定時に下校して裕太と夕飯を囲む。いつもと代わり映えのない日常の一コマ。しかしあの日以来、尚人は裕太と二人きりの時間が何となく気詰まりだった。
あの日、––––深夜、雅紀が裕太の部屋から出てきた気配がしたあの時。本当は二人で何をしていたのか。知りたい気持ちと、知りたくない気持ちがせめぎ合う。
案外何でもないことのような、––––例えば、今後の進路についての相談をしていたとか、そんなこともあり得るような気がして。ならば、さらりと聞いて答えを知ってしまった方がスッキリすると思う一方で、思っている通りだったらどうしようという恐怖心が尚人の口を重くする。それに、もしそうだったとして、果たして自分にそれを素直に言うだろうか。そう思うと、問うこと自体意味がない気もして––––。そんな思考のループに尚人はずっぽりと
唯一の救い、というべきは、あの日以来、雅紀はセックスをするしないにかかわらず帰ってきた日は必ず尚人と一緒に寝るようになったことだ。おそらくそれは、久々に起こした発作を心配してのことだとは思うが、それでも朝目が覚めた時、雅紀が隣に寝ていると尚人は心底ほっとした。
––––まーちゃんだけは、裕太にだって取られたくない。
そんな自分のエゴを、尚人は自覚する。自覚して、自己嫌悪に陥る。裕太だって長らく抱え込んでいたやり場のない感情をようやく飲み込んで、今、何とかそこから這い上がってこようとしている中、尚人が癒されたのと同じ種類の愛情が必要かもしれないのに。どうしてもそれだけは許せない。裕太の兄でありながら、そう思ってしまう。そんな自分の狭量さを尚人は自覚しないわけにはいかなかった。
* * *
あの日以来、裕太はどことなく気持ちが落ち着かない。
あの日、と言うのはもちろん、尚人が久々に発作を起こした日のことだ。
あの日、雅紀に話すべきことを話し終え、今日はここまで、となった後、廊下から響いてきた雅紀の切羽詰まった声に、裕太は驚いて部屋を飛び出した。
雅紀が声を上げることは滅多にない。それは、昔も今も同じで、優等生の皮をかぶっていた頃はもちろん、大人になってからは、いっそ冷淡に思える程低く落ち着いた
慌てて部屋を飛び出して階段を駆け下りると、尚人は雅紀の腕の中で意識のないまま体を硬直させていた。ひと目見るなり、パニック発作だと分かった。わかりはしたが、なぜ今なのか。裕太は驚きを隠せなかった。
尚人が事件の後遺症からパニック発作を起こすと知ってから、裕太はしばらく尚人が寝付いた後、そっと部屋の様子を伺うことがやめられなかった。自分が気づかない間に尚人が発作を起こしていたらどうしよう。そんな恐怖が裕太を支配していた。
しかし実際は、寝付いてしまえば尚人が発作を起こすことはなかった。尚人の発作はどうやら、身体への危害が連想されるような場合に起きるみたいだったからだ。だから、大きな物音がダメで、テレビの中であっても暴力的なシーンがダメで、急に事故や怪我の話をされるのがダメなのだ。
それゆえ裕太は、有村宏之に突き倒されてあちこちアザができた時、自分の怪我のせいでせっかく落ち着いた尚人の発作がぶり返しやしないかと心配した。実際は自転車で
なのに––––
なぜあの日、尚人は急に発作を起こしたのか。雅紀もわからないみたいだった。だからなのか、あの日以来雅紀の過保護ぶりは拍車がかかり、それこそ寝ても覚めても尚人のそばを離れない。
まあ、それは別にどうでもいいのだが……。
裕太の気持ちが落ち着かない理由は、実はそこではない。近頃尚人の様子がどことなくおかしい。そんな気がするからだ。二人だけの食卓に会話が少ないのは前からで、話しかければ普通に答えが返る。なのに、どことなく尚人の雰囲気が違う気がする。自分をじっと見る静かなその
––––ひょっとして、ばれたかな。
そんな思いがよぎる。
尚人が久々に発作を起こして一階の廊下で倒れていたのは、尚人のことが載っているネット掲示板を見つけた報告を雅紀にした直後のこと。タイミング的に話を聞かれていたとは思えないが、雅紀が裕太の部屋から出てきたのには気づいたかもしれない。
––––二人でこそこそ何してたの?
––––俺に言えない話?
尚人の視線がそう言ってるように見えるのは、隠し事をしているという後ろめたさゆえだろうか。
(うーん。素直に言うべきか……)
しかし、全て勘違いだったら自爆もいいところ。そもそも、尚人には黙っておこうと提案したのは自分の方で。それはもちろん余計な騒音に煩わされることなく尚人には受験に専念して欲しいとの思いからだが、家族間で隠し事があると言うのは実際やってみると何とも
そもそも自分は、それが原因で全てを拒否っていたのだ。
どうして父と母がこんなことになってしまったのか、知りたいだけだったのに教えてもらえずに腹が立った。受験が終われば帰ってくると言っていた沙也加がなぜ帰ってこないのか、理由が全くわからず見捨てられた気持ちでいっぱいだった。母が死んだと言うのに泣きもしない、薄情な兄二人を軽蔑した。堂森や加門の祖父母が裕太を引き取りたいと言う話を断らない雅紀に自分は不要の存在だと言われている気がして頭が煮えた。
自分は父に捨てられ、姉に置き去りにされ、母に先立たれ、長兄には存在を無視されている。そっちがそうならこちらも。裕太の引きこもりは、そう言った反発心の
そう言った諸々の出来事の背景にあったものを全て理解した今になってみれば、自分の行動が、思考パターンが、いかに自分勝手で子どもじみていたかわかる。自分が拒否していたものに実は守られていたのだと言うことも、今は理解している。だから今度は自分が家族を守れる立場になりたい。––––そう思うのだが。果たして自分のやり方は合っているのか。やり方を間違えているから、尚人が発作を起こしたのではないのか。そんな気もしてならない。
「ナオちゃん」
声をかけると、何? と言う視線が返る。
尚人にまっすぐ視線を向けられると、裕太はなぜかいつもトクンと小さく心臓が跳ねる。
理由は、わからないが……。
「森川のおばちゃんが言ってた不審者って、あれからどうなったの」
「どうって……」
尚人は箸を止めて、わずかに思案顔をする。
「具体的なことは何も聞かないかな。巡回してるパトカーは時々見るけど」
「……ふーん」
「何か気になることあるの?」
「いや、そう言えばどうなったんだろうって。ちょっと気になっただけ」
「あ、そう言えば裕太。前、
問われて裕太は、うっと言葉に詰まる。ゆるーく探りを入れるつもりが、
しかし、逆に考えると、尚人にこれまでのことを切り出すチャンスか、との思いもよぎる。実は
「あー、あの件ね……」
裕太が口を開きかけたその時だった。家のインターフォンが鳴った。思わず時計を見る。午後七時。
「誰だよ、こんな時間に」
裕太はうっそりと眉を顰め、尚人はきょとんと玄関の方を振り返った。
「雅紀兄さん、のわけないね。宅配便かな?」
尚人の呟きに裕太はさらにきつく眉根を寄せた。尚人に届いていた不審物の件を思い出したのだ。近頃はめっきり届かなくなっていたし、配達時間も基本昼間だったのですっかり油断していた。考えてみれば、本人が確実に在宅している時間に届くよう時間指定だってできるのだ。
「あ、俺出る」
裕太は立ち上がる。尚人への荷物ならその場でソッコー受け取り拒否だ。尚人には誤配だったと言えば済む。そう思いつつインターフォンに歩み寄れば、せっかちな来客が再びインターフォンを鳴らした。
(ったく、誰だよ)
そう思いつつ、室内機の画面を覗き込み、裕太はそこに写る人物に思わず目を見張った。篠宮家のインターフォンは、雅紀がセキュリティーを強化した時に来訪者が確認できるカメラ付きに変わっている。
(って、こいつ。あいつの弟じゃん)
瑛だ。間違いない。
(こんな時間に何の用だよ)
一度訪ねてきたときの用件が用件だっただけに、当然いい感情は湧かない。裕太は警戒心バリバリで通話ボタンを押した。
「はい」
『話がある。出てこい』
「は?」
『話があるって言ってんだよ! このクソ兄弟が!』
「お前、いきなり人ん
前回も大概だったが、今回はあからさまに喧嘩腰だ。いや、喧嘩腰を通り越してもはや恫喝である。
『ぐだぐだ言ってねーで、さっさと出て来いよ! それとも、怖くて出てこれねーか。この引きこもりの中卒野郎!』
「裕太。どうしたの?」
インターフォン越しの怒鳴り声に何事かと尚人もやって来る。そして画面に映る来客の姿を確認して驚きの声を上げた。
「って、瑛君⁉︎ どうしたのこんな時間に?」
『どうもこうもあるか! さっさと出て来いって、言ってんだろーが!』
刺々しく言葉を吐き捨てながら、瑛は画面越しに拳を振り上げてカメラを殴りつける。直後、画面にノイズが走って通信が途切れた。
「何? どうしたの? どういうこと?」
尚人の呟きはそのまんま裕太の疑問だったが、そんなことより裕太は尚人の呼吸が乱れたことにハッとした。
「ナオちゃん」
外からは、途切れることなくワーワーと声を張り上げて騒ぐ瑛の怒鳴り声が響いてくる。インターフォンが切れたことに気づいたのか、今度はダイレクトに玄関を蹴る音がした。
「クソ兄弟が! お前らのこと、ぜってー許さねぇからな! ざけんなよ! 俺たちをマスコミに売りやがって」
外から響いてくる怒鳴り声は、相変わらず訳がわからない。しかし、裕太はすでにそんなことどうでもよかった。
「ナオちゃん。呼吸して!」
言われるまでもなく、尚人も必死に呼吸を取り戻そうとしているのがわかる。しかし、今度は自転車を蹴り倒すような派手な音がして尚人の体がびくりと震えた。直後、尚人の顔から一気に血の気が引く。見開いた視線が固まり、青ざめた唇が引くつくように痙攣する。そして尚人の体はそのままグラグラと膝から崩れ落ちた。
完璧にパニック発作だ。
(薬!)
裕太は、慌てて尚人の部屋に走る。いつもの引き出しから薬を取り出し、流しにあったコップをひっつかんで溢れるのも構わず水道水をざっと注ぐ。
「ナオちゃん、薬! 飲める? 口開いて!」
裕太は体を硬直させた尚人の口を無理にこじ開けて薬を突っ込むと、口移しで水を注ぎ込む。その間も外からの騒音は止まない。そのせいなのか、いつもは薬を飲めば戻る呼吸が戻らない。
怒鳴り声に続いて、自転車を窓にぶつける音がした。ガシャン! というガラス音と共に ドン! という振動が家中に響く。
(くそっ!)
瑛の存在に裕太は苛立つ。
いっそのこと外に出て、バットでぶん殴ってやろうか。
そんな思いがよぎる。
しかし、
––––窓ガラス、全部防犯ガラスに変えたから。
––––ハンマーで叩かれても簡単には割れない。万が一、家に不審者が来ても施錠さえちゃんとしとけば侵入は困難のはずだから。
家のセキュリティーを強化した時の雅紀の言葉を思い出し、裕太は気持ちを鎮めるため大きく息を吸い込んだ。
外の奴は放っておいていい。どうせ、家の中には入れない。それよりも尚人だ。薬が効かないなら、すぐに病院へ連れて行かなければならない。
裕太は、ゆっくり息を吐き出して立ち上がると、救急車を呼ぶべく玄関脇の電話に歩み寄って受話器を取る。その時にはすでに、近所の誰かが通報したのか、遠くからパトカーのサイレンが響いていた。
* * *
深夜の病院。雅紀は、
「ナオ」
ベッドに寝かされた尚人の顔を覗き込む。寝息さえ立てないのはいつものことで、静かに眠る尚人の表情に雅紀はほっと安堵の息を吐いた。
顔色はわずかに冴えないが、呼吸は安定している。薬が効いているのだろう。
仕事が終わっていつものごとく携帯をチェックし、入っていた裕太の留守電を聞いた雅紀は、一体全体何が起きたのかすぐには理解できなかった。
『瑛が急に家を訪ねてきて、わーわー騒いだせいで、ナオちゃんが発作を起こして。薬飲ませたけど効かないから、救急車呼んで、今病院。ナオちゃんが前入院してた榊病院に搬送してもらったから』
メッセージはそれだけだった。
瑛君が家に?
それでナオがパニック発作?
疑問だらけだったが、とにかく雅紀は榊病院へ急いだ。
榊病院は雅紀の顔が効く。尚人が以前入院していたのでカルテもある。実は今もお守りがわりの薬を時々処方してもらっていて、そのおかげで先日久々に起こした発作の時も薬で対応することが可能だったのだ。
「雅紀にーちゃん?」
雅紀が尚人の髪を梳いて額に軽くキスしていると、尚人の横で眠りこけていた裕太がぼんやりとまぶたを持ち上げた。
「今着いた」
雅紀が告げると、裕太は大きく伸びをしながら起き上がる。
「今何時?」
「十一時過ぎ」
「あっそ。ひょっとすると来れないかもって思ってたんだけど。仕事、大丈夫なのかよ」
「あのメッセージを聞いて、行かないって選択肢はないだろう。で、一体何があったんだ?」
雅紀が問うと、裕太は眠たげに目を擦りながら、思い切り顔を
「何がなんだかわかんねーよ。いきなりあいつが家に来たんだから」
「あいつって、瑛君?」
「そう。いきなりやって来てインターフォン越しに訳わかんないこと怒鳴り散らして。話があるから出て来い、俺たちのことマスコミに売りやがって、とか何とか。で、あいつインターフォンぶった叩いて壊して。そのあと外の自転車蹴り倒したり、窓に投げつけたりして。それで、その音でナオちゃんが発作起こして。あいつが騒ぎ続けるせいか、薬飲んでもナオちゃんの発作が
裕太の話に雅紀はひっそりと眉を寄せた。
(マスコミに売るって、ひょっとしてアレのことか?)
先日週刊誌が慶輔一周忌にかこつけて特集記事を載せたことは知っている。そしてそれをテレビのワイドショーが取り上げたことも。何社かのメディアが雅紀のコメント欲しさに押しかけて来たからだ。当然、完全黙殺を貫いたが。
(って、あの記事を俺が書かせたとでも思ったのか?)
そんなことするメリットは雅紀には1ミリもない。どうして瑛がそんな勘違いをしたのか、皆目見当がつかない。
「で、瑛君は?」
「近所の誰かが警察に通報したみたいで。駆けつけた警察に連行された。あとは知らねー」
(それって現行犯逮捕されたってことか?)
正直瑛のことなどどうでもいいが、もしそうなら、相当マスコミを騒がせることになるだろう。何しろ『篠宮』の名を出すだけで視聴率が跳ね上がる、なとど揶揄されているのだ。その『篠宮』の一人が逮捕されたなどマスコミ格好の
ただ、それに尚人を巻き込むことだけは許さない。瑛のやったことの尻拭いは、あちらの家族だけでやってもらわなければ。そして、今後あちらの家族がどうなろうと雅紀の知ったことじゃない。
だが……
(
それを考えるとため息が出そうになる。
白石看護師が、警察が雅紀と面会したがっていると告げに来たのは、まさにそのタイミングだった。