「こんにちは」
実家の門扉を開けようとしていた明美は、背後から掛かった声に内心舌打ちをした。
明美は、現在都内の会社に勤める社会人1年生。普段は会社近くのアパートで一人暮らしをしているが、夏休みを実家で過ごそうと帰省してきたのである。本気でのんびりしたければ、旅行より実家だ。三食昼寝付き、洗濯もしてもらえる。いまだ慣れない会社勤めでくたくたになった体は、思いっきり甘やかしてくれる実家で英気を養う必要がある。
が、近所付き合いだけが面倒くさい。実家周辺は昔からの顔なじみばかりで、道端でばったりご近所さんに出くわせば無視するわけにもいかない。近所のおばちゃんの中にはやたらと近況を詳しく聞きたがる『取調おばさん』もいて、そんな人に捕まれば話が長いどころか、話した内容は瞬く間に近所中の知る所となるのだ。
例えば「森川さん家の明美ちゃんは、〇〇という会社に勤めていて、今住んでるところは〇〇町で、会社までは毎日○○分掛かって通勤をしていて、休日は〇〇で過ごすことが多くて、現在彼氏は募集中らしいわよ。ねえ、あなた、明美ちゃんに紹介できそうな、いい人知らない?」などと。
だから、最寄駅からここまで、近所の誰にも会わずにほっとした所だったのに、まさか家の前で声を掛けられるとは。しかし、挨拶された以上、無視はできない。
「こんにちは」
明美は、渾身の力を振り絞り、愛想笑いを浮かべて振り向き様に挨拶を返す。直後、明美は挨拶の相手を確認して軽く驚いた。
「え、あ。ひょっとして、尚くん?」
「そうです。お久しぶりですね、明美さん」
にこにこと温和な笑みを浮かべているのは、間違いなく向かいの篠宮家の次男、尚人だ。歳が離れているため親しく交流していたわけではないが、それでも家が真向かいということもあり何度も顔を合わせたことがある。子供の頃は母親同士互いによくお裾分けをし合っていた記憶があり、明美もそのお裾分けを届けるために篠宮家を訪ねたことが何度もある。
まあ、その時は、長男の雅紀に会えるかも、という下心あってのお手伝いだったのだが。
尚人は今学校から帰ってきたのだろう。夏の制服姿で自転車を押している。カゴには、途中スーパーで買ってきたと
男子高校生の自転車カゴに積まれるにはあまりにも違和感のある映像に明美が何と言葉を繋いだものか思案している間に、
「では、失礼します」
尚人は笑顔のまま軽く会釈して、ガレージの方へと姿を消す。その背を見送って、明美は自分でもよくわからない息を一つ
「ただいまー」
玄関先で声を上げると、明美はそのままリビングへ直行した。キッチンで洗い物をしていた母親がエプロンで手を拭きながら振り返る。
「あら、明美。おかえり。早かったのね」
「うん、どうせならこっちでお昼食べようと思って、何かある?」
「残り物で良ければあるわよ。あ、
「うん。お願い」
明美は答えて荷物を自分の部屋へ運ぶと、洗面所で手を洗ってリビングに戻った。
「今、家の前で尚くんに会って。ちょっと、びっくりしちゃった」
「え、何で。尚くん、何か様子でもおかしかった?」
「いや、そんなんじゃないけど」
テーブルについた明美の前に、ポテトサラダとナスの煮浸しが置かれる。直後鳴ったアラームは、素麺が茹で上がったことを知らせるタイマー音で、母親は手際良くザルにとって冷水で〆ると、ボウルに盛り付けてテーブルに並べた。
「いただきます」
座っているだけでご飯が出てくる至福。「やっぱり、実家って最高」と心の中で呟きながら素麺を頬張る。母は麦茶片手に向かいに座った。
「で、尚くんがどうだったって?」
心配げな母の表情に、明美はキョトンと母を見返した。お向かいさんとはいえ、よその子がそんなに心配なのか、と。明美にとっては違和感があったのだ。
だが、そう思ったところで、向かいの篠宮家が、大変な状況にあったのだったと思い出す。父親が不倫して家を出て行き、母親が精神を病んで自死したと聞いた。その渦中、明美は大学受験に専念しており、その後は都内の大学に通うために実家を離れた。だから、ご近所中で噂だったというその事実を知ったのはずっと後のことだ。雑誌で雅紀を見かけるようになって、実家に帰省した時にその話題を口にして、母が「奈津子さんも、もうちょっとだけ頑張っていられたらねぇ」と呟いたことで知ったのだ。篠宮家がどれほど悲惨な状況にあったのか。雅紀がなぜモデルの道を選んだのか。
そして最近では、自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害者がカリスマモデルMASAKIの実弟だったと報じられたことをきっかけに、篠宮家のスキャンダルは全国区でダダ漏れになった。
––あ、そうか。尚くんって、あの事件の被害者だった。
だが、さっき会ったばかりの尚人は、そんなことを思い出させもしない雰囲気だった。柔和な笑みに耳に優しいまろやかな声。男子高校生とは思えないような自然で涼しげな雰囲気。自転車に乗ることも抵抗がないように見えた。
「尚くん、大きくなったなぁって」
明美が言うと、「何だ、そう言うこと」と言わんばかりに母が安堵の息をつく。
「私が最後に尚くん見たのって。多分、大学進学で実家離れる前だから……」
小学生のはずだ。
––そうだ、あの時だ。
と、明美は思い出す。
近所のスーパーの前だった。長男の雅紀と二人、買い物袋を手に下げていた。
「ナオ、そっち持ってやるから、こっちにちょうだい」
雅紀が弟の尚人に優しく声を掛けていた。雅紀は高校生だ。もともと近所でも評判の美形兄妹弟だったが、高校生になった雅紀の美貌は目が眩むばかりだった。家が真向かいとはいえ、そうしょっちゅう顔を合わせるわけではない。部活に打ち込んでいるらしい雅紀とは生活時間のズレもあり、明美が雅紀を見かけたのは本当に久しぶりだった。
––超ラッキー♡
明美は、ただ単純にそう思ったのだ。
だが今振り返ると、あの時二人が両手いっぱいの買い物袋を手にしていた意味が重い。あの時にはすでに、父親は不倫して家を出て行き、母親は四人の子供を養うために慣れない会社勤めで体を壊し、食事の準備もままならなくなり始めていたのだ。
それを考えると、我が家の何と恵まれていることか。
「そういえば尚くん、制服姿だった。今日登校日だったのかな」
明美がふと疑問を口にすると、母が呆れたようにため息をついた。
「あんた、ねぇ。尚くん、翔南高校に通ってるのよ。課外に決まってるじゃない」
「え、翔南高校って、こんな時期まで課外するの?」
明美は驚く。明美の通った高校だって一応進学校だ。当然、夏休み課外も組まれていた。が、ひと月半ある夏休み期間の内、課外があるのは前期十日、後期十日と決まっていた。それでも、県内では結構長い方だったはずだ。高校時代は「こんなに課外があるんじゃ、全然夏休みじゃない」と文句タラタラだったのは言うまでもない。
「翔南高校は、夏休み実質二週間らしいわよ」
「うっわー。さすが超進学校」
明美はポテトサラダを口に放り込んでから感嘆の声を上げた。
地元民ならば、翔南高校がどれほど偏差値の高い学校か誰もが知る。県内公立高校間では、密かに国立大学進学率を競い合っているのだが、どの高校も翔南高校には勝てないと分かっているので、実質二番手競争をしているようなものだ。明美の通った高校でも、進路担当の先生が集会等でよく「昨年度は〇〇高校に勝った。お前たちは、その上を行け」みたいな発破の掛け方をしていた。正直言ってうざかったが、何となくプライドを刺激されていたのも事実だ。Fランクと言われる大学に行ったってしょうがないんだ、みたいな。
大人になってみれば、何とも馬鹿馬鹿しい限りだが。
進路は見栄で選ぶのでも、学校の面子とやらを保つために選ぶのでもない。
それでも、
「翔南高校って、すごいよね。尚くん」
素直にそう思える。
尚人が高校受験の頃は、すでに両親ともいなかった時期だ。しかも一番下の弟は、中学校進学と同時くらいに引きこもりになったと聞いている。仕事でほとんど家にいない兄と引きこもりの弟の間で、家事を一手に引き受けていたのが次男の尚人だと、近頃メディアではひっきりなしにそう紹介していた。
そういえば今日も買い物袋が自転車カゴに入っていたと思い出す。袋から飛び出したネギの青さが妙に目に鮮やかだった。
明美が篠宮兄妹弟と多少なりとも交流があったのは、小学生までだ。雅紀が一つ下、沙也加が四つ下だったから、登校時はよく顔を合わせたし、近所の公園で見かけることもよくあった。公園で見かけた時は、雅紀はよく尚人と楽しげに遊んでいた。弟思いのお兄ちゃんなんだな、というのが明美の印象だ。あんな王子様みたいにきれいな顔をしているのに五歳も下の小さな弟と砂場で一緒に遊ぶんだ、というのが驚きでもあった。
「ナオ。もう、砂だらけじゃなか。ほら、払ってあげるからこっち来て」
「ナオ、ほっぺに砂がついてる。こっち向いて。拭いてあげるから」
柔らかな笑顔で、いつも弟の面倒を見ていた。
明美にも弟がいるが、あんなに面倒見れない、と思ったものだ。
それに対し「尚ばっかりずるい」と、いつも不満げな顔で雅紀にまとわりついていたのが沙也加だ。
明美は、正直言って沙也加が苦手だった。四つも下なのに、何と言うか目力が強すぎて、近寄りがたいのだ。それに、何となくいつも不機嫌な表情をしていた。家の前で会って挨拶をしても、愛想笑いの一つもしない。つんと澄ましていて、どこか見下されている感じすらあった。
それはひょっとすると、明美の中に雅紀に対するほのかな恋心があって、––というか、近所の同年代の女子で雅紀に好意を抱いていない女子など一人もいなかったはずだが、その内面を見透かされたかのように、
「私のお兄ちゃんに近づかないで」
と、面と向かって言われたことが関係しているのかもしれない。
中学校に進学すると、一つ下の雅紀とは二年間同じ中学だったが、剣道に打ち込んでいた雅紀とはまるで接点はなく、時々廊下で見かけても視線がかち合うこともなかった。ただ、雅紀が入学して来た時の同級生の騒ぎっぷりと言ったらすごいものがあり、家が真向かいと知ったクラスメイトなどから、訳のわからない羨望も中傷も受けたのがいい迷惑だった。
だから雅紀がMASAKIとして売れ始めても、「私、家が真向かいなんだ」などとは親しい友人にも決して口にしなかった。余計なトラブルしか生まない、というのをすでに経験済みだったからだ。
「尚くんって、なんか雰囲気変わったよね。子供の頃って、物静かっていうか、おっとりって言うか」
いまいち存在感ない、みたいな……。とは、さすがに声には出さなかったが、明美には一番しっくりくる言葉だった。超絶美形な兄と目力半端ない姉の下で、あまりにも普通というか。
さらには一番下の弟はエネルギーの塊みたいな存在で、8コも違えば明美にとっては近所の単なる悪ガキという存在でしかなかったが、尚人が静かながらもせっせと作っている砂山を裕太が豪快に蹴散らすという場面は何度も目にした。
まあ、あれは案外、兄に構ってほしいヤンチャ坊主なりのアピールだったんじゃないかと今なら思うが。
尚人の、穏やかで静かな感じは変わらない。けれども、静けさの種類が変わった、とでも言うのだろうか。『静か』というのが『存在感がない』という意味ではなく、『確かにそこにある安心感』とでも言えばいいのか。
高校生相手にそんな風に思うのも、おかしいのかもしれないが。
そんなことをつらつらと考えていると、
「あんた、今頃何言ってんのよ」
母が心底呆れたように明美を見やった。
「近頃は、密かに雅紀くんより尚くんの方が人気あるんだから」
「え、人気って何?」
明美は本気で聞き返す。
母がわずかに身を乗り出した。
「あんた、覚えてない。小学生の時に一緒のクラスだった野島さん」
「ん? ああ、野島さんね。確か、5、6年生の時一緒だったかな」
「その野島さんのお母さんね、近所のスーパーでパートしてるのよ。で、時々顔を合わせた時に話をするんだけど、尚くんが学校帰りにスーパーに寄ってくれた日はめちゃくちゃ癒されるって、パートさんたちに人気らしくてね。それで夕方時間帯のシフトって、密かに激戦なんですって」
「なに、それ」
明美はぽかんと口を開けた。
「尚くんって買い物の時、すっごく吟味して商品選んでるらしんだけど、その真剣な顔がたまんないらしいのよ。で、時々半額のお肉とかあった時に、すっごく嬉しんだけど喜びすぎちゃダメって感じで我慢している顔がまたものすごくいいんだって。それで、尚くんがスーパーに顔を出したら、パートさんたちがこっそり先回りして半額シール貼ったりすることもあるんですって」
明美はもう開いた口が塞がらなかった。
「パートさんが、勝手にそんなことしていいの?」
明美が至極当たり前の疑問を口にすると、母はわずかに肩を
「店長もさ、あそこの家が大変な思いしたの知ってるから、目を瞑ってるみたい。時々、程々にねって、遠回しに注意されるみたいだけど」
「へぇ」
「まあ、そうは言っても、こないだ尚くんと雅紀くんが二人でスーパーに現れた時は、スーパーのバックヤードで皆大興奮して、初めて生で雅紀くん見た人の中には、本気で卒倒した人がいたんだって」
明美は、麦茶で喉を潤す母を見遣りながら苦笑するしかなかった。子供の頃から雅紀の美貌を見慣れているはずの明美だって、テレビや雑誌で雅紀の姿を見かけると、どうしようもなくドキドキする。長らく生の姿を見ていない現在、急に見かけたら自分だってどうなるか、明美にもわからない。
「お母さんはさ、家の前で雅紀くん見かけたりするの?」
「それが、滅多にないのよねぇ。今はほら、雅紀くん車使ってるから、ガレージに車があるかどうかで帰ってるかどうかの判断はつくんだけど」
言われて明美は、先ほど視線を向けたガレージに車が止まっていなかったことを思い出す。つまり今は、雅紀は不在ということだ。
母と他愛もないことを話しながら昼食を終えて、使い終わった食器をシンクへ運ぶ。家のインターンフォンが鳴ったのは、その時だった。
「はい」
と、母が応対する。親機は玄関近くの廊下だ。相手の声は聞こえなかったが、応対する母の声がリビングまで響いた。
「あら、尚くん! 今、玄関開けるから」
それからバタバタと母が動く気配が響いて、1分も経つか経たないかという時間で母はリビングへ戻ってきた。
「明美、あんたが帰ってきたのを見て、お裾分けですって」
そう告げる母の手に握られてたのはクッキーの入った袋だった。
明美はただキョトンと見返す。
「試作品で悪いけどって。シナモンと紅茶とナッツのクッキーだって」
テーブルに置かれた、市販品と遜色のないそれらを見遣って、明美はただ固まった。
––え、尚くんの手作りってこと?
––尚くん、男子高校生だよね? 女子力高すぎじゃない?
正直、クッキーなんて焼いたことない。
「––てか、何で私に?」
––ひょっとして、尚くん……
と、明美がほんのちょっとだけドキッとすると、
「何言ってんの。あんたにじゃないわよ」
母が、あっけらかんと笑う。
「こないだ、お中元で貰ったハム、お裾分けしたのよ。だから、そのお返し。尚くん律儀だから、何かお裾分けすると必ずお返し持ってくるのよ。それがすっごく自然でさりげないっていうか、わざわざ感がないのがすごいのよね。時々高校生って忘れちゃうくらい」
母はそう言いながら、早速袋を一つ開ける。
「んー、さすが尚くん。市販品なんかより断然美味しい」
口に頬張り、母が笑う。
今は明美も弟も家を出て、実家は母と父の二人だ。まだまだ若い二人だから健康面での心配はしていないが、寂しくはないだろうかと、少しだけ心配していたのは事実だ。
だが、それも杞憂だったようで、明美は小さく苦笑する。
「お向かいが篠宮さん
奈津子さんが生きていた頃、母がよく口にしていた言葉だ。
––お向かいが、篠宮さん家でよかった。
明美の言葉に、母はただにっこりと微笑んだ。