第二土曜。それは土曜課外が当たり前の翔南高校で月に一度の休みの日。今や学校も企業も週休二日が当たり前の中、超進学校に通う尚人が二連休になる数少ない週末だ。雅紀はこの日に休みを合わせて、尚人と二人一泊二日の旅行計画を立てた。とは言えそんなに遠くに行けるわけではなく、宿泊先は高速を使って直行すれば二時間弱で着く
ドライブデートと聞いて尚人はピクニック的なものを連想したのか、お昼用にと張り切ってサンドイッチとおにぎりを準備した。それを持って昼前に二人で家を出る。行き先は着いてからのお楽しみと言うことで尚人には秘密だ。
その出発間際。尚人は裕太の部屋をノックして声を掛けていた。
「じゃあ、裕太。ちょっと出かけて来るから、留守番よろしくね? 施錠だけはちゃんとしないとダメだよ」
「わかってるって。ガキじゃねぇんだし。心配しなくても大丈夫だってば」
「……うん。それは、そうなんだけど。あと、夕飯冷蔵庫に入れてるから。チンして食べてね」
「腹が減ったら食う」
「もし、なんかあったら携帯に電話してね」
「もういいから早く行けって。雅紀にーちゃんが痺れ切らしてんじゃね」
「うん。じゃあ、行ってきます」
裕太が引きこもりをやめたことで、裕太には裕太なりの時間の使い方があると認識したらしい尚人は二人きりで出かけることに抵抗感を示さなくなった。それでも出掛けには何くれと声掛けしていかないと気が済まないのだろう。それはそれで尚人らしくて好ましい。
「ナオー。先に車に荷物積んでるからな」
雅紀が声をかけると
「あ、すぐ行くから待って」
ぱたぱたと急ぎ足で階段を降りて来る。その足音すら可愛らしい。
一泊分の旅行荷物と尚人が準備したお昼を車に積んで雅紀は上機嫌で車を発進させた。
隣の助手席に尚人が座っているだけで楽しい。その尚人がワクワクと楽しそうな表情をしているのを見ると雅紀の気分は一層浮き立った。
「あ、そう言えば、この前アキラさんからメールが来てね」
車が動き出してすぐ、尚人が弾んだ口調で今度発売予定のミズガルズのCDについて喋り出した。アキラからの
尚人にそんな気がないとわかっていても、他の男の話を楽しげにされて聞き流せるほど雅紀の度量は大きくない。むしろ尚人に限っては嫉妬深くて狭量でほんの些細な関心も他人に向くのが許せない。
なぜなら「尚人は俺のもの」だからだ。その心も体も思考も全てがだ。
独占欲丸出しの
「そう言えば、今年の文化祭はどうだったんだ?」
雅紀は話題を変えさせるためにふと思い出したことを口にした。
昨年は家庭内でも話題に上って、裕太のいきなりの観覧宣言などもあり、雅紀にとっても何かと記憶に残る出来事だったが、今年は瑛の起こした事件のせいか気づいたら終わっていた。
まぁもちろん、今年だって尚人に「来てね♡」とかわいくお願いされても「行くよ♡」なんて返事は出来なかったので結果は同じなのだが。
「うーん。特に問題なく終わったって感じかな。今年はクラス委員してたわけじゃないから執行部に絡むような事は何もしてないし。クラスの出し物がショートムービーだったんだけど裏方の仕事しかしてないしね」
「ショートムービー?」
「『三年三組物語』って言うタイトルの翔南高校あるあるを混ぜ込んだ学園物? って設定のドラマを撮って文化祭当日にクラスで上映したんだ。結構評判よかったんだよ。学校紹介ビデオみたいな一面もあったから、『翔南高校の意外な一面を知った』みたいな感じで」
「へぇ」
それはそれで高校の文化祭らしい。
「で、裏方ってナオは何をしたんだ?」
「映像に英語字幕入れようって話になって、その字幕制作の担当。台詞を字幕にするのって通訳とはまた違った感じで面白かったかな。意味より雰囲気を大事にしたり、画面に入りきる文字数に収まるように考えたり」
「それはそれで楽しそうだな」
「うん。字幕担当のメンバーでワイワイ言いながら考えて結構楽しかった。クラスメイトの北原って女子がちょっと古いハリウッド映画のファンでさ。当時流行った英語の言い回しいろいろ教えてくれて。それを所々取り入れたり」
「へぇ」
楽しげに語る尚人の横顔に自然と雅紀の口元も綻ぶ。
家では色々あったが、学校ではそれなりに楽しく過ごせていたようだ。
「けど出し物が映像じゃ、準備は大変でも文化祭当日はさしてすることがなかったんじゃないか?」
「来客対応の当番が決めてあったから全く仕事がなかったわけじゃないんだけど。まあ、去年に比べたらね。クラスでの仕事はそんなになかったかな。でも、その分弁論部の方の手伝いがあったから」
「あー、なるほど」
尚人が臨時部員を頼まれて即興英語ディベート大会に出場したのは今夏のこと。全国大会初出場にしてまさかの初優勝。文化部である弁論部が文化祭でそのアピールをしないはずがないだろう。
「弁論部がいつも活動場所に使ってる多目的学習室で部活動の内容を紹介する展示発表してて、そこに即興英語ディベートのブースもあってね。清田と杉本が一般開放日にそこで『即興英語ディベート大会参加報告座談会』ってイベントやるから参加してくれって言ってきて。来場者の前で即興英語ディベートのルール説明したり、大会に参加した感想を英語で言い合ったりするトークイベントをやったんだ。お客さんの入りがすごくてね。会場の学習室に入り切れないで廊下から立ち見する人もいたんだよ」
(あーくそ、見たかったなぁ。ナオのトークイベント)
心底思う。ついでにそんな貴重なイベントに参加出来た顔も知らない一般人にちょっとだけ嫉妬する。翔南高校では雅紀の出身校である瀧芙高校のように文化祭DVDを卒業記念として配付したりはしないのだろうか。
その後も色々とお喋りを楽しみながら一時間ほど車を走らせたところで、雅紀は昼食休憩のため公園の駐車場に車を止めた。
「そろそろメシにしようか」
雅紀の言葉に尚人が持参したバスケットを開く。ツナサンド、卵サンド、ハムサンド。どれも美味しそうだ。
「おにぎりはね、こっちから塩ジャケ、梅干し、昆布の佃煮。はい、まーちゃん、好きなのどうぞ」
そう言いつつ尚人が笑顔でバスケットを差し出す。そんな尚人が一番美味しそうだ。抱き寄せてキスしたいが、さすがに車中じゃまずい。
(それは夜のお楽しみだな)
雅紀は心の中で呟いて、まずはツナサンドを手に取って口に放り込んだ。
「うまい」
「本当? よかった。はい、お茶もどうぞ」
持参した水筒からお茶を注いで尚人が差し出す。水筒の中身は暖かいほうじ茶だった。そのあと卵サンドもハムサンドも食べる。卵サンドはパンに塗ってある粒マスタードが効いていて美味しく、ハムサンドは一緒に挟み込んであるチーズとシャキシャキレタスとの相性が抜群だった。雅紀はおにぎりも全種類制覇し、再び車を発進させた。しばらく走って海沿いの道から山道に入る。少し標高が上がると迫る山々の木々が綺麗に紅葉していた。
「わぁ、きれい!」
感嘆の声を上げ、助手席の尚人が興奮気味に車窓に釘付けになる。その姿に雅紀の口元は
このルート通って正解だな、と。
「上に行けばもっと色づいてるはずだ」
「そうなの? 俺、こんなにしっかり紅葉見たのって初めてかも」
確かに家族旅行の定番は夏だったし、仮に子供の頃に
「もみじ狩りに行こう」
なんて言われても子供たちは誰も賛同しなかっただろう。そこにバーベキューとかアドベンチャーパークとか別のイベントが付属していない限り子供にとっては「それって楽しいの?」という気持ちになったはずだ。
紅葉を楽しむのは大人の行楽。とは言え雅紀は、尚人と一緒でない限り紅葉を見に行こうなんて思いもしない。尚人とならば何をしても楽しいし、今まで狭い世界に閉じ込められてきた尚人に色んなものを見せてやりたいという気持ちもある。
目をキラッキラに輝かせて景色を楽しむ尚人をちらりと横目に見遣り、雅紀の相好は崩れ放題だった。
充分にドライブデートを楽しんで、夕方目的の宿に到着した。
全室十部屋。客のプライベートを何より重視する造りの宿で、駐車場から部屋まで他の客に会う事なく案内された。
「うっわー、すごい!」
部屋に入るなり尚人が感嘆の声を上げる。部屋の正面が前面ガラス張りの大パノラマで、夕焼けに沈んでいく紅葉した山々と赤く染まった空とが目の前に広がっていたからだ。
ちなみに、そのガラスの向こうに張り出した広いテラスの真ん中に露天風呂があり、昼間は大パノラマ、夜は星空を眺めながら露天風呂が楽しめるというのがこの部屋の売りである。
部屋全体はシックな和モダンテイストで、室内出入り口で外履きの靴を脱いで上がる旅館風の作り。テラスに続く手前は畳敷きの小上がりだが、落ち着いた壁色のベッドルームが別にある。テラスには部屋からも直接出られるが、ベッドルームに隣接したシャワー室からも行けるようになっていて、二人きりの濃密で甘い時間を色々楽しめそうな作りだった。
旅館に到着して一時間ほどで部屋に食事が運ばれてきた。京懐石をベースにした料理長こだわりの創作和食で目に美しい。これにも尚人は感動しきりで、
「食べるのがもったいよねぇ」
とひとしきり感嘆し。箸をつけると、
「美味しすぎて言葉が出ない」
と瞳を潤ませた。
雅紀的には尚人のその姿だけで白飯が何杯もいける感じだ。
たっぷり時間をかけて食事を堪能し、スタッフに御膳を下げてもらうと、いよいよ楽しみにしていたお風呂タイム。シャワールームで軽く体を洗ってからテラスに出る。十一月、夜風はさすがに冷たい。しかしその分、露天に浸かると気持ちがよかった。
「ナオ、こっちに来て」
雅紀に続いて入ってきた尚人が、そのまま隅っこにちょこんと座ろうとするのを手招きする。ほのかな間接照明に照らされて暗闇に浮かぶ尚人の白い裸体はぞくりとするほどエロチックだ。
そんなこと、尚人自身は知りもしないだろうが……。
ゆっくり近づいたきた尚人の手を取って、雅紀は尚人を膝の上に座らせて後ろから抱きしめる。そうやって入ると、星空を眺めながら尚人の体が触り放題だ。
「あー、最高」
ほっそりした尚人の体をぎゅっと抱きしめ、肩口に顔を埋めて匂いを嗅ぎ、ぷっくりした耳たぶを
尚人が雅紀の腕の中でくすぐったげに首を
「いつも頑張ってるナオにご褒美って思ってたけど、完全に俺のご褒美になってるよな」
思わず本音が漏れると、尚人がちらりと振り返ってやんわり笑った。
「まーちゃんはずっと頑張ってきたから、いっぱいご褒美もらっていいと思う」
(ほんっと、かわいいこと言うよなぁ)
雅紀は尚人の振り向きついでにキスをする。軽く
その熱に雅紀の下腹部が立ち上がってくる。
しかし、夜はまだ始まったばかり。急ぐことなはない。今日は二人きりの非日常をゆっくり楽しむのだ。
雅紀は尚人から唇を離すと、はぐはぐと喘ぐ尚人の頬をそっと撫でる。
自分を見る濡れた瞳が何とも扇情的だった。
その瞳に雅紀が見惚れていると、
「––––ねぇ、まーちゃん。……ひとつ聞いてもいい?」
尚人の呟くような小さな声が、夜風に混じり込んでぽつんと落ちた。
その声音が静かすぎて、何故だか雅紀の心臓がとくんと跳ねる。
「何を?」
そう問う口調は平静を装っても、雅紀は内心ばくばくだった。逡巡する気配の奥に確固たる決意が見えて。尚人が意を決して口にしたのだと感じ取ったからだ。
実は雅紀は尚人が何かを決断することが怖い。それは、尚人が日頃はすごく聞き分けがいいくせに、一度こうと決めれば誰に何を言われても貫き通す兄妹弟の中でも一番の頑固者だからだ。
だから雅紀は、ある日突然
––––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。
––––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。
あの告白を聞かされた時のような、目の前が真っ暗になるような決意を突然聞かされるかもしれない恐怖に密かに怯えている。
しかし、実を言えばあの時はまだ、尚人の決断の真の怖さに気づいてはいなかった。急な告白に動揺したのは事実だが、口ではそう言ってもそう思っているだけ、とたかを括った。家庭内では色々あったとは言え、所詮尚人は家と学校を往復するだけの狭い世界に生きている子供で、世の中のことなどまだ現実的に捉えていないから見込みの甘い将来を口にしているのだと。そう思って尚人の告白を聞き流した。
しかしその後、尚人が早々に学区一の翔南高校一本に狙いを定めて受験対策をしていたと知り、さらには本当に翔南高校に合格した時、雅紀は尚人の決意が本気だったとようやく理解した。しかも高校生活がスタートすると、尚人は今まで通りの家事もこなしながら自転車で片道五十分かかる通学を休むことなく続けた。朝課外もある中、毎日自転車で片道五十分なんて無理だろうという雅紀の予想を見事に裏切って。
三年なんてあっという間だ。
どうしよう……。
高校を卒業したら尚人がこの家から出て行ってしまう。
俺の前から去ってしまう。
尚人への劣情を自覚しつつも己の手で弟を汚すことを恐れて家に近寄りもしないくせに、尚人が家から出ていくことには動揺を隠せない。そんな情けない自分を見せられなくて家に帰ってもろくに顔も合わせないのに、気づけば視姦している。頭の中では尚人をいいようにこねくり回すあられもない妄想ばかりを続け、どうにもこうにもどん詰まりになっていたときに雅紀は気心知れた旧友達との飲み会で浴びるほど酒を飲んでしまった。タクシーで家に帰り着いた記憶はあるが、その後の記憶はすっ飛んでいる。目が覚めるとそこが母親が使っていた一階の寝室だとすぐに気づいて、おそらく帰宅してそのまま真っ直ぐこの部屋に倒れ込んだのだろうと思った。
しかし––––
同じベッドに尚人がいた。
しかも、裸で。青ざめた顔は涙でぐしょぐしょで、その体は鬱血と噛み跡だらけ。シーツには鮮血と精液とが染み付いていた。
記憶がなくても自分が何をしたのか一目瞭然だった。
とにかく謝り倒したものの、それから尚人は雅紀の姿を見るだけで怯えるようになってしまった。
それはそうだろう。何の労りもないまま猛った物を肛門に無理やり突っ込まれるという身体的苦痛と慕っていた兄から強姦されるという心理的苦痛を受けたのだから。
このままでは尚人は高校卒業を待たずして自分の元から去ってしまう。それは、予感ではなく確信。だからもう雅紀は出来の良い兄の顔を捨て去って尚人に欲情する雄の顔を隠すのをやめた。そうやって体を一つに繋げて、尚人が自分から離れていかないように見えない鎖でがんじがらめに縛り付けた。
これでもう安心。そう思っていたのに。尚人が暴行事件の被害にあって部屋を二階から一階に移した時に見つけた英検の合格証書。
––––就職する時に有利かと思って。
そう思って受け続けていたという英検はすでに一級を取得済みだった。それを見て雅紀は、尚人の「高校まで」という決断が継続中なのだと思い知らされた。
お前は俺のもの。そう
天上には白銀に光る満天の星。冴え冴えとした闇夜に、微かな照明を映してきらきらと揺らめく湯面から立ち昇る湯気が二人の間に
「––––俺が夜中に発作を起こした日、あったでしょう?」
尚人が静かに呟く。
もちろん覚えている。
あの時は本当に肝が冷えた。
しかもあの日以来尚人は挿入時にまた身を
「あの時。俺が発作を起こして倒れる直前。まーちゃん。裕太の部屋から出てきたよね? ……裕太と、何してたの?」
予想外の質問に一瞬目を見張り、そして雅紀は小さく息を吐いた。
原因は、それか……。
こそこそと隠し事をされている気配。それが尚人の不安感を煽ったのだろう。
だとしたら、全てを話さなければならない。
雅紀にとって優先されるのは、裕太よりも尚人なのだから。
「その話をするためには、初めからちゃんと説明しないといけない」
そう言って雅紀は、裕太と秘密にしていた話を全て尚人に打ち明けた。