「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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縹色(はなだいろ)ノ雲 8

 『ガリアン』の主催する、メンズ・モード・コレクションの本番が無事終了し、人でごった返すホテルの打ち上げ会場で、雅紀は仕事の仕上げとばかりにいつものごとく各方面への挨拶回りをしていた。

 一般的に、厚顔不遜を地で行く、と思われがちな雅紀だが、義理を通すべき相手への挨拶は欠かさない。いくら人気があっても、モデルは使ってもらってなんぼの世界であり、挨拶と謝辞は仕事の基本、というのが雅紀の姿勢だからだ。それは、媚びることとは違う。驕らず、慢心せず、謙虚に、それでいて矜持を失わず。譲れない一線の引き場所を間違ってはいけない。

 そうやって飲食もそこそこに、ひと通りの挨拶回りを終えて、会場を後にしようかと思っていたその時、一人の男性がスッと雅紀に歩み寄って来た。

「モデル事務所『イニティウム』の二木と申します」

 男は、そつがない笑顔と隙のない態度で、簡潔な自己紹介と共に名刺を差し出す。タイミングがバッチリすぎて、雅紀は無視することもできなかった。

「イニティウム、ですか……」

 雅紀は名刺を受け取って、二木と名乗った男を見やる。雅紀の記憶違いでなければ、目の前にいる男は確か『イグニス・プロダクション』の遣手マネージャーだったはず。それこそ、業界最大手『アズラエル』の敏腕マネージャーである高倉を唯一出し抜ける男として有名な––––。

 その『イグニス・プロダクション』の名刺を出してこないことが、返って雅紀の警戒心を刺激した。

 『イグニス・プロダクション』は、事務所規模こそ小さいものの、有望マネージャーを積極的に独立させる『起業システム』により独自の傘下グループを築き、このグループ連携によって芸能業界を牛耳っていると言って過言ではない有名な事務所だ。

 ただし、この繋がりを積極的には見せない。『イグニス・グループ』として宣伝もしない。ゆえに、業界に疎いものは、この事実を知らなかったりする。

 そう言った者が、事務所単体の規模だけを見て侮ると痛い目を見る。その典型的な相手が、『イグニス・プロダクション』であり、その傘下にある事務所であると言えた。

「今年立ち上げたばかりの事務所です。どうぞ、お見知り置きください」

 雅紀は、諸々湧き上がった感情を一切顔に出すことなく、もらった名刺を内ポケットに仕舞うと、自分の名刺を取り出す。こういう場で名刺を出して来たということは、名刺が欲しいということだ。その程度の大人の常識は身につけている。

「オフィス原嶋所属のMASAKIです」

 雅紀は名刺を差し出す。雅紀の名刺は至ってシンプルだ。所属事務所と名前と事務所の電話番号しかない。それはもちろん、モデルとしても人としても尊敬している加々美蓮司のシンプルな名刺に倣っているからだ。

「ありがとうございます」

 二木は笑顔で名刺を受け取る。

「それでMASAKIさん。個人的に連絡を差し上げたい場合は、どちらへ連絡すればいいですか?」

「個人的、ですか?」

 雅紀は二木を見やる。

 仕事の話は事務所を通す。当然、そんな常識わかり切った上でのこの質問だ。

(ってことは、こいつが加々美さんが言ってたやつか)

 つまり、尚人を狙う事務所の存在のことだ。

 さて、どう答えようか。

 刹那迷う。その時––––

「よう、雅紀。ここにいたのか」

 聴き慣れた声がして、加々美が姿を見せた。周囲が小さくさざめく。しかしそんなことは慣れっことばかりに、加々美は気にする様子もなく雅紀の横に並んだ。

「捜したぜ。今日のステージもばっちり決めてたな」

「ありがとうございます」

「あいかわらず、お前のウォーキングは惚れ惚れするぜ」

 加々美はそう言って男の色気たっぷりに微笑み、やっと二木の存在に気づいたように視線を向けた。

「おっと、『イグニス・プロダクション』の二木さんじゃないですか。失礼。雅紀と歓談中だったかな?」

「加々美さん。ご無沙汰しております。今は、MASAKIさんにご挨拶させていただいておりました。それと、加々美さん。実は私、『イグニス・プロダクション』は退社致しまして。今は新しく立ち上げたモデル事務所『イニティウム』で代表を務めております」

 二木はそう言ってもう一枚名刺を取り出すと、加々美に差し出す。加々美はにっこり笑顔で名刺を受け取った。

「やっぱり、出来る男は独立が早いな。で、挨拶は…、もう済んだみたいだな」

 加々美は、二木の手にある雅紀の名刺を視線で指して軽く笑む。

「じゃ、雅紀。話があるんだ。ちょっと付き合え」

 加々美はそう言って雅紀を促す。雅紀は二木に軽く会釈をしてから、先に歩き出した加々美の後を追った。

 二人は会場を抜け、エレベーターに乗り込み、ホテル最上階のラウンジに入ると、加々美が先導するままに窓際の席に座った。

「こいつとは、どこまで話を?」

 加々美は席に着くなり、手に持ったままだった名刺を軽く掲げる。

 雅紀は小さく息を吐いた。

 やっぱり、そいうことか、と。

「名刺を交換しただけですよ。個人的な連絡はどこにしたらいいのかと聞かれて、答える前に加々美さんが現れましたから」

「じゃ、タイミングバッチリだったわけだ?」

「そうですね」

 雅紀の名刺に事務所の電話番号しか書かれていないことは、加々美も知っている。そもそも自分で営業するわけではない事務所所属のモデルが名刺を持つ必要はないし、実際名刺を持たないモデルも多い。が、雅紀は加々美のアドバイスに従って、デビュー当初から名刺を携帯していた。

「顔と名前を売るアイテムは、持ってた方が得だろう?」

 それが加々美の言だったが、色々苦労はしてもまだまだ子供にすぎなかった雅紀に、大人のマナーと責任を、押し付けがましくない方法で教えてくれたのだと思っている。

「先日、加々美さんが言ってたのは、彼のことですか?」

「ああ、そうだ」

 加々美は頷く。

「高倉が警戒していたのも、二木が動いているって噂があったからだ。やつには濱中健太を横取りされた因縁があるからな」

 濱中健太は、高校生でモデルとしてデビューすると、その甘いマスクと十代らしからぬ適度なキザっぽさが若い女性に受けて一気に人気に火がつき、すぐに俳優転向して、今やドラマに映画に引っ張りだこの超売れっ子役者だ。

 正直なところ、雅紀は、濱中健太に興味も関心もないし、彼のスカウト劇の裏に業界内のどんな駆け引きがあり、その結果どんな確執が生じていたとしても、どうでもいい他人事だが、そのリベンジマッチを尚人を使ってしようというのでは迷惑な話でしかない。

 だが、「迷惑」と切って捨てれば済む話ではないのが厄介なところだ。

「で、尚人くんと話は?」

「まだです」

「––––そっか」

「というか、加々美さん。すみませんが、前回の話、なかったことにしてもらえませんか?」

 雅紀が言うと、加々美は驚きも戸惑いも見せなかったが、珍しいほどの静かな視線を雅紀に向けた。

「理由は?」

「俺に出来ることがあるうちは、まだ、それを手放したくないからです」

 尚人のスカウト交渉を自分に持ちかけてくると言うのなら、それに対応すればいい。それだけの話だ。そもそも答えは決まっている。百回交渉されても、同じ答えを百回繰り返すだけだ。

 加々美の提案は、もったいないくらいにいい話には違いない。自分以外にもう一人、尚人の防波堤となる大人ができるのだ。雅紀的にも安心感は増す。

 それは、わかっている。

 しかし––––

 そう、せめてまだ、尚人の保護者でいられるうちは。保護者としての責任を全うさせて欲しい。いや、その責任の一端でも、他人に譲りたくない。

 雅紀が改めて強くそう思うようになったのは、もちろん、先日の尚人のパニック発作にある。あの一件で雅紀は、すっかり癒えたと思っていた尚人の傷が、まだ根深く尚人を苦しめているのだと見せつけられた。

 それなのに、尚人は欠片も弱音を吐かない。

 あの日も翌朝、尚人はいつも通り五時に起きて、朝食作りを開始した。

「ナオ、大丈夫なのか?」

 問えば、尚人は

「心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫だから」

 そう繰り返すだけ。しかし雅紀は心配で、一日くらいは様子見で休ませたかったのだが、一日の遅れを取り戻す大変さを考えると休みたくない、と言われると無理に休ませるわけにはいかず。しかしそれでも、自転車での登校だけは認めるわけにはいかなくて、半ば強引に車での送迎を承諾させたのである。

「何があった?」

「え?」

 加々美の唐突な問いかけの意味がわからず、雅紀は戸惑う。

「前回と同じ理由で断るなら、話を持ち出した時に断りゃ済む話だ。いったん持ち帰った上で、しかも尚人くんと話し合うでもなく、そう言う答えを返すってことは、何かあったってことだろう?」

 加々美の言葉に、雅紀は小さく息を吐いた。

 これだから、侮れないのだ。

 些細な情報を拾い集めて見逃さない。人の機微に聡く、それでいて懐深い。

 加々美に対しては、安易なごまかしなど通用しないのだ。

「––––ナオの抱えていた傷は、俺が思っていたよりも深かったってことです」

 雅紀が、口に苦いものを感じながらぽつりと告げると、初めて、加々美の眉がひっそりと寄った。

「どう言うことだ?」

「加々美さんには話していたと思いますが、ナオは、暴行事件の被害にあったことで、時々パニックを起こすようになりました。最初はそれこそ、思いがけない物音とか、背後からの接触とか。そんな些細な刺激で、パニクって発作を起こしていたんです。ただ、それもずいぶん落ち着いて。今年に入ってからは、全く症状が出たことがなかったんですけど。––––なのに先日、ナオが急にパニック発作を起こして。夜、一階の廊下で一人倒れていたんです。……本当に、肝が冷えました」

 雅紀は深く息を吐き出した。

「なんで急にナオが発作を起こしたのか。わからないんです。……というか、ナオが今まで黙って飲み込んできた諸々の出来事は、ナオが自分で自覚してるよりも、深くナオを傷つけているんだと。そしてその傷は、見えないだけで、まだナオを苦しめているんだと。そう思ったら……」

 加々美は沈黙する。

 これで、加々美が黙って引いてくれたらいいのだが。

 雅紀がそんなことを思っていると、

「––––雅紀、お前もだ」

 加々美が静かに言葉を発した。

「これまでの出来事に、自覚しているよりも深く傷ついているのは、お前もだ。雅紀。––––俺には、そう見える」

 雅紀はわずかに目を眇めた。

「親父さんの裏切り。おふくさんの死。お前は、俺に取っては何でもないって顔をして来たけど、そのことに深く傷いついて来たのは、お前も、同じじゃないのか? 幼い弟たちをどうにかしなきゃと考えるあまり、自分が傷ついていることにすら、無自覚だったんじゃないのか?」

 加々美の真摯な言葉に、雅紀は心の中だけでうっそりと笑った。

 加々美は知らないから、そう言えるのだ。

 自分は、被害者ではない。

 尚人にしてみれば、慶輔に負けず劣らずの、(いな)、慶輔よりもっと卑劣な加害者だ。劣情の果てに我を忘れて強姦し、その後は怯えて身を竦ませる尚人を半ば脅してセックスを強要した。体に快楽を教え込み、逃げられないように深い楔を打ち込んだ。尚人が二重禁忌にどれほど怯えようとも、愛情に飢えた状況では最終的には自分に縋るしかないのだとわかり切った上での確信犯だった。

 尚人がパニック発作を起こすようになった原因の半分は自分にもある。それさえも、雅紀は自覚している。何も知らない体に、突然、なんの労りもなく、いきり立った物を突っ込まれたのだ。その恐怖と痛みで意識を飛ばした尚人は、翌朝目を覚ましたとき、それこそ雅紀の顔を見るなり、パニックを起こして泣き叫んだ。

「いや、やめて。こないで!」

 悲痛な尚人の叫びは、今でも耳の奥にこびりついている。

 あのとき雅紀は、死にたくなるほどの後悔と同時に、暗い喜びに血が騒いだ。

 無垢な弟をものにする、願ってもないチャンスじゃないのか。体の関係が先にできてしまったのなら、あとは何をやっても同じだろう、と。

 その内なる囁きに、雅紀は罪悪感など感じることなく素直に従ったのだ。

「だったら、どうだと言うのです?」

 雅紀は低く問う。

「俺が、仮に、加々美さんの指摘する通りだったとして、何か変わりますか?」

「見えない傷に苦しんでいる尚人くんを守ってやりたいとお前が思うのと同じようなことを、俺がお前に対して思うことはおかしなことか?」

 静かな加々美の言葉に、雅紀は刹那目を見張って、沈黙した。

 加々美の視線はどこまでも真摯で。茶化しているわけでも、揶揄(からか)っているわけでもないとわかる。

 わかりはするが、雅紀は返答に窮した。

 自分はもう庇護されるべき子供ではない。成人した、いい大人だ。仕事ではそれなりの評価を得、経済的にも自立している。

 そんな自分も、加々美から見れば、まだ子供同然、と言うわけだろうか。

「勘違いするなよ」

 まるで雅紀の心の声を聞き取ったかのように、加々美が柔らかく笑った。

「俺は、お前のこと、お前が思っている以上に評価してんだ。この世界にお前を引っ張り込んだのは、俺の業績だって胸張れるくらいにな」

「………」

「尚人くんのバックにお前がいるように、お前のバックには俺がいる。ま、今のところはそれだけ、覚えておいてくれればいい」

 太く笑う加々美に、雅紀は何も言えなかった。

(本当に、この人は……ずるい)

 少しだけ体温が上がった気がして、雅紀は、そっとため息を()いたのだった。

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