これは一体、何の罰なのだろう。
自分達に落ち度など何ひとつなかったはずなのに。
至って平凡な毎日を月並みに過ごしていただけ、だったはず。
ささやかな不満はあっても、どうにも我慢ならないほどではなく。
将来に向けて漠然とした希望はあっても野望と呼べるほど壮大なものではなく。
ただ淡々と。ある意味粛々と。日々を過ごしていただけ、だったのに––––。
一度狂ってしまった歯車は、もう元には戻らないのか。
どん底だと思った所は、まだ途中に過ぎなかった。
奈落は、その先にあった。
それを、思い知らされた。
いや、最悪の方法で、目の前に突きつけられたのだ––––。
人の行き交う病院の待合室で、零は
どうしてこんなことになってしまったのか。
夢ならいい加減覚めてくれよ、と願わずにいられない。
しかしこれは「ああ夢で良かった」と思える悪夢ではなく、––––現実。
そのことに零はため息すら出なかった。
始まりは、昨夜
夜八時半過ぎ。いつもなら部活を終えて帰って来ているはずの瑛がなかなか帰ってこなくて、「今日は遅いわね」と話題にしている最中だった。そんな中、突然電話を掛けて来た相手は勝木署の長野と名乗り、特段前置きもなく淡々と「お宅の息子さんが私有地内で大声を出して暴れているところを、通報があって器物破損の現行犯で逮捕した」と告げたのである。
警察からの電話と聞いて、零は最初、瑛が事故にでも会ったのかと思った。母の顔色がさっと青ざめたのを見て重症なのかと心配もした。しかし、「すぐに行きます!」と答えて電話を切ったあとの麻子の説明に、零は予想外すぎて絶句するしかなかった。
––––器物破損で現行犯逮捕って、何だよそれ……
とにかく三人は慌てて麻子の運転する車に飛び乗り、瑛が連行されたという勝木署に駆けつけたのだ。が……、
瑛に会うことはできなかった。
取り調べ中は家族であっても会えないのだと言う。しかも詳しい状況説明もしてもらえなかった。智之も麻子も零も、何が何だかわからないまま警察署のロビーに立ち尽くすしかなかった。
しかし、やがて智之に、
「こうして三人突っ立っててもしょうがない。ここには俺が残るから、お前達は一旦帰れ」
そう
しかし、風呂に入って布団に入ったものの寝付けないまま朝を迎えた。それは麻子も同じようだった。そして何気につけたテレビの朝のニュースで知ったのだ。『昨夜七時ごろ、モデル『MASAKI』さんの自宅敷地内に不審者が侵入し、大声を上げて暴れていたところを駆けつけた警察官によって逮捕されると言う事件が起き』たのだと。そのニュースで麻子と零は、瑛が何をしたのか否が応でも察した。勝木署が県外の千束市にある時点で察するべきだったのかもしれないが、「それだけはない」と無意識に思い込んでいたのである。なぜなら、千束の従兄弟である雅紀には父智之の治療費を援助してもらっていたのだから。そんなことは万が一にもあってはならなかった。瑛がどうにも感情が抑えきれなくて怒りをぶつける相手が生じたとしても、それは千束の従兄弟達以外でなければならなかった。
麻子はそのまま過呼吸を起こして倒れ、零は慌てて救急車を呼んだ。
そして今、麻子が運び込まれた病院の待合室で零はひっつかんできた携帯であちこち検索した結果、予想が間違っていなかったことを突きつけられていた。
––––何でだよ。
––––何で何だよ。
––––何でこんなことになるんだよ。
先ほどから、そればかりが頭の中をループする。
わからなすぎて
わかりたくもなくて。
同時に申し訳なさすぎて。
零は泣くに泣けなかった。
『在宅していた弟達二人が救急車で搬送された模様』
特にその一文が重すぎた。
合わせる顔がないどころではない。
心配することすら許されない、そんな立場のように思えた。
零は、一年前、謝罪のために呼び出した尚人の背後にいた雅紀の姿を思い出す。零と尚人が親しくしていることが気にくわない瑛が、尚人に喧嘩をふっかけるために千束の家に押しかけて行ったと知った時のことだ。
––––これ以上、ナオに迷惑をかけるなら許さない。
ただ立ってこちらを見ていただけだが、雅紀からはそんな気配が漂っていた。
その姿が視界に入った途端、零は体が固まった。今でも思い出すだけで背筋がぞくりとする。しかし……
零にとって尚人はよすがだった。
話をしているだけで心が軽くなれた。
誰に言われても受け入れられない言葉も、尚人に言われれば素直に心に響いた。
だから雅紀に無言のプレッシャーをかけられても手放せなかった。
それなのに……
瑛が全てを台無しにした。
母がどんな思いで瑛に野球を続けて欲しいと思っていたか知りもせず。零のバイト代が一体何に消えていたのか考えもせず。瑛は自分勝手なフィルターを通してのみ見えた世界で不平不満を喚き散らしていた。
雅紀からの援助は気にくわないくせに、もらって当たり前だと口にする。ちっぽけなプライドを掻きむしられたことが受け入れられず、自分ばかりが不幸の中心にいるように振る舞う。そんな瑛が、……いっそ憎かった。
そう思って零は自己嫌悪に陥る。
こんなことになる前に瑛と向き合うべきだった。その振る舞いが目に余るならこんこんと
––––瑛君とはよく話し合った方がいいと思う。
尚人はあの時そう助言してくれたのに。
––––どうせわかってもらえないんだったら何を言ってもムダ……とか思うのが一番マズイかなって思う。
その言葉が心に引っかかりながらも、結局は瑛と向き合うことから逃げてしまったのは自分。
だから、こうなったのも当然。……なのかもしれない。
診察が終わった麻子は、そのまま入院を余儀なくされた。
* * *
「『MASAKI』さん! 智之氏から連絡はありましたかッ?」
「
「被害届は出されたんでしょうか?」
「どうなんです、『MASAKI』さん!」
「『MASAKI』さん! 一言お願いします!」
質問、質問、また質問。
グラビア撮影が終わってスタジオを出るなり、雅紀は待ち構えていた報道陣に囲まれた。ここ数日ずっとこの状態だ。
雅紀の口から発せられたその一言で視聴率は倍に跳ね上がり、雑誌はバカ売れする。それはただの冗談でも皮肉でもない。ゆえに現場に派遣されたレポーター達は必死だ。収穫もなく帰れば、スポンサーやプロデューサーにどやされるのは目に見えている。しかし相手はマスコミ潰しと異名を取る『MASAKI』で、進んで地雷を踏みたがる者などいないのもまた事実だった。
雅紀は突きつけられたマイクもICレコーダーも無視して歩く。
沈黙は最大の防御。––––である前に、雅紀はこの件について考えることさえうんざりしていた。
(だから、俺達を巻き込むなっつーの)
それが本音である。
あの日瑛が暴れてあちこち物を壊して行った件については、さっさと業者を呼んで修繕したことで片がついた。瑛の振る舞いに尚人が驚いて発作を起こした件については多少腹が立つが、大事には至らなかったので過ぎてしまえばどうでもいい。だから、雅紀的には、あとは智之一家内の問題である。そう思ってる。
それなのに、である––––。
取り調べの後、瑛は未成年であることを考慮され翌日夕方には仮釈放された。その瑛を伴って智之が警察署を出た途端、二人は外で待ち構えていた大勢の報道陣に囲まれた。眩いばかりのフラッシュと飛び交う怒号のような質問。それを前に智之は立ち竦んで顔を引きつらせ、そして、
「雅紀に申し訳ない。直接会って謝罪したい」
そう言って泣き崩れるように土下座したのである。
その映像が繰り返しテレビで流された。
そんなことをするものだからテレビで好き勝手を言うコメンテーター達が、
《器物破損は親告罪ですから。A君が起訴されるかどうかは、『MASAKI』さんが被害届を出すかどうかによりますね》
などと言って油をどばどば注ぎ。マスコミ連中がこぞって叔父の土下座に『MASAKI』はどうするのかと騒ぎ立てるのだ。
《実父でさえ「視界のゴミ」と切り捨てた『MASAKI』さんですからねぇ。叔父や従兄弟だからといって、大目に見るなんてこと、ないんじゃないですか》
《治療費を援助していたという経緯あっての今回の事件ですからねぇ。恩を仇で返されて、どんな心境でしょうねぇ》
《弟さんがショックを受けて病院へ救急搬送されたみたいですし。大事な弟さんを傷つけられて『MASAKI』さんが許すとは思えないですよねぇ》
知った顔でそんなことを言い合う。それさえも鬱陶しかった。
(ナオを心配するのは俺だけの権利だっつーの!)
それだけは声を大にして言いたかったが、もちろん現実にそんなことをすれば大炎上するのは間違いのないことで。詰まるところ完全黙殺が最上策に違いなかった。
とはいえ、マスコミには無視を通しても身内の方はそうもいかないのが雅紀にとって頭痛の種だった。謝罪したい、を理由に智之から何度も電話があるのだ。いつも仕事中にかかってきて留守電が入っているのだが、正直折り返す気になどならない。なぜならこちらは別に謝罪など望んでいなからだ。望むことはたった一つ。金輪際自分達の視界に入ってこないこと。それだけ。折り返しがないことでそれを察して欲しいのだが。
それに智之の声はどこか
『言い訳するわけではないが、こちらも色々と抱えているものがあって』
そんな弁明メッセージが入っていると、
『お父さんにも言い分がある』
あの男の胸糞悪い台詞を思い出して気分が悪い。
そもそも瑛がこちらを敵視するに至った理由は、零と尚人が仲良くしていることが気に食わなかったからだ。それについては雅紀も同意見で、両家がこのまま疎遠になることは双方利のある話だとすら思う。
(この件で零君が二度とナオに近づかなかったら瑛君にお礼を言いたくらいだよな)
まあ、二度と近づけさせる気もないのだが。
雅紀はそんなことを考えながら芸のない質問を繰り返す報道陣をさっくり無視して車に乗り込むと、何とも言えないため息を漏らす彼らをその場に置き去りにして走り去った。
* * *
明仁は途方に暮れていた。
どうしてこんなことになってしまったのか。
全く理解できなかった。
あの日––––。自分が少々の浮かれ気分で智之の自宅を訪れて、退院祝いをしたあの日。明仁は少しずつだが色々なことが好転している感覚に小さな喜びを感じていた。
それなのに––––
あれからたった二ヶ月。
テレビはどこをつけても、昨年に増して篠宮の名を連呼する。
どうして今回このようなことが起きたのか。検証特番まで組んで、慶輔が起こしたスキャンダルと絡めて過去を蒸し返し続ける。
慶輔がなぜ家族を捨てたのか。
慶輔に捨てられた家族がどんな生活を強いられたのか。
そこから、『MASAKI』がどうやって這い上がったのか。
カリスマモデルへと上り詰めた、かつて捨てた息子『MASAKI』と慶輔の確執がどんな騒動を巻き起こしたのか。
その確執が、どんな結末を迎えたのか。
それを前振りのようにしつこく繰り返し、その騒動に巻き込まれた智之一家の転落劇を真偽などお構いなしに好き勝手に語る。
そこにはプライバシーもへったくれもなかった。
そもそも篠宮一家のことは、慶輔が暴露本で実名公表しているのだから今更ぼやかす必要などない、という判断なのだろうか。すでにモデルデビューしている沙也加はいざしらず、智之も麻子も明仁も、なぜか時々引っ張り出される秋穂までも実名で報道される。さすがに未成年の零や瑛は
今回の一件で智之一家は事実上離散状態になってしまった。
瑛の起こした騒動を知って倒れた麻子は緊急入院後二日で退院はしたものの、とても万全とは言えず。かと言ってマスコミの押し寄せる自宅では気の休まる暇もなく。それで、ひとまず実家で療養を、ということになったのだ。
それに家に押しかけたのはマスコミだけではなかった。瑛の行動を非難する人々も押し寄せたのだ。それは身の危険を感じるほどで、とても家にいられる状況ではなかった。さらには、そういった状況は近隣住民からの苦情にも繋がり、智之達は地域の中での居場所も失ったのである。
女手を失ったこともあって智之は堂森の実家を頼った。
零はそれに同行しなかった。零なりに色々と思うところがあったのだろう。
「自分一人くらいどうにかする」
と言ったが、それにしたって準備期間がいるだろうと、ひとまず明仁の家に引き取った。明仁の自宅から大学に通えないこともなかったからだ。年明けからこちら書道を習いに来ていたため来慣れていたこともある。胸中複雑そうではあったが、零は明仁の提案を受け入れた。
それが事件発覚から五日以内に起きたことで、まさに怒涛の五日間だった。
朝のニュースで事件を知って、驚いている
『ちょっと相談したいことがあるから、こちらへ来てもらえないか』
明仁が智之からそんな電話をもらったのは、智之一家がそれぞれの居場所に身を据えた直後だ。
––––相談があるならそっちから来いよ。
という思いを飲み込んで、明仁が気の休まる暇もないままに堂森の実家へ足を運んだのは、智之が退院後「運転が怖い」と言っていたことを思い出したからだ。集中しているつもりでもいつの間にかぼんやりしており、それを自覚するととても怖くて運転などできないのだと言う。それもうつ症状の一つなのだろう。
家の前に張り付いていたマスコミを無視して車に乗り込み実家に到着すると、そこにも案の定山のようにマスコミが
「あら、明仁。早かったのね」
チャイムは鳴らさず玄関ドアを開けて入り、リビングを覗くと秋穂がソファーに座って編み物をしていた。編み物は秋穂の唯一の趣味だ。慶輔の死後しばらくは何も手がつかないような放心した状態だったが、慶輔の一周忌法要をした辺りから気持ちの整理がついたようだった。そんな中での今回の騒動だ。明仁はひそかに秋穂の心理状態も心配していたのだが、どうやら杞憂だったようである。
「お茶でも飲む? それとも、コーヒーの方がいいかしら?」
編み物をテーブルに置き、老眼鏡を外して秋穂がおっとり尋ねる。
「じゃあ、コーヒーをお願いしようか」
明仁がソファーに座りながら答えると、秋穂は立ち上がってキッチンへと向かった。
「智之は?」
「さあ? 部屋にいるんじゃない?」
「どんな様子?」
「どんなって。別に普通よ」
「瑛は?」
「部屋にいると思うけど?」
明仁の質問に返ってくる秋穂の答えは淡々としたものだ。
––––智之達のこと心配じゃないのか?
秋穂は二人分のコーヒーを淹れて戻って来た。一つを明仁の前に置き、一つは自分の手に取る。二人の間に特に会話もないままに明仁が秋穂の淹れてくれたアメリカンコーヒーを飲んでいると、智之がのっそりとリビングに顔を出した。
「……明仁兄貴。わざわざ悪いな」
「いや。で、相談ってなんだ?」
口慣らしの世間話をしてもしょうがない。明仁が単刀直入に問うと、智之はちらりと秋穂に視線を投げ、わずかに口元を歪めた。
「……その話はこっちで」
智之はそう言って明仁を目で促す。明仁は
(ここじゃできない話なのか)
と思いつつ、コーヒーを流し込んで智之の後に続いた。