「近頃、随分と楽しそうじゃないか」
背後からかかった声に、加々美はぎくりとして歩みを止めた。
振り返らずとも声の主はわかる。
学生の頃知り合った付き合いの長い友人で、かつ、加々美の専属マネージャーを務め、いまや『アズラエル』の裏総裁とまで言われる男。––––高倉真理。その男の声を加々美が聞き間違えるはずがない。
日頃からクールでポーカーフェイス。遣り手ビジネスマンである高倉は、口調も実に淡々としていて、良くも悪くも感情がこもらない。……はずなのだが。今日はやけにぞくりとするような冷たさを孕んでいる。それが気のせいではないことを確信しつつ、加々美はむしろ、にこやかな笑顔を浮かべて振り返った。
大抵の者は、加々美がおおらかに笑ってみせれば、つられて表情を緩めるからだ。
「このフロアにいるなんて、珍しいな」
しかし視線の合った高倉は、にこりともしなかった。
「俺がここにいたら、何か問題でも?」
むしろ寒々しい視線を返され、加々美は心の中で苦笑する。
「……いや、全然」
高倉が、自分に文句の一つや二つ、いや、三つも四つも言いたい心境なのは、よーくわかっている。だから加々美は、しばらく顔を合わせないようにしていたのだ。
具体的に言うと、高倉の執務室にコーヒーブレイクしに行くのを当面見合わせていた、ということだが……。
「お前のために最新のコーヒーメーカーを入れたってのに、近頃ちっとも顔を見せないなんて。––––俺とお前の仲で、随分とつれないんじゃないか?」
「あー……」
下手な返しは自らの首を締める。それがわかっているがゆえに、加々美は返答に迷う。
「この時期は、お前も忙しいだろうし?」
「べつに。忙しいのは年中同じで。この時期が特別忙しいわけじゃない」
高倉の応えは素っ気なさすぎて取り付く島がない。
「そう……、だったかな?」
「ああ。だから、いまから俺の部屋に来て、コーヒーでも飲まないか? せっかく最新のコーヒーメーカーを入れたんだし」
「––––じゃあ、そうしようかな」
表面上はにこやかに笑って見せる。
逃げられない。
加々美は、観念するしかなかった。
「俺はお前に、二度も裏切られた気分だ」
高倉が淡々とした口調で加々美に恨み節をぶつける。
最新のコーヒーメーカーで淹れたというコーヒーは、味に深みがあって確かに、うまい。
………が、やけに苦かった。
「これが一番の最善策だったんだよ」
加々美はいっそ開き直ってそう言った。
なんのことって? もちろん尚人との代理人契約のことだ。
「いろんなことを勘案すると『アズラエル』預かりの話は、簡単にはまとまらない。でも、尚人君のこれ以上の放置はできない。そんな状況でさ、尚人君を口説き落とすためには、俺の個人事務所預かりにするのが一番だったんだよ。雅紀だって渋々かもしれないが納得したし。それに、俺がするのはあくまで尚人君のやりたいことのサポートだしな。だから、もしかしたら、尚人君がこれからモデルをやりたいって思うかもしれないだろ? そしたら、そこから『アズラエル』にマネジメントを依頼するってことだって選択肢としてはあるわけだし。大学卒業後に入社って線もないわけじゃないだろ? まさにウィンウィンウィンじゃねえか」
「––––で、お前が一番美味しいところを持っていくってわけか」
「………それは否定しない」
近頃加々美の頭の中を占めるのは、尚人をどこに連れて行ってやろうか。何を見せてやろうか。何を経験させてやろうか。そればかりだ。考えるだけでワクワクする。こんなに楽しいのは、雅紀を口説き落とした以来だ。
「で、早速、クリスが
「深夜二時に叩き起こされた」
加々美はまさにウンザリとばかりに肩を竦めた。
「あのフットワークの軽さは尊敬するが、他人の迷惑を顧みないところは、誰かを彷彿とさせるよな」
加々美はもう一人の腐れ縁の男を脳裏に浮かべる。
あちらもあちらで、何やら尚人に入れ込んでいるようで、あの偏屈男が「受験が終わってからのお楽しみ」とやらの激励品を尚人に贈っていたと知ったときは、あんぐり開いた口が塞がらなかった。
加々美の知る限り、そんなことをする男ではない。良くも悪くも『人』に興味がないのだ。––––今まではそう思っていた。
しかし、正確にはそうではないのだろう。普段はネイチャー・フォトグラファーの伊崎だが、食指が動けば『人』も撮る。それ考えると、伊崎は感性が揺り動かされさえすれば何でも撮るが、その割合が『自然』であることが多い、というだけなのかもしれない。が、伊崎の尚人への関心は、それだけでは説明がつかない気もして。加々美的になんとなくもやっとする。だって、あの伊崎が、わざわざ人に何かを贈るだなんて。そんな感情がある男だとは、今の今まで思いもしなかったのだから。
尚人の話では、伊崎にもらったのは無音の風景動画だったらしい。
「以前、カレルに友人たちと創作したっていう曲を送ってもらったことがあるんです。その曲は、伊崎さんの写真集にインスピレーションを受けて作曲したもので。曲を聞いてると伊崎さんの写真が頭に浮かんでくるような曲だったんですよ。だから、伊崎さんにも是非聞いて欲しくて、転送したんです。そしたら伊崎さん、写真とのイメージ・コラボっていう発想が新鮮だって言ってて。だから、今度はその反対って感じ?
(……何だそれは)
伊崎は完全に尚人との
「下手な答えは返せないから、いろんな曲を頭に浮かべて。映像にぴったりハマる曲はどれだろうって考えて。その時間がすごく楽しかったです」
わずかにはにかみながらそんなことを言われれば、可愛いしかない。
隣に座っていた雅紀のでれでれの表情が、ちょっと本気で見ものだった。
「で、クリスは何て言ってきたんだ?」
「日本以外でなら尚人君を使えるだろって」
確かにその通りではあるのだが。
「尚人君は四月から大学生で、学業優先ってことで契約もしてるって説明しても、あーだこーだしつこくって。まったく、まいったぜ」
「で、お前としては。どうするつもりなんだ?」
「何を?」
「ここまで来てとぼけるつもりか?」
「そんなつもりはない。尚人君の件なら、尚人君の意思が最優先だ。それ以外にない」
加々美はそう答えると、カップに残っていたコーヒーを飲み干した。
* * *
その日雅紀が仕事を終えて家に帰ると、ちょうど尚人が夕飯を食卓に並べているところだった。
「あ、雅紀兄さん。おかえりなさい」
「ただいま」
エプロン姿でにっこり笑顔で出迎えられて、雅紀はほっこりする。
「タイミングばっちりだったね。天ぷらはやっぱり揚げたてが一番だから」
事前に「帰るメール」をしていたから、時間を見計らって準備していたのだろう。食卓には、美味しそうに盛り付けられた野菜やきのこの天ぷらが並んでいた。
「着替えてくる」
「うん。待ってる」
雅紀は荷物を抱えて二階の自室へ上がり、部屋着のスエットに着替えると洗面台で手を洗ってリビングに戻る。尚人と祐太がすでに座って待っていて、雅紀が着席すると「いただきます」と声を揃えて食事になった。
尚人の揚げる天ぷらは、外はカリッと中はふわっとで本当にうまい。玄人はだしだ。以前聞いた話では、天ぷらを上手に揚げるコツは油の温度の維持と事前に衣をしっかり冷やすことらしい。何でもスーパーの惣菜コーナーを担当するパートさんが教えてくれたのだとか。尚人の人たらしは年齢性別を超えると、つくづく思う。
「で、今日の観劇はどうだった?」
少し腹が落ち着いたところで雅紀が話題を振る。今日尚人は加々美に誘われて演劇鑑賞に行ったのだ。
無事に大学に合格した尚人は、大学が始まるまでの今現在春休み。その期間を無駄にできないとばかりに加々美が早速あちこち連れ回している。加々美は尚人を連れ出すのに
今日見に行くと言ってた演劇は、シェークスピアの作品を現代風にアレンジしたもので、脚本演出が今話題の『ショーケン』とあって、なかなかチケットが取れない人気の舞台らしい。
「すごかった」
雅紀の問いかけに、尚人の目がキランと光る。
これはよほど刺激的な体験だったのだろう。
「俺、演劇って見るの初めてだったんだけど。あんなすごい世界だったんだって、もうびっくり。舞台装置も大掛かりですごかったし、目の前で演じる役者さんの迫力もすごいし。なんかもう、すごいってしか言えない自分がもどかしくなるくらいすごかった」
(こりゃ、相当だな)
雅紀は思わず苦笑する。
尚人はどちらかというと、感情の起伏は小さい方だ。大抵のことには寛容で、落ち着きがある。幼い頃はそれが大人し過ぎると受け取られて祖父母には不評だったが、尚人は周囲の大人たちが思うよりもずっと大人だっただけだ。
まあ、それに加えて、主張の激し過ぎる
こうでね。
ああでね。
そして、こうなってね。
尚人の口は止まらない。
「へぇ」
「それは凄いな」
「それで?」
雅紀が相槌を打つと、尚人がますます熱弁を振るう。
その姿が可愛くて、雅紀の口元は緩みっぱなしだった。
* * *
「ナオ、一緒に風呂入ろう」
そう誘われて尚人は雅紀と連れ立って脱衣所へ向かう。
さっさと服を脱ぎ捨てる雅紀を横目に、尚人はモゾモゾと服を脱ぐ。
今更、と言われるかもしれないが、いつまで経っても雅紀の目の前で服を脱ぐという行為が恥ずかしいのだ。特に、脱衣所の鏡に、肉体美が眩しい雅紀と比べて貧相な自分の裸体が映ると余計羞恥心がこみ上げる。
(俺って、何でこんなにダメダメなんだろう)
薄い。ひょろい。……なまっちろい。
どう考えても、雅紀が自分と同じ年頃の時には、すでに「大人の男」の気配を漂わせていたように思う。
中学に入ってからずっと剣道の鍛錬をしていた雅紀と、何もしてない自分とを比べること自体がおこがましいことかもしれないが……。
高校を卒業し、これから大学生になろうかというのに、いつまでも「子供」ではいけないと思っているのだが。この体格だけはどうしようもない。
(何か運動したほうがいいのかな)
高校の三年間、毎日片道五十分の自転車通学を続けたことで、持久力にはそれなりに自信はついたが。筋肉は全くつかなかった。
まあ、自転車は足しか使わないから、体が筋肉むきむきになるはずもないのだが……。
(桜坂に体の鍛方教えてもらっとけばよかったかな)
密かにそんなことを思ってしまう。
「ナオ、何してんだ」
もたもたしてたら、雅紀に怪訝に声をかけられてしまった。
「……まーちゃん、先に入ってて」
尚人がそう言うと、雅紀は何故かニヤリと笑った。
「脱ぐの手伝ってやろうか?」
「……大丈夫。自分で脱げる」
「じゃあ、ちゃんと出来るか見といてやるよ」
不遜な笑みを口元の浮かべる表情を見るからに、これは完全に意地悪モードに入っている。
「ほらほら、早く」
「やっぱり一人じゃ出来ない?」
「本当は、俺に脱がせて欲しいんじゃない?」
雅紀は、尚人を揶揄うように急かす。
裸なんて何回も見られている。そんなことはわかっている。それどころか、自分では見ることが叶わない秘所の奥の奥まで雅紀には見られているのだ。––––それでも、……恥ずかしいものは、恥ずかしい。こればかりはどうしようもない。
ちっとも視線を逸らしてくれない雅紀を前に、尚人は背を向けて下着をずり下ろす。これ以上もたつくのはかっこ悪い。そう思って潔く脱いだつもりなのだが。
「もう、ナオってば。もったいつけすぎ」
裸になった尚人を、雅紀が背後から抱きしめてきて耳元で囁いた。
その吐息に尚人の産毛が立つ。
首筋がぞくりとした。
肌と肌が触れ合って、雅紀の体温がダイレクトに伝わる。
雅紀がべろりと耳たぶを舐めた。
「––––……んッ」
吐息が詰まる。
それが合図でもあったかのように、雅紀の手が尚人の下腹部に伸びた。
「まーちゃ……」
こんなところで––––
抗議の声は、重ねられた唇で塞がれる。
顎に手を添えられて。半ば強引に上を向かされて。口内に舌をねじ込まれて、ねっとりとねぶられる。
息苦しさと快感が交差して、尚人はあえぐ。
容赦無く股間を揉みしだく雅紀の愛撫に尚人の射精感が
急に訪れた喪失感。
行き場を失った感情の昂りに、尚人が困惑の眼差しを雅紀に向けると––––
「ナオ、続きは風呂の中で」
そう囁かれて、尚人は浴室へと引っ張り込まれた。