八月十五日。雅紀の運転する車に同乗し、篠宮家の三兄弟は加門の家にやって来た。かつてこうやって祖父母の家を訪ねた時は、お土産を手にした祐太がいの一番に家の中の駆け込んで祖父母に元気よく手土産を渡し祖父母を懐柔するのが
雅紀が玄関先のインターンフォンを押して到着を告げる。するとすぐに祖父母が揃って顔を出した。
「ご無沙汰してます。今日はお世話になります」
玄関先できっちり腰を折って挨拶する。その様子に祖父は無言で頷いて目を細め。
「ほらほら、そんな堅苦しい挨拶はいいから。上がってちょうだい」
祖母は満面の笑みで手招いた。
「祐太ちゃんも。よく来てくれたわね」
「はい、祖母ちゃん。おみやげ」
祐太が愛想のカケラもなく手土産を祖母に手渡す。家を出る前に尚人に持たされたものだ。
「やっぱり、祐太が渡すのが一番喜ぶんじゃない?」
尚人のその一言に祐太はブスくれた表情を見せたが、文句は言わなかった。今の篠宮家で尚人に文句を言える者など誰もいない。
「まあ、祐太ちゃん。こんな気を使わなくってもよかったのに。でも、お祖母ちゃん、うれしいわ。ありがとう」
「それ準備したの。ナオちゃんだから」
「まあ、とにかく上がってちょうだい。まずはあの子の仏前に挨拶してほしいわ」
祖母は裕太の言葉をさりげなくスルーして三人を仏壇のある和室へ通す。慶輔が暴露本を出すという時に加門家を尋ねた雅紀だが、仏間までは通されなかった。だから雅紀もこの部屋に足を踏み入れるのは本当に久しぶりだ。
(そう言えば、こんな部屋だったな)
そんなことを思いつつ、雅紀は仏壇の前に正座する。尚人と祐太がそれに倣う。そのタイミングでもう一人誰かが部屋に入って来た気配がしたが、仏壇を正面にした雅紀の視界には入らなかった。
線香を一本取り出して火をつけると、くゆる線香を香炉に立てる。立ち上るひとすじの煙を前に、雅紀は
その胸中にあるのは、死した母への思慕でも、冥福を祈る気持ちでもない。形ばかりは世の常識に合わせて見せることができるだけ。それだけの話だ。雅紀はもう、母について何かを思い悩むことも、振り返って懐かしむこともない。それは決意とか覚悟とか、そんな重い決断を含んだものではなく。自然とそうなっただけのこと。雅紀にとって大切なのは尚人だけだから。それ以外のものはどうでもいいのだ。
とは言え、それは雅紀の考えで。尚人はまた尚人なりの考えと受け止め方がある。隣で目を閉じて合掌する尚人をちらりと横目で見遣って、雅紀はその真摯な横顔にその胸中を思いやる。
尚人には、母を思慕する思いもあるだろうし、冥福を祈る気持ちもあるだろう。しかし雅紀との関係や沙也加との出来事。それらすべてを知る者として、単純に
静かな室内に涙を堪えた微かな音がした。雅紀がゆっくり視線を向けると部屋の隅にいた祖母が目元の涙を拭っていた。
「本当に良かったこと。仏前に子供たち全員が揃うなんて。あの子もあの世で喜んでいると思うわ」
その言葉にさらに視線を動かせば、いつの間にいたのか沙也加の姿もあった。
「じゃあ、お食事にしましょうか」
祖母の言葉に促されてリビングに行くと、いつも使う食卓に別の机を並べて全員が座れるようにしてあった。その机の上には、すでに握り寿司の入った寿司桶が並んでいる。かつての記憶にある盆の宴会風景だ。
「お、来たな」
「由矩伯父さんもいらっしゃってたんですね」
聞いていなかったので素で驚く。なんとなく子供四人のみ呼び集めたかったのかと思っていたのだ。
「雅紀には何度か会ったが。尚人や祐太には本当に久しぶりだろう? こんな機会なかなかないから、今日は楽しみにしてたんだ」
「ご無沙汰してます。由矩伯父さん」
「尚人か。久しぶりだな」
尚人を見やって由矩が目を細める。その表情を見るからに、本当に久しぶりの再会を楽しみにしていたのだろう。
「大きくなったな。最後の会ったのは、––––……まだ小学生だったか」
「そうですね」
「いや、それにしても驚いた。随分、大人の雰囲気になったな。えーと……。今、いくつだ?」
「十九です」
「ってことは。ひょっとして、もう大学生か?」
「はい。そうです」
「そうだったか。いや、これは。失念してたな。高校卒業の祝いも、大学合格の祝いもしてやらなくて。すまない」
「その気持ちだけで、充分嬉しいです」
「はい、冷たいお茶を持ってきましたよ。お料理の方もぼちぼち準備できるから、適当に座っててちょうだい」
「あ、俺。なんか手伝いますよ」
「沙也加が手伝ってくれるから大丈夫よ」
「今日のお前たちは客なんだから。座っていればいい」
由矩もそう言う。それではお言葉に甘えてと、由矩の対面に三人並んで座った。
「尚人は、大学はどこへ通っているんだ? 地元か?」
「都内です」
「てことは、一人暮らしか?」
「いいえ、家から通ってます」
「伯父さん。ナオが家を出て行ったら俺たち飢え死にするしかないですよ」
「最近は祐太も随分料理の腕が上達したから。そんなことにはならないと思うけど」
「お、祐太も料理するようになったのか」
「––––ナオちゃんが帰るの遅い日はね」
「まぁ、祐太ちゃん。お料理ができるようになったの? すごいわね」
ちょうど料理を運んできた祖母が会話に混ざる。
「今度、お祖母ちゃんにも食べさせて欲しいわ」
「………………」
が、祐太はそんな祖母をさっくり無視する。
「––––––––祐太」
尚人が「無視は無し」と言いたげにテーブルの下で裕太の脇を肘で小突くが、祐太は無反応だ。
先ほど祖母が裕太の言葉をさっくりスルーした仕返しのつもりなのか。ただ、そんな意趣返し祖母には通用しない。
「祐太ちゃんの得意料理は何かしら?」
笑顔で祖母はしつこく会話を続ける。
「………………」
「話は後にしたらどうだ? 雅紀や祐太も腹が減っているだろう」
何となく空気を読んだのか、祖父が割って入る。それで祖母は一旦祐太との会話を引っ込めた。
「そうね。あ、沙也加。取り皿も準備してちょうだい」
女二人が忙しそうに立ち回り、準備が整うと加門家の盆の宴会が始まった。
* * *
––––今日はお兄ちゃんが来る。
沙也加は朝から落ち着かなかった。いや、実を言うと数日前から心がざわついていた。
雅紀に会いたい気持ちと。会うのが怖い気持ち。
声を聞きたい気持ちと。かけられる言葉を恐れる気持ち。
自分をまっすぐに見て欲しい。その視界に入れて欲しい。そう思う一方で、雅紀の視線に怯える自分も自覚する。
相反する気持ちがせめぎ合って、昨夜はよく眠れなかった。
(色々考えすぎるからダメなのよ)
沙也加は自分に言い聞かせる。
(何も考えずに自然に振る舞えばいいのよ)
(こっちが変に意識するから、向こうだって構えるんだし)
雅紀が来るまでは、そんな自分への叱咤激励もある程度効果があったのだが。実際に雅紀が加門の家にやって来て、その姿を目にした途端、そんなまやかし効果はあっさり吹き飛んだ。ぎくしゃくと動きがぎこちなくなって。しかし、そんな姿を尚人や裕太には見られたくなくて。ましてや、自分が雅紀を前に緊張しているなんて、二人には悟られたくなくて。沙也加は必死に平静を装った。
祖母が固執していた四人揃っての焼香もぎりぎりに和室に入って最後尾でなんとかやり過ごし、それが終わると「手伝い」を称してさっさと台所へ引っ込んだ。宴会の準備が整うと、由矩の横に祖母が座り、さらにその横に沙也加が座る。さいわいにして雅紀とは対角で。沙也加はそのことにわずかながら安堵した。
「やっぱりこうして四人揃うと眼福だよ。お前たちは」
「本当にねぇ。これを機に、毎年集まれるといいわよね」
宴会が始まると、由矩はビールを開けた。普段は飲まない祖父母もせっかくだからと乾杯に付き合う。車で来たという雅紀は麦茶だった。
「お袋。気持ちはわかるが、そう簡単にはいかないだろう。雅紀が忙しいのはわかっているだろう? 今日だって、随分無理をしたんじゃないのか?」
「雅紀ちゃんが忙しいのはわかってるわよ。でも、盆の一日くらい。何とかなるわよねぇ、雅紀ちゃん」
「今年は調整できましたが、来年の話はなんとも」
「こないだはイタリアの有名なファッションショーにも出たんだろう? 会社の女性たちが、そんな話で盛り上がってたぞ」
(知ってる)
沙也加は耳だけを会話に参加させて、心の中で呟く。『MASAKI』がミラノ・コレクションに参加した話だ。モデル仲間たちの間でも当然話題になった。日本人でもパリ・コレなどで活躍しているモデルはいるが。そういうモデルはほとんどが海外に拠点を置いていて日本での知名度は低かったり。あるいは、元パリ・コレ・モデルを売りにして日本の芸能界で再デビューすることでようやく日本での知名度が上がったり。それに比べて『MASAKI』は日本の第一線で活躍し、実力も知名度も抜群のカリスマ・モデル。当然、各ファッション紙がこぞってその話題を取り上げていた。
「そう言えば沙也加も、このあいだ何とかって言うショーに出たんだったよな?」
由矩の話題の矛先が急に沙也加に向く。その言葉に沙也加の頬がピクリと引きつった。
由矩の言うショーとは、ファッション紙とアパレルショップが提携して仕組んだ販促のためのショーで、デザイナーの新作コレクションを発表するためのファッションショーとは性質が異なる。ランウェイも歩くのもプロのモデルのみと言うわけではなく、若者に人気の読者モデルやタレントなども多く起用される。芸術性を競うのではなく「あのタレントが着ていたのと同じ服が着たい」というファン心理を利用して購買意欲を掻き立てる、そういったことを目的としたショーだからだ。当然、雅紀が参加したミラノ・コレクションとは全然レベルが違う。雅紀のミラノ・コレクション参加に続けて話題にして欲しい話ではなかった。
というより、そのショーに参加したこと自体、沙也加は由矩には話していない。ということは、祖母経由で耳にしたのだろうか。参加が決まった時は、どんなショーだろうとランウェイを歩ける、その事実に舞い上がって得意げに話したのは確かだが。
「二人とも活躍しててすごいな」
由矩のその一言に沙也加はうんざりしすぎてため息が漏れそうだった。
「で、尚人は大学ではなんの勉強をしてるんだ?」
酒が入っているせいか、由矩はいつもより饒舌だ。
次の話題の矛先になった尚人を沙也加はちらりと一瞥する。
久しぶりに尚人の顔を見て、沙也加は少々の衝撃を受けていた。以前感じた尚人の変質がより一層際立っていたからだ。
悪目立ちしない異質感。すんなり視界に入って来て目が離せなくなる。中性的と言うわけでもないのに纏う雰囲気が柔らかくて、爽やかな清涼感にはノーブルなストイックささえ感じられる。何よりしっとりした光を纏う双眸は引き込まれそうな引力があった。
(なんなのよ。この子……)
千束の家で一緒に暮らしていた時までは、主体性のない大人しい子。尚人に対してはそんなイメージしかなかった。いつもおっとり、ゆっくり。イライラするくらいに動きが鈍くて。運動でも勉強でも目立った所はなくて。ピアノだって弾けなくて。しかし、出来ないがゆえに雅紀が
雅紀の
その後はなんとか気持ちを持ち直し、希望する大学に現役で合格して、気分一新、将来に向かって頑張ろうと思っていた矢先。あの男のせいで沙也加の日常はかき乱された。尚人は大事に大事に雅紀に守られていたのに、沙也加のことは誰も守ってくれなかった。
なんで尚人ばっかり。尚人憎しの感情が再燃した。しかも、英語がペラペラになって将来グローバルな仕事がしたい。それは沙也加の夢だったのに、英語がペラペラになったのは尚人の方だった。それも高校生即興英語ディベート大会で全国優勝するという栄冠付き。その記事を目にした時は、腹立たしさしかなかった。
いつだって尚人は、沙也加の道に横入りして来て視界を邪魔する。主体性がないからそんなことをするのだ。自分で目標を決められず、ゆえに人の夢を自分の夢にしてしまう。
(……それにしても、やっぱり大学に行ったのね)
その事実に沙也加は少し安堵する。雅紀のコネを使って労せずモデルデビューするつもりではないのか。そんなことをちらりと疑っていたからだ。
沙也加は、自分で決意してオーディションを受け、圧迫面接にも耐えて、なんの経験も無かったど素人ながら総合四位を勝ち取った。その実績を評価してもらったからこそ『アズラエル』と契約できたのだ。事務所との契約後は、大学の授業の合間を縫ってレッスンに励み、マネージャーの言う通り企業への挨拶回りもこなしてやっと掴んだモデルへの道。その道だけは尚人に邪魔されたくない。沙也加はその思いが強い。
「まだ一年生なので、授業は教養が中心です。語学と数学と、あとは論文の書き方とかを勉強してます」
「へぇ。大学って、そうだったかな」
(一年生は呑気でいいわよね)
三年生になった沙也加は専門中心。授業内容は一気に難しくなって、課題レポート一つ出すのにもかなりの量の参考資料に目を通さなければならない。それにモデルの仕事も重なって。三年前期の試験は、落とさないようにするのが精一杯だった。
「で、尚人はどこの大学に通っているんだ」
祖父が唐突に会話に混ざる。やはり孫の進学先は気になるのだろうか。
「お、そう言えば、どこ大だったか聞いてなかったな。まさか、沙也加と同じ所だったりするのか?」
(それだけは、やめてよね)
沙也加は心の底から思う。沙也加が通うのは都内でも結構偏差値の高い私立大学だ。翔南高校出身の尚人なら合格圏外というわけはないだろうが、だからと言ってこれ以上同じ選択はされたくない。––––それに本音では、
………できれば自分よりランクの低い大学であって欲しい。
さもしい考えと分かっていても、沙也加はそんなことを思ってしまう。人生に必要なのは最終学歴で、出身高校より出身大学の方が重要だ。その大学で、翔南高校を出たって結局は自分よりランクの低い大学に行った。そうであれば多少は胸がすく。
そんなことを考えていると。
「あ、いえ。俺が通ってるのは国立大なので」
尚人がやんわりとそう言った。
「国立? 都内の国立って……」
由矩がわずかに首を傾げる。
「まさか、東京大学か?」
(はぁ? まさかでしょ?)
あり得なさすぎる由矩の言葉に沙也加は思わず笑いそうになって。
国立大は他にもあったはず。そう思いつつも思い出せないでいると。
「はい。そうです」
尚人が頷いた。
それには沙也加のみならず、由矩も祖父も言葉を失ったように固まる。
一瞬の沈黙。
それからの「本当に?」と言わんばかりの皆の視線。
「……いや、まさか」
呟いて、由矩は大きく息を吐き出した。
「尚人が勉強できるのは知っていたが。現役で東大に合格するほど優秀だったとは。……なんと言うか。恐れ入ったよ」
由矩はビールをグイッと煽った。
「じゃあ、尚人の将来はもうなんの心配もないな。東大生なら、官僚でも銀行でも大手企業でも、就職先は選び放題なんだろう?」
その言葉に尚人はただにっこり微笑む。その笑顔がなんだか勝ち誇って見えて、沙也加は奥歯をギリギリと噛み締めた。
(何よ、何よ。何なのよ!)
東大? 本当に? 見栄を張るために嘘ついてんじゃないの?
だって尚人は使い勝手の良いハウスキーパーで。学校と家を往復する以外は主夫業に専念していたはず。塾にも行かずそんな生活で、現役で東大になんて受かるのか。
「雅紀も安心したんじゃないか」
「ナオは俺と違って優秀ですから。そっち方面では最初から心配してませんよ」
「いやー、しかし。加門の血筋から東大生が出るとは。ちょっと、自慢だな」
由矩がまるで我が事のように浮かれている。その言葉がすごく耳障りで、胸焼けがするほど気持ち悪くて。この場に居たくないほど感情が煮え立って。
沙也加は、この宴席が一刻も早く終わってくれることだけを祈っていた。