年が明けてあっという間に二週間。ついにその日はやって来た。
大学入試センター試験。
二日間にわたって5教科7科目の試験が行われる、国立大学を希望する者は必ず受けなければいけない試験だ。
センター試験が行われる週末、雅紀はもちろん休みをとった。
何ができるというわけではないが、万が一何かあった時、最大限のサポートをしてやりたかったからだ。
それには試験会場までの送迎も含まれていたのだが、尚人に確認したところ、試験会場は翔南高校近くにある私立の工科大学のキャンパスということで、
「慣れてる道だし。自転車で行くから大丈夫だよ」
と笑顔で言われてしまった。
さらには、
「車だと渋滞が読めないし。心配だから」
とどめを刺された。
どうやら現役生は、在籍する高校単位で受験会場が決められるらしい。前日にしっかり下見をし、一緒に試験を受ける桜坂達とも会場内で落ち合う約束をしているのだと言われれば、ほんの少し安心したが。
試験開始は九時半。課外のために毎朝六時半には家を出る尚人にしては、ゆっくりめな時間で出発した。
(天気が良くてよかったよな)
尚人が出発してしまって、ガラリと静かになった家のリビングから空を見上げて思う。悪天候だったら、尚人が何と言っても車で送ったが、それでも会場内で難儀することには違いない。足元が濡れた状態で一日試験を受けることになれば、本来の力を発揮できない恐れだってある。そんな「不運」で万が一尚人の希望が叶わないなんてことになったら、雅紀の方が気持ちのやり場に困りそうだった。
今まで色んなことを我慢して、家事と学業の両立を頑張って来た尚人が、悩んで自分で決めた進路だから、希望が叶うことを心から願う。大学入試の本丸は二月下旬にある二次試験だが、尚人が受験する予定の大学はセンター試験の得点で一次選抜という足切りをされる可能性もあるというのだから、一点だって無駄にできない。––––はずだ。
大学受験を諦めた雅紀には経験がないから、詳しく知るわけではないが。
尚人が家を出てしまった朝七時、雅紀はすでに手持ち無沙汰になる。これがいつもの休みなら寝直すところだが、尚人が今から大事な試験に臨むのだと思えば、呑気に寝ている気にもならなかった。
とりあえず、リビングのソファーに座ってタブレットでメールチェックする。最近仕事のやりとりはメールが
返信が必要なものは返信をし、市川へ転送が必要なものは転送する。その最中に裕太が起きて来た。冷蔵庫から何かを取り出し、食卓に着いて尚人が準備していた朝飯を食べ始める。その気配は感じていたが、雅紀は視線をやることもなければ声を掛けることもない。その必要を感じないからだ。
そうやって、さくさくメールを処理していた雅紀だったが、次のメールを開こうとして思わず手を止めた。反射的に眉を寄せたのは、送り主が『クリス』だったからだ。
『クリス』というのが、『ヴァンス』のチーフデザイナー、クリストファー・ナイブスであるのは間違いなかった。『ヴァンス』の日本旗艦店で流すプロモーション・ビデオに雅紀を使いたいとクリスがオファーして来た時、仕事上必要だからとメールアドレスの交換をし、実際、何度か遣り取りをしたことがある。しかし、それも今は区切りがついて、このタイミングでクリスからメールをもらう心当たりなどなかった。
あるとすれば、次なる面倒ごと、しか思い浮かばない。
––––一体、何用だよ。
そう思いつつ、メールを開く。
【ハッピーニューイヤー。ちょっと遅くなったけど、新年の挨拶だよ。年明けから今まで、旗艦店のオープンイベントでバタバタしていて。ようやく一息ついたところなんだ】
どうでもいい冒頭の挨拶に、雅紀はイラッとする。
(忙しいんならメールすんなよ)
心の中だけで毒づく。
【店内のプロモーション・ビデオが大好評でね。とても満足しているよ。おかげで新たな客層を取り込めそうだ。ただ、ひとつ意外だったのは、予想よりも外国人客が多かったことかな。日本限定アイテムがインバウンド消費に繋がったみたいなんだけど、そのせいで事前に準備していた外国語対応専用スタッフでは足りなくてね。それで多少店内が混乱してしまったものだから、ナオト君が助っ人で来てくれたらって、本気で何度も思ったよ】
もはや、雅紀にとってはどうでもいい内容が続く。
商売繁盛でよかったな。でも、尚人は今後一切貸し出し不可ですから。そんな気持ちにしかならない。
【ところで話は変わるけど。君の妹にあったよ】
(は?)
雅紀はひっそりと眉を顰めた。
【カウント・ダウンのイベントの後にね。タカクラに、会って欲しいモデルがいるって言われて。そしたら君の妹だった】
(高倉さんが? へぇ……)
そしてふと思い出す。
(加々美さんのあの話とリンクするのか?)
イベント終了後、雅紀は加々美にカクテル・ラウンジに呼び出された。そこで、沙也加を何とか波に乗せたい高倉が、雅紀とのツーショットグラビアを画策しているという話を聞かされた。
その時雅紀は、
「俺とツーショット撮ったくらいで、波がたちますかね」
と答えたのだが、高倉の思惑は、単なるツーショットグラビアではなかったのかもしれない。
(『ヴァンス』も巻き込もうとしてたってことか?)
『ヴァンス』は今、アズラエルと専属モデル契約を結んでいる。だから、『アズラエル』所属のモデルが『ヴァンス』の衣装を着てグラビアを撮ることは何の問題もない。
しかし……
(沙也加と『ヴァンス』ねぇ……)
ただでさえ「着る者を選ぶ」と言われる『ヴァンス』だ。そこをあえて選ぶ高倉は、チャレンジャーすぎはしないだろうか。
まあ、「意外」で攻めなければ、高倉が期待するような「波」は起きないのも事実だろうが。
【ナオト君よりよっぽど君に似てるよね。妹だって聞いて「ああ、なるほど」って納得しちゃったよ】
(どういうことだ?)
何となく気持ちがモヤッとする。
別に、沙也加に似ていると言われて不愉快なわけではないが。
まだ尚人や裕太が幼かった頃、近所や学校で篠宮兄妹といえば、雅紀と沙也加の二人のことだった。特にピアノコンクールでは「美男美女、兄妹」と言われ、沙也加のことはよく「このお兄ちゃんの妹って感じ」と評されていた。先祖返りの雅紀の異相と違って沙也加は日本人外形だったが、それでも兄妹と言われれば納得する。そんな感じの受け止め方だった。
それに対し、尚人は違った。学校が被ったのは、小学校時代のたった一年間で、兄弟だと知らない者も多く、雅紀が尚人の手を引いて歩いていると、初対面の人は必ず近所の子の面倒を見ているのだと勘違いした。兄弟だと説明しても、大抵の人は意外そうな顔つきだった。
(ナオは俺と違ってかわいいから)
雅紀はそう受け止めていたが、兄弟に見られない不満はどことなく雅紀の中で燻っていた。そんな、幼い頃の刷り込みというものは侮れないものだ。
そんなことをつらつらと思い出していたら、
「雅紀兄ちゃん、そんな嫌な奴からのメールなのかよ」
不意に裕太に声を掛けられた。
「すっげー顔してるけど。それとも、ナオちゃん絡み?」
案外鋭い裕太の指摘に雅紀は呆れる。誰にって、もちろん自分にだ。まあ、家でまでポーカーフェイスを貫き通す必要もないのだが。
雅紀はちらりと視線を上げて裕太を見た。
「お前の今日の予定は?」
「別にいつも通りだけど? 午前中のうちに風呂とトイレの掃除して、午後からスーパーに買い出し。雅紀兄ちゃんは?」
「一日家にいる」
「あっそ」
兄弟の短い会話はそれで終わって、雅紀は再びタブレットに視線を落とす。そして最後までどうでもいい内容のクリスのメールを雅紀は迷わず消去した。
* * *
夜七時、辺りはすっかり暗い。
尚人はまだ帰って来ていなくて、キッチンでは裕太が味噌汁やサラダを作っていた。主菜は尚人が事前に作り置きしているらしく、それに添える副菜を裕太が準備しているのだ。最近の篠宮家では、これが日常の風景になりつつあった。
(裕太も変わったよな)
つくづく思う。
父親が出て行って、裕太は最初荒れに荒れまくった。学校や近所からの苦情が絶えなくて、警察に補導されて雅紀が迎えに行ったこともある。その時期を過ぎると、今度は一転、部屋に引きこもって出てこなくなった。結局、中学校へは一日も通わず卒業した。それはそれで日本の義務教育のあり方に疑問を抱くが、いつまでも「そこ」に留めないシステムは、裕太には向いていたと言える。
自動的に学校を追い出され、部屋に閉じこもり続けることも雅紀に禁止されて、裕太は「自分はどうすべきか」の模索を始めた。ノロノロとした亀の歩みでも、自ら動き出したことは大きな一歩だった。それには言わずもがな尚人の存在が大きい。雅紀は一度尚人に「黙って手を引いてやるのは、優しさとは言わない」と言ったことがあるが、裕太にとっては、尚人だけは自分を見捨てない、というその確信こそが必要で、その確信があったからこそ、祐太は再生を始める気になったのだ。『家族の絆』を大切にし続けた尚人の粘り勝ちとも言えた。そして、その尚人が大切にした『家族の絆』の土台にあるのが『食』で、裕太が引きこもりをやめて最初に始めたことが「スーパーへの買い出し」というのも、何やら意味のあることのように思える。
尚人がいてラッキーだったのは、裕太に限らず雅紀も同じだ。だからこそ尚人には自分ができる最大限のことをしてやりたいと雅紀は思う。しかし、尚人の手伝いを買って出るようになった裕太の姿を見ていると、いつまでも尚人に甘えているのは自分だけのような気もして来て、雅紀はほんの少し心がざわついた。
今日に限って言えば、雅紀はただ家にいるだけの存在でしかない。
「っと、あとはナオちゃんが作ってる唐揚げ温め直せばオッケーだな」
祐太が呟いて時計に目をやる。その姿に雅紀もつられたように時計を見た。
七時半。もう、帰って来てもいいはずだが……
(ちょっと、遅くないか?)
試験の終わりは夕方六時と聞いている。
(そんな時間まで試験受けるのかよ)
最初聞いた時は驚いて、そんなに集中力が持つのか疑問だったが、尚人はあっさり
「俺は何日にも分けられるより、一日にぎゅっと詰め込んでくれたほうがいいかな」
と言うので、そんなものかと納得したが。
ひょっとすると、一日集中し続けられる能力、とやらも一緒に計られているのかもしれない。なんて思ってみたりもする。
(あー、やっぱり携帯持たせたほうが良かったかな)
今日尚人は、携帯電話を置いて行った。試験会場では、不正防止のため携帯電話の取り扱いを厳格に定めているが、それでも持込不可ではない。
だが尚人は、
「万が一、操作ミスって試験中に鳴ったら、俺それで集中できなくなっちゃうから」
だから、持って行かない。その尚人の意思を雅紀は尊重するしかなかった。のだが––––
事前の「帰るメール」に慣れてしまうと、連絡がないことが不安でしょうがない。
そんなことを考えていると、玄関ドアが開く音がした。
「ただいまー」
雅紀はすぐに玄関に顔を出す。
「おかえり。飯、すぐに食うだろう?」
「うん。着替えて、手洗ってくるね」
笑顔で答える尚人の顔を見て、雅紀はほっと安堵の息を吐く。
この表情ならば、それなりに手応えがあったと言うことだろう。
色々話を聞きたいが、試験は明日もあるのだから、今はそれに集中させたい。
今日一晩また英気を養って、明日も頑張れ、と心の中で応援する雅紀だった。
* * *
センター試験二日目。尚人は前日と同じ時間に家を出て、前日と同じルートで会場に向かった。受験者用と指定された駐輪場に自転車を止め、会場内の待ち合わせ場所にしている広場に向かうとすでに中野と山下の姿があった。
「よっ」
「おはよー」
「今日も天気で良かったよな」
その言葉に尚人は頷く。
高校の先生達には散々、
「センターの日はなぜが大寒波が来る」
と脅されていたが、二日間とも天気に恵まれた。
「俺の日頃の行いが良いからだろうな」
「お前、全国何万人といる受験生の代表かよ」
中野の言葉にすかさず山下が突っ込んで、今日のこの日であってもいつもと変わらない二人の様子に尚人は思わずぷっと吹き出す。
少し遅れて桜坂も合流した。開場時間まで四人で過ごし、時間になると互いの健闘を耐えあって別れた。会場内の席順は五十音順で四人は見事バラバラの教室なのだ。
尚人の試験教室は、情報棟2110−Bという教室だった。
二日目ともなれば随分と勝手がわかる。尚人は階段を使って教室のある二階に上がり、自分の受験番号の貼られた席に座ると、受験票を机の右端に置く。その横にHBの鉛筆数本と消しゴム、定規を筆箱から取り出して並べ、尚人は静かに試験開始の合図を待った。
定刻になると問題の配付が始まった。試験問題は、監督者が一人一人に配っていく。冊子の表紙には注意事項が書いてあり、尚人は丁寧に目を通す。昨日受けた問題とほぼ同じ内容の注意事項だが、これから受験する理科は科目選択制なので、解答科目を正しくマークしていない場合は0点になるとの記載がある。先生達からも口をすっぱくして言われて来た注意事項で、「受験番号と解答科目欄は、問題に取り掛かる前に必ずマークしろ」が鉄則だ。
試験開始の時間になって、試験監督者が開始を告げた。
「それでは、始めてください」
同時に教室内に、一斉にページをめくる音が響く。
その中で尚人は落ち着いて、まずは試験の鉄則、受験番号と解答科目欄をマークした。
午前中の試験が終わって、四人は再び広場で落ち合った。
「はー、やっと午前中終わった」
外のベンチに場所を確保して、持参した弁当を広げる。
本当に天気で良かった。教室は試験が終われば追い出され、次の開場まで立ち入り禁止となるため、昼食は各自、勝手に場所を見つけて取らなければならない。大学内の学食エリアは別の高校が「予約」して抑えているため、翔南高校生は先生達から事前に「外で食え」と言われていたが、これで雨天ならどこで食べて良いものやら迷っただろう。
だが、天気がいい時に外で食べる弁当は、いい気分転換になる。学食で食べている学校の生徒達も、今日みたいな天気なら外で食べたいと思っているかもしれない。
「理科も数学も、例年並みな問題だったよな」
「まあ、そうかな。数学の最終問題はちょっと手間取ったけど。お前何番選んだ?」
「俺、3」
「お、一緒」
「おい。終わった試験の話は、明日まですんなって先生に言われてんだろ」
桜坂が嗜めると、中野が少しバツの悪い顔をした。
「わりー。ちょっと、ほっとして」
「気分転換になるんなら、ちょっとくらいいんじゃない?」
先生達がそう言うのは、まだ次の試験があるのに終わったことを気に病んで集中できなくなると困るからだ。
「さすが篠宮。フォロー上手」
「こいつ甘やかしてもいいことないぞ」
「別に甘やかしるつもりはないけど」
「こいつ本当は理数1科目でいいから、気持ち的に終わった気でいるんだよ」
「あ、ばれた?」
中野が苦笑する。
翔南高校では、中野のように受験する大学が理数一科目しか課してない場合でも、全科目受けるよう指導されている。それは、二次試験に提出する時に点数がいい方を使っていいからだ。万が一、数1でコケても、数2を使う。そんな感じに保険を掛けるのだ。が、基本的には数1より数2の方が難しいし、理1より理2の方が難しい。そして午後行われる試験が数2と理2なのだ。
尚人の希望する大学は全科目必要だから午後からも気が抜けないが。
「まあ、桜坂。これでも食って気を治せって」
そう言って中野が、鞄からチョコレートを取り出して全員に配る。
「脳に必要なのはやっぱ糖分だろ」
「お、気が効くじゃん。まさか朝からコンビニで買って来たのか?」
「かーちゃんに持たされたんだよ」
「そこが彼女じゃない点が悲しいよな」
「悲しい言うな。かーちゃんがかわいそうだろ。篠宮くんにあげてって言って昨日スーパーで買って来たのに」
「篠宮のおこぼれかー」
「お母さんに、ありがとうございますって言っといてね」
「そんなこと言ったら、家のかーちゃん、篠宮にますますメロメロになっちまうぜ」
「お前ん家のかーちゃん、篠宮の兄貴押しじゃなかったのかよ」
「それは別腹らしい」
「デザートかよ!」
二人のやりとりに尚人はクスクス笑う。
こんな時でも二人はいつも通りで、やはり面白い。
「よっしゃー。じゃ、エネルギーチャージしたところで、午後からも頑張るか」
「おう。じゃ、また明日な」
「おう」
「じゃあ」
四人はまたそれぞれの教室へ向かう。帰りは落ち合わない。そのまま帰って、明日は学校で自己採点だ。
尚人も気合を入れ直して、残り2科目に集中した。
* * *
「ただいまー」
尚人が玄関を開けて家に入ると、昨日と同じ、雅紀がすぐに顔を出した。
「おかえり」
その顔を見て、尚人はなんだか無性にほっとする。
昨日と今日、雅紀が家にいてくれて良かった。それだけで心強かった。
「すぐ、飯にするだろう?」
「うん。着替えて、手洗ってくるね」
尚人が靴を脱いで家に上がる。そのタイミングで雅紀に頭を撫でられた。
「お疲れ、ナオ」
雅紀が柔らかく笑う。
その一言が尚人の胸にじわりと染みて、尚人の顔から自然と笑みがこぼれ落ちた。