「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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縹色(はなだいろ)ノ雲 2

 翔南高校では夏季課外も後半に入り、三年生の間には、いよいよ受験モード突入といった雰囲気が漂い始めていた。部活動をしていた生徒も最後の大会を終えて引退し、受験に向けて勉強に集中できる環境になった、と言うこともさることながら、夏休みに入ると同時に開始された三者面談を経て、それぞれの志望校が明確になったことも大きい。漠然と国立大文系志望とか私立大理系志望とか言っていた生徒たちも目指す大学が具体的になったことで自ずと気が引き締まり、それが三年生全体に漂う空気感になったのである。

 尚人も、学校が盆休みに入るぎりぎりの時期に三者面談を終えた。最後の最後まで受験する大学を迷っていた尚人だが、三者面談までには意思を固め、事前に雅紀にも伝えた。その時、雅紀は尚人の決断に、「そうか」と静かに答えた。

 ––––それが、ナオがずっと悩んで、いろいろ考えて、出した結論だって知ってるから、俺はそれについては何も言わない。

 ––––ただ、俺がナオの頑張りを手助けしたいって思ってることはちゃんと知っていて欲しいし、その目標に向かうために、俺にして欲しいことがあったら遠慮なく言って欲しい。

 雅紀はそう言った。そのことが尚人はすごく嬉しかった。自分のことをすごく大事に思ってくれていて、自分は一人じゃないと感じることができたから。もはや自分の進むべき道は『暗闇で何も見えない』のではない。雅紀に見守られながら、はっきりとした『明日』に向かっていく道だ。そう思えた。

 その日の放課後。課外を終えた尚人は日直の仕事をしてから昇降口へ向かった。すると久々に、中野と山下に行き合った。

「篠宮じゃん! すげー久しぶり。元気?」

「うん、元気だよ。中野は?」

「俺? 俺は、最近ずっと寝不足だよ。『サイモン』の課題のせいでな」

 中野の言う『サイモン』とは、理系クラスを受け持つ数学の斎藤先生のことだ。尚人は文系クラスにいるので授業を受けたことはないが、その独特の授業スタイルや難解な課題の噂は聞いたことがある。いわゆる学校の名物先生だ。

「くそー、何で毎日毎日数学があるんだよ」

 中野の口からため息混じりの愚痴がこぼれ落ちるが、数学どころか三年生の夏課外は六教科毎日だ。ホームルームや実技系の教科をしないので一日中机にかじりついている。

「へぇ。噂には聞くけど、やっぱ『サイモン』ってすごいの?」

 山下は尚人と同じ文系クラスだ。

「課題自体は数問なんだけどさ。めっちゃ難しいのをへーきな顔で出すんだよ。で、次の課外は、その課題の解説から始まるんだけど。『サイモン』の解説を聞くとさ、昨晩俺が睡眠時間削ってうんうん唸りながら結局ギブアップした問題がさ、なぜかめちゃ簡単に思えるんだよ。あ、この視点さえ気づけば解けたのに、何でここに気づかなかったんだろう、みたいな?」

 理系クラスでは、それを『サイモンマジック』と呼ぶらしい。

「理系クラス担当の先生って何か個性派揃いだよな。『アラジン』だってボティビル体型で古典とか、なんか笑えるし」

「『アラジン』授業は至って普通なんだけど、力加減の調節効かねーのがなぁ。一回授業中に教室のチョーク全部折ってさ。次来た先生が、『このクラスには折れたチョークしかないのか!』ってブチギレしたことあんだぜ」

「マジかよ。さすが『アラジン』」

「で、『さっき荒木先生の授業でした』って誰かが言ったらさ。その先生が『ああ、』みたいな納得顔して」

 名物先生の逸話に尚人もくすくす笑う。久々に三人揃って話が弾んだ。そのほとんどは下らない雑談だったが、駐輪場についても話は終わらず、しばし立ち話をしてからようやく三人は別れた。

 盆を過ぎれば、夕方は一気に短くなる。午後六時過ぎ。いつもより遅くなった帰宅に尚人が自転車を飛ばして帰着すると、なぜか家の前にパトカーが一台止まっている。反射的にぎょっとして固まった尚人に声をかけてきたのは、警察官と何やら話をしていたお向かいの『森川さん』だった。

「あら、尚君。おかえり。遅くまで大変ね」

 その口調は、いつもと変わらず切迫したものではない。それで幾分尚人も冷静さを取り戻した。

「こんばんは。森川さん。……あの、何かあったんですか?」

「何かって、わけじゃないんだけど」

 森川はわずかに言い淀んで、傾げた頬に右手を当てた。

「二、三日前から、見慣れない人がこの辺うろうろしてるんもんだから。ちょっと、心配になっちゃって」

 それでどうやら警察に一報入れたらしい。しかし、不安があまりにも漠然としすぎていて警察への通報が適切だったのか今更ながら不安になってしまったのか。そんな森川の心中を察したように、応対していた若い警察官が真摯な口調で答えた。

「奥さん。ちょっとでも気になることがあればご一報くださった方が、我々としては助かります。空き巣の下見ってこともありますし、ターゲットを探しているワイセツ犯と言うこともあり得ますから」

「そうよね」

「防犯に勤めるのも我々の仕事ですから。しばらくは、この辺りを重点的に巡回します。また、何か気になることがあればすぐに連絡ください」

 警察官は森川にそう告げた後に、尚人にも視線を向けた。

「君は、何か不審な人物を見かけたことはなかったかな?」

「いえ、特には」

 尚人が答えると、警察官は軽くうなずいてから言葉を続けた。

「日中人通りの少ない住宅街は空き巣被害に遭いやすいから、出かける時は施錠を確実にするように。何かあれば些細なことでもいいので、こちらへ連絡してください。110番するほどでもないと思うことでも大丈夫ですから」

 警察官はそう言って、最寄りの交番の電話番号が入った名刺を尚人に渡す。尚人はその名刺を受け取って、家に入った。

 

 

「ナオちゃん。家の前、何なの?」

 尚人が玄関を開けて家に上がると、裕太が待ち構えたように立っていた。パトカーの存在に気付いて気になっていたのだろう。

「何か、お向かいの森川さんが呼んだみたい。見かけない人がうろうろしてるって、心配になったみたいで」

「ふーん」

「裕太は、何か気になることなかった? 俺は、警察官に聞かれても心当たりなかったから、ないって答えたけど」

「……特には。というか、道端で見かけた人が近所の人かどうかって、俺わかんないし」

(まあ、そうかもね)

 裕太が引きこもりをやめて、まだ一年も経たない。親戚の顔すらほとんど記憶になかったのだから、近所の住民の顔など記憶からすっぽり消えて無くなっていてもおかしくはない。裕太が認識してるご近所さんは、お向かいの森川さんなど、ここ最近挨拶するようになった隣近所の住人ぐらいだろう。

「空き巣の下見かもしれないから施錠はしっかりするようにって。それと、何か気になることがあれば些細なことでもいいから電話してだってさ」

 尚人はそう言って、裕太にももらった名刺を見せる。

「わかった」

 存外に素直に裕太は頷く。尚人は電話台の引き出しに名刺を入れ、いつものように夕飯の準備に取り掛かった。

 今日のメインは豚肉と卵の他人丼だ。麺つゆを使えば簡単に作れる。玉ねぎに火を通している間に、レンチンしてほぐしたササミと細く切ったきゅうりをマヨネーズとオイスターソースで和える。味噌汁は朝作っていたものを温め直すだけだ。これだけでは少し寂しい気がしたので、刻んだ大葉と梅に鰹節を混ぜて豆腐に乗せて食卓に出す。ご飯は裕太が炊いててくれるので、十五分ほどで夕飯の支度が整った。

「いただきます」

 二人で手を合わせて食べ始める。

 二人きりの食卓に会話はあまりない。それでも特に気づまりではないのは、これがいつものことだからだ。それより尚人は、裕太の食べる量が一年前と比べれば確実に増えていることが嬉しい。以前は、もそりもそりとちょっとずつしか食べ進まなかった食事のスピードも、ぱくりぱくりと食べるようになった。その様子に、やんちゃで甘え上手で誰からも愛されて元気一杯だった頃の裕太の姿を垣間見る。勉強も自分のペースで頑張っているようだ。尚人が使っていた教科書とノートを使って勉強しているようだが、わからないところがあっても、ネットを使って自分で調べているらしい。理科の実験など実際できないことも、ネットに動画がアップされているのでそれを見れば充分理解できると言っていた。それでもわからないことは尚人に聞く。そうやって頼られるのが嬉しい尚人は、今日は何か質問ないのかな、と密かに期待しているのだが、裕太はなるべく自力で解決することを信条としているのか滅多に聞いてくることはない。

 聞けば早い。そんなこと裕太だってわかっているだろうが、裕太は近道がしたいわけではないのだろう。だから尚人は、裕太が聞いて来ない限りその手の話題を振ることはなかった。

「……あ」

 (どんぶり)を掻き込んでいた裕太が、いきなり呟いて箸を止める。

「どうかした?」

 尚人が視線を向けると、裕太は丼を机に置いた。

「ひょっとしたら、あいつがそうだったのかも?」

「あいつ?」

「さっきの、不審者の話」

 裕太の言葉に、尚人も箸を止めた。

「心当たりあるの?」

「思い返せばって程度だけど。一昨日スーパーに買い物行く途中、メモ片手に辺りをキョロキョロしながら歩いてる奴がいて。誰かん家に行きたくて捜してんだろうって思っただけで特に気にしてなかったんだけど」

「……それは、本当に訪問先捜してただけじゃない?」

 メモを手にしていたのなら、目的地が明確だと言うことだろう。

「そいつが、スーパーから帰ってきたら家の前にいた」

「え?」

「じっと家見てたからさ。なんか用、って声かけようと思ったんだけど、その前に歩き出していなくなったから。ま、いっかって。スルーしてたんだけど」

 うーん、と尚人は唸る。その話だけでは、不審者と判断するには弱い気がする。

「ちなみに、どんな人だったの?」

「若い女」

 予想外の答えに、尚人は目を(しばたた)かせた。不審者イコール空き巣の下見という構図が頭の中に出来上がっていた尚人にとって、空き巣イコール若い女が成立しなかったからだ。

「……それは」

 ––––まーちゃんのファンとか?

 雅紀は『MASAKI』と言う名前以外公式には何も公表していないが、昨年の騒動のせいで今や篠宮家のプライバシーは全国的にだだ漏れだ。住所や電話番号もどうやって調べるのか、一時期家の前にはマスコミが多数張っていたし、電話攻撃も酷かった。番号を変えて基本留守電対応にしてから電話で悩まされることは激減したし、雅紀の「未成年にマイクを突きつけて、しつこくまとわりついて追い回すような奴は、悪質極まりないクズも同然」と言う発言以降、マスコミが自宅周辺をうろつくことも無くなったが、それは、住所も電話番号も知らないと言うこととは違う。おそらくは今だって、篠宮家の住所も電話番号も、どうにかすれば入手可能で、いきなり見知らぬ人物が家を訪ねてくることだってあるのかもしれない。

 あの、真山瑞希だっていきなりやって来たのだ。あの時の不快さを考えれば、ただ家を見ていくだけの人はいくらでも無視できる。それが、家の中にまで侵入して来るような、犯罪に発展するのは困るが……。

「もし、何回も続くようなら雅紀兄さんに相談しないといけない、と思うけど。……しばらくは、様子見ってことで」

「わかった」

 うなずいて裕太は食事を再開する。が、すぐに裕太は再び顔を上げた。

「あ、そうだ。ナオちゃんに何か荷物届いてたけど」

「荷物?」

「ソファーに置いてる。あの、箱」

 裕太に言われて、尚人は視線を向ける。そこには、どこかで見たことがあるようなロゴの入った小ぶりの段ボール箱が置いてあった。

「誰から?」

「誰って、ナオちゃん買ったんじゃないのかよ。あれって、宅配じゃなくてネット通販だろ?」

「ネット通販? ……使ったことないんだけど」

 尚人は戸惑いながら、箸を置いてソファーに歩み寄ると、段ボール箱に貼ってある伝票を確認する。宛先には尚人の名前と住所が書いてあり、裕太の言う通り、送り元には尚人でも知っている有名なネット通販の会社名が書いてあった。

「これって、代引きだったの?」

 ネット通販は、確かクレジットカード決済か、届いた時に現金で払う代引き払いで支払いをしなければいけなかったはずだ。尚人はクレジットカードなど持たないから、ネット通販を使うためには代引きで支払うしかない。この代引きという支払い方法を悪用して、世の中には「送りつけ詐欺」なるものがあったはずで、たしか、中野や山下がそういう話をしていたことがある。

「いや、すでに払い済みだから受け取るだけだって。だから、受け取ったんだけど。……って、ナオちゃん。本当に心当たりないのかよ」

「ない」

 尚人が答えると、裕太の視線が睨みつけるように強くなった。

「ってことは、誰かがナオちゃんの名前使って通販で買い物したってこと?」

「そうなのかな? ––––でも、支払い終わってるってことは、どういうことだろ?」

 詐欺ではないだろうが。支払いを済ませた物を尚人へ送ることに何か意味があるのだろうか。

「……あ、ひょっとして明仁叔父さんかも」

「は?」

「こないだ電話があって。新聞の記事見たって」

「全国大会のやつ?」

「そう。それで、お祝いを贈るっていうから、気持ちだけで十分だって断ったんだけど」

 ひょっとすると、ネットで見つけた物を贈り物として尚人に送ってきたのかもしれない。

「だったらさ。事前に一言電話連絡あってもよくね? 今回は受け取っちゃったけどさ。心当たりのない荷物は、受取拒否することだってありえるだろ?」

「うーん。確かにそうだけど。ひょっとしたら、こんなに早く着くとは思わなかったとか?」

 尚人は自分で言いながら、その可能性が高い気がした。

「後で明仁叔父さんに電話してみる」

「ってかさ。そもそも中身は何なんだよ」

「––––確かに」

 電話するにも中身が何なのか、知らなければ始まらない。尚人はその場で箱を開けた。

「……何これ?」

 やって来た裕太が箱を覗き込んで呟く。中に入っていたのは一冊の本で、タイトルに『One Hundred Poets, One Poem Each』とある。直訳すれば、『百人の詩人、それぞれ一つの詩』だ。

「えっと、百人一首の英訳本、かな?」

「は?」

 裕太は、訳がわからないと言わんばかりに顔をしかめる。しかし尚人は、箱の中身の意外性と相まって興味が惹かれた。三十一音の短い日本語を、その裏にある心情を、どういう風に英訳しているのだろうか、と。手にとってじっくりと眺めたい。そんな衝動に駆られたが、贈り主がわからないうちは、と思いとどまった。

 裕太は、中身がわかってしまえば興味を失ったのか、席に戻って夕飯の他人丼をさっさと食べ終わると、食器を片付けて二階へ上がってしまう。尚人も食事を終えてキッチンを片付けると、荷物を抱えて自室へと向かった。


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