その日、雅紀は朝九時にスタジオ入りして雑誌のグラビア撮影を行い、予定通り夕方四時に終わらせると事務所に顔を出した。近頃市川とは、メールや電話のみでのやりとりが
「MASAKIさん、お疲れ様です♡」
入り口受付にいた女性スタッフがいつもの如く満面の笑みで迎えるその前を雅紀は軽く会釈しただけで通り過ぎる。「いつでも、どこでも、人目を気にしろ」と口をすっぱくして繰り返す加々美に見られたらひょっとすると怒られるかもしれないが、雅紀的に事務所スタッフは身内。気取った態度を見せる必要を感じる対象ではなかった。そう感じるのも、雅紀の所属する『オフィス原嶋』が、あまりにも規模が小さくて、スタッフ一同全員家族、みたいな雰囲気があるからかもしれない。
今でこそ笑い話にできるが、雅紀は加々美に初めて『オフィス原嶋』を紹介された時、「この人この事務所の社長に借金でもあって、俺をその
まあ、その時は色々ありすぎて周囲の大人が信用できない状況だったこともあるのだが。もちろん
今では、その加々美の判断に感謝している。この業界のことが色々とわかってきて思うのは、確かに自分は何かと縛りの強い大手より自由が効く今の事務所の方が合っている。
事務所との契約というのはなかなかに厄介で、契約した後に「この事務所とはやり方が合わないので辞めます」とは簡単にはいかない。引退ならまだマシかもしれないが、移籍となればまず揉める。そのせいで仕事自体を失うモデルも多く、だからこそ最初に契約する事務所選びは慎重にも慎重を重ねる必要があるのだが、大抵の者は、契約イコールデビューと勘違いして浮かれてしまい、たいして考えもせずに契約を結んでしまう。
ひとつフォローするなら、素人が熟慮を重ねたところで情報が足りなさすぎて結果は同じということもありえるのだが……。
だから雅紀はラッキーだったのだ。この世界を知り尽くした加々美蓮司に見出されて、彼が後ろ盾になってくれて。しかし、そのラッキーをラッキーだけで終わらせてしまうのか。どうなのか。あとは自分次第。海千山千ひしめくこの世界はラッキーだけでは渡っていけない。自覚と覚悟がいる。
それに雅紀は、幼い弟達を養っていくためにも、モデルとして成功する必要があった。
雅紀は、自分がした苦労を弟達にさせたいとは思わない。特に尚人には、金がないから深夜のアルバイト、なんて経験させたくはなかった。真っ昼間の書店スタッフなら社会経験と思ってギリ許せても、雅紀がしていたような外国人相手のナイトクラブのホールスタッフなど問題外だった。どう考えても、貞操の危機しかない。性に対してオープンな者が多い外国人は、同性同士のセックスもフランクに捉えていたりして、経験上、きっぱりはっきりノーセンキューを突き付けなければ勝手に勘違いしたりする。雅紀も散々誘いを受けて辟易したが、世間知らずの尚人なんて気づきもしない間にペロリと美味しく食べられてしまうに決まっている。
そんなこと、絶対に許せるわけがない。考えただけで神経が焼き切れてしまいそうだ。
受付を通り過ぎて、雅紀が雑然と事務机が並ぶオフィス内を覗くと、奥の席でPCを睨みつけるように仕事をしていた市川の視線がふと上がった。瞬間、雅紀の視線とかち合って、市川がはっとした顔をしてわずかに腰を浮かせた。
「雅紀君、すぐ行くので奥の部屋にお願いします」
それに片手を上げて答えて、雅紀は事務所の奥にある小さなミーティングルームへ向かう。半分物置のようになっている部屋だったが、そこが雅紀が事務所に顔を出した時にいつも使用している打ち合わせ部屋だった。
「夏開催のショーですけど。すでに起用が決まっているブランドの他に、三つのブランドからオーディションに参加しないかと打診が来ています」
市川がやって来てすぐに打ち合わせが始まる。
「それって、指名ですか? それともオープン?」
雅紀が問うと「指名です」と答えが返る。
ショーにどのモデルを起用するかという権限はどこのブランドも概ねデザイナーにあり、大抵「専属」や「お気に入り」が務めるが、一度に数名あるいは数十名のモデルの起用が必要な大きなショーの場合、またはモデルを一新したい場合など、オーディションをすることがある。オーディションのやり方は様々で、指名した者だけを呼び集めて行う場合もあれば、誰でも参加自由の一般公募の場合もある。指名の時は、起用の意向はあるが他のモデル達とのバランスを見て決めたいということが多く、今回何らかの理由で起用に至らなくても次に繋がる可能性が大きい。そもそも指名されるということはデザイナーに興味を持ってもらっているということだからだ。
「三つともスケジュールに入れてください」
雅紀が迷わず答えると、市川はうなずいた。
「わかりました。……ただ、三つとも最終契約に至った場合『アウラ』さんの撮影を入れるのが結構厳しいんですよね。ぎちぎちにスケジュールを組めばいけないこともないんですが。万が一、衣装合わせの日程がずれ込んだら、七月は二十日連続休みが取れない可能性が出て来ます」
「『アウラ』って、あの毎年の、クリスマス用の?」
「そうです。今年はまだ正式な打診を受けているわけじゃないんですが。昨年のグラビアも結構評判が良かったみたいで。『アウラ』さん側から事務所に「来年もよろしく」という連絡が一応あっているんです。なので、依頼が来る
「まだ正式な依頼もないのに、そのためにスケジュールを空ける必要はないですよ。そもそも、俺的にはステージの方が優先ですし」
「しかし、ワンステージより『アウラ』さんのグラビアの方が、ギャラはいいですよ?」
さらりと吐き出された市川の言葉に雅紀は瞬時黙る。ギャラのいい仕事がしたいというのは、確かにデビューしたての頃ちょくちょく思っていたことだ。とにかく金を稼ぐことが何より必要だったのだから切実だった。
しかし、その「ギャラがいい」とは何を持ってそう言うか、との問題も同時にあった。グラビア撮影は一本いくらの出演料としてギャラが決まるので、一本単価でいくなら、断然、男性誌より女性誌の方が良かった。購買数の違いがギャラにも反映されるのだ。その女性誌の中でもギャル雑誌が一番良かった。しかしグラビア撮影は、どれだけ時間がかかっても延長料金的な「時給」が発生するわけではないので、撮影が短い方が時間単価が上がる。それでいくと、ギャル雑誌の撮影は相手が素人同然のギャルであることも多く、時間通りに撮影が終わらないことが多かった。はっきり言って、撮影効率が最悪だった。何よりプロ意識の低い相手との絡みは、雅紀にとって苦痛以外の何物でもなかった。
そういった諸々のことが雅紀的にジレンマだったのだが、そんなこんなの時期を乗り越えて、そこそこ自分自身のギャラが上がって、仕事も少しは選べるようになって来た現在、出来ることならステージに専念したいという思いもある。加々美蓮司のように––––、とはおこがましくて口にはできないが。
ただ、『アウラ』撮影の相手、天地貴子はプロ意識の高い女優で、ギャル雑誌のグラビア撮影などとは全然違う、雅紀的にも学ぶことが多い現場だった。ギャラがいいのに撮影も時間通りで。おいしい仕事、だったことは確かだ。
「『アウラ』の仕事がなくても大丈夫です。ナオも、無事に公立高へ進学することが決まりましたから。入学金や授業料の目処は立ちましたし」
「ああ、弟さん。高校合格決まったんですね。それは、おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
雅紀は大人の対応として謝辞を口にしたが、何かを含むわけでもない市川の言葉に一人勝手に心を
合格発表があったのは先週で、市川にわざわざそのことを言ったわけではないが、雅紀はその日スケジュールを空けた。もちろん合否が気になったからだ。尚人は尚人なりの勝算を持って翔南高校一本に絞って受験したようだが、そこには行く気もない私立を滑り止めで受けても意味がないという考えがあったことは否めない。翔南に落ちたら、尚人は中学浪人になってしまう。だから万が一の場合は、尚人を説得して後期二次募集を受けさせる必要があった。二次募集は定員割れしている高校しか行わないから選択肢はぐっと狭まるとはいえ、雅紀は尚人を中卒にする気はなかった。
しかし雅紀のそんな心配をよそに尚人は見事合格した。帰宅した尚人の高揚した雰囲気ですぐさまそれを察した。近頃は雅紀の前では強張った表情ばかり見せていた尚人が珍しく笑顔も見せた。
「まーちゃん。翔南受かった!」
本当はあの時、尚人を抱きしめて頭を撫でやりたかった。
––––ナオすごいな。よく頑張ったな。
そう言って、褒めてやりたかった。
しかしそんなことをしたら、それだけではすまないことはわかりきっていた。尚人を腕に抱いたら、絶対にキスしたくなる。キスしたら次は身体中まさぐりたくなって。そのまま尚人を裸に剥いて、ソファーの上で足を思い切り開かせて……。
取り返しのつかないことをしてしまう自覚は十分にあった。
だから溢れそうになる感情を押し殺して
「そうか」
とただひと言発するのが精一杯だったのだ。尚人の寂しそうな笑顔が胸にぐさりと刺さりながらも、ケダモノになるよりマシだと自分に言い聞かせた。
「もともと志望が公立一本だったんですけど。万が一にも私立に行くなら、と考えてた部分もあったんで。なので、今後はステージ優先で大丈夫です」
「わかりました。では、今後はその方向でスケジュールを組みます。『アウラ』さんの仕事は、無理なく入る場合のみ受けますね。それで、いいですか?」
「はい」
その後、来週から行く予定になっている海外ロケのスケジュールの最終確認を行い、市川に手配してもらった航空チケットを受け取って打ち合わせは終わった。
打ち合わせが終わって自宅へ帰り着くと夜九時を回っていた。帰宅時間は告げていなかったが帰る予定であることは伝えていたため、食卓には雅紀の分の晩飯がラップをかけて置いてあった。鍋の味噌汁を火にかけて温め直し、保温されていた炊飯ジャーから白飯をよそう。おかずのメインはチキンカツで、『トースターで温め直してください』とメモ書きがあったが面倒くさかったのでそのまま食べた。当然冷めていたが、思いのほか衣がサクサクで柔らかくて美味しい。副菜の白和えは、疲れた体にほっとするような味付けだった。
(ナオも、もう高校生か)
改めて思う。
外に愛人を作っていた父親が、不倫がバレてその関係を解消するどころか、家族をゴミのようにポイ捨てして出て行った時、尚人は小学校六年生だった。以降雅紀たち一家は不幸の坂道を転がり落ち、泥水を啜るようにして一日一日を耐え忍びながら生きて来た。
何とかここまで来た。
ここまでやって来られた。
中学の三年間、尚人には我慢させ通しだった。入学時はとにかく金がなくて、制服は近所の人から譲ってもらったお下がり。校納金も何度も滞納して督促された。当然家で着る服に金をかけられるはずもなく、尚人の夏の定番はタンクトップに短パンととても中学生とは思えない格好だったが、尚人がそれに不満を言ったことは一度もなかった。
経済的な問題が多少解消された現在、尚人には人並みに高校生活を楽しんでもらいたいとの思いがある。高校時代の友人は雅紀にとって大きな財産だ。本当に苦しかった時雅紀は随分友人たちに助けられた。そんな友を尚人にも持ってもらいたい。家事全般を担う尚人が部活なんてしている暇がないのはわかり切ったことなので、せめて青春時代の思い出を共有する友人くらいはと思うのだ。
しかしその一方で、
––––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。
––––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。
その言葉がどうしたって無視できない。県下一の偏差値を誇る翔南高校に合格した今現在、あの時の尚人の言葉が、単なる思いつきでも口先ばかりの虚勢でもないことを思い知らされたからだ。
そうやって雅紀が独り煩悶しながら夕飯を食べていると、風呂場の方から物音が響いた。二階の自室で勉強しているとばかり思っていた尚人だが、どうやら風呂に入っていたようだ。
(どうする)
反射的に雅紀はあせる。
このまま晩飯を終わらせて、さっさと二階の自室へ逃げ込むか。それとも、尚人がそのまま二階に上がることを期待してこのまま晩飯を続けるか。
正直雅紀は風呂上がりの尚人に遭遇したくなかった。何と言っても風呂上がりの尚人は破壊力がありすぎる。ほんのり上気した肌からボディーシャンプーの香りがすると、雅紀が必死に閉じ込めているケダモノが自制を食い破って出て来そうで怖い。
しかしもたもたしている間に、尚人の足音がこちらに向かって響いて来た。
(最悪)
雅紀は心の中で舌打ちする。尚人がダイニングキッチンに顔を出したのはそのタイミングだった。
「あ、雅紀兄さん。おかえりなさい」
「うん。……ごちそうさま」
雅紀は残っていた味噌汁を掻き込んで手を合わせた。遭遇してしまったものはしょうがない。後はなるべく目を合わさずに、すばやくここを立ち去るのが一番だ。
「あ、お茶。いれようか?」
「いい」
雅紀は使った食器をシンクに運んで、そのまま立ち去ろうとしたのだが。
「あの、雅紀兄さん」
珍しくも尚人に呼び止められた。
「何だ?」
「あの、今日。翔南高校の合格者説明会に行って来たんだけど」
「え? 今日だったのか? 説明会って保護者同伴だろう? 加門の祖母ちゃんにでも頼んだのか?」
驚きと同時にわずかな怒りが込み上げた。
またハブられた。
そんな思いがよぎったからだ。
しかし沙也加贔屓の加門の祖母は、尚人の翔南受験を快く思っていなかった。
「合格しても。お祖母ちゃん、喜べないわ」
はっきりとそう口にしたくらいだ。その加門の祖母が果たして説明会への同伴を了承したのだろうか。
「案内資料にはそう書いてあったんだけど。事前に高校に問い合わせたら、どうしてもの場合は生徒だけでいいって言われたから。俺一人で行って来た」
雅紀は息を吐く。どうしてこう尚人は、一人で何でも勝手に解決してしまうのか。確かに今日は、どう言われてもスケジュールを動かせなかったが。そのことと説明会の日時を事前に言わないのは全くの別の話だ。
「その話はちゃんと聞く。座れ」
雅紀は尚人を促して食卓に座り直した。
「今日が説明会だったなんて、俺聞いてないんだけど」
雅紀が声を尖らせると、尚人がわずかに目を伏せた。
「……ごめんなさい。合格もしてないのに説明会の日程を伝えるのもおかしいと思って。だから、合格したら言おうと思ってたんだけど……。合格発表があった日にはすでに、今日、雅紀兄さんが仕事だってわかってたから。……その、言うと迷惑をかけるかと思って」
合格発表から今日まで一週間。確かにその期間でスケジュールを動かせるはずがない。それは確かなのだが。
「俺が行けるかどうかと、日程を知ることは別問題だろう?」
「ごめんなさい」
尚人なりに気を使ったのだろう。それはわかるが自分が何に怒っているかをきちんと伝えないと尚人は同じことを繰り返す。
とはいえ尚人を避けているのは自分の方で、雅紀は「どの口がそれを言うか」との思いも当然あった。しかも、目の前に座る尚人は案の定白い肌をほんのり上気させていて。雅紀の怒りを感じて、もじもじとしている様子も可愛くってしょうがない。
最初に感じたイライラなんてあっけなく吹き飛んで。代わりに自制がゴリゴリと擦り潰されていく。
平常心。
……平常心。
………平常心。
雅紀は身体の奥にたぎる熱を必死に押さえ込む。
「で、説明会はどうだったんだ?」
「入学式の日程の説明と、春休みの課題の配布があって。あとは、これから納める必要があるお金の話と、制服の採寸をして」
「資料があるんだろう?」
「あ、うん。もらって来た」
「テーブルに置いとけ。風呂から上がってから目を通すから」
「わかった」
雅紀はそれだけ言って風呂場に向かった。
尚人と面と向かっていられるのは、それが限界だった。