善するはずなのに。瑛の態度を軟化させる方法がわからない。実際に自分たちに害を与えたわけではない従兄弟たちを敵視し、金銭的援助を当たり前だと主張して感謝の気持ちすら見せない。今は家族の中でその態度は許容されているが、社会に出てそんな態度で通用するはずがない。ずっと野球をやってきた瑛は、むしろ零よりも実感を持ってそれがわかっていたはずだ。それなのに……

(って、俺。ずっと同じこと、ぐるぐる考えてるよな)

 零は密かに溜息をつく。

 本当は、思いの全てを尚人に明かして話を聞いてもらいたかったが、尚人を前にすると、そんなみっともない自分をさらけ出せなくて。年下の尚人に頼り切ってしまうのもカッコ悪くて。零はその後、他愛もない話に終始したのだった。

 

 

 * * *

 

 

 予定されていた仕事が一つキャンセルになって、雅紀はもう一泊する予定だったホテルをさっさと引き払うと、ジムで一時間ほど汗を流してから自宅へ帰った。

 日曜の午後三時過ぎ。てっきり家にいるものと思っていた尚人の姿がない。

 ––買い物か?

 とも思いつつ、雅紀は、扉を全開にしている裕太の部屋の前で足を止める。

「裕太。ナオは?」

 雅紀が声をかけると、こちらに背を向け、パソコン画面によくわからない記号を打ち込んでいた裕太は、どこかふてくされたような顔でチラリと振り返った。

 ––ホント、こいつって、かわいげがないよな。

 改めて思う。

「ナオちゃんなら、出かけた。智之叔父さんとこの、兄ちゃんの方と会うって言ったけど?」

「零君と?」

 そんな話、聞いてない。

 そう思って、つい気持ちがささくれる。

 一体いつの間に、会う約束などしていたのか。昨夜のおやすみコールの時も、そんな話は出なかった。

 一時期頻繁に鳴っていた零からの電話は、年明けあたりからぱたりと止んだ。零自身大学受験に専念する必要もあっただろうが、雅紀が智之の治療費を援助したことで負い目ができたからだ。と雅紀は思っている。これまでのように無邪気に尚人に甘えるなど出来ない心境になったはずだ。

 それに、治療費の心配はいらなくなっても生活費はまた別の話。麻子のパート収入だけで大学生と高校生の息子二人を養っていくのは大変だというのはわかり切ったことで、家計を助けるため、大学生になった零は、できる限りバイトをせざるを得ないだろう。それこそ「負い目」があるのだから、呑気に大学生ライフなんて送れるはずはないのだ。

 そんな雅紀の目論見通り、尚人の周りをチラつくウザい存在がいなくなって、雅紀は清清していた。

 それなのに……、である。

(智之叔父さんの退院が決まったからか?)

 それは、麻子から報告を受けていた。

 雅紀が智之の治療費を援助して以降、麻子はまめに雅紀に連絡を入れるようになった。智之の回復具合を報告し、治療費援助への感謝を述べる。多忙な雅紀に配慮するように、毎回二、三分程度の短い電話ではあるのだが、

 ––そんな頻繁に報告してこなくってもいいんだけど。

 というのが雅紀の本音だった。ただ、電話してくる麻子の心境も理解はできて、一応そつなく対応していた。麻子としては、義理を通しているつもりなのだろう。

 そんな定期的な麻子からの連絡で、「退院が決まった」と報告があったのが先週だ。近頃は随分と調子がいいような様子だったので、担当医から、自宅療養に切り替え、日常生活に馴染むための治療へと段階を進めいきましょう、という話が出たらしい。

「退院したからって、完治したってわけじゃないんだけど。一歩前進したことは確かで」

 電話の向こうからこぼれ落ちてくる麻子の声は、わずかに震えていて。

「ひとまず、よかったですね」

 雅紀がそう返すと、麻子の声ははっきりと涙に濡れた。

「ありがとう。雅紀ちゃん。本当に、ありがとう」

 ––それで、嬉々として尚人を呼び出したのか?

 あり得そうな話に、雅紀は思わず顔をしかめる。と、その時、裕太がじっと雅紀を見やっていることに気付いて、

「何だ?」

 問えば、裕太が溜息を吐きつつ肩を竦めた。

「雅紀にーちゃん、嫉妬が顔に出まくりだって。余裕ぶっこいて連絡取るの認めたのは、雅紀にーちゃんだろ」

 正論をかまされて、雅紀はさらにきつく眉根を寄せた。

 ––裕太のくせに生意気。

 なのだが、言い返す言葉もなくて。雅紀はそのままその場を立ち去った。

 

 

 尚人が帰宅したのは午後五時過ぎだった。

「あ、雅紀兄さん、帰ってたんだ」

「仕事が一つキャンセルになったから、とっとと帰ってきた」

 雅紀が玄関先で出迎えると、尚人がわずかに驚いたような表情をしたあと、にっこりと微笑む。その姿がとにかく可愛くて、思わず抱きしめてキスをする。以前は玄関先でのキスを嫌がっていた尚人だが、近頃は素直に受け入れるようになった。軽くついばむだけのキスでは物足りず、歯列を割って舌を絡ませる。溶け合うほどにキスを貪ってから尚人を解放すると、尚人の息はすっかり上がっていた。

「……まーちゃん、キス、深すぎ」

 熱を帯びた尚人の視線に煽られる。

(んー、このまま喰っちゃいたい)

 とは思ったが、晩飯前にそんなことをすれば、間違いなく裕太がブー垂れるだろう。そんなことは飯食ってからでいいだろう、とか何とか。

「今日の晩飯、何?」

「オムライスにしようかなって思ってるんだけど」

「珍しいな」

 尚人は料理上手で基本何でも作るが、メインは和食だ。もちろん洋食だろうが中華だろうが、尚人が作るものに文句があろうはずがない、というのは言うまでもない。

「昼に零君が食べてるの見て、何だか食べたくなっちゃって」

 ––何だ、それ。

 ほんの少し、雅紀のテンションが下がる。

 会っていただけでも何だか気持ちがささくれるのに、まさか一緒に飯まで食っていたとは。

「零君と、会ってたんだ?」

「うん。一昨日、急に連絡があって」

「何の用だったんだ?」

 問うと、尚人はほんの少し首を傾げた。

「何だったのかな? 智之叔父さんの退院が決まったって言ってたから、それを言いたかったのかも」

(その程度の話なら、電話で済むだろう)

 雅紀は思う。しかも、尚人が零の要件をはっきり認識できなかったということは、会って話した内容のメインが、それというわけでもなかった、ということだろう。

(てか、智之叔父さんの退院を口実に、ただナオに会いたかっただけなんじゃねーの)

 思わず穿ってしまう。いや、恐らくは、ほぼ正解の推論のはずだ。

「あ、お昼ご馳走になったから、それが用事だったのかも」

 ––は?

 それは何とも聞き捨てならない。

「バイトして自分で稼いだ金でご馳走したいって言われて。俺、びっくりしちゃったけど、こういうのは断るのも失礼かなって思って。なんか零君、大学生になって、一気に大人びちゃった感じだった」

 ––へぇ……。

(ってか、ナオを餌付けするためにバイトしてるわけじゃねーだろ)

 何だか腹が立つ。

 雅紀の中のもやもやとした気分は、尚人がせっせと晩ご飯を作っている最中も治まらなかった。ソファーに座って、キッチンに立つ尚人の姿を視姦しながらも、オムライスを作る尚人の頭の中に零の存在があると思うだけで不愉快だった。

 尚人の作るものに不満があるわけではない。その後ろにチラつく零の存在が不満なのだ。

 ––マジで目障り。

 零にはすでに一発かましているというのに、案外鈍いのかもしれない。

「はーい。お待たせー」

 尚人が食卓に出来た料理を並べる。その声に、雅紀はソファーから食卓の席へと移動する。

「裕太ー。ご飯できたよー」

 尚人が、裕太を呼びに行く。その一人になったわずかな時間。雅紀はうずく遣り場のない独占欲と悪戯心につき動かされた。

 You’re mine.

 尚人のオムライスにケチャップで書く。

 戻ってきた尚人は案の定驚いた顔をして。耳の先をほんのり赤く染めて。その姿に多少の溜飲を下げた雅紀だったが、雅紀の隣の席に座りながら、尚人が小さな声で可愛らしく、

 ––I hope so too.

 と答えると、雅紀の相好は一気に崩れたのだった。

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