朝の通勤通学のラッシュがひと段落した九時過ぎの最寄駅。安藤
待つこと数分。時間通りに電車がやって来て、目の前に止まった車両に乗り込む。車内は立っている乗客がまばらにいたものの混んではいない。通勤通学のラッシュが落ち着いたこの時間帯の登校は本当に快適だ。
これぞ大学生の醍醐味ってやつだよな。
安藤は思う。
高校時代、同じ路線を使って都内の私立高校へ通っていたが、一年の最初の頃は学校へ行くだけでヘトヘトで慣れるまで本当に大変だった。今でも一限がある日は満員電車にもまれるが、耐性がついてさほどく苦痛ではないのは高校時代の三年間の経験があるからだ。
それに、今は通学のちょっとした楽しみがある。同じクラスの篠宮尚人。使う路線が同じで朝電車の中で一緒になる。熱気むんむんの満員電車の中にあっても尚人の周りだけなんだか空気感が違って。視界に入るだけで癒される。今まで出会ったことがない不思議なタイプだ。
安藤が尚人の存在に気付いたのは、入学手続きのために大学へ行った日のこと。クラス分けの掲示板を確認し自分のクラスが示されたブースに入ったそこに尚人はいた。人のごった返す場所にあっても自然と目を引いて、何となく気になる。最初からべったりとくっついている邪魔な奴がいてその日は声をかけられなかったが、すぐに使う路線が同じとわかって親しくなった。
同じ電車に乗っているはず、とわかるまでは電車内で見かけることはなかったのだが、捜せばすぐにいつも何気に乗っていた車両の二両後ろに乗っていることが分かった。おそらくは尚人が利用する駅ではその車両の乗車口が一番乗り込みやすいのだろう。それが分かってから安藤はわざわざ二両後ろの乗車口に並ぶようになった。乗っていると分かれば混み合う車内でも簡単に見つけられる。何しろ尚人は一度その存在に気付いてしまうと目が離せない不思議な引力を持っていた。
しかし––––
(? ……いない)
安藤は車内を見回してわずかに首を傾げる。いつもはすぐに見つかるその姿がない。
(今日は別の車両とか?)
今まで尚人が別車両に乗っていたことはないが、そんなことだってあるかもしれないと、安藤は人の間を通り抜けて隣の車両に移る。しかし隣の車両にも尚人の姿はなく、そのまま尚人の姿を探して最後尾まで行ってみたがやはり姿はなかった。
(休みとか?)
いや、もしかすると一本前の電車に乗ったのかもしれない。通学に便利な快速電車はそんなに本数が多いわけではなく、二限目の授業に間に合う電車で時間的にちょうどいいのがこの電車だが、授業前に図書館に寄りたいとか、そんな時にはこの電車ではぎりぎり過ぎて時間に余裕がなさすぎる。
安藤はなんとも言えないため息を吐き出してカバンからスマートフォンを取り出そうとした。その時だった。
「あれ、タケじゃん。ひさしぶり〜」
懐かしい愛称に反応して視線をあげる。次の駅に到着して停車していた電車に、ちょうど乗り込んできたところらしい女性がひらひらと安藤に向かって手を振っていた。
高校の同級生の
同じクラスになったことはないが部活動を通して知り合いだった女子だ。安藤が所属していたソフトテニス部は一応男女は別の部活ということになっていたが、同じテニスコートを使っていたこともあって日々の練習では常に顔を合わせていた。それゆえか、ソフトテニス部員同士でくっつくカップルも多くて。河西を狙っている男子も多かった。実は安藤も高校時代、河西のことが気になっていた一人だ。告白しようかと散々迷った時期もある。しかし友人らが何人も玉砕する姿を見て、あいつらがダメなら俺もダメだろうと諦めた。それに高校入学時から東大を目指していた安藤は、恋愛よりも勉強が優先との自戒もあった。当時は自分の甘酸っぱい思いを無理に封印する、そういった全てが青春という感じがしたが、今振り返ればそう振舞うことで青春を気取りたいだけだったという気もする。その証拠に、卒業してまだ数ヶ月しかたたないのに河西を前にしても何の感情も揺さぶられなかった。
今あるのは、朝一で尚人の顔が見れなくて残念すぎる、その思いだけだ。
「タケもこの路線使ってたんだ。今まで気づかなかった〜」
河西があまりにも自然に隣に並ぶ。にこやかな笑顔を浮かべて。高校の時だったらすぐさま勘違いして内心浮かれまくっていただろう。
「タケ、なんか大人っぽくなったね。すっごく落ち着いた感じになってる〜」
そう言う河西は、メイクのし過ぎかどことなくお水系に見えてしまう。すっぴんで十分可愛かったし、成績も上位で才女の雰囲気だった。それが好意を抱いていた理由でもあるだけに何となく残念だ。
「そういえば、こないだリョー君にも偶然会って。久しぶりにソフト部のみんなに声かけて集まろうよって話になったんだよね。近々ライングループで流そうと思ってたんだけど。週末の予定ってどんな? なんかバイトとかサークルとかやってる? ってか、タケ。どこ大だったっけ? 早稲田? 上智?」
河西が一方的に喋りまくる。安藤は降車駅に着くまで適当に相槌を打ってやり過ごした。
* * *
朝八時半。雅紀は助手席に尚人を乗せて余裕を持って家を出る。
「大丈夫、電車で行けるよ」
という尚人に
「どうせ、俺も仕事で出ないといけないし」
と半ばゴリ押しして車に乗せた。
普段の登校では、家から最寄駅まで自転車で七分、電車移動五十分。着いた先の駅が大学の正門直結だから、あとは校舎まで歩くだけ。一時間ちょっとで大学に着く。対して、車移動だと道が空いていれば四十分ほどの行程だが、時間の読める電車と違って車は渋滞に引っかかることもある。朝は電車のほうが確実で早い。それでも車で送ると雅紀が譲らなかったのは、
「車だと、到着するまでゆっくり座ってられるだろう?」
それが一番の理由だ。
昨夜は多少のセーブをしたとはいえ、朝の尚人の気怠そうな様子を見るからに、電車で一時間も揺られて立っているのはどう考えても辛いだろう。それにそもそも送ると言い出したのは雅紀なのだから、約束はきっちり果たしたかった。
と、いろいろ
ということで、雅紀は上機嫌でアクセルを踏み、信号停車時はいつも以上に気を使ってブレーキをかける。尚人の腰に負担がかかるような急停車なんて
「ICレコーダー聴いてていいぞ」
出発してすぐに雅紀はそう声をかけた。尚人が電車移動中の時間を無駄にできないと車内で語学の勉強をしているのを知っているからだ。英語は得意で今更改めて勉強する必要はなさそうだが、大学では第二外国語なる語学が必修としてあるらしい。いくつかの語学の中から選べる第二外国語の授業で尚人はイタリア語を選択したと言っていた。
「まーちゃんがよくイタリアに行くから。一番興味がある」
というのが選択の理由らしい。それを聞いたときには、雅紀の相好は崩れ放題だった。尚人が何かを選択する基準に自分がいる。そのことが雅紀の独占欲を満たす。とはいえ、雅紀自身はイタリア語は全く喋れない。イタリアでもスタッフとの会話は全部英語だ。それで困ることはないが、時々現地スタッフがイタリア語でやりとりしている時に何と言っているのか分からなくて。それが気にならないと言えば嘘になる。
(加々美さんもイタリア語ぺらぺらだしなぁ。俺も、ちょっとは勉強したほうがいいかな)
チラリとそんなことを思いもするが。
(ま、でもナオがあっという間に習得してしまいそうだから。ナオを通訳として連れて行く方が早いかもな)
想像して、それも悪くないと思う。というか、それを考え出したらそうしたくてたまらなくなって。尚人と一緒の海外生活なんて妄想してみたりする。
……––––悪くない。
雅紀の頭の中で尚人は、空も海も青い地中海を眺めるホテルの部屋で真昼間から裸に剥かれてベッドの上だ。
朝っぱらから兄にそんな不埒な妄想をされているなど知る
「せっかくまーちゃんと一緒にいるから。まーちゃんとお喋りしたい。運転の邪魔じゃなければだけど」
尚人は相変わらず可愛いことを言う。
もちろん雅紀に
尚人が、アキラからもらったというメールについて話し始める。尚人が撮影に協力した十周年記念DVD BOXの予約特典の動画が結構な人気だと、その報告を受けたようだ。尚人的にはその報告にほっとした、ということだったが、その
先日の加々美との食事の席で。
「そう言えば尚人君が撮影協力した『ミズガルズ』の十周年記念DVD BOXの
「へぇ、そうなんですか?」
その動画については雅紀も見た。尚人宛に動画を収めたDVDが送られてきて、それを見せてもらったのだ。
(メンバー全員マジで浮かれすぎだろ)
(つーか、ナオに近寄り過ぎなんだよ(怒))
雅紀的にちょっとイラッとする場面が散在していただけに、「結構な評判」と言われても複雑な気分だったが。それでも尚人の視線を追体験していると思えばそれなりに面白かった。それに。
「あ、これ。アキラさんと『ミュージック・エイト』の話をしている場面だ」
「あ、この廊下の移動中。アキラさんがノリノリで歌ってたのがよかったのに。音カットされてる」
「……俺のドラムの音はカットしてくれないんだ」
「へぇ、編集されると、俺の見てた景色がこんなふうになるんだ。おもしろいなぁ」
尚人が、笑ったり赤面したり感心したり。一人百面相をしながら映像を見ている姿はDVDの中身よりも雅紀的によほど楽しかった。
「でさ。『ミズガルズ』の所属事務所に、期間限定じゃなくて正式にDVD BOXに収録して欲しいって、ファンからの要望が殺到してるみたいで。マネージャーはじめあちらの事務所関係者は頭を抱えてるみたいだぜ」
「まあ、ファンから要望があったからって期間限定にしてた動画を正式収録なんて、簡単にはできないでしょうけど?」
その辺、雅紀も業界のことを知らないわけではないので事務所関係者のため息が聞こえてきそうだ。
「まあな。スポンサーの意向もあるし。
ファンの声というのは聞き過ぎても無視しても駄目で、落とし所を間違うとファンの熱狂が凶器に変わることだってある。距離感の保ち方とイニシアティブというは人気商売では非常に重要だ。
雅紀は人気と距離感のバランスなんてものに神経を使いたくなくて『MASAKI』としてのプロフィールは名前以外一切明かしていなかったのだが、それが却ってミステリアスさを生んでコアなファンを生み出す要因になってしまったというのは思いもしなかった結果論であり、しかも篠宮家の愛憎劇が不本意ながらも世間に垂れ流しになった時に、それまでのミステリアスさからの反動とでも言うのか、意外すぎる素顔が話題になって『MASAKI』のカリスマ性が一気に押し上げられたのは皮肉としか言いようがない。
当然、同業者のライバルの中には、
––––おそらく全部計算。
––––親父も承知のマッチポンプ。
––––モデルと全然関係ないところで名前売るやり方マジえげつない。
などと口さがなく言う者いたが。もちろんそんな連中さっくり無視だ。面と向かって喧嘩を売る度胸も根性もない連中など、相手にする価値もない。
「動画が評判なのは、まあ、いいんだが。コアなファンが集う交流サイトで、撮影者は誰だってのが、かなり話題になってるみたいでさ」
「へぇ」
ファンってそんなことにまで関心がいくのかと、雅紀は妙に感心する。しかしファンがいくら想像をたくましくしたところで、結局は想像の範疇を超えはしない。なぜなら撮影は
「交流サイトでそんなことが話題になってるって教えてもらって、俺も気になって覗いてみたんだが。––––ファン侮りがたし。って、つくづく思っちまったぜ」
「というと?」
「かなりの核心をついてる。……というか、交流サイトではすでに撮影者は尚人君だって。そう結論づいてる」
「は? なんですか、それは」
雅紀は意味がわからずに、ひっそりと眉を寄せた。
「ファンってさ、すっげー細かいとこまで見てんだな。FBIも顔負けの捜査力って感じ? ガラスに一瞬映り込んだ姿なんかを見逃さなくってさ。その映像から尚人君だろうって話になったみたいだな。尚人君のことは、『ミズガルズ』の突発ライブの時に、お前の隣にいた子は誰だってネットで話題になってたから、それで記憶してるファンも一定数いるわけだし? メンバーと顔見知りのガチファンで、撮影協力依頼してもおかしくなくて。メンバー全員がカメラ目線でメロメロな感じってところを合わせると、尚人君で間違いないって。そういう結論みたいだ。まあ、もちろん。名前はふんわりぼやかされてて、尚人君の名前がネットに上がってるわけじゃないんだが」
加々美の話に雅紀の口からはため息しか出なかった。
尚人と一緒にライブデートを楽しむと決めた時に、尚人の存在が世間にこぼれ落ちても仕方ない、と腹を括りはしたが。まさか、こんな波及の仕方を見せるとは思わなかった。
ちなみに伊崎が監督を務めたPVの撮影では、雅紀は階段状のセットを延々上り下りさせられた。前回同様起きているのか寝ているのかわからない感じで椅子にふんぞり返っている伊崎からリテイクが掛かるたびに、
(俺はアルピニストじゃねーんだぞ)
雅紀は心の中でぼやきまくりだった。しかもバックはまたもやグリーン一色で。どんな映像がはめ込まれるのか。完成してみないと雅紀もわからない。
DVD BOXの発売は9月の予定で。尚人はその日が楽しみだと口にする。表情も目もキラキラさせて。こんなにも尚人の関心を引きつけている『ミズガルズ』に雅紀は本気で嫉妬する。
「そう言えば、加々美さんが今度三人で飯食いに行こうって言ってた」
「三人?」
「加々美さんと、俺とナオの三人」
「え。まーちゃんも一緒? すっごい楽しみ!」
尚人の声が弾んだ。その一言に雅紀の相好が崩れる。たった今感じていた不愉快など一気に消し飛んで、雅紀は自分のお手軽さにほんの少し呆れた。しかし同時に仕方ないと開き直る自分がいることを自覚する。なぜって、雅紀の中心はいつだって尚人だからだ。
話が弾んでいる間に大学に着いてしまった。車を横付けしやすい北門で尚人を降ろし楽しい朝のドライブデートはあっという間に終わったのだった。