「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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縹色(はなだいろ)ノ雲 11

「おじいちゃん、おばあちゃん。おはよう」

「おはよう、沙也加」

「うむ。おはよう」

 平良市清原にある加門の家でいつも通りの朝が始まる。

 一時期、ありもしない恋愛騒動でマスコミに付け回されるのにうんざりして都内のウィークリーマンションに一時的に避難していた沙也加だったが、今は元の通り加門の家に戻っている。それは祖父母の強い希望があったから、なのだが、沙也加的にもあのまま加門の家を出ていくことにならずにほっとしていた。

 やはり誰もいない家に帰るのは寂しい。ほんのわずかな期間の一人暮らしだったが、沙也加はそれをしみじみと感じた。

 それに、––––沙也加にはもう、この加門の家以外帰れる場所がない。都内のマンションに一人でいた時、千束の家に帰りたいと必死の思いで雅紀に電話を掛けて懇願したのに、雅紀にはっきり言われてしまったのだから。「あの家におまえの居場所なんてない」と。冷たく切り捨てるような声音で。

 あの時のことを思い出すだけで、沙也加の心は冷たく震える。辛すぎて息苦しささえ覚える。だから、あえて考えないように、思い出さないように、胸の奥底に押し込めて。何気ない日常の向こう側へ追いやってやり過ごしているのだ。

 今日の朝ごはんは、南瓜の味噌汁に塩ジャケとほうれん草のおひたし。一汁二菜の簡素な和食が朝の定番だ。沙也加は定位置に座って「いただきます」と手を合わせる。朝の時計代わりにつけっぱなしにしてあるテレビから『MASAKI』の名が聞こえて来たのはその時だった。

《では、続いてのニュースです。昨夜七時ごろ、モデル『MASAKI』さんの自宅敷地内に不審者が侵入し、大声を上げて暴れていたところを駆けつけた警察官によって逮捕されると言う事件が起きています。現場に中川キャスターが行っています。中継を繋いでみましょう。中川さん》

《はい、中川です。私は今、『MASAKI』さんの自宅近くに来ています。通勤通学の方以外は通行人のいない民家が立ち並ぶ閑静な住宅街です。私が今立っているここから、この路地を入って行った先に『MASAKI』さんのご自宅があるということなんですが、ご覧の通り警察の規制線がありましてこれ以上先には進めません。これより先に入るためには、警察の方に住民であることの確認を受けなければならず、私の他にもマスコミ関係の方が数人いらっしゃるんですが、誰もこれより先には近づくことができない状況です。近所の方のお話では、昨夜七時過ぎ頃、大きな怒鳴り声と共にガラスが割れるような音が響いた、ということなんですが、ここからは『MASAKI』さんのご自宅が現在どのような状況になっているのか、というのは確認することができません》

(え、何。どういうこと?)

 沙也加は思わず画面に食い入る。

 ––––千束の家に不審者が侵入?

 ––––ガラスが割れる音?

 ––––それって、家の中にまで入って来たってこと?

 画面に写るのは確かに記憶にある住宅街。学校への登下校で何度も通った千束の家周辺だ。

《中川さん。今、ご自宅に『MASAKI』さんはいらっしゃるんですか?》

《それなんですが、昨夜事件が起きた時間帯は、グラビア撮影のため都内のスタジオにいらっしゃったことが確認されています。つまり、事件のあった時間帯、『MASAKI』さんは留守だったということなんですが。その後の帰宅については確認が取れておりません》

《『MASAKI』さんは確か、未成年の弟さん二人と同居されていましたよね? では、昨夜は弟さんが二人で家に居るところを暴漢に襲われたと言うことなんでしょうか?》

《そうだと思われます。その弟さんについては気になる情報が入っておりまして。昨夜は、パトカーと同時に救急車も現場に駆けつけたことがわかっているんですが、その救急車で弟さん達が救急搬送されたのではないかとみられています》

《それは、『MASAKI』さんの弟さん達が暴漢に襲われて怪我をした、ということなのでしょうか?》

《その点ついてはわかりません。救急搬送されたのではないか、とみられてはいますが、実際怪我をしたのかどうか。あるいは念のために病院へ搬送したということなのか。詳しい情報はまだこちらには入って来ていません》

「裕太ちゃん……」

 祖母がボソリと呟く。その声に沙也加はようやく我に返った。

「裕太ちゃんは、大丈夫なのかしら?」

 呟く祖母の声が震える。唖然と画面を見つめていた祖父もはっとした顔で祖母を振り返った。

「ねぇ、沙也加。雅紀ちゃんに電話してみてくれない?」

「え?」

「雅紀ちゃんに確認してみて。裕太ちゃんが無事なのかどうか」

 青ざめた顔で見つめられ、沙也加は咄嗟の返事に詰まった。

 沙也加とて弟達の状況は気になる。細くてひ弱な尚人など最初から話にならないし、裕太は威勢は良くても所詮はこの間まで引きこもりだったたもやしっ子だ。逮捕されたという不審者がどんな人物かわからないが、二対一でも体格の良い大人なら相手にならないだろう。

 しかしだからと言って、雅紀に気軽に電話できる状況ではない。以前思い切って電話して返された言葉があれだったのだ。沙也加は今でも思い出すだけで心が冷たく痺れる。あの痛みからまだ立ち直れない。けれども、あんなことがあっても沙也加にとって雅紀は一番大切で、大好きで大好きでたまらない存在であることは変わりなく、雅紀の声が聞けるならそのチャンスを棒に振るのももったいなかった。

 それにしてもなぜ千束の家が狙われたのか。

 沙也加は首を傾げる。

 雅紀が有名人だから?

 そんなことを言ったら、芸能人は誰も彼も襲われなければいけないことになる。

 仕事上のトラブル?

 モデルの仕事をするようになって、雅紀を悪く言うスタッフには出会ったことがない。

 痴情の絡れ?

 考えたくはないが、きっとモテるであろう雅紀には一方的に言いよる女性だって多くいるはずで。勝手な逆恨みをする勘違い女だっているかもしれない。

 ––––それにしたって、自宅にって……

 住所がわからなければ、行きようがない。

 それを思った時、沙也加ははっとした。

 ––––あれ……、だ。

 尚人が載った新聞記事。あれに千束の住所が書き加えられてネット上で拡散されていた。

 ––––尚のせいだ。

 あの投稿は確実に悪意があって、ターゲットは尚人だった。

 間違いない。

 あの時、柏木にラインを見せられた時、沙也加が危惧したことが現実になったのだ。

 そもそも雅紀は、『MASAKI』という名前以外一切のプロフィールを公表していないことで有名だった。それが、昨年慶輔の起こした騒動のせいで、慶輔の不倫から始まる家庭崩壊劇の一部始終が世間にだだ漏れとなり、『MASAKI』のみならず篠宮一族のプライベートは丸裸にされた。それだって、最初に尚人があんな事件に巻き込まれなければ、起きなかったかもしれないのだ。

 ––––また、尚のせい。

 沙也加の中に苦々しい思いが再燃した。

 あの時も尚人が黙っていたからあんなことになった。前回も尚人のうかつさのせいであれだけの騒動に発展した。そしてまた今回、尚人が余計なことをするからこんなことになる。

 いつだって尚人のせい。

 篠宮の家に(わざわい)を呼び込んでいるのは尚人だ。

「––––わかった」

 沙也加は視線を上げた。

「お兄ちゃんに電話してみる。私も、言いたいことあるし」

 あの家から排除されるべきは尚人だ。

 沙也加の中である決断の音がした。

 

 

 * * *

 

 

「なあ、朝のニュース見た?」

「見た見た。でも、途中まで。家出る時間になっちまったから」

「俺、何も見てねー。何の話?」

「知らねーのかよ。篠宮の家が暴漢に襲われた話」

「え、マジ?」

「マジ」

「で、『MASAKI』の弟が救急車で搬送されたって。……それって、篠宮のことだよな?」

「あ、……今日、まだ来てねー」

「まじかよ」

「怪我、ひどいのかな」

「救急車で搬送されるくらいなんだから。何もないってことは、ないんだろうけど」

「けど暴漢って。普通家にいて襲われるか?」

「それが、従兄弟らしい」

「は? 何それ」

「テレビでそんなこと言ってた?」

「いや、これはネット情報。しかも篠宮の兄貴が治療費援助してやってたうつ病発症して入院してた叔父さんの息子ってんでネット炎上気味だった」

「どう言うことだよ。親父の治療費援助してもらってんのに家に乗り込んで行って篠宮に怪我させたってのか?」

「わけわかんねー」

「俺も」

「要は逆恨み?」

「親の治療費出してもらってて逆恨みって、どういう神経してんだよ」

「そいつも鬱なのか? 情緒不安定とか?」

「野上みたいな?」

 その一言に皆が一斉に黙る。重い沈黙に、一瞬にして気不味い空気が漂った。

 誰もが思い出したのだ。尚人の親切心が仇となってしまった事件がこの学校を舞台に起きたことがあったことを。

 優しさが必ずハッピーエンドを迎えるわけではない。尚人の同級生達は、そんな現実をまざまざと見せつけられた。

「……何にしても篠宮って、人生波乱すぎだよな」

 その呟きが皆の心情を代弁していた。

 

 

 * * *

 

 

 朝食を食べ終えて自室へ戻った沙也加は、取り出した携帯電話を手に静かに深呼吸を繰り返した。

 携帯を持つ手が微かに震える。気持ちがどこかで尻込みする。しかし、今のタイミングでなければ電話し辛くなるのは明らかで。沙也加は心の中で自分を励ました。

 ––––テレビ見たの。

 ––––おばあちゃんが心配してて……

 ––––もちろん、私もだけど。

 頭の中で練習する。不自然でないように。変に言葉が詰まってしまわないように。雅紀に呆れられたりしないように。

 そして沙也加は、覚悟を決めて発信番号を押した。

 プ、プ、プ、プ……、トゥルルルルウ……、トゥルルルルウ……

 コールが五回、六回。

 永遠にも思えるその時間、沙也加は息を詰めて電話が繋がるのを待つ。

 トゥルルルルウ……

 トゥルルルルウ……

 七回、八回、九回、十回。

 なかなか電話は繋がらない。

 ひょっとして今は、電話に出られない状況なのか。

 ––––しつこく鳴らし過ぎたかも……

 一旦切ろうか。そう思った、その時だった。

『はい。雅紀です』

 しっとりと落ち着いた美声が耳元に響いた。

 沙也加の心臓がどくりと跳ねる。

 思わず言葉が詰まって、慌てて発した声が上ずった。

「あの! ……お兄ちゃん、私。沙也加だけど……」

 尻すぼみで小さくなる。電話の向こうに落ちた沈黙に沙也加は赤面した。

 慌てた声音に、雅紀はきっと呆れたに違いない。二十歳にもなってこれかよ、と。しかし、沈黙が続くのも怖くて、沙也加は矢継ぎ早に言葉を続けた。

「––––あの、テレビ見て。おばあちゃんが心配してて。……家の方、どうなの?」

 沙也加の問いかけに、雅紀が受話器の向こうで小さく溜息をつくのがわかった。

『後で家に電話する。祖母(ばあ)ちゃんにそう言っといて』

 雅紀との電話は、その会話だけであっけなく切れた。

 

 

 * * *

 

 

 夜明けの気配に目を覚まし、尚人は自宅とは違うが見覚えのある室内に自分がどこにいるのかすぐに悟った。ゆっくりと体を起こす。少し広めの個室に尚人以外の人影はない。枕元のローテーブルに視線を向けると一枚のメモ。見慣れた雅紀の文字で『迎えに行くまで大人しく寝ているように』とあった。

(まーちゃん、来たんだ)

 そう思っただけで尚人は心がぽかぽかする。

 ベットを抜け出しカーテンを開けると、立ち並ぶ建物の向こうから朝日が顔を覗かせるところだった。いつもならとっくに朝の準備に取り掛かっている時間だ。

 色々と気にかかることはある。

 裕太が怪我をしていないかとか。雅紀に無理させたんじゃないだろうかとか。家はきっと片付けしないといけない状況だろうなとか。今日の授業はどこまで進むだろうかとか。

 それでも、考えてもしょうがないことは考えない。それは諦める事とは少し違って、この六年の間に尚人が身につけた自分を追い詰め過ぎないための(すべ)である。

 しばし頭を空っぽにして、刻一刻と変化していく朝の空の色を楽しむ。そうして白々としていた空が爽やかな青味を帯びる頃、白石看護師がやって来て尚人の体調を確認し検温と血圧測定をしていった。その後朝食が運ばれて来て、そこそこのボリュームだったが、昨夜夕飯が途中になってしまっていたせいか尚人はぺろりと食べ終える。その後は何となく手持ち無沙汰に過ごしていると診察室に呼ばれて榊医師の診察を受け、病室に戻ると雅紀の姿があった。

「あ、雅紀兄さん」

 部屋のソファーにゆったりと腰掛け、手にしたタブレットを眺めていた雅紀は、尚人の声に振り返って柔らかく笑った。

 その笑顔が綺麗過ぎて、尚人は思わず息を飲む。

「体調はどうだ?」

「うん。大丈夫。……心配かけて、ごめんね。仕事、大丈夫だった?」

「問題ない。ナオが最優先だから」

 扉を閉めて尚人が数歩歩み寄ると、雅紀もソファーから立ち上がって尚人にゆったりと近づいて来る。向かい合ったところで雅紀に優しく抱きしめられ、その温もりに尚人は心底安堵した。

 尚人は雅紀の腕の中で、胸に顔を(うず)めてこすりつける。そうすると昔から不安な気持ちが薄まって安心する。そしてその状態で頭をよしよしと撫でられると「大丈夫」という気持ちになれるのだ。

「ありがとう。まーちゃん」

 尚人が呟くと、返事の代わりにキスされた。

 優しいキス。触れ合ったところから雅紀の熱がダイレクトに伝わってくる。尚人はそれだけで頭の芯がじわりと溶けて、鼓動がドクドクと逸った。歯列をなぞられる気持ちよさに尚人が吐息をもらすと、すかさず舌をねじ込まれる。舌と舌が絡まりあって、その快感に背筋がぞくりとした。

 ––––ああ、落ちる……

 尚人が雅紀にしがみつこうとした、その時。静かな病室に携帯の着信音が響いた。尚人の物とは違うその音は、先ほどまで雅紀が座っていたソファーから聞こえてくる。しかし、雅紀は着信音に気づかないのか無視しているのか。いつまで経ってもキスを止めない。そんな雅紀に、尚人ははぐはぐと喘ぎながら訴えた。

「まー、ちゃん。電話、鳴ってる」

「ん?」

「電話鳴ってるって」

 尚人の訴えに、雅紀はようやく唇を離し、わずかに顔をしかめた。

「一体誰だよ。ナオとキスしてんのに」

 ぶつくさぼやきながら雅紀はソファーへ戻って転がっていた携帯を拾い上げる。そして、画面を見て小さく首を傾げ、通話ボタンを押して耳に当てた。

「はい。雅紀です」

 この、ちょっと硬質な声音で話すときは仕事の電話だ。尚人はベッドに腰掛けて雅紀の電話が終わるのを大人しく待つ。––––つもりでいたのだが、

「後で家に電話する。祖母(ばあ)ちゃんにそう言っといて」

 雅紀は一言そう言うと、さっさと電話を切った。気のせいか少々機嫌が悪そうだ。雅紀がこんな感じの電話応対をするのは珍しく、仕事関係ならば絶対にない。

「ひょっとして、裕太?」

 家からの電話なら着信時に分かりそうなものだが。あんなことがあった後だ、裕太は今家にはいないのかもしれない。

(ひょっとして、加門の家に一時避難してるとか?)

 そう思っていると、

「いや」

 すぐに否定され、尚人はもう一つの可能性に気付いてわずかに目を見張った。

「じゃあ、沙也姉?」

 わずかな沈黙があって、「ああ」と雅紀は首肯する。

「まーちゃん。沙也姉と連絡取り合ってるの?」

「まさか」

 雅紀は盛大に息を吐き出すと、ソファーに体を投げ出すようにどさりと座った。

「ナオを勝手に連れ回した時が最初で、それ以来だよ」

(そうなんだ……)

 それにしても、沙也加が雅紀の携帯に直接電話するとは驚きだった。沙也加にとって雅紀は抱える感情が複雑すぎて簡単に近寄ることなどできない存在だったはず。だから今まで他人同然に過ごして来たのだし、何か用事があっても裕太を通していたのだ。

 まあ、裕太がメッセンジャーの役割を果たしていたとは言い難いのだが。それとこれとはまた別の話である。

 その沙也加が、雅紀に直接電話をするようになったとは、どういう心境の変化なのだろう。ひょっとして、一度でもしたのならあとは何度しても同じ。それと同じ理屈なのだろうか––––。

「沙也姉、何て?」

「テレビ見て、昨夜のことを知った祖母(ばあ)ちゃんが心配してるって」

「やっぱり、もう流れたんだ?」

「そうみたいだな」

「ひょっとして今頃、家の前ってマスコミだらけ?」

「路地に入る手前のところで警察に規制線張ってもらったから、家の真ん前にはいないはずだけど」

「そうなんだ。……って、まーちゃんはもう家の様子見に行ったの?」

「ああ、昨夜警察に話が聞きたいって言われて。一夜(いちや)明けたらマスコミが殺到するのは目に見えてたからそのまま現場検証に付き合って。で、ついでに今日一日ぐらいは近所迷惑を考えて規制線張ってくれってお願いして来た」

 はぁ、と尚人は息を吐く。雅紀のやることはそつがなさすぎて、ため息しか出ない。

「で、裕太は?」

「家の片付けと、業者対応のために置いて来た」

「––––裕太一人で大丈夫なの?」

「まかせろって鼻息荒くしてたから大丈夫だろ。ま、業者と連絡取ったのは俺だし。あとは玄関開けて業者を家の中に入れてやればいいだけだしな」

「……家、ひどかった?」

 尚人には、瑛がインターフォン越しに拳を振り上げてカメラを叩きつけ、家の外から派手な音が響いていた辺りのことまでしか記憶にない。

 モニター画面に映し出された瑛の刺々しい視線と振り下ろされた拳が視界に飛び込んできた途端、尚人の脳みそは変なふうに揺れた。一気に耳の奥がざわついてノイズがかかり、手足が急速に冷えて鼓動が激しく全身を打った。

 発作が起きる前の自覚症状にやばいと思いはしたが、ゆっくりと深呼吸をしようとした矢先に自転車が倒れるような派手な音がして、それで息が詰まった。目の前が急に霧かかったように真っ白になり、意識が剥ぎ取られながら世界が回った。

 尚人の記憶はそこまでしかない。

「インターフォンと一階リビングの窓ガラスの交換。防犯ガラスの優秀さに正直感動した。と同時に、瑛君の馬鹿力ぶりにも呆れたけどな」

「瑛君には会ったの?」

「いや、取り調べ中だから外部との接触禁止だろう。たぶん、あちらの家族も会えてないんじゃないか」

「そうなんだ……」

 その点については、尚人には語るべき言葉が何もない。瑛がどうしてあんなことをしたのか、という疑問はあっても特段怒りは湧かないし瑛の今後を心配する気持ちも湧かない。どんな理由があったとしても自分のしたことの責任は自分で取らなければいけないからだ。かつて雅紀が言っていたように。それが真理だと思う。

「ナオ」

 雅紀はソファーから立ち上がるとベッドの端に座る尚人の横に移動した。そしてそのまま尚人を抱きしめる。

「俺は、ナオだけが大事で、ナオのことだけが心配で、ナオのことだけ考えてる」

「……まーちゃん」

「だから、ナオは何も心配しなくていい。俺に全部任せておけばいいから」

 その囁きはどこまでも甘く、そして心地いい。

 麻薬のような中毒性。それに溺れることの意味をわかりつつも尚人は素直に頷いた。

「……わかった」

 尚人は雅紀の背に手を回して抱きつくと、その胸に顔を埋めて目を閉じた。

 

 

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