買い出しから戻ってきた裕太は、ガレージの隅っこのいつもの場所に自転車を止めて、前カゴに入れていたスーパーの袋の中をそっと
今日の買い物はいつもより多めで、しかもリストに卵まであった。リストに卵があると裕太は少し緊張する。過去、道路のちょっとした段差で卵が跳ねて割れてしまったという失敗を何回かしてしまったことがあるからだ。慎重に自転車漕いで帰って来て、今日は卵が飛び出さなかったと安心していたら、袋の中で他の食材に押し潰されていたこともある。
引きこもりをやめて依頼、買い出しは裕太の役目だ。自分も家族の一員であると証明したくて、自ら買って出た。家族の中で役割がある。それが自分を変えるために始めた裕太の第一歩だ。
買い物リストは、一家の主夫である尚人が作る。リスト通りに買い物をするだけなのだから楽勝だと、最初裕太は思っていた。しかし、鮮度とか値段とかお得感とか、買い物をするときには考えることが色々あって、実際始めてみると買い出しは思ったほど簡単じゃなかった。しかも買えば終わりではなくて、買ったものを痛めないように上手に自転車カゴに詰め込んで、帰って冷蔵庫に仕舞うまでが買い出しだとすぐに裕太は気がついた。
そもそも最初は、アジとサバの違いもわからなかった。小松菜とほうれん草に至っては、今でもラベル表示を見なければ区別がつかない。それでも、少しずつ慣れた、と思う。ネットで調べたり店員に教えてもらったりして、野菜や魚の鮮度の見分け方も随分覚えた。
尚人が裕太の買ってきた食材を見て、
「うわぁ、今日のサバすごい立派だねぇ。脂が乗っててすごく美味しいそう」
などと驚くと、裕太は内心すごく嬉しい。
決して、顔に出したりはしないが。
そんな裕太が、いまだ苦手意識を克服できない食材が卵なのだ。
尚人が裕太の失敗を責めることは絶対ないが、裕太の
そんなとき尚人は、
「お腹減ってた? お弁当少なかったかな?」
と本気で心配していたが。
今日食材が多いのは、明日雅紀が一週間ぶりに帰ってくる予定だからだ。雅紀が夕飯に間に合うように帰ってくる日の食卓は一気に豪華になる。尚人はいつもよりそわそわした雰囲気で雅紀の好きな物をせっせと作り、食卓に並べて
まあ、家の中がギスギスしていた頃に比べれば、今の方が平和には違いないが。
裕太は、袋の中の卵が無事なことを確認してほっと息を
––こんな時間に、誰からだよ。
家の電話は基本留守電対応だ。だからそのまま無視しても良かったが、裕太は一応ディスプレイの表示を見た。雅紀や尚人からの可能性もゼロではない。
––この番号って。
見覚えのある番号に、裕太はわずかに顔をしかめた。
母の実家、加門の家の番号だ。沙也加は自分の携帯から掛けてくるから、祖父母のどちらかだろう。裕太は一瞬迷って、受話器を取った。
「もしもし」
『ひょっとして、裕太ちゃん? おばあちゃんよ。わかる?』
出た瞬間、やっぱり無視すれば良かったかな、と後悔した。すでに面倒臭い。
祖父母にはちやほやと甘やかされた記憶がある。が、裕太は正直、祖父母のことを好きだったわけではない。ねだれば小遣いをくれたが、額が少なくて内心不満に思っていたし、誕生日にわざわざ送ってくる
「ナオちゃんが欲しそうにしてたからあげた」
そう言えば、祖父母は返って裕太を褒めたからだ。
「裕太ちゃんは、お兄ちゃん想いで偉いわねぇ。それに比べて尚ちゃんったら、弟のお誕生日プレゼントを欲しがるなんて。思い遣りが足りないのね」
今となっては自己嫌悪に陥る嫌な記憶だ。
「何か用?」
『元気にしてる? おばあちゃんね、あれからも裕太ちゃんのこと、ずっと心配してたのよ』
祖母の言う、あれから、とはクソ親父が家に侵入して来た時のことだろう。あの事件のあと、昼間一人で家にいる裕太を心配して、加門の祖父母は家にまで押しかけて来た。裕太を引き取りたいと雅紀に迫り、裕太の部屋の前でも何かごちゃごちゃと言っていた。それがあまりにも
「おれは加門の家なんかには行かない!」
と、とりあえず一言叫んだのだ。
尚人が、あれだけ世間を騒がせた事件に巻き込まれて入院までしたのに、見舞いにすらこなかった祖父母が、裕太のことになるとすっ飛んで来たのが何故だか胸糞が悪かった。
幼い頃は、そういったあからさまな
「元気だけど」
『そう、ならいいんだけど。でもね、裕太ちゃん。
祖母の言いように、裕太はげんなりした。
前回祖父母が家に押しかけて来たあと、確かに沙也加からも電話があった。沙也加は裕太に「篠宮の家にしがみ付いていてもいいことはない」と言い「お兄ちゃんは、尚さえいれば良いんだから」と言って、裕太に加門の家に来るよう促した。「ちゃんとした環境でやり直してもらいたい」と裕太を心配するその言葉の裏に、裕太は沙也加のやり場のない
『沙也加がうちに来たときも、ちょうど今の裕太ちゃんと同じ年でしょう? あの時はほら、いろいろあって沙也加も大変だったから。落ち着いた環境で受験勉強する方がいいって、自分の経験からも思ってるみたいなのよ。おばあちゃんもその方がいいと思うわ。勉強も沙也加に見てもらえるし』
「お姉ちゃんが落ちた翔南高校にナオちゃん通ってんだよ。勉強なら、ナオちゃんに見てもらうからいい」
もはやとっとと会話を終わらせたくて、裕太はわざと
案の定、電話口の向こうで祖母が息を飲む気配がした。
『––だって、それは仕方ないじゃない。ちょうど受験の時期に、あんなことがあったんだもの。本番で力が発揮できなくても、当然でしょう。そういう言い方は、ないと思うわ。それにね、尚ちゃんも尚ちゃんよ。沙也加が行きたくて仕方なかった高校をわざと選んで受験するなんて。だからね、おばあちゃん、尚ちゃんが高校受験する前にちゃんと言ったのよ。もっと沙也加のことも考えてあげてって。じゃないと、高校に受かっても、おばあちゃん喜んであげられないわよって。当然でしょう? 沙也加が落ちた高校に尚ちゃん受かったって、沙也加に言えると思う? もっと思い遣り持ってって。それが弟ってものでしょう、ってそう言ったのに、尚ちゃん、全然おばあちゃんの言うこと聞かないんだもの。翔南高校受けたって聞いたときは、信じられなかったわよ』
––信じられないのはこっちだよ!
と、裕太は叫びたかった。
翔南高校を受けるなと言った? 尚人に思い遣りがない? しかもそれを本人に言った?
もしそれが自分だったら、祖母のことをメタクソに言って、今頃絶縁している。
尚人が高校受験する時期、家の中は冷え切っていた。自分は部屋に閉じこもって全てを拒絶し、尚人がとにかくうざくて、尚人の作った弁当を床にぶちまけたりしていたし、雅紀もほとんど家に寄り付かず、帰って来ても刺々しい雰囲気をまとわりつかせて、兄弟間はぎくしゃくとしていた。
そんな中で、祖母にも暴言を吐かれていたとは。一体あの時、尚人の味方はいたのだろうか。ただ一人、現実から目を逸らさず、我慢して、踏みとどまっていたのが尚人だったのに。
それを思うと、裕太は今更ながら、尚人の芯の強さを思い知る。
––自分が決めたことだから。
尚人が時々口にするのを聞いたことがある言葉だ。
自分が決めたことだから、周りに何と言われても、誰一人味方がいなくても、貫き通す。普段あんなにおっとりしているのに、どうして、ああも強くあれるのだろう。
「話はそれだけ?」
『ああ、それとね。沙也加からも連絡があったと思うけど。ピアノのことよ』
「それが?」
『沙也加がモデルの仕事することになってね。裕太ちゃん、その話聞いてる?』
何故だか少し得げなその口調がむかついて、裕太が黙ったままでいると、祖母はどう判断したのか、勝手に話を進めた。
『オーディションに出場して、業界最大手の事務所からスカウトされたのよ』
そりゃ、MASAKIの妹という付加価値があるからだろう、と裕太は心の中だけで突っ込む。姉の沙也加は世間一般的に見れば美人の類に入るだろうが、雅紀に比べれば他を圧倒するというほどでもない。
『でね、そのお仕事の一環で、どうしてもピアノの練習をする必要があるんですって。だから、篠宮のお家に置きっぱなしになってるピアノ、あるでしょう? あれを引き取るって決めたんだけど、日程はどうなったのかしら。沙也加に聞いても要領を得なくって。あの子も、遠慮してるのよ。あんまり、細やかに連絡すると悪いって。だから、本当ならそっちから連絡して然るべきだと思うのよ。雅紀ちゃんも忙しいとは思うけど、沙也加のことを考えれば、その程度の連絡、できるはずでしょう?』
裕太は、今すぐにでも電話を切りたかった。だが、口を開けば暴言しか飛び出さない予感がして、だんまりを貫くしかなかった。
––そもそも、モデルの仕事するのにピアノが必要って意味わかんないんだけど。
雅紀が近頃仕事の一環でピアノを披露したことは知っている。しかしそれは、すでにカリスマモデルとしての地位を確立している雅紀に付く付加価値で、これからデビューしようとしている人間は、ピアノの腕前を磨く前にモデルとしての腕前を磨く方が先ではないのか。
裕太には、モデルとしての腕前の磨き方など想像もつかないが。
『沙也加はね、本当に寂しい思いをしているのよ。一人でこっちにいるでしょう? 去年色々世間が騒がしかった時も、雅紀ちゃんに頼らず一人で頑張ってたのよ。女の子一人でじっと耐えて、健気だと思わない? あの子、色々言いたいことも言わずに飲み込んで我慢しちゃうところがあるから、おばあちゃん心配なのよ。ピアノの件だってそう。あの子なりに色々考えて、結論出して、動き出したのに、そっちからのフォローが何もないでしょう? あの子、また飲み込んで我慢しちゃうんじゃないかって思うと、かわいそうで。だからね、裕太ちゃん。このこと、ちゃんと雅紀ちゃんに伝えておいてね。裕太ちゃん昔から優しかったから、お姉ちゃんのために動いてあげてね。じゃあね、裕太ちゃん。また、連絡するから』
祖母はそう念押しすると、一方的に会話を終わらせた。
通話の切れた音に、裕太は深々とため息を吐いてから受話器を置く。
「疲れた」
それが、裕太の偽らざる本音だった。