「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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縹色(はなだいろ)ノ雲 1

 八月某日、午後四時。篠宮明仁は、少々の手土産を持って智之(末弟)の自宅を訪れた。

 昨年慶輔(次弟)の巻き起こした一連の騒動で、心労の末うつ病を発症した智之は、甥である雅紀の援助を受けて長らく入院治療を受けていたのだが、先月末にようやく退院できた。ただ、退院と言っても完治したわけではなく、通院が必要な自宅療養に切り替わっただけではあるが、それでも退院できたと言うことは症状が改善している証で、喜ばしいことには違いない。それで、退院祝いがてら一緒に晩飯でも食おうと言うことになって、明仁はこうして智之の家を訪れたのである。

「麻子さん、おじゃまするね」

「あら、お義兄(にい)さん。いらっしゃい。早かったんですね」

 玄関先で麻子の出迎えを受けて、明仁はリビングに通される。そこに智之が庭を眺めるように胡座(あぐら)を組んで座っていた。

「よう、明仁兄貴。久しぶりだな」

 元ラガーマンのその体は、この一年でかなり(しぼ)んだ。うつ症状の一つである食欲不振により、体重がみるみる落ちたのだ。これでも、一番最悪だった時よりは増えているのだが、特に智之がスポーツマンだっただけに細い腕が目に痛い。

 しかし明仁は、あえてそのことに触れなかった。冗談でも触れられない。それが正しい。

「どうだ、自宅での生活は?」

「やっぱり、病院より何倍も良いさ。落ち着くし、飯もうまい」

「そうか。––––だそうだよ、麻子さん」

 明仁が麻子を振り返ると、麻子は照れたように苦笑した。

「やーね、お義兄さん。病院食は単に味付けが薄いからですよ」

「口に合った味が一番ってことだろう」

「明仁叔父さん、いらっしゃい」

 リビングの賑やかさを聞きつけたのか、零が顔を覗かせる。大学生になった零は、しっかり麻子()の支えになっているようで頼もしい。子供の頃は虚弱体質で、外遊びがあまり得意ではなく、盆の集まりでも半分は寝込んでいるような感じだったが、今やしっかり者の長男だ。そんな零は、今年に入ってから明仁の書道教室に通い始めた。週一とはいえ、大学生になってバイトも始めて、忙しさからやめてしまうかもしれないと密かに思っていたが、しっかり続いている。時間を見つけて家でも練習をしているようで、少しずつだが上達していた。

「そうだ、零。今度書道コンクールがあるんだが、出してみないか?」

 明仁が声をかけると、零は苦笑した。

「やだな、明仁叔父さん。まだそんなのに出せるような腕前じゃないって」

「いや、こう言うのはな、コンクールに出すっていう目的を持つと、案外一気に上達したりするもんなんだ」

「そうなの?」

「ああ、それに、尚人もずいぶん頑張ってるようだし。お前も、チャレンジしてみたらどうだ? 知ってるか? 尚人が全国大会で優勝した話?」

「何それ?」

 驚いた表情の零を見て、明仁は持参した新聞を取り出す。

「ほら、ここ。即興英語ディベートの全国大会に出場して優勝したって。載ってるだろう?」

 零が興味津々といった様子で覗き込んでくる。麻子もその隣から誌面を覗き込んだ。記事には生徒の個人名の記載はなかったが、明仁達には、にこやかに写真に写る翔南高校生のメンバーの一人が尚人であることは一目瞭然だった。

「……本当だ」

「まあ、尚人ちゃん。すごいのね」

「新聞で記事見つけて、びっくりしてさ。尚人がディベートできるくらいにペラペラ英語喋るなんて思いもしなかったし。––––で、一言お祝い言おうと、すぐ千束の家に電話を入れたんだが、雅紀も尚人も実に淡々としてるって言うか、冷静っていうか。何か、興奮して電話した俺の方が恥ずかしくなる感じでさ」

「尚君、対応が大人だもんね」

「今も時々会ってるのか?」

 盆で帰省すると、零と尚人は結構べったりくっついていた。その二人が、仲良く一緒に明仁の書道展を見に来ていたと知ったのは昨年のことだ。長らく途絶えていた交流が復活したことに、明仁は密かな喜びを感じていた。大人たちはどうあれ、従兄弟同士仲良くすることは悪いことではない。

「この間、久々に会った。その時尚君英語雑誌持っててさ。書いてある内容が日米の学校教育の違いに見る経済成長とかって言うし。すっごいの読んでるなって思ってたんだけど。きっと、ディベート大会に出るための勉強だったんだね」

 誌面には、予選から決勝まで翔南高校がディベートした論題とその時のジャッジも紹介されている。圧巻なのは決勝で9−0で勝利していることで、大会初のことらしい。大会に出場したメンバーの内二人は一年生の時からチャレンジしており、最後の出場となる今年は、メンバーが足りず英検一級を持つ同級生を誘って大会に臨んだと書いてある。

「この英検一級って、尚君のことかな?」

「どうやらそうらしい。勉強はできるんだろうとは思ってたけど、まさか英検一級持ってたとはな。あれだろ。英検一級ってネイディブでも取れないって話なんだろう?」

「そう聞くね」

「何かお祝いしたほうがいいかしら?」

「あまり気を使うと、向こうも返って負担かもしれないから。何かの折におめでとうの一言でいいんじゃないかな」

 実は明仁も何かお祝いをしようかと考えたのだ。しかし、食事の誘いは「受験生なので」と時間が裂けないことを理由にやんわり断られ、物を贈るのは「その気持ちだけで十分嬉しいです」と丁寧に断られた。

「そういえば、瑛は?」

「まだ、部活なんです」

「そっか。そういえば、瑛は残念だったな。あと一勝で甲子園だったのに」

「ええ、本当に。決勝戦は、主人も外出許可とって応援に駆けつけたんですけど。逆転負けですもんね。あの子も、相当悔しかったみたいで」

「まあ、なぁ。二点差をひっくり返されたからな。でも、瑛は来年もあるんだし。楽しみだよなぁ」

「明仁兄貴、早いけど始めようぜ」

 智之が冷蔵庫から缶ビールを運んでくる。

「飲んでもいいのか?」

 明仁が確認すると、智之はさほど表情を動かさずにうなずいた。

「ほどほどなら構わないって、医者に言われてる」

「そうか」

 その言葉に明仁は手渡された缶ビールのプルタブを開けた。

 特に言葉もなく、軽く缶をぶつけて乾杯する。

 少しずつだが色々なことが好転している感覚に、明仁は小さな喜びを感じていた。

 

 

 * * *

 

 

 瑛が部活を終えて帰宅すると、家の中に珍しく話し声が響いていた。

(あいつ来るの、今日だったっけ)

 瑛は、明仁(叔父)智之()の退院祝いを兼ねた食事会に来ると、母に告げられていたことを思い出す。その話を聞いた時、瑛の中に沸き起こったのは嫌悪だ。

 そもそも智之()がこうなってしまった原因の一端は、明仁にもある。瑛はそう思っている。なぜなら、慶輔が暴露本を出した時、智之()は最初長兄である明仁に相談に行ったのに、明仁は動かなかった。だからだ。明仁には、篠宮家の長男として、慶輔の兄として、事態の収拾に動くべき責任があったはずなのに、明仁はその責任を放棄した。それで仕方なく智之()が動かざるを得なくなったのだ。それでこんなことになってしまった。それは明確な事実で、智之()は、責任感の強さゆえに貧乏くじをひかされたのだ。

 智之はようやく退院できたが、完治したわけではない。これからも通院治療が必要で、仕事復帰はまだ見通しが立たない。なにより、痩せ細ったその姿がショックで、瑛は父が家に帰ってきても全然喜べなかった。

 それなのに明仁は、呑気に「退院祝い」などと言うのだ。自分の責任を全く理解していないとしか思えない。しかもことあるごとに麻子()には「これも雅紀のおかげ」などと言うのである。ひょっとすると千束の従兄弟たちと結託しているのかもしれない。そうして智之一家を下に置き、愉悦に浸っていに違いない。どん底から這い上がるには自分より下の存在(もの)が必要だ。自分たちはその生贄にされている。

 そんな思いが、瑛の中に渦巻く。

「お、瑛。帰ったか。遅くまでご苦労だな」

 リビングの前を通ると、目敏く見つけた明仁が声をかけてくる。酒が入っているのか、普段より陽気なその姿がさらに瑛を苛立たせた。

(うぜーんだよ)

 しかし、父にも声をかけられ、素通りもできなくて瑛は、リビングに顔を出して「ただいま」とだけ挨拶する。

「瑛、すぐご飯にするなら準備するけど?」

「先に風呂入る」

「そう。じゃあ、もうお湯張りしてるから、(ぬる)かったら沸かし直してね」

 台所に立っていた麻子に目だけでうなずいて、瑛は自室へ向かった。

(自分は座って酒飲んで、母さんは台所に立たせっぱなしかよ)

 それも腹が立った。

 何となくあの食卓に混ざるのが嫌で、瑛はいつもの倍の時間をかけて風呂に入った。

 

 

 長風呂から上がってリビングへ行くと、そこには後片付けをしている母の姿しかなかった。宴会はもうお開きになったのだろうか。何となく気になって

「父さんは?」

 と聞けば、

「酔い覚ましにちょっと外散歩したいって言い出して。お義兄さんと一緒に散歩中」

 と返ってくる。

「兄ちゃんは? 部屋?」

「そう。今週中に仕上げないといけないレポートがあるみたいで」

 その答えに、瑛は「ふーん」と気の無い返事をして、いつもの席に座った。

 大学生になった零と瑛は、同じ家に住んでいるとは思えないくらい顔を合わせない。朝は、瑛が朝練に出た後に起きてきて、夕方は、バイト先で(まかない)を食べてくるらしく、一緒に食卓につくことがほとんどない。バイトがない日は、瑛が帰った時にはすでに夕飯を終えて部屋に閉じこもっている。

 一度

「そんなにアルバイトして、なんか欲しいものでもあるのかよ」

 と聞いたのだが、零は答えてくれなかった。今年に入って急に明仁の書道教室に通い始めたので、色々と道具が必要なのかもしれない。野球のバットやグローブなどと違って、書道の紙や墨は使えばなくなる。それに筆や硯も、いいやつはそれなりの金額がするらしい。そう言う意味では書道は金のかかる趣味で、瑛はなぜ零がいきなり書道を始めたのか全く理解できなかった。(うち)にはそんな余裕はないはずだ。家計の詳細を知るわけではないが、智之()が入院しているのだから、その程度の想像はつく。それに大学は、高校以上に授業料がかかるはずで、零が大学生になって、おそらく家計はますます厳しくなっているだろう。

「母さん、ちょっと和室に布団敷いてくるから。食べ終わったら、食器は水につけといてね」

「叔父さん、泊まるの?」

「お酒入ってるからね。帰れないでしょ」

 麻子はそう言って、部屋を出ていく。一人残された食卓で、瑛は取り分けされていたらしい握り寿司を完食し、味噌汁を胃に流し込む。言われた通りに使った食器をシンクに運び、そのまま自分の部屋へ上がろうとして、瑛は、リビングのローテーブルに見慣れないレイアウトの新聞が置いてあることに気がついた。

(県外の地方紙?)

 瑛は気になって、何気にページをめくる。そして目に飛び込んできた記事に、反射的にかっと血をたぎらせた。

 尚人がにこやかに笑って写っている。何の記事かわからないが、その笑顔が許せなかった。自分たちをどん底に追い込んだ男の息子のくせに、笑って写真に収まっているというその事実が許せない。さらには、人生のスポットライトを浴びるが如く笑顔で新聞の取材を受け、人前に顔を晒せるその神経を疑う。

(何なんだよ、こいつ!)

 新聞を引き裂こうとして、瑛ははたと手を止めた。一時期ネットで、MASAKIの弟の顔が見たいと賑わっていたことを思い出したのだ。

(そうだ、こんなふうに人前に顔を晒したいなら、もっと多くのやつに晒す手伝いをしてやるよ)

 瑛は、ものすごくいいことを思い付いたかのようにうっすらと笑う。

 あの暴露本騒動の折、瑛は、野球部のベンチウォーマーにネチネチと言われたことにはとにかく腹がったったが、それとは別に、学校内のありとあらゆるところで、何かを言ってくるでもない、ねっとりとまとわりついてくる視線が嫌で嫌でたまらなかった。正直、ネチネチとでも直接言ってくるなら反撃のしようもある。それで実際手を出して謹慎処分を受けたが、それは原因を作ったと相手側も同じ処分を受けた。しかし、何も言わないまま視線だけを向けてくる相手には、手の出しようがない。睨みつければその場は退散しても、すぐに別の視線が絡みついてくる。

 ––––ほら、あれが篠宮だよ。爺ちゃんが自分の息子刺して死んだ。

 ––––父親は、ラグビーバカで、叔父さんはホモの独身なんだろう? 

 ––––MASAKIが従兄弟って、欠片もないじゃん。

 ––––結局はあいつも感情のコントロールが効かない野球馬鹿なんだろ。

 ––––高校で少々野球ができたからって何になるの? プロになれるわけでもないじゃん。

 そんな声は、目の前で直接言われるわけでなく、どこからともなく耳に入る。

「言いたいことがある奴は、はっきり言えよ!」

 そう叫べば、クスクスとした笑い声だけが響く。

 あの不快感。あの腹立たしさ。

 人の視線の不愉快さを、瑛は嫌と言うほど体験させられた。

 それを思い出したのだ。

 マスコミはMASAKIに遠慮して千束の家の周辺には近づかないみたいだが、一般のネットユーザーは違うはずだ。見たいと思えば、行ってみる。住所が分かれば特にそうするだろう。

 ––––覗き見趣味の者たちの餌食になればいい。

 心の底からそう思う。そうすれば、あの騒動の時に自分が受けた気持ちが少しはわかるはずだ。

(少しは思い知れってんだ)

 瑛は新聞を手につかむと、そのまま自室へと向かった。


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