五限の授業が終わって、尚人は大学前の駅から電車に乗って家に帰る。
大学の授業の五限の終わりは夕方六時三十五分。帰着時間は夜八時を過ぎる。家に帰り着く頃には辺りは既に真っ暗だ。
大学生になった尚人の生活は随分変わった。
起床は朝の五時。これだけは体に染み付いてしまった習慣なので変わらないが、大学の授業は必ず一限目から受けなければいけないわけではないのが高校までと大きく違う。授業のコマ割りは一日五時限。一コマ一〇五分で、一限の始まりは朝八時半、五限の終わりは夕方六時三十五分。この時間内に設定されている授業のうち、必修と準必修、それと選択科目から自分で選んで授業を受ける。
シラバスで色々調べて確認し、尚人が最低受けなければいけない授業は週によって違うが一日大体三コマだった。それに尚人はその他気になる授業をプラスして、一日平均四コマの授業を受けることにした。
一限目から授業を受ける日は、七時前に家を出る。大学の最寄り駅まで電車を使って一時間ぐらいなので、教室まで歩いて行くとちょうどいい時間になるのだ。しかしこの時間は通勤通学で電車内が非常に混み合う時間帯なので、授業が二限目からの時はもう少し遅く出る。その方が電車内でゆっくり過ごせるからだ。
帰りの時間もバラバラで、五限目まで授業があると帰宅時間は夜八時を過ぎる。しかし三限目で終わる日もあって、その時は授業後直帰すれば午後四時過ぎには帰り着けた。
そんなふうに帰宅時間が週によってバラバラなので、夕飯の準備は裕太と話し合って分担することにした。授業が五限目まである週三日は裕太が担当し、それ以外は尚人が作る。生活パターンが変化したと言う意味においては、裕太にとっても四月は新生活のスタートとなった。
「ただいまー」
尚人が玄関を開けて家に入ると、キッチンから物音がする。覗くと祐太がせっせと夕飯の準備をしていた。
「ナオちゃん、おかえり」
尚人の気配に祐太が振り返る。笑顔でにっこり、とまではいかないが、誰かに「おかえり」と迎えられる生活はすごく幸せだ。
「すぐ夕飯だけど?」
「うん、荷物置いて、手洗ってくる」
尚人はそのまま一階の自室へ荷物を置きに行くと、洗面台で手を洗ってリビングに戻る。
祐太が今日のおかずを皿に盛り付けている。それを見遣って尚人はお箸を席に並べ、ご飯と味噌汁をよそって運んだ。
「いただきます」
今日のおかずはチキンのトマト煮だ。
「うーん、おいしい」
祐太の料理の腕前は日に日に上がっている。それに何と言っても、帰ったら晩飯が準備されているというのがとんでもなくうれしい。家族が繋がっている。そんな気になるからだ。
祐太は本来であれば高2になる年齢だが、学校へはまだ行っていない。自分で色々勉強はしていて、知識を身につける面白さは感じていても、それが学校へ行って学びたいという気持ちとはリンクしないようだ。雅紀も特に祐太を急かすそぶりは見せない。
雅紀が祐太に課したのは、ただ「変われ」ということだけ。そして祐太は確かに変わった。閉じこもっていた部屋の扉を開け、放り出していた勉強に手をつけ、家の手伝いも買って出て、今は料理も出来るようになった。
歩き出した祐太は、これからも少しずつ少しずつ変わっていくのだろう。今は夕飯作りを分担してくれているが、ひょっとすると来年には「そんな暇ない」という状況になっている可能性だってある。そんな祐太の未来を思うと
(祐太に甘えるのも程々にしないとダメだよなぁ)
と思う尚人なのだった。
* * *
兄弟二人きりの食卓は、篠宮家ではもう長いこと定番だ。長兄の雅紀は仕事で家を空けることが多く、帰って来ても二人の夕飯が終わった後、ということも珍しくない。
二月の下旬までは、受験生だった尚人をサポートするためかなり仕事を絞っていたようで一緒に食卓につく頻度も多かったが、尚人が大学生になった今現在、雅紀はまた忙しく仕事を詰め込んでいる。
というか、しばらく仕事を絞っていたそのつけが回ってきているという感じらしい。
––––向こうからオファーが来るって状況はありがたいことなんだけどな。
そうは言いつつも、尚人と過ごす時間が減ることは雅紀にとってかなりのダメージなのだろう。そのせいか週末のセックスは以前に増して激しくなった気がする。大学生になって土曜も休みになった尚人を土曜の真昼間から抱いていることも珍しくない。
祐太が知る限り、雅紀が尚人を抱くようになってもう三年。にもかかわらず雅紀の尚人に対する執着は収まる気配がない。世間では、……というか、巷にあふれるチープなドラマやゴシップを見る限り、最初はどんなに情熱的な恋愛であっても、三年も経てば目移りして浮気が始まったりするのが定番だ。それを考えれば、雅紀の執着もそろそろ収まっても良いのではないか、と思ったりもするのだが。
尚人とのセックスはそれほどに魅力的なのだろうか。
ふと、そんなことを考えている自分に気づいて祐太はびっくりする。この家の常識が世間の非常識だというのはわかっている。わかっているのに……、近頃妙にそれが気になる。
リビングのソファーに座って本を読む尚人のその真剣な横顔に視線が縫い止められる。形のいい耳からうなじにかけてそっと視線でなぞる。雅紀はいつもあそこを好きに舐めているのだと、一度見た二人の情事を思い出し、そして想像する。
あそこを舐めたらどんな感じなのだろう、と––––。
うまいはずがない、と呆れるその一方で、確認したい気持ちもわずかながら持っている自分を自覚する。実の兄、とわかっていながら、白くて細いその首筋に妙な艶かしさを覚える。
これもそれも全て、雅紀が尚人への執着を、劣情を、隠しもせずに自分に見せつけるせいだと祐太は思う。そう思うから、どこか開き直って考える。
自分が雅紀と同じことを尚人にしたら、尚人はどんな反応をするのだろうかと。戸惑って、嫌がって、拒否しつつも、首筋を舐められれば嬌声をあげるのだろうか。臀部を撫でられれば体を震わせるのだろうか。雅紀がしていたように無理に股間をしごいて一度でも自分の前で精を吐き出させれば、自分にも体を開くようになるのだろうか、と。
それでも祐太は、実際にやってみようと思っているわけではない。
雅紀は尚人への劣情を抑えきれなくなって、酔った勢いで強姦したと言っていたが、そんなこと祐太はしたいわけじゃない。
祐太にとって尚人はあくまでも家族だ。一人ずつ家族が欠けていった篠宮の家の中で最後まで繋がっていたいと思う唯一の存在だ。とても、とても大切なものだから、その絆が砕け散ってしまうかもしれないことをしたいとは思わない。
自分が作った晩ご飯を、尚人が笑顔で「おいしい」と言う。それがすごく幸せなことだと祐太は感じる。ただ、そんな恥ずかしいこと絶対口に出しては言わないが。
大学生になった尚人は明らかに変わった。
もともと落ち着きある性格だが、纏う雰囲気がより落ち着きあるものになった。人によってはそれを大人びたと表現するかもしれない。何より、視線が合うとどきりとする。雅紀や沙也加のような目力なんてないのに、吸い込まれそうな深みがあって、絡めとられてしまいそうになる。
雰囲気が変わったと思う理由の一つに、着る物も影響しているかもしれない。大学生になって私服で学校へ行くようになった尚人のために、雅紀がしょっ中尚人をショッピングに連れ出している。カリスマ・モデルの雅紀がコーディネートしてやるのだから、尚人が着る服はさりげなくおしゃれなものばかり。それが高校生までとは違う、しっとりとした大人の雰囲気を醸すのに一役買っている。そんな気がする。
なんにせよ、尚人は大学生になった。三年前はそんなこと考えられなかった。高校受験を控えた頃、尚人も「高校まで行かせてもらえればそれでいい」と言っていた。当時家の中の空気は最低最悪で、兄弟の間に会話はほとんどなかった。祐太はいろんなことにイライラして、ムカムカして、全てを拒否して部屋に閉じ籠っていた。
あれから色んなことがあった。本当に色んなことがあった。尚人が暴漢に襲われ、それをきっかけに『MASAKI』との関係が取り沙汰され、なし崩し的に篠宮家の過去が日本中に暴露された。時同じくして、借金で首の回らなくなったあの男が家の権利書を狙って家に忍び込み、それを祐太がバットで殴って撃退すると、金策のために今度は暴露本を出版した。そこにあることないこと書かれて腹を立てた祖父の拓也があの男を衝動的にナイフで刺し、頭に血が昇りすぎたのかその場で脳卒中を起こしてそのまま死んだ。刺されたあの男も一命は取り留めたものの、記憶がぶっ飛んで自分のやらかしたことを全て忘れ、新たな騒動をまき散らした。その男も愛人と共に交通事故で死んだ。
全て終わってしまえば何とも馬鹿らしい。祐太にはそんな感想しかない。そんな馬鹿らしいことに五年も振り回された自分がまた馬鹿らしくなる。
その間も尚人は着々と前に進んでいたのだ。だから今がある。あんな家庭状況だったのに、今ではまさかの東大生だ。
––––ナオちゃんって、ほんっと何て言うか。……スゴすぎ。
その一言に尽きる。
いい子ぶりっこの、勉強好きのガリ勉。以前はそんな風に内心馬鹿にしていたが、ここまで突き抜けられるともはや嫉妬すらできない。しかも尚人はそれを鼻にかけることもなければ、浮つくこともない。
––––裕太も色々協力してくれて。おかげで合格できた。
それが本心なのだ。大体祐太が引きこもりをやめたのは、尚人の高二の終わりの頃で。それまでに尚人にかけた迷惑を考えると、裕太が出来たことはこれまでの全てをチャラにできるものでは当然ない。
––––ナオちゃんって、ほんっとお人好しだよな。
それが少し心配になる。勉強はできても世間知らずの箱入り。それが尚人だからだ。しかも尚人は天然の
「あ、そうだ祐太。俺、明日ちょっと遅くなるから」
「明日?」
会話の少ない食卓で、モクモグと食べることに集中していたら、突然尚人が言った。明日は、いつもなら授業が三限で終わるとかで早く帰ってくる日だ。
「あ、そう。わかった」
祐太はうなずく。
「晩飯は?」
「晩飯も食べてくる。祐太の晩飯は、どうする? 準備しとこうか?」
その言葉に祐太はひっそりと眉を顰めた。
大学生なのだから、スケジュールが流動的になるのは折込済みだ。だから晩飯の分担決めをする時、急な用事などで帰宅時間が遅くなる時は、電話一本入れてくれさえすれば飯はどうにでもするから気にしなくていい、というのが裕太の提案だった。そもそも自分一人なら白飯と味噌汁くらいでもいいのが祐太だ。そんな取り決めをしているのだから、事前に帰りが遅くなるのがわかっているならなおのこと、晩飯など自分でどうにでもする。
いつまでも『家族のお荷物』ではいたくない。祐太にはその思いが強い。
「いや、いい。自分で準備するから」
「そう?」
「それに俺しか食わないってわかってるなら、初めて作る料理も心置きなくチャレンジできるし」
それは本心だ。いくつか作ってみたい料理がある。失敗しても自分の腹に収めればいいのなら気が楽だ。
「じゃあ、うまくできたらいつか食わせてね?」
祐太が頷くと会話は終了した。
(……で、遅くなる理由は言わないんだ)
別に気になってしょうがないわけじゃないが。
高校卒業後、なぜか尚人は加々美に連れ出されることが増えた。理由を問えば、何かと面倒を見てもらう、そういう契約をしたのだと言う。
(なんだ、それ)
何よりも、そんな契約に雅紀が同意したことが驚きだった。『加々美』と言う存在はそれほど雅紀の中でも大きいのか。
(なんか本当に、すげー弱み握られてんじゃね?)
自分たち兄弟の中に他人が入ってくる不快感。祐太はどうしてもそれが拭えないでいた。