「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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縹色(はなだいろ)ノ雲 7

 二学期が始まっても、尚人の生活はいつもと変わらない。

 毎日が規則正しく流れる。

 朝の起床は午前五時。まだ夜も明け切っていないキッチンに灯を点け、自前のエプロンを付けることから始まる。

 そして、洗濯機を回し、朝食と弁当作りに取り掛かるのだ。

 家族の気持ちがばらばらだった時は、家族の『拠り所』としての『家』を整えることこそが『生きる』ということに直結しており、『生きる』ためにあえて尚人は一日をマニュアル化していたが、今は違う。

 やっていることは同じでも、気持ちが違う。それがとても重要だ。それに、引きこもりをやめた裕太の食欲は以前とは比べ物にならないから、尚人の朝食作りも自然と気合が入る。以前は朝昼兼用のお弁当が一つだったが、今は朝用と昼用と二食用意する。といっても、尚人が食べるものと同じものを用意するだけなので、手間は変わらない。二人分の朝食を皿に盛って、一皿はラップをかけて食卓に並べておき、昼用のお弁当は二人分詰めて一つは冷蔵庫だ。裕太の昼用をあえて弁当にするのは、弁当なら外に持っていけるから。今日は天気もいいし外で食べようかな、と思うきっかけになれば、尚人はそれだけで嬉しい。

 そうして尚人は自分の分の朝食を食べ、洗濯物を干し、身支度をして六時半には家を出る。七時半から朝課外。それが終わると六限の正規の授業。その後さらに五十分の夕課外。学校でのカリキュラムがすべて終わるのがちょうど午後五時だ。それから自転車で五十分かけて下校すると家に着くのが午後六時。帰宅してすぐに夕飯を作り、出来上がるのが六時半。近頃は、裕太がご飯を炊いておいてくれるし、サラダなどの簡単な副菜も作っておいてくれるから、夕飯作りは格段に楽になった。部屋にいる裕太を呼んで二人で食卓を囲み、夕飯を食べ終えると七時頃になる。それから尚人は、キッチンの片付けと翌朝のための仕込みをして、七時半過ぎに自室に戻って勉強を始める。それからみっちり三時間。自学の後に風呂に入る。長風呂の尚人は三十分は風呂を堪能し、リフレッシュしてからまた寝るまでの時間勉強する。就寝は十二時。これが尚人の一日だ。

 雅紀の帰ってきた日は、多少変則になるがあまり変わらない。風呂から上がって寝るまでの間が勉強ではなくスキンシップの時間にはなるが––––。

「––––ナオ」

 甘いトーンで呼ばれて、雅紀の膝の上に後ろ向きに抱かれ、さらけ出した股間をしなやかな長い指でゆるゆると揉みしだかれる快感。尚人の下腹部はすぐに熱を帯びて硬く立ち上がり、乳首が尖る。耳元で囁かれる卑猥な言葉の数々は、今では尚人の快感を呼び起こす媚薬だ。身体中、どこもかしこも敏感になって、快楽を(むさぼ)ること以外、何も考えられなくなる。雅紀の舌と口で溜まった精の全てを搾り取られ、腕を上げるのでさえ億劫に感じるほどの倦怠感に沈んだまま、いつの間にか眠りにつく。

 それが、嫌なわけではないのだが––––

「まーちゃん。近頃、俺ばっかりで。だから、その……」

 以前から雅紀が、学業に支障が出るのはまずいと平日のセックスはそれなりにセーブしているのは知っている。しかしここ数週間、雅紀の休みが週末と重ならず最後までしないことが続いて、尚人はそれが気になっていた。「ナオが気持ちいいと俺も気持ちいい」雅紀はそう言うが、やっぱり挿入して射精したいはずだと思うのだ。

 だから––––

「……最後まで、してもいいよ」

 そう言おうとして尚人は、本当は、最後までして欲しいのは自分の方ではないのかと気づいて唇を噛んだ。雅紀を言い訳にしようとする自分がすごく(ずる)い気がして、それだったら素直に、「最後までして」と言うべきだが、意識してしまうと恥ずかしくてそんなこと口にできない。それに、いつまで経っても雅紀を喜ばせられるようなテクニックを持たない自分は、結局は雅紀にしてもらうばかりで。そんな雅紀の優しさに甘えるだけの自分の怠惰(たいだ)を自覚して、何も言えなくなってしまった。

「ん? ナオ、どうした?」

 言いかけた言葉を飲み込んだまま黙り込んだ尚人に、雅紀は柔らかな眼差しを向けながら耳たぶを()み、髪を梳いて口づけ、尚人の唇をぺろりと舐める。背中に回った手が尚人を優しく撫でさすり、尚人を抱き込んでゆるゆると揺する。

 ––––きもちいい……

 素肌が触れ合う心地よさは、股間を揉みしだかれる痺れるような快感とも、蜜口を散々(いじ)られた後にようやく射精することを許された開放感ともまた違った良さがある。尚人も雅紀の背中に腕を回してしがみ付く。すると、より密着度が増して、心地よい安心感に包まれる。

「……まーちゃんは、出さなくていいの?」

 ぼそりと尚人が呟くと、耳元で雅紀がくすりと笑った。

「ナオは明日も学校だろう?」

「……そうだけど」

「だったら、腰が立たなくなったらまずいだろう?」

「……それは、そうだけど」

「ナオと最後までする楽しみは、週末まで取っておくさ」

「……でも、先週も、先々週も、まーちゃん、土日休みじゃなかったでしょう?」

 尚人が言うと、雅紀は動きを止めて尚人の顔を覗き込んだ。

「ひょっとして、後ろ、足りなかった?」

「そ、そんなことは––––」

 尚人は、羞恥に顔を焼く。挿入しない日も、雅紀は後蕾も舌で丹念に舐め(ほぐ)し、指を差し込んで中を刺激し射精するのとはまた違った快楽を尚人に与える。指だけでイかされるのは何故だか恥ずかしくて堪らないが、教え込まれた快楽に体は抗えなかった。

 雅紀はもそりと上体を持ち上げると、耳元で甘く低く囁く。

「今度の日曜は休みだから。ナオ、覚悟しとけよ」

 そして、額に軽くキスをして、

「おやすみ、ナオ」

 そう言って雅紀は部屋を出ていく。その背を見送って、尚人は何とも言えないため息を小さく吐き出した。

 

 

 

 尚人の部屋を後にして、雅紀はそのままバスルームに向かうと、ほとんど水に近いシャワーを浴びた。

 ––––やばかった……

 雅紀は、頭から冷水を浴びながら、体の芯にこもった熱をやり過ごす。尚人があんまり可愛いことを言うものだから、もう少しでがっつくところだった。

 ––––だって、それは。やっぱり、まずいだろう?

 まだ、それくらいの理性はある。

 尚人とセックスするようになって、もう丸二年。これまで何度体を一つに繋げたかわからないのに、尚人の初心(うぶ)なエロさに雅紀は煽られっぱなしだ。

 本来今夜は、ホテル泊の予定だった。しかし、思ったより早く仕事が切り上がった時、「今から帰ればナオが寝る前には帰り着くな。明日は、八時前に家を出れば仕事に間に合うし」そう思って雅紀は、迷うことなく自宅へ帰ることを決めた。ほんの少しの時間でも、尚人を抱きたくてたまらなかった。

 雅紀が帰り着いた時、思った通り尚人はちょうど風呂から上がってきたところで、雅紀はそのまま尚人を裸に剥いて膝に座らせ、大きく足を開かせると、股間を思う存分揉みしだき、尚人が双珠に溜め込んだミルクを執拗に吐き出させた。

 喘ぐ尚人の息遣いが、たまらない。

 快楽に身を(ゆだ)ね、悶えて身を(よじ)るその姿態が、雅紀を煽る。

 尖りきった珊瑚色の乳首が、雅紀を誘う。

 雅紀の愛称を口にしながら尚人が啼くと、脳髄が痺れる。

 熱を帯びた尚人の視線が、雅紀の独占欲を満たす。

 最後までしなくとも、雅紀は十分に満足だった。

 それなのに、

 ––––まーちゃんは、出さなくていいの?

 尚人にそう可愛らしく質問されるや否や、雅紀の雄蕊は脈動した。

 もちろん、尚人の中で擦られるのが一番気持ちがいい。それは、動かしようのない事実だ。しかし、尚人の中に己を沈めて、ちょっと、で済むはずがない。それがわかっているから、雅紀は平日尚人を抱く時に、挿入まではしないと決めているのだ。翌朝腰が立たずに登校できない、なんてことになったら目もあてられない。まだ、そこを死守するだけの正気は保っているつもりだ。しかし、尚人は無自覚に、そんな雅紀の必死の痩せ我慢を崩しにかかる。罪深いほどの無垢な誘惑に、後先考えずにむしゃぶりつく痴態。そんな自分を想像して、悪くない、と思う時点で本当は終わっている。それを自覚しつつ、それでもなけなしの矜恃を保つために余裕のあるフリを装ったものの、正直雅紀は、ぎりぎりだった。

 雅紀は股間に手を伸ばすと、いきり立った自分のものを鷲掴みにして(しご)き上げた。ほんの数回で簡単に達し、浴室の壁にはその証である精がぶちまけられる。実は昨日もホテルの浴室で、尚人の裸を妄想しながら吐き出したというのに。我ながら雅紀は、少し呆れてしまった。

 吐き出すものを吐き出せば、熱はスッと冷める。

 雅紀はシャワーを止めると、風呂から上がってスエットに着替えた。

 もう寝たであろう尚人の睡眠の邪魔をしないように、雅紀は静かに階段を上る。尚人の朝は早い。朝五時起きを寝坊することなく毎日続けるのだから、本当にすごいと思う。

 そうして雅紀が静かに階段を上り切ると、そのタイミングで裕太の部屋の扉がわずかに開いた。

「雅紀にーちゃん。ちょっと……」

 視線で促してくる裕太を無言で見返して、雅紀はとりあえず裕太の部屋に入る。

「何だ?」

「見つけた」

 裕太の答えは端的だが、言葉が足りない。

「何をだ?」

「ナオちゃんの記事が載ってる、ネット掲示板」

 裕太はそう言うと、ノートパソコンの画面を雅紀に見せた。雅紀は画面を覗き込む。見覚えのあるどころか、雅紀が永久保存版として大事にしている地元新聞の切り抜き記事の画像が目に飛び込んできて、雅紀はひっそりと眉を顰めた。その記事には明らかに書き加えられたとわかる状況で『左端が、MASAKIの弟の篠宮尚人』とあり、さらには千束の住所まで書いてある。

 宏之少年が言っていたのとまさに同じ書き込みだ。

「ここが出所ってことか?」

「そこまではわかんないけど。いろいろ検索した結果、その可能性は高いかなって感じ」

「その画面って、印刷できるのか?」

 雅紀が問うと、裕太は返事の代わりにパソコンを触る。するとすぐさまプリンターが動き出し、何枚か紙を吐き出した。プリンターが止まって、裕太はその紙の束を雅紀に渡す。

「一枚目が、画面をスクショしてプリントしたやつ。で、その次からが、パソコン画面のPCコード」

 雅紀は渡された紙をめくる。正直、二枚目から延々と羅列されている英数字と記号が何を表しているのかさっぱりわからないが、詳しい者が見れば、ここから様々な情報を拾うことが可能なのだろう。以前沙也加が送ってきた尚人の写真から位置情報を拾い出したみたいに––––。

 にしても、いつの間に裕太はこんなにPCに詳しくなっていたのか。雅紀は内心驚く。勉強がしたい、と言っていた裕太の言葉に嘘はなかったということだろう。目に見える成果を出せ、と言った雅紀に対するこれも一つの答えなのかもしれない。

「……で、雅紀にーちゃんはこれからどうするわけ?」

 裕太の問いかけに、雅紀自身問う。

 ––––さて、どうしようか。

「この情報から、記事を投稿した個人って特定できるものなのか?」

「俺には無理。IPアドレスがわかったところで、そのIPアドレスを使った個人の情報ってプロバイダ止まりだし。まあ、警察の捜査が入れば別だろうけど」

「なるほど」

 雅紀は顎を撫でる。

(要は、警察が捜査すれば個人の特定も可能ってわけか)

「これを証拠に、プライバシー権を侵害されたと警察に被害届を出すのもありかな」

 この程度の記事で警察がどこまで本気で対応するのかはわからないが、自宅周辺を不審者が彷徨(うろ)く現状を加味すると一応捜査に動くかもしれない。

 その後の対応についてはケースバイケースだ。

「だったら、併せてこの掲示板の管理者に個人情報が不当に掲載されてるって抗議した方がいいかも。こっちからの抗議と警察からの捜査が同時に来れば、このアップされている情報の削除は絶対するだろうし、警察の捜査にも全面協力するかも」

「なるほど」

 雅紀は口の端で笑う。

 裕太も結構役に立つではないか。

「裕太、よくやった」

 雅紀が裕太の頭をくしゃりと撫でると、案の定、裕太は盛大に顔を(しか)めたが、ブスくれた裕太も今夜はどことなく可愛く見えた。

 

 

 * * *

 

 

 その時尚人は、無視できない尿意にベッドから起き上がった。何となく寝付きが悪くて、これならばさっさとトイレに行ってスッキリした方が眠れるかもしれない。そう思って尚人は部屋を出る。そしてそのまま一階のトイレに行こうとしたのだが––––。

 二階から人の気配がした。

 尚人は何気なく足を止めて、二階に目を向ける。階下から二階は直接見えない。それでも、裕太の部屋の扉が開くのがわかった。

(裕太。まだ起きてるのかな)

 そう思った直後、

「今日は、もう寝ろ。続きは、また帰ってからだ」

 小さく響いてきた雅紀の声に、尚人は驚いて息を詰める。雅紀が裕太の部屋から出てきたのは明らかだった。

(何で、まーちゃん。裕太の部屋から……)

 雅紀が裕太の部屋から出てくる、その理由。しかも、こんな時間に。

 それを考えた時、何故だか突然、尚人の脳内に雅紀がかつて言ったセリフが蘇った。

 ––––ナオの代わりに裕太を喰っちまおうか。

 ––––裕太ともしてみる? 案外あいつ、抵抗ないかもよ。

 尚人の心臓が、どくんと跳ねた。

 いや、いや、いや、いや……。

 とっさに否定しつつも、

 まさか……。と、どこかで思う。

 ––––俺が我慢させたから?

 ––––それとも、裕太ともしてるから、()れなくてもよかったってこと?

 刹那。脳みそが、変なふうに揺れた。

 一気に耳の奥がざわついて、ノイズがかかる。

 手足が急速に冷え、鼓動が激しく全身を打つ。

 やばい。

 尚人は、自覚症状に焦る。

 ゆっくり、ゆっくり、呼吸をしなければ––––。

 そう思うのに、返って息が詰まる。

 体が硬直して、嫌な汗が全身から噴き出す。

 その汗が背筋を流れていく不快な感覚は明確なのに、それ以外の感覚も意識も剥ぎ取られるように一気の遠のいていく。

 支えが欲しくて尚人は壁に手をつこうとしたが、天地が逆転した感覚に、もはや壁がどちらにあるのか定かではなかった。

 音を出してはダメ。音を出したら、上の二人に気づかれる。

 尚人は、上げそうになった声を奥歯を噛み締めて耐える。

 世界が回る。

 体が闇に落ちていく。

「ナオ!」

 遠くで雅紀が自分の名を呼んだ気がしたが、尚人の意識はそこで途絶えた。

 

 

 * * *

 

 

「今日は、もう寝ろ。続きは、また帰ってからだ」

 雅紀はそう言ってから裕太の部屋の扉を閉める。そしてプリントアウトされた紙の束を手に自分の部屋へ足を向けたその時、雅紀は微かな物音を耳に拾って足を止めた。

(何だ?)

 階下で何かの気配がする。

 ––––ナオは、もう寝たはずだが……

 そう首を捻りつつも、

(ひょっとして、トイレに起きたかな?)

 そう思った、直後。

 どさり、と重たい何かが床に倒れる音が響いて、雅紀ははっとした。

 ––––まさか。

 雅紀は階段を数段降りて下を覗き込む。そして、そこに横たわる人影を見つけて、顔面からさっと血の気が引いた。

「ナオ!」

 慌てて階段を駆け下り、雅紀は尚人の体を抱き起こす。

 意識のないままに尚人は体を痙攣(ひきつ)らせ、全身を硬直させていた。これまで何度も見てきた尚人のパニック症状だ。しかし、(うめ)き声さえ上げず、ただただ歯を食いしばるその様子が今までと違って、蒼白な顔は呼吸をしているのかどうかさえ定かではなかった。

「ナオ! しっかりしろ!」

 雅紀は、尚人の頬を叩く。しかし、反応は返らない。雅紀の声に何か非常事態が起きたと察した裕太も部屋から飛び出してくる。バタバタと激しい足音を響かせて階段を降りてきた裕太に、雅紀は鋭く言い放った。

「裕太! 薬と水! 早く持ってこい!」

 一目でどういう状況か察したのだろう。裕太は返事をする間も惜しいとばかりにすぐさまキッチンへ走り、そして尚人の部屋から薬を取ってくる。雅紀は裕太から薬と水を受け取ると、食いしばった歯列を無理にこじ開けて噛み砕いた薬をねじ込み、口移しで水を注ぎ込んだ。

 祈るような気持ちで。二度、三度。

 それを繰り返すと、噛み締めた奥歯が少し緩んで、尚人の口から喘ぐような細い呼吸音がし始めた。

「いい子だ、ナオ……。そう、ゆっくり。吸って……、吐いて……」

 雅紀は、腕に抱いた尚人の背中をゆったりとさする。

「ゆっくり。そう、……いい子だ、ナオ」

 呼吸のリズムを先導するように、雅紀もゆったりと呼吸する。

 大きく吸って、静かに吐き出す。

 それを何度も繰り返す。

「いい子だ、ナオ」

 ぴったりと胸を合わせ、背中をゆったり撫でながら雅紀は囁く。

 するとやがて、尚人の呼吸が雅紀の呼吸とシンクロし、強張(こわば)っていた四肢の力がスーッと抜けたかと思うと、雅紀の腕の中で、くったりと尚人の頭が落ちた。

 雅紀は大きく安堵の息を()く。

「いい子だ、ナオ」

 ぎゅっと抱きしめ、頭を撫で、雅紀は尚人を抱き上げると、その場に立ち竦んでいた裕太に、もう大丈夫だと視線で合図する。裕太は尚人に一度視線を向け、コクリと喉を上下させてから雅紀に視線を戻すと、ゆっくり頷いてから静かに階段を登って行った。

 雅紀は、尚人を部屋へ運ぶと、そっと静かにベッドに寝かせた。そして、吹き出した汗をタオルで(ぬぐ)ってやり、汗で濡れたパジャマも下着も全部新しい物に着替えさせてやる。そうするとようやく、いつもの見慣れた尚人の寝顔になった気がした。

 雅紀はベッドの端に座って、静かな呼吸を取り戻した尚人の寝顔を見つめながら髪を梳く。何度も、何度も、静かに、優しく。それから尚人の横に添い寝して、タオルケットを被り、尚人を腕に抱き込んだ。

 ––––何で今頃……

 雅紀は、それが一番()せなかった。

 もう1年以上、尚人にパニック症状は出ていなかった。正直なところ、もう大丈夫だと思い込んでいた。暴行事件の被害にあった直後は、大きな音や、背後からの接触など、それこそ些細なことでパニックを起こしていた尚人だが、ひと月も経てば症状は随分と収まり、以降は、身体への危害を連想するような、よほどショックなことが起きない限り症状は出なかった。

 それから1年。雅紀の密かな心配も杞憂に終わるほど尚人の症状は落ち着いた。かのように見えていたのに––––。

 二人で甘い時間を過ごした後の、何でもない平日の夜に、尚人が一人パニックを引き起こしたことが、雅紀にとっては衝撃だった。

 一体何が引き金になったというのか。

 その理由が全くわからなことも衝撃だった。

 理由がわからなければ、また同じことが起きるかもしれない。その可能性が否定できなことが怖い。

 もしこれが、自分が不在にしている時に起きていたら?

 それを思うと、雅紀はゾッとした。

 部屋で一人発作を起こしていても、呻き声さえあげないのでは、二階の裕太が気づくはずがない。朝、白く冷たくなってベッドで死んでいた母の姿を思い出しても今更動揺することもない雅紀だが、その姿に尚人の姿がちらついた時、雅紀は心臓に痛みが走った。

 ––––ナオ、ナオ、ナオ、ナオ……

 雅紀は、腕の中の尚人をぎゅっと抱きしめて、おぞましい妄想を振り払う。尚人の匂いを嗅いで、温もりを全身で感じて、それでも消え去らない恐怖に雅紀は震えた。

 傷は見えないだけで、まだ根深く尚人を苦しめているのだ。それを思い知らされて、雅紀は胸が締め付けられる思いだった。

 

 

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