「二重螺旋」二次小説   作:おとよ

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ある日の夕食の一場面


幸せの形

「ナオって、何でこんなに可愛いんだろうな」

 夕食時、雅紀が急に漏らした呟きに、裕太は思わず口に含んだ味噌汁を吹き出しそうになった。

 ––雅紀兄ちゃん、飯食いながら、急に何言い出すんだよ。

 先ほどから雅紀が、尚人をじっと見つめていることには気づいていたが、まさかずっとそんなことを考えていたとは。

 雅紀の感情が尚人に振り切っているのは知っている。雅紀が尚人にしか発情しないことも、尚人の所有権を主張してセックスという名のマーキングをしていることも知っている。

 が、しかしまさか、飯を食っている最中もずっとそんなことを考えていたとは。

「……ま、雅紀兄さん」

 尚人も何と返したものか、困ったように固まる。しかし雅紀は、そんな弟二人の戸惑いなど意に返す様子もなく、

「どの角度から見ても可愛い」

 至極真面目な顔つきで言葉を重ねた。

「なんでだろう」

 ––そりゃ、雅紀兄ちゃんの目にフィルター掛かってるからだろ。

 裕太は、心の中だけで呟いて、どうにか平静を取り戻す。

 雅紀の言動がおかしいのは今に始まった話じゃない。

 いつから雅紀が尚人を抱くようになったのか、正確に知るわけではないが、尚人が自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害に()った後から雅紀の言動は明らかに変わった。それまでも、二人の関係が裕太にバレても構わないという感じで、雅紀は平気で尚人を抱いていたが、それでも、そういう姿をわざわざ裕太に見せつけようという感じではなかった。それが事件以降は、家のそこら中で、裕太が居ようが居まいがお構いなく、ベタベタと尚人にまとわり付くようになった。裕太の目の前でいきなり尚人にキスするなんてのはもはや日常茶飯事で、ソファーに座る尚人にいきなり覆いかぶさって、まさかここでおっぱじめるんじゃないだろうな、というほど盛り出したことだってある。

 そんな時尚人は、いつも可哀想になるほど困惑していて、

 ––雅紀兄ちゃん、もうちょっと時間と場所を考えてやれよ。

 と、裕太は心の中で突っ込んでいる。

 言うだけ無駄なので、口に出したことはないが。

「……そうかな」

 今も尚人は、見るからに戸惑っている。おそらくこれが二人っきりなら、また違う反応なのだろうが、裕太の手前どこまで雅紀の言動に乗ったものか迷っているのだろう。その点雅紀は、日頃から尚人にセクハラし放題だから、今だって裕太の存在などどうでもいいに違いない。

「しかも、ずっと可愛い」

「その……、ずっと、って、いつから」

「生まれた時から」

「それは……」

 幼いが故の可愛さというやつではないのか。

「雅紀兄ちゃん、ナオちゃん生まれた時のこと覚えてんの?」

 裕太が口を挟むと、柔らかな視線で尚人を見つめていた雅紀の目つきが明らかに変わった。

「当たり前だろう」

「へぇ、そうなんだ」

 尚人が生まれ時、雅紀は五歳だ。記憶があっておかしくはないが、裕太自身は五歳児当時の記憶はあまりない。いくつか断片的なエピソード記憶はあるものの、人の顔の記憶というのがほとんどないのだ。案外、人の顔を意識して見ていなかったのかもしれない。そのせいか、久々に親戚と(かい)した祖父の葬儀の時は、誰が誰やら全くわからなかった。

「ナオ、生まれた時からめっちゃ可愛かった」

「赤ん坊の頃って、みんな可愛いんじゃないの?」

「んー」

 尚人の問いかけに、雅紀が考えるように唸ってちらりと裕太を見やる。おそらく、裕太はそうでもなかった、と思っているのだろう。

 ––別にいいけど。

 そもそも、雅紀に可愛いと言われたくもない。

「何というか。ナオの可愛さは別格だった。ずーっと眺めてても、全然飽きなくって。––そう言えばあの頃から、何でナオって見飽きないんだろうって、不思議だったんだよな」

 確かに雅紀は昔から、尚人だけを可愛がっていた。幼い尚人を膝に乗っけて絵本を読んでやり、沙也加が私も私もと割って入ろうとすると、笑いながらも沙也加をあしらって、尚人を抱えて自室へ連れ去っていた。風呂にもよく一緒に入っていた。

「ナオー。風呂入れてやるよ」

 そう声を掛ける雅紀は、あくまでも弟の面倒を見て遣っているつもりだったのだろうが、それが尚人限定だったことを思えば、本当は、あの頃から雅紀は何も変わってはいないのかもしれない。元から雅紀の中には尚人に対する愛情と執着があって、以前は一般常識に収まる範疇の部分だけが自覚できる感情として表に出ていたものが、色々あって雅紀の中の一般常識が崩れた時、押し込まれていた部分まで自覚感情として発露してしまったのかもしれない。

 ––ナオちゃんねぇ。

 裕太は、改めて尚人の顔を見やった。ごくごく普通だ。目がくりっと大きいとか、鼻がすっと高いとか、唇がぽってり厚いとか、そういった個性になる特徴は一切なく、また、雅紀のように人目を引く派手さもない。世に言うイケメンの部類には入らないだろうとは思うが、だからと言ってブサメンでは決してない。

 毒にも薬にもならない、という言い方が正しいのかはわからないが、視界を邪魔しないという意味ではしっくりくる。

「そういえば小学生の頃って、ナオを学校に一緒に連れて行って隣に座らせときたいってずっと思ってたんだよな。そうしたら、絶対何倍も学校が楽しいのにって」

 ––そんなこと考えてたのかよ。

 裕太にとって雅紀はずっと越えられない壁だった。落ち着きがあって寛容で、周囲の大人たちは誰もが一目(いちもく)置いて。勉強だってスポーツだって何でもできて、ピアノのコンクールでも入賞して。家中に雅紀が貰った賞状やトロフィーが飾ってあった。

「まーちゃん、すごいねぇ」

 尚人はそれを素直に称賛していたが、裕太はどこか鼻持ちならなくて、返って反発心を覚えていた。

「だからナオと登校が被った一年間は、学校行くのめっちゃ楽しみだったんだよな。学校がっていうより、登校の時間がだけど」

「俺も、雅紀兄さんと手を繋いで登校できて、楽しかったよ」

 尚人が照れたように笑うと、雅紀の表情がとろけた。

 きっと、めっちゃ可愛い、とか思っているのだろう。

 もはや、勝手にやってろよ、である。

 裕太は食べることだけに集中して「ご馳走様」と手を合わせると、食べた食器をシンクに運んで洗った。そのまま部屋へと上がる前に、二人がまだいる食卓をちらりと一瞥(いちべつ)すると、雅紀は尚人のうなじに手を回し尚人の唇を貪っていた。

 ––飯ぐらい、落ち着いて食わせてやれよ。

 もちろん口には出さない。言うだけ無駄だからだ。

 おそらくもう、雅紀の頭の中に裕太の存在はない。

 そして明日は日曜日。多分ではなく絶対、これからアレが始まる。

 そのことを考えた途端、裕太の下腹部が微かに脈動した。

 反射的にかっと耳が熱くなったが、着いた火種を消そうとは思わなかった。

 ––先に風呂入っとくか。

 裕太はお湯張りするために、風呂場へと行き先を変えた。

 

 

 食事の最中に急にキスされて、尚人はどうしていいかわからず固まった。こちらに背を向けているとはいえ、台所にはまだ裕太がいる。これが二人きりならば、尚人だって快感に身を(ゆだ)ねてしまうところだが、裕太が目の前にいると思えばどうしたって抵抗感が拭えない。雅紀を拒むことはできないが、素直に受け入れることもできない。そんな状況に尚人は、ただただ固まるしかない。

「ま、まーちゃん」

 息継ぎさえままならないほどに、雅紀のキスは深くなる。口内を蹂躙されて、舌を絡めとられる。角度を変えて、何度も唇を吸われる。雅紀がようやく解放してくれた時には、尚人の息はすっかり上がっていた。

 そんな尚人に、雅紀は視線を合わせてくすりと笑うと、親指の腹でさっと尚人の唇を拭う。その態度が雅紀の余裕を表していて、尚人は何だか自分一人だけが感情を先張らせた気がして恥ずかしくなってしまった。

「唐揚げ、倍増しで美味くなった」

 雅紀は耳元で囁いて自分の唇をぺろりと舐めると、何事もなかったかのように食事に戻る。尚人は、そんな雅紀の様子を見やって、ただため息をついた。

 ––まーちゃんが、何をしたいかわかんない。

 雅紀を喜ばせたい、雅紀の役に立ちたい、雅紀の望むことなら何だってしてあげたい。尚人はそう思っている。けれども、裕太の前でのスキンシップはどうしたって抵抗があるし、こんな風にキスされて、体の奥に火種だけ付けられて放置されてしまうと、どうしていいのかわからない。もっとして欲しいけど、でも、この場では困る。だから本当は、食事を終えて、部屋に戻って二人きりになってから、ゆっくりキスして欲しい。そうしたら、自分だって、体に(とも)った火種を感情のままにたぎらせていくのに。

 何しろ、雅紀が帰って来たのが一週間ぶりなのだ。電話では毎日話していたけれども、直接肌と肌を合わせる安心感に勝るものはない。雅紀と抱き合いたい。雅紀の温もりを全身で感じたい。雅紀と体を深く繋げ合いたい。

 でも、それはもう少し後のことで。だから体が変な風に先走らないように、あえて考えないようにしていたのに。

 尚人は、皿に残っていた食べかけ唐揚げを口に放り込む。

 雅紀からのリクエストで作ったおかずだ。昨晩からニンニク醤油に浸けて仕込んでいた。ジューシーに揚った鶏肉に程よく味が染みていて美味い。

「そういえば一昨日、カレルからメールが来た」

 尚人は気を紛らわせたくて話題を変えた。

 ユアンやカレルとメールのやり取りをすることは、雅紀の承諾を得て既に始まっている。尚人は送られて来たメールに文章で返すのみだが、あちらからのメールには大抵、動画やら写真やらが添付されていて、今回も動画付きだった。カレルが今度仲間たちと路上パフォーマンスする時に使用する楽曲を練習している横で、ユアンが黙々と柔軟体操をしていた。演奏を終えたカレルの説明によると、近頃のユアンは、カレルの奏でるロックをBGMに柔軟するのを日課にしているらしく、柔軟体操を始めたくなったらカレルに演奏するよう(うなが)すのだそうだ。

 仲の良い二人の様子を、尚人は微笑ましく眺めた。

「そのメールに添付されてた動画で、ユアンがすっごく丁寧に柔軟体操しててね。やっぱりモデルとして体に気を使ってんのかなぁって、ちょっと意外だった。ユアンって現実離れしているから、そんなことしなくてもさらっとこなしちゃう、みたいに思ってたんだよね」

「まあ、モデルは体が資本だからな」

「そうだよね。まーちゃんだって、普段から鍛えてるもんね」

「体力付けとかないと、ステージや撮影で体もたないからな」

「活躍してる人たちって、見えないところできちんと努力してるんだよね。本当尊敬しちゃう。俺、運動できないし、楽器も弾けないし、人に誇れるようなことが何もないから余計に」

 言って、自分で落ち込む。

 本当に、自分には何もない。

 そもそも出来ることが勉強ぐらいしかなくて、それで翔南高校を受験したようなものだ。自分にも何か一つでも出来ることがあると証明してくて、頑張れば叶うことがあると実感したくて、それで学区で一番偏差値の高い翔南高校を志望先にしたのだ。だから、合格した時はとても嬉しかった。頑張れば自分にも何か出来ると、一つ証明できたから。

 だが……

 クラスメイトの桜坂は空手の有段者で将来を嘱望されている。中野は最新のトレンドに詳しくて日頃からアンテナを高くして色々な情報を収集しているし、山下はパソコン関係に強くて聞けば何でも答えてくれる。

 彼らは同じ翔南高校の同級生で、勉強は出来て当たり前だ。

 そう思うと、自分はまだ、出来て当たり前のことしか出来ていない。

「ナオ。こっち向いて」

「何?」

 またキスされた。でも今度は唇が触れるだけの優しいキスで、尚人は何だか泣きたくなってしまった。

 

 

 一週間ぶりの帰宅に雅紀は上機嫌だった。やっと尚人に会える。しかも、夕食の時間に間に合うよう帰れた。昨夜の電話で食べたい物を聞かれ、唐揚げだと答えて以降、今日の晩飯は尚人の唐揚げ以外考えられなくて、それをモチベーションに今日一日過ごしたようなものだ。

 もちろん、唐揚げと答える前に、尚人以外なら、と頭にくっつけたのだが、電話越しでも刹那尚人が息を飲んで照れるのがわかって、こんな遣り取り、もう何十回やったかわからないのに、いまだ初々(ういうい)しい反応を見せる尚人が可愛くって仕方がなかったのは言うまでもない。

 雅紀が帰宅すると、尚人はちょうど唐揚げを揚げているところだった。

「ただいま」

「あ、おかえり。まーちゃん。もうすぐ出来るから、ちょっとだけ待ってね」

 エプロン姿で振り返り、にっこり笑いながらそんなことを言われたら、今すぐにでもむしゃぶりつきたい。

 ––ほんっと、ナオって、何でこんなに可愛いんだろう。

 雅紀は自分の部屋に荷物を持って上がって部屋着に着替えると、すぐにリビングへ降りた。そして、ソファーに座って、台所に立つ尚人の後ろ姿を好きなだけ視姦する。うなじから服の下の背中の細い線を想像しながら視線を落としていき、ほっそりとした腰を通ってそのまま臀部(でんぶ)へ。衣服の上から好きなだけ視線で舐め回す。

 今日の撮影の休憩時間、モデル仲間たちが理想の彼女談義に花を咲かせていた。

「俺は、見た目重視かな」

 誰かが言った。

「正直、不細工な子。連れて歩けないし」

「わかるけどさ、それだけってわけにもいかなくね。性格きっつーとか、一緒にいて疲れんじゃん」

「確かにー。モデルに多いよな。まあ、引っ込み思案のおっとり系じゃ、モデルなんて最初(はな)からしないんだろうけど」

「俺は、体の相性かな。だって、彼女って突き詰めるとそれありきじゃん」

「おお、正直な意見」

「でも体の相性って、やってみないとわかんないだろう? 付き合う前に確かめんの?」

「あ、それはパス。すぐやらせてくれる女は、誰とでもそうだから」

「なんだよ。そこはこだわるのか」

「まあ確かに、男経験多そうって子は、俺もパスかな」

初心(うぶ)なのにエロいは最高だよな」

「俺は正直なとこ、料理上手な子かな。全く作れませんって、なし」

「俺は、逆にさ、料理下手くそなくせに作りたがる女の方がなしかな。まっずい飯食わされてさ、美味しい? とか聞かれても困るし」

「下手じゃなくても、毎回インスタ映え狙っただけの飯出されても辛いよな。SNSで彼氏に作ってあげましたーとかUPしてんの見ると、自己満じゃん、って思うし」

「俺は前の彼女に草ばっか食わされてた。女って何でカラフルな草好きなんだろうな」

「せめてサラダって言えよ」

「草は草だろう? その反動でか、彼女と会わない日は焼肉ばっか食ってた時期あんだよな」

「それはそれで体に悪そう」

「家で食うなら、普通の家庭料理食べたいよな。張り切って作ってんのが可愛いって思えるの、正直付き合いたての頃だけだし」

「じゃあ、まとめるとさ。理想の彼女って、見た目可愛くて、性格良くて、初心(うぶ)でエロくて体の相性抜群で、料理上手で、しかも男の食いたいものわかってる家庭的な子ってことでOK?」

「いねーよ、そんなの!」

 そう言って笑い合い、彼らの話は終了した。

 雅紀は、傍で聞き流していただけだが、

 ––正にナオのことじゃん。

 心の中で呟いた。

 見た目可愛い。性格最高。料理上手で、いつまで経っても初心(うぶ)なのに体の相性は抜群。加えて、頭脳明晰で努力家で、芯が強くて我慢強い。

 改めて考えてみると、奇跡のような存在だ。

 そんなことをつらつらと考えながら食卓についたせいか、食事中、

「ナオって、何でこんなに可愛いんだろうな」

 思わず口をついて出た。

 刹那、尚人が固まった。耳がほんのり赤いのは、照れている証拠だ。その姿がまた可愛くて、雅紀は微笑む。

 ––可愛すぎて、どこにも出したくないよなぁ。

 そんなことを思っていたら、どうにもキスしたくてたまらなくなって、我慢できずに雅紀は尚人の唇を貪った。

 食事の最中に行儀が悪すぎるかな、と頭の片隅で思いはしたが、これもそれも全て、尚人が可愛すぎるのがいけない。

 雅紀が満足して尚人を解放した時、尚人の息はすっかり上がっていて、その表情がエロすぎて、雅紀の情欲を煽り立てた。

 ––やべー。めっちゃしたくなってきた。

 出来ることならこのまま押し倒してしまいたい。が、流石に食卓ではまずいだろう。

 しかし、本心では、

 ––ナオから誘って来ないかなぁ。そしたら今すぐにでも喰っちゃうのに。

 と、そんなあり得ないことを、ほんの少しだけ期待した。

 雅紀は、尚人が裕太の気配がするところでのスキンシップに戸惑いがあることを知っている。体を重ねることに慣れた今でも、尚人は二人っきりの空間じゃないと嫌なのだ。雅紀と尚人がセックスしていると、すでに裕太にはバレバレだと知っていても開き直ることができない。だからこそ雅紀は、あえて裕太の気配のするところで尚人にキスをするのだ。どんなときでも尚人は自分のものだと、尚人自身に植え付けるために。

 歪んでいる。そんなこと、充分すぎるほど自覚している。

 その後、尚人が急にユアンやカレルの話を始めたので、雅紀の機嫌は一気に下降した。正直なところ、ユアンやカレルに全く興味はないし、ヴァンスの連中にはどちらかと言えば不快感がある。

 理由はもちろん、チーフデザイナーを筆頭に尚人に興味津々で、やたらと視界をちょろちょとして目障りだからだ。それでもメールの遣り取りを許したのは、カナダにいる連中と時たまメールをやり取りするだけで何か実害を被るとは思えなかったし、尚人の世界が広がっていく邪魔はしたくなかったからだ。英語を使う機会が増えたと尚人は喜んでいた。それだけでも価値があると、雅紀は自分を納得させた。

 尚人の話に適当に相槌を返していたら、急に尚人がトーンダウンした。

「活躍してる人たちって、見えないところできちんと努力してるんだよね。本当尊敬しちゃう。俺、運動できないし、楽器も弾けないし、人に誇れるようなことが何もないから余計に」

 その台詞に、尚人が何をどう思ったのか、雅紀には丸わかりだった。

 尚人は子供の頃から褒められる機会が少なかった。堂森の祖父は孫差別をする筆頭で、穏やかな性格の尚人に物足りなさを感じて常に叱り付けていたし、加門側の祖父母も沙也加や裕太を可愛がるあまり、二人を引き合いに出して尚人に暴言まがいの説教をすることも度々あった。

 尚人は、色々なことに挑戦する機会を自分で自覚する前に奪われてきたのだ。

 運動系は、やんちゃな裕太に比べて、おっとした尚人には無理だろうという大人たちからの刷り込みがあったし、音楽系は、家にピアノがあったにもかかわらず触りさえもしなかった。雅紀が弾くととても喜んでいたので、音楽自体に興味がないわけではなさそうだったが、雅紀がどんなに勧めても決して弾こうとはしなかった。

 その理由を雅紀が知ったのは、ピアノを辞めてからだ。

 母の前で、

「何でナオって、絶対ピアノに触らないんだろう」

 と呟いた時、母がちょっぴり苦笑しながら、

「多分、一回沙也加に怒られたことが影響してるんだと思う」

 と言ったのだ。

「確か、沙也加が小学校に上がってすぐぐらいだったと思うけど、尚人がピアノに触っていたら、学校から帰ってきた沙也加がすっごい剣幕で『ピアノに触らないで。尚は弾けないでしょ』って言ったのよ。その時に、ピアノは触っちゃダメなものだと擦り込まれたんだと思う」

 それを聞いて雅紀は、沙也加の言動に呆れつつも、その一回で絶対に触らないと決めて貫き通している尚人の頑固ぶりにもため息をついた。

 それでも、小学校の高学年になると、学校の中でのお兄さんお姉さん的な存在として任されることが増えて、それで少しずつ自信をつけていく機会があるはずだった。だが、そのタイミングで家族が崩壊してしまった。自分の努力だけではどうにもできない現実を突きつけられ、世間の中傷混じりの憐憫(れんびん)から自己を守るために周囲と距離を置き、家事と学業だけで手一杯で、成功体験を重ねていく機会を失ってしまったのだ。何しろ金がない、というどうしようもない現実を前に、尚人は全てを飲み込んで諦めてしまうしかなかった。

 思春期をそうして我慢して過ごしたものだから、尚人はどうしたって自己評価が低い。だが尚人は、それでいながら全てを放棄してしまっていたわけではなく、静かに現実と向き合って、どうすべきなのかを模索していた。出来る限りの努力を続け、将来を見据えていた。

 雅紀は、尚人の一度こうと決めたら貫き通すその意思の強さには舌を巻くし、短時間で効果を上げる集中力の凄さには感心するし、毎日片道五十分の自転車通学を続けるその体力と持久力には脱帽する。

 でもそんなこと、口にしたところで尚人は、慰められた、としか受け取らないだろう。尚人にとっては当たり前だからだ。

 当たり前のことが当たり前で出来る凄さを、尚人は知らない。

 だから雅紀は代わりに、尚人の唇にそっとキスをした。

 ––俺は知ってる。

 そんな思いを込めて。

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