安藤たちとウィンドウショッピングを楽しんだ翌日。尚人は一年生には縁がない本郷キャンパスへとやって来た。有名な赤門前。時間通りに尚人がそこへ到着すると今日の待ち合わせの相手はすでにいた。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
「俺もさっき着いたとこ」
いつものクールさで鷺原が言う。実は今日ここで高校生即興英語ディベート全国大会が行われるのだ。二人にとって思い出深い大会で、鷺原に「暇なら覗いてみないか?」と誘われたのである。
去年もそうだったが、大学の出入り口付近には大会をアナウンスするような看板は一切なく、会場となる大講堂の前に小さく会場であることが掲げられているのみ。そのさりげなさを懐かしく思い出しながら中に入ると、入ったすぐの場所に今日行われる決勝リーグの組み合わせ表が張り出されていた。
「やっぱり強いね。鷺原のとこ」
順当に勝ち上がっている。さすがだ。
「去年のリベンジがあるからな。気合入ってんじゃないか?」
「……といっても、
翔南高校は二人残った一年生の皆川と渡辺がもう一人同級生を引っ張り込んでこの一年頑張ってきたらしいが、県下の強豪校である私立高校に一歩力及ばずだったらしい。時間を見つけて練習のサポートに行っていたという清田からそんな連絡をもらった。
鷺原と一緒に会場に入り一般観覧者用の席に座る。会場内では次の対戦が間も無く始まるアナウンスをしていた。この大会は、対戦中は競技の妨げにならないよう会場への出入りが禁止されており観客は試合と試合の合間でしか動けない。それでいてスケジュールはタイトなので会場に入ればすぐに次の試合が始まるのだ。
「チーム代表はくじを引いてください」
懐かしいアナウンスだ。若干緊張気味に見える高校生たちがくじを引いてお題の発表を待つ。
「それでは論題を発表します。論題は『日本は、定年制を廃止すべきである』です。それでは討論開始まで十五分の準備時間を取ります。では、始めてください」
壇上では賛成反対の席に分かれた高校生たちが話し合いを始める。
(なつかしいなぁ)
壇上の光景を尚人はしみじみ見つめる。一年前はあの場所で、杉本と清田と三人で、自分たちが必死にお題と向き合っていたのだ。その思い出を壇上の高校生たちに重ねる。当時はそれなりに楽しんでいたつもりだが、それでも必死で。見えていなかった光景もいっぱいあったのだろうと思う。あの時は正直、相手校の生徒と目の前に座る審査員にしか意識が行っていなかったが、客席には「どんなディベートを見せてくれるのだろう」と楽しみにしている人たちだっていっぱいいたはずで。観客に楽しんでもらいたいと言う視点が当時ほんの少しでもあれば、また違ったディベートになっていたかもしれない。……まあ、こういった気持ちの余裕的なものは当然、当事者ではなくなった今だからこそ持てるものではあるが。
(そういえば唐木さんも足を運んでみようかなって言ってたよね)
アルバイト先の常連客である唐木は、尚人が教えた今日のこの大会に随分興味を示していた。ひょっとしたらすでにこの会場内にいるかもしれない。
十五分の持ち時間が終了して、賛成側の第一スピーカがディベートを始める。さすが全国大会の決勝リーグまで残るチームだ。英語は流暢で申し分ない。ディベートの切り口もなかなか面白い。壇上で繰り広げられる光景に釘付けになっている尚人は、自分をじっと見つめる男の視線に気づいてはいなかった。
* * *
「時間あるなら一緒に東大キャンパスへ行かないか?」
唐木からそんな台詞が飛び出した時、津田は正直その意味がわからなかった。「篠宮君」のことで電話をかけ「カフェでバイトしてるってこと以外で何か知っていることがあるなら教えて欲しい」と言う問いかけに対する返答がそれだったからだ。あまりにも突飛すぎて面食らってしまったが、ただ「東大」のワードがひどく引っ掛かった。ファッション・ライターの大崎からも出て来たワードだったからだ。
「東大で何かあるのか?」
「高校生即興英語ディベート全国大会」
なので返って来た答えたそれだった時、津田はほんの少しだけガクッと来た。
「高校生が即興で英語でディベートする大会があるって知って。どんなものか興味があるんだ」
英語サークルに加入して研鑽を積んでいる唐木らしい興味対象ではあるが。
(高校生の大会ねぇ……)
正直興味なかったが、それでも「行くよ」と答えたのは、気になる「篠宮君」に今一番近いのが唐木だからだ。会って言葉を交わせば何かしら収穫があるかもしれない。そんな打算があった。だから当日会場に着くなり
「篠宮君も友人に誘われて今日ここに来ると言っていたから。1日待ち構えとけばどっかで会えるんじゃないか?」
と言われた時はむしろ拍子抜けしてしまった。唐木は最初から自分に「篠宮君」を会わせるつもりだったのだと。しかし、その一方で。
「見かけたら教えるけど。俺からの紹介だと言うのは伏せて欲しいんだ。バイト先の客が勝手に仲介したってことで話をややこしくしたくないし、気を使わせたくもない。篠宮君がお前のスカウトを受けるにしても断るにしてもな」
そんなことを言われた。だからバイト先とは関係ないこの場所に誘ったのだろう。津田はようやく理解した。
会場に入るとずっとそわそわしていた津田だったが、会場への出入りが試合と試合の間のわずかな時間しかないとわかると落ち着いた。じっくり腰を据えて観覧すればなかなか面白くて。ディベートする高校生のその英語力もさることながら、大人顔負けの理論展開にも舌を巻いた。––––正直全部聞き取ることはできなくて半分くらいは想像で埋めたのだが。
(これが高校生かよ……。すげーな)
そんな素直な感想を休憩時間に唐木に伝えると、
「
と教えてくれた。
その直後だった。会場への出入りが解禁されて何組かの客が新たに入ってくる。その中に二人連れの若い男性の姿があって。その一人を見やって津田は一瞬息を呑んだ。
(彼だ!)
直感がそう叫んだ。唐木に確かめるまでもなく明らかで。津田が視線でその若者をじっと追っていると、唐木が何も言うでもなく津田の肩を軽く叩いた。それが返事も同然の合図だった。
「じゃあ、俺はもう帰るから」
「サンキューな、唐木」
「健闘を祈る。……が、断られたらきっぱり諦めろよ」
それに手を上げるだけで返して、津田は帰る唐木と別れ、二人が座った近くの席に座り直した。
真剣に壇上を見つめるその横顔を津田はじっと見つめる。凛とした静謐さの中に理知の光が宿り、ずっと見つめていたくなるような穏やかさがある。
いい。想像以上だ。
(……しかし、何と声かけしたものか)
会場内ではまず無理だから。外へ出たタイミングだろう。
––––会場内で見かけて。
––––
––––是非、聞いて欲しい話があるんですが。少しお時間をいただけないでしょうか。
頭の中でリハーサルを繰り返す。仕事上今まで色んな交渉をして来たが、スカウトとなるとまた別だ。CM出演のために誰かをスカウトした経験などなく、しかも失敗は許されない。なんとかして口説き落とさなければならない。……が、相手を攻略するための情報がなさすぎる。
そもそも「篠宮君」は芸能活動みたいなことに興味を持っているのか。それを許す家庭環境なのか。一度のCM出演の依頼だから芸能スカウトとは違うが。そこに興味があるのかないのかで口説き方が変わるだろう。
そんなことをぐるぐると考えていたら、ディベートの対戦があっという間に終わっていた。小休憩の時間になって高校生らしい若者が一人、観客席の間を縫ってゆっくり二人に近づいて来る。
「鷺原先輩。来てくださってたんですね。ありがとうございます」
高校生が「篠宮君」の連れ向かって挨拶している。どうやら高校の後輩のようだ。
「ま、会場校の大学に通ってんだしな」
「うわー、先輩。そのセリフ、俺も来年後輩に言いたいです」
「頑張れよ」
「ありがとうございます。––––ところで、先輩。隣の方って。あの。去年の優勝校の……」
「そう。翔南高校の篠宮だよ」
「わ、やっぱり。握手してもらっていいですか?」
「え、ああ。いいよ」
高校生が差し出した手を「篠宮君」が握り返すと、高校生が満面の笑みを浮かべた。
「すげーうれしい。何か、パワーもらった感じです。去年のあの最後のスピーチ。衝撃的で。俺たちの間でもずっと話題だったんですよ」
「そうなの?」
「今年は篠宮さんを真似た感じで最終スピーチしてくる学校多いんです。でも、大概失敗してますけど。––––ところで先輩、なんで篠宮さんと一緒なんですか?」
「大学が一緒だった。しかもまさかの同じクラス」
「え、そんなことってあるんですか。すげー」
そのやりとをそばで聞いていた津田は、ふとあることを思い出す。
翔南高校といえば有名な県立の進学校で、近年ではカリスマ・モデル『MASAKI』の弟が通っていることで話題になった。その『MASAKI』といえば、極悪非道な父親の巻き起こした騒動で一時期ワイドショーを賑わせまくったことはまだ記憶に新しく、その騒動によって世間にプライベートが丸裸にされた。その際に本名が「篠宮雅紀」であることも世間に周知されている。
その『MASAKI』の地雷源といえば弟。マスコミが弟に近づく気配を見せただけでその逆鱗に触れて、実際何人か業界から姿を消したとまことしやかな噂を聞く。
翔南高校出身で現在東大の学生と思われる「篠宮君」は……
(まさか『MASAKI』の弟?)
ごくり、と津田の喉が鳴る。
『MASAKI』の弟といえば業界内でスカウト合戦が繰り広げられていたはずだ。あくまで水面下の話ではあるが。しかし、どこかの事務所に所属したなんて噂は耳にしていない。「弟大事」の『MASAKI』が許さないのだろう。モデルやタレントとしてデビューすれば当然、マスコミに対し「顔出しOK」だというメッセージになってしまう。その後また何か篠宮家で騒動が起きれば、『MASAKI』がどんなに「弟に近寄るな」と言ったところでマスコミは耳を貸さない。そういう構造になってしまう。
(その弟をスカウト……)
怖すぎて『MASAKI』を脳内に浮かべることすら感情が拒否する。
しかし、しかし、しかしだが……
津田は心の中で唸り声を上げた。
それはまだ弟が未成年だったから。現役合格の大学の一年生といえば法的にはまだ未成年だが、それでも未成年の高校生とは大きく立場が違うはずだ。何より自主性が尊重され、これから世界を広げていく年齢である。家族である兄の意見は尊重はされるべきではあるが、全てではない。……そのはずだ。
しかし––––
(何て声掛けしたらいいんだ!)
津田は文字通り頭を抱えた。いっそ気づかないままに声をかけた方がよかった。そんな気がする。その方がまだ、勢いだけで行けたのではないかと思う。だが今更、『MASAKI』の弟だから、を理由に諦めたくはない。というか諦めきれない。散々探しまくって来たのだ。イメージにぴったりの人物を。その人物にようやく巡り合えて、今目の前にいる。この千載一遇のチャンスを逃したくはなかった。
(津田章成。人生最大の正念場だぞ!)
津田は心の中で叱咤激励を繰り返し自分に喝を入れ続ける。
ディベートはすでに次の試合が開始している。しかし津田の目には一切入ってこない。じりじりとした気持ちを抱えて思考を行ったり来たりさせながら、声かけのタイミングを津田は待ち続けた。
* * *
「あの、すみません!」
そんな声が聞こえたのは、大会が終了し会場の外へと出てすぐだった。自分への声かけかどうかもわからないままに尚人は振り返る。するとそこに真っ直ぐに自分を見つめる一人の男性の姿があった。年齢は三十代半ばぐらい。ノーネクタイにカジュアルジャケットという軽装で、大会の引率者か、でなければ観覧者かといった感じに見えた。
「ちょっとお時間よろしいですか?」
「俺ですか?」
「そうです」
「何か用ですか?」
まさか今更去年の優勝インタビューはないだろうと思いつつ。それでも、この場所での声かけとなれば大会関係かと疑わなかった尚人だったが。
「私、こういうものでして」
出された名刺を反射的に受け取って、尚人は首を傾げた。
【音響機器メーカー 株式会社リゾルト 商品戦略部所属 津田章成】
出された名刺とこの場所であることの関係性がまったく読めなかった。
「あの……」
「どうしても、聞いて頂きたい話がありまして」
「話って?」
尚人が口を開く前に鷺原が割って入った。
「折り入ってお願いしたいことがあるのです」
「お願い? どんな?」
「––––誠に勝手ながら、少々丁寧に説明したい話でもありますので、この場ではちょっと。それに、この暑さです。お時間をいただけるのなら、立ち話も何ですから、近くの喫茶店にでも移動しませんか?」
「は? まだ話聞くって言ってもないのに?」
鷺原の警戒心剥き出しな雰囲気に尚人はほんの少しだけ焦る。急に声をかけられて警戒する気持ちはわかるが、声をかけられただけで刺々しく応対するのもいかがか。それに––––
「ねぇ、鷺原。俺、聞くだけは聞いてみようかなって思う」
何の話かはまったくわからないが。音響機器メーカーの人が一体自分に何の話があるというのか。尚人はほんの少し興味があった。
「ただ、友人も一緒にいいのならば、ですけど?」
尚人が問う視線を男に向けると、
「構いません」
男は迷いなく頷く。
「あと、場所は構内のカフェでいいですか? ちょうど、寄って帰ろうって話してたんで」
「ええ、問題ありません」
それで三人連れ立って場所を移動する。友人同伴、場所は自ら指定。それは雅紀から注意されていたことを警戒しつつ出会いの機会も大切にするための尚人なりの一線の引きどころ。危険かもしれないと全てを排除したのでは見識を広げるチャンスも同時に失ってしまう。君子危うきに近寄らず、とは言うが、虎穴に入らずんば虎子を得ずもまた真理なのだ。
尚人的には、こちらの条件を相手が拒否するならそれで交渉決裂。それでいい。その程度の気持ちだったが。相手はこちらの条件を呑んだ。ならば話を聞かないわけにはいかない。
ちょっとした社会勉強。ちょっとした好奇心。
そんなつもりでいた尚人は、このあと想像もしていなかった話をこの男から聞くことになるのである。