土曜の午前中。尚人が部屋の掃除をしていると携帯電話が鳴った。表示を確認すると『加々美』だった。
「もしもし。尚人です」
『俺だけど。今、電話して大丈夫だった?』
「はい。部屋の掃除してただけなんで。大丈夫ですよ」
『先日、リゾルトの津田と会った』
それだけで尚人は、加々美がなぜ電話して来たのかを理解した。
『で、この件について話がしたいんだけど』
「わかりました」
『今日の予定は?』
「特には」
『じゃあ、今から迎えに行くから。一緒にランチでも食いながら話そう』
加々美ほどの人にわざわざ迎えに来てもらうことに恐縮し、場所を指定してもらえれば自分の方から行くと言いたかったが。その前に電話は切れていた。
自分の手際の悪さに尚人は小さく息をついて通話終了のボタンを押す。そのタイミングでシャワーを浴びに行っていた雅紀が部屋に戻って来た。昨夜遅くに帰って来て、先ほど起きたばかりだ。上半身を晒している雅紀の肉体美が眩しすぎる。
「どうしたんだ、ナオ」
「加々美さんが一緒にランチ食べようって。今から迎えに来るみたい」
「加々美さんが?」
雅紀のその表情は明らかに「俺がいるのに出かけるのか?」と言っている。
「ごめんね。まーちゃん」
「……加々美さんからの誘いならしかたない。ナオがいないなら、俺もジムに行こうかな」
「昨日も遅かったのに。ゆっくりしとかなくて大丈夫?」
「これから昼間セックスで汗かくつもりだったんだけど。ナオが出かけるんじゃ無理だし」
「…………」
さらっとそんなこと言われても返答に困る。……というか、そんな予定だったんだ? と尚人は固まるしかない。
一時間ほどで加々美はやって来た。インターンフォンが鳴って、尚人は急いで玄関を開ける。
「すみません。わざわざ、迎えに来もらって」
「こっちこそ、急で悪かったね。––––って、お前いたのかよ」
尚人の後ろに雅紀の姿を見つけた加々美がくいっと口角を上げて笑う。
「自分の家なんだから、そりゃ居ますよ。それより加々美さん。ナオ、連れ出すのはいいですけど、ちゃんと夜には返してくださいよ。ナオの晩飯、楽しみにしてるんですから」
「はいはい。ランチ食ったらちゃんと送り届けるから心配するなって。じゃ、尚人君、行こうか」
「はい」
元気よく返事をしたものの高そうな加々美の車に乗り込むのはいつも緊張する。恐る恐る慎重にドアを開け、荷物をぶつけたりしないよう注意を払って車内に乗り込む。着いた先は創作フレンチを食べさせてくれるという海を望むお洒落なレストランだった。予約を入れていたのか、スタッフのにこやかな出迎えと共に個室に通される。
「早速なんだけど。リゾルトから来たオファーの件だけどね」
「はい」
「まずは尚人君がどういう風に話を聞いているのか確認したいんだけど」
問われて尚人はあの日の事を思い返す。
「その日は、高校生即興英語ディベート大会の全国大会の日で、大学の友人と一緒に決勝を見に行ってたんです」
「それって、去年尚人君が出場した?」
「そうです。実は大学の友人というのが去年の決勝戦で戦った相手チームの一人で。会場は今年も東大講堂だというし。懐かしさもあって。一緒に見に行ったんです。津田さんに声をかけられたのは、決勝戦が終わって会場から出てすぐでした。名刺を渡されて、聞いて欲しい話があるって言われて。音響機器メーカーの人が何の話かなって、ちょっと気になって。友人同伴で、大学構内のカフェでよければ話を聞きますよって提案したら、それでいいというので。そのままカフェへ移動して。そこで、CMに出演してくれる人を探しているんだって話をされたんです」
「なるほど。それでその時尚人君はどう思った?」
「びっくりしました。……俺が昨年大会の出場者だって知って、その関係で何か話を聞きたいのかなって。そんな想像をしてたんで。まさか、CMに出演して欲しいって話をされるとは思わなくて」
「CMのコンセプトとか、何で尚人君に声をかけたのかとか。そんな話は聞いた?」
「ええ、聞きました。津田さんは、『リゾルト』って会社の名前すら聞いたことがない俺に気を悪くすることなく『リゾルト』がどういう会社なのか、今までどんな物をどんな思いで作ってきたのか。今回開発した新商品がどういう製品なのか。そしてそれを売り出すためのCMがどれほど重要であるのか。そんな話をすごく丁寧にしてくれて。正直、すごく勉強になりました。俺が普段何気なく使っているICレコーダーとかパソコンとか。その向こうにもきっと情熱を傾けて開発した人たちがいて。そうやって形になった商品を世に送り出すために動き回った人たちがいて。世の中に出回ってる商品って、誰かが物を作って、ただ店先に並んでるんじゃないだなって。そんなこと、わかっていたつもりでいたけれど、本当にわかってたのかなって。そんな事を考えるきっかけになりました」
「CM出演の件についてはどう思った?」
「……それについては正直。俺より適任の人がいるんじゃなのかなって気がします。津田さんは、CMコンセプトとイメージにぴったりなんだって言ってたんですけど。俺はタレントでもモデルでもないし。そういうことはプロに任せた方がいいんじゃないかなって。その方が絶対失敗の確率が低いでしょう? 俺は、ずぶの素人ですから」
尚人が言うと加々美はなぜかただやんわり笑い。
「ひとまず、食事を堪能しよう」
そう言った。
目の前にはすでに運ばれていた前菜が並んでいて。尚人は見た目も美しい夏野菜のゼリー寄せを口に運ぶ。
口当たりの良いゼリー寄せを堪能しながら、加々美がなぜ今日わざわざ自分を呼び出したのか、尚人はその意味を考えていた。津田の話は加々美のところで止めてしまうことだってできたはずだ。
「料理にとって大切なのは、味か見た目か。尚人君はどっちだと思う?」
唐突に加々美が言う。
尚人は加々美に視線を向けた。
「料理は見た目が悪いと食欲が湧きません。だけど見た目が良くても味が口に合わなければ食が進みません。食欲をそそるための見た目は大切。それと同じくらい口に合う味付けも大切。ですけど––––、俺は料理に一番大切なのは、愛情だと思います。料理に愛情を感じることができれば、多少の見た目の悪さも、味付けの失敗も、思い出に変わるんじゃないかなって思うんです。……まあ、俺の言う料理は家庭料理の話ですけど」
「なるほどね」
加々美は頷いて、そして少し表情を変えた。
「けど、愛情を感じるかどうかって、すごくあやふやで、難しいよね。キャッチボールが成立する関係が前提にないといけないと言うか。こっちを見てもいない相手にボールを投げたって絶対キャッチしてもらえないし」
加々美の言いたいことはよくわかる。裕太が引きこもりを続けていたとき、祐太は尚人が作る弁当を無視し続けていた。食べてもらえないどころか、見向きもされない。そんな弁当を毎日作り続けるのは正直きつかった。しかし、弁当作りをやめるという選択肢はなかった。尚人の中で食は家族の基本だったから、弁当作りをやめるということは家族の絆を断ち切るということと同じ意味を持っていたからだ。一人ずつ家族のピースが欠けて行った篠宮家でこれ以上家族が欠けることは尚人にとっては耐え難いことだった。
加々美の言葉を借りるならば、あの時の尚人は一方的にボールを投げていた側だ。拾ってもらえないボールも投げ続ければいつか気づいてくれるかもしれない。いつか何か反応を示してくれるかもしれない。そんな思いが尚人にボールを投げ続けさせていた。のだが––––
「ボールを投げられる側からすると、望んでもいないキャッチボールに引き込まれたくないし、一方的に飛んでくるボールは迷惑でしかないよね?」
独りよがりの愛情は迷惑。そんなふうに聞こえて、尚人の中のどこかがちくりと痛む。だが加々美が尚人を批判しているわけではないのは明らかで。
––––あ、そうか……
尚人はすぐに加々美が言わんとするところに気づく。
今、ボールを投げられる側にいるのは尚人だ。
津田は尚人のことを考えてCM出演を依頼してきたわけではない。あくまで自分たちの考えるCMコンセプトに合致する人物として尚人に目をつけた。津田の愛情はあくまで『リゾルト』という会社にあり、会社が売り出そうとしてる商品にある。つまり津田は一方的にキャッチボールに誘ってきた相手であり、ボールを投げるから受け取ってくれと言ってきているに過ぎない。加々美は尚人に、そんなキャッチボールに誘ってきた相手をどう見てる? と暗にそう問うているのだろう。
迷惑なだけの存在か? と。
ただなぜ加々美がこんな回りくどい例えで尚人の気持ちを確かめようとしているのかは謎だが。
ひょっとすると、「CMに出演する気はある?」とストレートに問うたところで「ありません」と返るのがわかっているからだろうか。
(んー、てことは。加々美さん的にはCMに出演して欲しいって思ってるのかな)
加々美は自分の思いは思いとしてありながら、さりとてそれは一旦横に置く人だ。加々美が尚人の代理人になったのは「尚人が世界を広げるためのサポートをする」ためで、一方尚人は見聞を広げるために加々美の力を借りると決めた。だったら、「やりたい」「やる気はない」そんな単純な答えを加々美に返してはいけない気もする。
そもそもそんな簡単な答えが聞きただけなら加々美は電話で済ませただろう。
––––何でも人生経験と捉えてスカウトマンの話に乗る奴もいたけどな。自分から飛び込まなきゃ経験できない世界だし。
先日の安藤の言葉がふとよぎる。「自分から飛び込まなきゃ」その言葉が妙に心に残っている。
(けど、CMに出演したからって、俺のなにかプラスになるのかな)
別に尚人は有名になりたいわけでもタレントデビューしたいわけでもない。世間に顔バレするというデメリットを超えるメリットがなければこのオファーを受ける価値があるとは思えないし、企業理念に賛同し応援する意味で持ってオファーを受けるというほど尚人は『リゾルト』のことを知らない。
(んー。じゃあ、俺が『リゾルト』のことをよく知っていて、前々からファンだったならオファーを喜んだのかな? そもそも顔バレって言っても人の噂も七十五日って言うし。有名人を目指してもなかなか成れないのが普通だし)
姉の沙也加はすでにモデルとしてデビューしている。そのきっかけとなったオーディションに出場した時は多少ネット上で話題になったようだが。それきりだ。その後は沙也加がどれくらい活躍しているのかもわからないくらいメディアに取り上げられることはない。
それを考えると、尚人がCMに出演して、それでもし周囲が騒がしくなっても一時的なものに過ぎない。人というのはそれくらい熱しやすく冷めやすい。ひょっとすると顔バレすることによってゴシップ好きのメディアが「これがあの時話題になった篠宮家の次男だよ」などと風聴するかもしれなくて、それで再び周囲が騒つくかもしれないが。その程度の雑音、尚人にとっては今更どうってことはない。
––––まあ、鷺原はそもそも俺が『MASAKI』の弟だって知ってるから。今更って感じで受け止めるだろうけど。
だから、尚人が決断の判断材料にすべきは、副産物的に生じる周囲の雑音ではない。
「俺は、篠宮には是非ともCMに出演してもらいたいね」
あの日。無理に同席させてしまった鷺原は全ての話を一緒に聞いたのち、尚人と二人きりになったタイミングでそう言った。
「企業のマーケティング戦略には興味がある。あの津田って人は、篠宮が出演してくれさえすれば商品が目標通りに売れるような口ぶりだったけど。本当にそうなのか。結果が見てみたい」
何となく鷺原らしい意見だった。
「でもそれって、俺以外が出演した場合と比較できないよね?」
「世の中には答えが一つじゃない問題なんて山ほどある。けどさ、それでも自分なりに導き出す最適解ってのはあるわけだ。つまり、あの津田って人が今回導き出した最適解が篠宮ってことだろう? てことは、検討すべきはその導き出した最適解は本当に最適解だったのかってことであって、他の解との比較じゃない」
「なるほど」
〔お金の流れは経済にとって血の巡りと同じです。滞れば病気になり、状況によっては死に直結します。流れ続けることが大切で、それは川の流れのように
「え」
「一年前にそう言ったのはお前だよな?」
確かに言ったが。それはディベートの話。ディベートは、賛成か反対かなんて自分の意思とは関係がなく、言葉を武器に闘う言論
だからと言って口から出まかせを言っていたわけでもないが。
「企業活動はまさに血の巡りをよくする行為だろ? CM一本にどのくらいの力があるのか確かめてみたらみたらいいじゃないか。この先経済学部に進むんだったら卒論のネタになるかもしれないし」
まだ大学に入ったばかりなのに卒論のことを考えている鷺原に尚人はただただびくりした。
しかし、落ち着いて考えれば、確かにそれは見落とせないメリットだ。
「加々美さん。津田さんが持ちかけたキャッチボールは、俺が加々美さんに投げてくださいって言ったことで、加々美さんに向かって投げられたわけですよね?」
尚人の言葉に加々美は一瞬だけキョトンとし、そしてどこか悪戯小僧のようににやりと笑った。
「そうだね」
「そのボール、加々美さんはどうしたんです?」
「とりあえずキャッチして、これからどうしようか考えてる」
「そのボールっていつまで加々美さんの手元に置いておけるんですか?」
「あまり長くはないな」
「つまり、少しは時間があるってことですね」
「考える時間が欲しい?」
「考える……というより、調べる時間ですかね」
「調べる?」
「俺は『リゾルト』のことは何も知りません。津田さんは熱心に『リゾルト』のことを話してくれましたが、それは津田さんというフィルターを通した『リゾルト』ですから。俺自身の目を通した『リゾルト』を知りたいんです」
「怪しい企業かもしれないって心配しているなら、その点は問題ないけど? 『リゾルト』は大手メーカーと比べたら一般知名度は劣るけど、そこそこ老舗の優良企業だ」
「そんなことを心配しているんじゃありません。怪しい企業なら加々美さんのところで話がストップするって思ってますし。そうじゃなくて、自分の決断を丁寧にしたいんです。メリット、デメリットきちんと理解した上で答えを出す。そのためには相手のことを何も知らないままというわけにはいきません」
「なるほど。じゃあさ、こういうのはどうだろう。尚人君はさ、高校生の時『アズラエル』で職場体験をしたことがあっただろう」
「はい。あの時はお世話になりました」
「あの時は雅紀が働いている現場の裏方のことを知りたいってのが目的だったよね。学校に提出したレポートも読ませてもらったけど。たった三日間とはいえすごく現場のこと観察してるなって感じたんだ。だから『リゾルト』のことを知りたいって言うなら、あの時みたいに職場体験したらどうかなって思う。ちょうど夏休みなんだし。時間ならあるだろう?」
「え、それが可能なら、すごくいい経験になると思うんですけど。––––そんなことって可能ですか?」
「津田に交渉してみよう。数日職場体験させてもらった上でCM出演を検討するって言って、断られるならそれまでだ」
それで、どうだろう? そう言いたげな加々美の視線に尚人は頷く。
その後尚人の職場体験は、とんとん拍子で決まったのだった。