待ち合わせの定番、渋谷ハチ公前。そこに十時と言われて尚人は余裕を持って家を出た。渋谷駅はいつも乗り換えで利用するが構内から出たことがない。巨大な ターミナル駅の中で通り慣れた通路を外れることにドキドキしながら、尚人は待ち合わせの場所を目指した。のだが……
(あれ?)
人波に揉まれながらも目当ての改札を抜けたはずだった。しかし目の前にあると思っていたあの有名な像がない。それとも目の前と思っていたのは勝手な思い込みだったのか。と、尚人はキョロキョロと辺りを見回しながら歩き出した。
その時––––
「あの、すみません」
いきなり声がした。
条件反射的に尚人は目をやる。声のした方へと。声をかけられたのが自分であるかどうかもわからないままに。
そこにはライトグレーのサマースーツをスマートに着こなした男がいた。年齢は三十歳ぐらい。尚人と目が合うとにっこりと微笑んだ。
「突然声をかけて申し訳ありません」
まずは軽く断りを入れ。
「ちょっとお時間よろしいですか?」
尚人をじっと見つめた。
道を尋ねたいのかと思った尚人はきょとんと相手を見返して頷く。
「ええ。ちょっとなら、いいですよ?」
早めに家を出たので待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。そんなことを思っている尚人に対し男は慣れた仕草で名刺を差し出した。
「私、こういう者です」
反射的に受け取って尚人は名刺を見る。
【モデル・タレント養成(株)イグニス・プロダクション スカウト部門 陣内宏史】
(?)
名刺を渡された意味が分からなくて尚人は小首を傾げる。社会人同士の名刺交換の風習を知らないわけではないが、道端で学生相手に名刺を渡してくる意味が理解できななかった。
それとも、これから道を訪ねようという前に「自分は怪しいものではないですよ」と暗に伝えたくて名刺を見せたのだろうか?
そんな疑問を抱きつつ男性を見やると、男性は笑みを深めた。
「突然なんですけど、モデルに興味ありませんか?」
「え?」
聞き間違いかと耳を疑う。
それでなければ道ゆく人を巻き込んだドッキリ番組の撮影か。
「独特の雰囲気があって。人混みの中でも目を引いて。歩き方も綺麗で。それで、声をかけずにはいられなかったんですが。興味ないですか? モデル。すごく素質があると思うんですけど」
(あ、何か。懐かしいかも)
尚人はふとそんなことを思う。子供の頃、家族で連れ立って繁華街を歩けば雅紀や沙也加へのこの手の声かけは馴染みの光景で。最初はそんな声かけに家族で浮かれていてもあまりの多さに途中から辟易というのまでが定番だった。
––––やっぱり、まーちゃんすごい。
誰も彼もを魅了する雅紀を、尚人はただただ尊敬していた。綺麗で優しくて。頭が良くて運動神経も抜群で。ピアノのコンクールでも賞をいっぱいもらって。剣道を始めたら誰よりも強くて。
スカウトマンが声をかけたくなるのも当然だった。
しかし––––
「俺、ですか?」
思わず問い返す。これまで雅紀にくっついて散々スカウトマンに遭遇してきた尚人だが、尚人自身が声かけの対象になったことなど一度もない。
––––そっちは弟さん? かわいいね。
声をかけられたとしてもその程度。そして尚人にとってそれは「当たり前」だった。スカウトマン達は雅紀のような飛び抜けた美貌の持ち主を探しているのであって、自分みたいな平凡な人間を探しているわけではないからだ。ただ、雅紀がそんなスカウトマン達の声かけに興味を示したことは一度だってなかったが。
「お名前、伺ってもいいですか?」
(何かの詐欺ってことはないよね?)
尚人の中に急に警戒心が湧く。自分が世間知らずと言うのはよくよくわかっている。だから、聞いたことはなくても、スカウトマンを装って何かしらの個人情報を取ろうとする詐欺だってあるのかもしれない。何しろここは何が起きてもおかしくない都会のど真ん中だ。雅紀にも口を酸っぱくして「都会にはいろんな人間がいるんだから。知らない人間にホイホイついて行ったりするな」と言われた。
「やだなぁ。俺だって子供じゃないんだし。さすがに知らない人にはついていかないってば」
その時は思わず苦笑で返したが。
「道を訪ねるフリをして
と言われ。暗に先日のジェイミーとの一件を指していることは明らかで。
「雑居ビルに連れ込まれなくてラッキーだった」
と言われてしまえば尚人は返す言葉がなかった。
「あの。興味ないです。すみません」
尚人は慌てて名刺を返そうとしたが、男はやんわりとした笑みを浮かべたまま受け取ってはくれなかった。
「名刺に載せてるQRコード読み込んでもらえば弊社のHPに飛ぶので。一度覗いてみてください。今人気の濱中健太さんも弊社所属の俳優なんですよ」
そんなこと言われても、尚人は『濱中健太』という俳優を知らない。
「あの。俺、本当に困ります」
相手を無視して立ち去ることもできなくて。尚人がほとほと困り果てている時だった。
「何してんの? どうかした?」
聞き覚えのある声がして尚人は振り返る。そこに安藤の姿があった。
「あ」
安藤、と言おうとして尚人は言葉を飲み込む。素性の怪しい男の前で名前を出すことは憚られた。
「お知り合いですか?」
「友人です」
「どーも。こいつに何か用ですか?」
「モデルに興味ないかと声かけさせて頂いておりました」
「あ、スカウト? 興味あるの?」
安藤の問いかけに、尚人はぶんぶんと首を横に振る。
「興味ないみたいですよ。じゃ、俺たちこれから用があるんで。失礼します」
安藤はそう言うと尚人の手を引っ張るようにしてその場を離れる。少々強引な安藤の行動に尚人はドキドキしながらも助かったと言うのが本音だった。
「安藤、ありがとう」
尚人がため息混じりに呟くと、安藤は尚人が手にしていた名刺を取り上げてくすりと笑った。
「渋谷ってあの手のスカウトマン結構いるし。誰彼声かけてるんだから無視で構わないのに」
「最初、道を訊ねたいのかと思っちゃって」
やっぱり都会慣れした安藤は自分とは違うとほとほと思う。
「俺も何度か声かけられたことあるし」
「あ、そうなんだ」
雅紀ほどではもちろんないが。安藤だって結構なイケメンだ。
「でも、そんな誰彼、俺みたいなのにまで声かけて。ああ言う人たちって、そのあとどうするんだろう。誰も彼もが興味ありますって答えたら逆に困るんじゃない?」
「別に声掛けして興味示した人みんなを事務所所属にするわけでも、デビューさせるわけでもないさ。大抵はオーディション受けさせて、落ちたら残念だったねで終わり」
「そうなんだ。––––って、安藤詳しいね」
「高校の時何人か周りにそう言う奴らがいてさ。街中で声かけられたって嬉しそうにしてスカウトマンに連絡返して指定の場所に行ったらオーディション会場だったって。そんな話はマシな方。まずは読者モデルでって言われて。撮影で着た衣装は全部自腹で買取りさせられて。ギャラなしどころか雑誌掲載料って名目のお金とられて。それでも名前売れて人気が出たらプロのモデルになるチャンスもあるとか言われて。それで百万以上の金注ぎ込んだって奴の噂も聞いたことあるし」
(そんな世界なんだ)
尚人は安藤の話に驚きつつも、以前加々美に「この業界は、はっきり言って海千山千ひしめくところだから。綺麗事だけでは片付かない話も山ほどある」と言われたことを思い出す。それでいけば加々美蓮司というまっとうな人物に見出されてモデルデビューした雅紀はラッキーだったのかもしれない。
––––いや、逆か。
加々美蓮司という人物からの声かけだったから雅紀は興味を示した。きっとそう言うことだろう。加々美のことを信頼できる大人だと確信したのだ。
「まあ、中には何でも人生経験と捉えてスカウトマンの話に乗る奴もいたけどな。自分から飛び込まなきゃ経験できない世界だし。二、三回雑誌に載れば就職選考の時の自己アピールに使えるって。割り切ってたりしてさ」
「何でも人生経験……、かぁ。確かにそうだよね」
「お、何? 話断って後悔してる?」
「そんなことはないけど。……でも、最初から自分には無理とか。興味ないとか。そんなふうに考えてたら、自分を狭めるだけだなってのはちょっと反省した」
「名刺返そうか?」
「それは、いい」
「じゃ、捨てとく」
安藤はそう言って名刺をポケットに突っ込む。そうして喋りながら歩いているうちに待ち合わせのハチ公前にたどり着いた。
「よう」
「おう」
福田と坂本の姿がすでにある。
「ごめん。待たせちゃった?」
「駅ビルの反対側からぐるっと回って今着いたとこ」
「田舎者はハチ公前に集合するのも一苦労だぜ」
二人の言い様に尚人は笑い、連れだって歩き出す。その後は安藤に案内されるままに幾つかのショップを回った。最初は緊張気味だった福田と坂本も皆と連れ立っている安心感からか、しだいに気になる服を手にとって鏡の前で当ててみたり試着してみたりと服選びを楽しめていた。店員との会話にも慣れれば、ショップ店員は流石にファッションに詳しくて、色の組み合わせ方や流行のコーディネイトなど服選びの参考になる話をいろいろ教えてくれる頼りになる存在だとわかった。お昼は適当にファスト・フード店に入る。慣れない尚人がオーダーにマゴついていると「何でもさらっとこなしちゃう篠宮にしちゃあ珍しい」とか「ファスト・フード店初めてとか、ひょっとしていいとこのボンボン?」とか揶揄われてしまった。そして午後からも安藤に案内されるままにウィンドウショッピングの続きを楽しむ。その最中だった。
「あ、ヴァンスだ」
大通りに面した高級感ある店構え。その正面のウィンドウに飾られていた独特な色使いの服には見覚えがあって。尚人は思わず立ち止まる。それに気づいた安藤も一緒に立ち止まった。
「本当だ。直営店がオープンしたとは聞いてたけど。ここだったんだ」
「有名なブランド?」
福田と坂本も足を止めた。
「結構話題の新興ブランドだよ。もともとはレディースしか扱ってなかったけど。最近メンズ展開も始めて。独特の色使いが特徴なんだ」
さすが安藤。なかなか詳しい。
「篠宮って、ひょっとしてヴァンス好き?」
「……そう言うわけじゃないけど。名前聞いたことあるなって」
「ちょっと覗いてみる? 俺も見るだけなら見てみたいし」
安藤の提案に尚人は内心高速で首を縦に振る。店舗内だけで流されているプロモーション・ビデオに雅紀が出演していることは知っている。 できればその貴重な動画を見てみたい。
「でも、高そーじゃねー? 明らかに今まで回ったショップとは敷居が違う感じ」
「見るだけなら高いも安いも関係ないだろ?」
「ま、そりゃそうか」
その一言に全員が納得し店に入る。店内は今まで回ってきたショップとは規模も雰囲気も全然違うものだった。
「うわー、スッゲー」
一歩足を踏み入れて坂本が驚いたように呟く。無理もない。広い店内には所狭しとカラフルな服が並べられおり、店中色の洪水。その様はまるで無造作に絵具を出して並べたパレットの上。なのになぜか全体としてまとまりがある不思議。そんな店内の一番目につく所にユアンの巨大パネルが飾られていて客を出迎える。ものすごい存在感だ。
(すごい……)
尚人はユアンパネルを見上げて感嘆の息を吐く。撮影現場に同行しユアンのモデルとしての顔も実力も知っているつもりだったが。これだけの巨大パネルになっても粗のない美と
しばし散策して尚人は巨大液晶モニターを見つけた。それにヴァンスのCMかと思われる映像が流れている。しばらくそれをじっと見ていると、尚人の知らない外国人が何人か映った後、唐突に『MASAKI』が登場した。
軽快なBGMと共にランウェイを模した長い通路を『MASAKI』が颯爽と歩いていく。煌びやかな照明を一身に浴びて。カメラが正面に来てもキメ顔なんかせず。ただ前だけを見据えて真っ直ぐに歩く。その姿をカメラはただ追っていく。前から、横から、後ろから。あらゆる角度からカメラが『MASAKI』を追う。それはまるで『MASAKI』のランウェイを見つめる観客たちの願望を形にしたかのようなカメラワーク。そして同時に『MASAKI』が着ている『ヴァンス』をあらゆる角度から見せることに成功していた。
『MASAKI』向きではないだろうと思っていた『ヴァンス』だが、プロモーション・ビデオの中で着ている服は『MASAKI』仕様に仕立ててあるのか、尚人の知る『ヴァンス』よりも若干色は抑えめの大人仕様で、でも『ヴァンス』らしさは失ってなくて。当然かもしれないが、そんな『ヴァンス』を『MASAKI』はきっちり着こなしていた。
(まーちゃん。かっこいいぃ)
尚人は心の底から呟く。今夜はこの映像を思い出して眠れないかもしれない。その位カッコ良すぎる。これなら「『ヴァンス』は個性を主張したい若者の着るブランド」から一転「おしゃれな大人が着こなすブランド」のイメージに転換するだろう。そういう作りのプロモーション・ビデオだった。
「やっぱ『MASAKI』はカッコ良すぎだよな」
尚人が喰い気味でモニターを見つめていると、映像が切り替わったところで隣から声がした。どうやら安藤もプロモーション・ビデオを見ていたらしい。
「最初日本で『ヴァンス』が話題になったときは色物感もあったけど。こんだけカッコよく着こなせたら『ヴァンス』もアリって思えるよな」
「着てみたら? 似合うかもよ?」
「や、俺より篠宮の方が似合いそうな気ぃするんだよなぁ。特にこの辺りのグラデーションシャツとベストの組み合わせとか」
安藤はそう言ってラックから商品を取って尚人にあてる。
「ちょっと試着してくんない?」
「え? いや、あの。………正直、試着しても買えないよ?」
尚人が小声で返す。値札を見ればシャツ一枚でびっくりする様な値段だ。既製品でこの値段なら、今までもらったあのオートクチュールは一体いくらするのか。考えるだけで怖い。
「着るだけならタダだしさ。いいだろ? ってか、買えないからむしろ試着だけでもしたいって感じ?」
それでなぜ自分じゃなくて俺? と思っている間に尚人は半ば強引に試着室に押し込まれた。
仕方ない、と尚人は着替える。友人が薦めるままに自分一人だったら絶対試着しないような物も試着する。それが友人と連れ立って買い物する醍醐味のひとつだったりするのだろう。そう割り切る。それにそもそも尚人はヴァンスが嫌いなわけではない。ただ、自分が着るには派手すぎて、買ったところで着ていく場所がない、と思うだけで。
「着替えたー?」
「んー、一応着たけど……」
尚人の返事が終わる前に試着室のカーテンがざっと開けられる。
「なんかちょっとダブついてない?」
「サイズ、合ってないのかな?」
そんな会話を聞きつけたのか、試着室そばでスタンバイしていた店員が笑顔でスッと近寄ってきた。
「ちょっとサイズ見てみますね。鏡の方向いてもらえますか?」
尚人は言われるままに店員に背を向けて試着室の奥に設置してある鏡を向く。
「肩幅と袖丈もちょっと合ってないですね。おそらくはワンサイズか…、ツーサイズ下でいいと思います。お持ちしますので、しばらくそのままでお待ちください」
そう言われると尚人は従うしかない。フロアに姿を消した店員は、すぐに幾つかの服を手に戻ってきた。
「こちら試してもらえますか? 多分、サイズ合うと思いますので」
尚人は言われるままに着替える。確かに先ほどよりも体にぴったりで、ダブつき感は無くなった。
「で、このシャツですと。こっちのベストの方が似合うと思います」
言われるままに羽織る。ベストを着るだけなのでカーテンを閉めずにそのまま着ていると店員が自然に手を出してきて試着を助け服の収まりを直した。
「ああ、いいですね。ブルーのグラデーションがすごくお似合いです」
「確かに。篠宮、スッゲー似合ってる。ってか、なんか別人みたい。着るもの一つでこんな変わるもんかな」
「今履いていらっしゃる細身のパンツでもいいですけど。こちらも試してみませんか? シャツとの相性がいいと思います」
ここまで来たら拒める要素が何もない。尚人は言われるままにパンツも試着する。
「あ、少し大きかったですね。ちょっと待っててください!」
試着室から出てきた尚人の腰回りをすぐさま確認した店員は、この短時間でどんだけ? というような量の服を抱えてきた。
それからは、もう着せ替え人形だった。やれ、こっちが似合う。こっちも似合う。こっちも着てみて。あっちも試して。言われるがままに四回も五回も着替えて。尚人はほんの少しだけ雅紀の大変さを体験した気がした。
「いやー、こっちのジャケットとこっちのジェケットで、こんだけ雰囲気変わるとか。面白よな」
「ですが、どちらもお似合いです。というか、我が社のブランドをこれだけ着こなせる方、すごく珍しいです」
「まじ、どれも似合ってる。篠宮、ヴァンスのモデルやれんじゃ?」
安藤の言葉に尚人は苦笑するしかない。
「ちなみに試着室は撮影使用にすることができまして。ここからロールカーテンを引っ張り出して、照明スイッチを入れるとほら。こことここに照明があって、一応下からの間接照明機能も付いているんですよ」
「お、本当だ。結構本格的じゃん」
「今は試着した姿をスマホで撮って帰って、じっくり検討される方が多いので」
「へぇ。まあ、勢いで買えるようなブランドじゃないしな。篠宮、せっかくだから撮って帰ろうぜ」
「え? いや、あの」
だから、買える値段じゃないって先に言ったよね?
尚人は店員の手前口にするのを憚りながらも目で訴える。が、そんな尚人の無言の訴えを安藤はあっさり無視した。
「はーい、じゃあ撮るから。ポーズとって」
安藤が自分のスマホを取り出して構える。尚人はため息一つで諦めて、アシンメトリーのデザインが際立つようあえて中心軸を意識してまっすぐ正面を向いて立った。
「おお、なんかいい感じ」
ピポン、とスマホが軽い音を立てる。
「ポーズ変えて」
言われて尚人はサイドラインが綺麗に見えるよう横向きになって若干体を捻る。
「もう一枚」
安藤が言うので後ろ向きでも撮る。
「ねぇ、もう。いいかな?」
振り向きざまに視線を向けると、最後の一枚とばかりに目の前でシャッターを切られてしまった。
「いやー、満足。ヴァンス着た篠宮とか貴重すぎ」
「俺も嫌いじゃないけど。でも、正直着て行くとこないよね?」
店員さんの前で申し訳ないが。それが本音だ。こんな派手派手しい服を着て街中を歩けば人の視線がびしばし刺さって身の置き所がなくなりそうだ。
「初めは色の強さに目がいって派手すぎるかなと思ってもそのうち馴染むんですよ。不思議と。あとは組み合わせ次第ですね。補色が入るとどうしても派手派手しさが出てしまいますけど。同系色でまとめると案外落ち着いた感じになりますし。特に最初に着られたグラデーションシャツなんかは、ベストやジャケットなんかと合わせてもいいですけど、これからのシーズンなら一枚着られて海に出かけられても全然おかしくありませんし」
さすがショップ店員。最後は購買意欲を刺激するのを忘れない。
「帰ってからじっくり考えますね?」
尚人は無難にそう返し、着替えて試着していた物を返す。そのタイミングで試着につきっきりだったショップ店員が尚人と安藤に小冊子を渡した。
「よかったらこれどうぞ。このショップだけで配布しているブックレットです」
尚人は受け取ってパラパラとめくる。中を確認すると尚人の知らない色んなモデルが『ヴァンス』を着て写っていたが、最後のページには何と見開き一ページを使って『MASAKI』が載っていた。店内で流れるプロモーション・ビデオの一コマを切り取ってあるようだ。
「いいんですか?」
思わず目が輝く。こんなレア物を手にできるなんて。ショップを覗いてみた甲斐がある。
「ご検討されて。ぜひ、また来てくださいね」
その言葉にちょっぴり心が痛みつつも、尚人はもらったブックレットが折れ曲がったりしないよう慎重に鞄の中に仕舞う。
その後再開したショップ巡りでTシャツを一枚購入した尚人だったが、このブックレットが今日一番の収穫だったことは間違いなかった。